140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

推しが増えた話③

 

 

何かや誰かを好きだと思う時、「あぁ私にはこれを好きだと思う感性があるのだな」と思う。

 

対象が推しであれば、推しの素敵なところを知った時、私はこの人のこの部分を好きだと思える心が、それを素敵だと感じ取る感性があるのだな、と思ったりする。

推しを推しているときの自分は好きだ。というか、好きなものを好きでいる自我のことが好きだ。なので、推しを推している自分のことも「悪くないじゃん?」と思える。何なら「最高じゃん?」まで思う。なぜなら推しは最高だから。間違いなく素敵だと心から思える推しのことを素敵だと感じられている自分もついでに「良いじゃん」と思える。推しによる自己肯定感の上昇。推しは素晴らしい。推しは今日も(わたしの)世界を救う。

なんてまあつい大仰なことをつい書いてしまうけれど、実際好きなものを好きでいる時間の自分のことを一番都合よく好きでいられるみたいな話かもしれない。でも、考えても仕方ないときにどうにもならない諸々のことを考えているより、好きなものや人のことを考えている時間の方がよっぽど健やかじゃないか、とは思う。そして健やかな時間を過ごしていると、やっぱり幸せ感情は積もるしメンタルに優しい。いつだか「推しを推している自分を推せる!」みたいな電車広告にキモ!となっているどこかの誰かのブログを読んだけれど(まぁそれを外側から言われる気持ち悪さは分かる)、自分ではない何かを見ていた方が自分を好きになれるみたいなこと、普通にないか?と個人的には思う。

 

 

 

今となってはあまり説得力もないけれど、本来は熱しにくく冷めやすい人間なので、あまり人に継続的に好きだな〜〜という気持ちを持てることがなかった。お芝居が好き〜とか歌が好き〜とか顔が好き〜とか声が好き〜素敵なお人柄〜とかいう気持ちはあっても、「この人ずっと追っていきたいぐらいに好き!」とはあんまりならなかった。日常の中にたまに現れてくれればちょうどいいぐらい。

仮に少しその奥に踏み入っても割と早々に飽きるし冷めていた。インタビューを読んでは勝手に冷めるし、素で喋る映像を見ては勝手に冷めるし、昔の姿や発言を目にしては勝手に冷める。別に何もなくても知らないうちに薄れている。基本的に勝手に好きになっては勝手に冷める。大体は一年も興味が継続しない。アイドルにどハマりする友人を横目で見ながら、何故私はこんなにも簡単に冷めるのだ……と思っていたけれど、まあ自然現象なので仕方がないな〜〜と諦めていた。まあそれでその人に迷惑がかかるわけでもないので、そんなもんだろうとも思っていた。多分あんまりそれは今も変わらないんじゃないだろうか。

 

ただここ数年は、やたらと新たな沼に転落しがちではある。

生の舞台には何かやばい魔術がかけられているというのは確実にあると思う。生で、同じ空間で、その瞬間そこにいる人しか目撃できない芝居を見てしまうというのは、やっぱりやばいのだ。やばいとしか言えないぐらいにやばいのだ。観劇をする人々の推しの平均数が多いのはそういうことなんじゃないかと思う。同じ空間でその瞬間しかそこにない同じ空気を共有するとき、そこにはやっぱり何か魔力が働くのだと思う。

流石にこれ以上は増えないだろう……といまや全然言い切れないのが怖い。一人目の推しを推し始めた時には「生まれてから初推し誕生までここまでかかったんだもん、私はこの先そんなに推しが増えることもないだろうな〜〜増えてもしばらく後だろうな〜〜」などと他人事のように思っていた。自分が信用できない。

 

それはさておき、継続的な「好き」を向けられる対象ができるというのは、想像していた以上に楽しいことだった。

推しが一人しかいなかった当時、それでも十分私の日常生活は推しに侵食されていたので、正直一人で手一杯だからもう増やせないな〜と思っていた。推しができたことで色んな世界を見せてもらえた。行ったことのない場所にどんどん連れて行ってもらえた。好きという感情に素直に従って動くことはこんなに楽しいのかと知った。誰かを好きでいる、その人の現在を追いかけるということが、自分の世界をこんなにも変えてくれるものなんだなぁと驚いた。ただ、「こんなにも世界を変えられちゃうの、一人で十分、キャパオーバーでしょ、むりむり私にそんなキャパはないよ………」と思っていた。好きな本も好きなドラマも好きな音楽も沢山ある。けれど、その人の今を追っていたいなぁと思うのは、一人で手一杯だと思っていた。

 

ところがそんなことはお構いなしに、推しというのは突然やってくる。予想もしない方向からやってくる。2020年初夏、私はいつの間にか、気づいたら温泉のような温かい沼に滑り込み始めていた。

 

 

 

時は遡り、2020年春。

1回目の緊急事態宣言が出たあの頃、まだ何もかもがどうなるか分からなくて、外の世界にも全く出れなくて、精神的にも物理的にも、なんだかずっと内に籠っているような時間がずっと続いていた。当時、社会全体も異様な非日常の空気に包まれていたし、私自身も一日中ずっと自室でリモートワークをしている状態で、正直なところ、ちょっと気が狂いそうだった。

寝る空間と働く空間が突然同じ場所になって、自分にとっての唯一無二の絶対安全リラックスゾーンを丸ごと奪われてしまったような感覚が、最初はとにかくきつかった。夢の中でもしょっちゅう仕事をしていた。慣れない新生活、その上気が休まらない。外に出てリフレッシュすることもあまりできず、自分の中に溜まる何かをどう消せばいいのか、どう栓を抜けば良いのか分からなかった。あの時期はコロナに加えて家の中でも問題が発生していて、部屋にいても気が休まらず、足元がぐらぐらで、外の世界も内の世界も揺らいでいた。世界のすべてが不安定だった。ずっと足場が揺れていて、地に足が着かなくて、自分にとっての「日常」がガタガタになっていた。色々なことが分からないまま、落ち着かないまま、不快なまま、不安なまま、ただ仕方なく、のろのろと進む日にちを追っていたような、何というか、ずっと泥のかたまりが喉につまっているみたいな息苦しさが、あの頃はずっとあったような気がする。

 

そんな中、天保十二年のシェイクスピアきっかけで2月頃から何となくずっと聴いていた浦井健治さんのラジオが、知らないうちに、1週間の中の楽しみになっていた。

当時のツイートを遡ると、「浦井さん、天使か何かなのか……?」とか「元気出る」とか「愛が惜しみない」とか、「底抜けに明るいのに(そういう人にたまに感じてしまう押し付けがましさみたいな)いやな感じがまるでなくて、ただただ聞いていて楽しい気持ちになる」とか、沼の外からこの方、本当に素敵なお人だな……と称賛しているツイートがちょこちょこあるんだけれど、もちろん書いたようにそう心から思っていたし、実際は書いていたそれ以上に救われていた。

 

たったの20分、しかも当時はファンでも何でもなかった私が聴いていても、カラッとした明るさを分けてもらえるような感覚があった。外は春の気候でぽかぽかしているはずなのに、あの時期は本当に気分がずっと曇天で、少し気分転換に家で映画を見たり、近所を散歩してみたりしてもあんまり変わらなかった気分が、浦井さんの声を20分聴いているだけで軽くなったり、「あ、なんかまだ自分大丈夫かもしれない」と思えたりして、すごいなぁと思った。し、同時にすごく不思議だった。なぜ少ししか知らないこの浦井健治さんという人に、私はこんなにも元気を貰っているんだろうか、と。

もちろん天保十二年のシェイクスピアの中で浦井さんのお芝居と歌を見て聴いて、その魅力はたっぷり浴びてきていたし、近いうちにもう一度絶対この人の舞台を観に行こう……とは思っていたけれど、それでも沼に足を踏み入れた感覚(自覚)は当時は全然なく。ただただ、万人に与えられる太陽光を浴びに行くみたいな気持ちでラジオを聴いて、元気を貰っていた。

 

完全に沼に沈んだのは5、6月だったと思う。

初期症状、気付くと「浦井健治」と検索をかけている。日常にたまに出てくるぐらいだったはずの「浦井健治」という文字が、結構な頻度で脳内に現れる。中期症状、何故か夢に浦井さんが出てくる。そして末期症状、気付いたら5月末には過去作のDVDを2本買っていた。私がどの段階で浦井さんに完全に落ちたのか、今となってはあんまり思い出せないのだけど、加速していったのは確実に2020年のGWだった。あのお篭り連休に、たまたま加入していたhuluでトライベッカを見て、新たな側面を沢山知って、興味がどんどん高まっていく。ついでにニーチェ先生を見てあっなるほどこの人はこういうキャラも似合う人なんだ……?と理解する(と言いつつも結局3話ぐらいまでしか見れていない)。

 

推しが増えた話②で書いたような気がするけれど、「天保十二年のシェイクスピアの王次」から始まり、「王次の中の人」になり、ようやくラジオを聴き始めて「浦井健治」さんの輪郭を掴み始めたのが3、4月。そして、ラジオと並行して見始めた、ご本人の素の一部も垣間見えるトライベッカとニーチェ先生を見つつ、検索で出てくる情報を軽く漁りながら「なるほど、こういう面もあるのね……?」と中身を何となくぼんやり掴み始めたのが5月前半。この頃でも十分沼に半身浴していた気がするけれど、それでもまだ「とても興味が湧くな……」の段階で、「テーマ:浦井健治さん」という調べ学習をしているみたいな感覚だったと思う。気付けばTwitterで「浦井さん」「浦井健治」「浦井 〇〇」などとワードを検索してはファンの方のツイートを読み漁り、気づけば観られそうな浦井さんの過去作を調べて、気付けば過去のインタビューを発掘し、気付けばファンクラブの案内ページを隅々まで読み、気付けば誕生日を調べては「あっ確かにすごく獅子座っぽい……」とか考えて……………と、こう並べてるとすごい気持ち悪い感じになってきたのでこの辺で止めますね……(オタクの調べ学習怖いですね……….)。そう、でもとは言え、「興味」は私の中では理性がある段階なので、まだ制御不能状態に陥っていないはずという謎の持論上、この時点ではまだ「推し」にはなっていなかった(と思っていた)。とはいえ、落ちる前の最後の悪あがきタイムではある。

そんな私を容赦なく沼底に蹴り落としてきたのが、DVD『ミュージカル シャーロック・ホームズ』。今考えてもあれは、とてもとても恐ろしい沼落としアイテムだったと思う。あんなん見せられて落ちるなという方が無理がある。どう考えてもあれを見て落ちるのは自然現象だと思う。リンゴが木から落ちるぐらい当たり前、浦井さんの沼のほとりにいる人間にシャーロックホームズのDVDを手渡したら皆次の瞬間には沼に落ちて見えなくなる法則がこの世にはある。再生ボタンを押した瞬間にはもう気付かず沼直行急勾配の滑り台に乗せられていた。

賢く心優しいエリックと、高圧的でプライドの高いアダム。役者さんは続けてみた作品のギャップがすごければすごいほど沼落ちの危険性が高まるなとはよく思うけれど、一人二役の双子はずるい。どう考えてもずるい。しかも双子という役の特性上、一度はけて衣装替えしてから違う役に……ではなく(それもあるけど)、ベッドを間に挟んで右に左に移動するだけでもう一方の役に入れ替わったりする。ギャップの往復ビンタみたいなをことされる。間数秒で役が入れ替わり、しかもその役で歌い出す。そのあまりの器用さと振り幅に完全に殴られた。

しかも私はアダムみたいな役に弱い。弱すぎるぐらいに弱い。もちろん現実にいたら全力ダッシュで逃げるし全然関わりたくないけど、物語の中にいるああいう役はめちゃくちゃ美味しい。もし当時現場にいたとして、あの冷たい目で蔑むように睨まれたら多分0.05秒で落ちていた。しかも中の人があんなにポカポカしてるからギャップがとんでもない。何なんだよ、そりゃ無理だもう落ちるわ、となかば半ギレで円盤を観ていた。(こう考えると、私は落ちる直前によくキレているらしい。「そんなのはずるいじゃん……?!?!」と怒っている。怒りながら沼の底に直進している。身に覚えがありすぎる。)

 

まぁ、とはいえラジオを聴いて「私この人……好きだなぁ………」と毎週思っていたのが、今浦井さんを好いている感情とほぼ変わらないので、結局のところ私はラジオの浦井さんで沼落ちしていったんだろうなぁ、というのが現時点での解釈ではある。そしてシャーロックで沼の底に着地したことを自覚させられ、王家の紋章のDVDもカートに入れて即購入、気付いたらファンクラブのカードが家に届いていた。我ながら沼落ちを自覚した後の仕事は本当に早い。

 

 

 

そんな浦井さんを「推し」として初めて見に行ったのが、2020年8月、シアタークリエで上演されていた『メイビー、ハッピーエンディング』だった。

初めてファンクラブでチケットを取って観に行ったmy初日、クリエの座席に着席した瞬間もう既に泣きそうだったのを覚えている。

天保十二年のシェイクスピアを最後に観たあの日以来、初めて入る劇場、初めて座る座席。座った瞬間幸せでいっぱいになってしまった。「あぁ、ようやくまた観にこれたんだ」とも思ったし、天保を初めて観た時に思った「浦井健治さんという役者さんの違う役のお芝居をまた観てみたいな」も、浦井さんを好きになってから思い続けていた「浦井さんにまた会いたいな…」も、ようやく叶うんだ、と思ったら嬉しくて幸せでたまらなかった。と同時に半年間の色んな記憶がぶわっと蘇って、「あーなんか本当に、生きてて良かったな……」と思った。ようやく報われた…というとなんか違う気もするけれど、ここまでよくがんばりましたね、のご褒美を貰えたような気がした。始まる前で既に十分満たされた気持ちになった。

 

そして、役としてだけれど、数ヶ月ぶりに浦井さんが目の前に現れたとき、ものすごくなんか、ホッとした。

浦井さんという人を見て、安心した。で、安心しながら、安心している自分に少しびっくりした。「私、この人のこと見ると安心するんだ」と思った。もちろんファンクラブに入っているぐらいなので既に十分好きである自覚はあったし、それからだって何度も「あー私この人のこと、すごく好きだなぁ」と思ってはきたし、でも、ひさしぶりに見た瞬間に最初に湧き上がるのが「安心」なんだなと思ったら、あぁ、私は思っているよりずっと、この人のことがものすごく好きなのかもしれない、と気付いた。

見た瞬間感じた「安心」の中身が、浦井さんが無事に健康でいてくれて、再び舞台の上に立てている姿を見られた、という安堵の気持ちもあったけれど、それ以上に、私自身が浦井さんという存在自体に対して、安心感を覚えている感覚が強かった。家に帰ると安心する、旧知の友人に会うと安心する、馴染みの店に行くと安心する、それに近い感覚で、浦井健治という人自体に安心した。「あぁ、浦井さんだ……やっと浦井さんに会えた……」と思って泣きそうになった。いや普通に泣いてた。あの閉ざされていた春の時期、ずっとこれが続いていくんじゃないかと錯覚してしまうぐらい薄暗い日常を、ずっと照らしてくれた太陽みたいなこの人に、ようやく会いに来れたんだ、と思ったら幸せで仕方なくなった。「あぁ私、この人のことがすごく好きだ」と思った。

 

たまたまその時の作品がメイビーだったのも良かったな、と今になって思う。メイビー自体がものすごくあったかいお話で、結末こそ切ないけれど、人の純粋な根っこの部分の、かわいらしさとか、真っ直ぐさとか、温かさとか、そういうものってやっぱり素敵なものなんだな、と素直に思えて、観ている間も観終わった後も、自然と心が緩まる作品だった。何かに愛を持ったり、誰かを大切に思ったりすること、その記憶を持っていることは、生きていく上でものすごく大切で、それがその人の心の栄養分になってその人を生かしていくのだな、とか、素直にストンと思えるお話で、それは私が浦井さんを見ていて感じる感覚にすごく近いところにあるような気がして。

浦井さん自身が、いつでもたっぷりの愛情を溢れさせている人で、いつでも真っ直ぐな想いを持って、それをそのまま言葉に乗せる人だから、私はいつも浦井さんを見ていて、あぁやっぱりそういうものって素晴らしいものなんだよな、と思えることが多い。ねじれた言葉とか、斜めから見た視点とか、そういうものが現実的で、真っ直ぐで純粋なもの、明るいもの、善いもの、シンプルなものは、簡単で安直だとか偽善だとか揶揄されがちなところがある社会で、それでもやっぱり温かいものも、真っ直ぐなものも、純粋なものも、優しいものも、きれいなものも、絶対にすばらしいものなんだと心から思わせてくれる浦井さんの在り方や言葉が私は大好きだ。

浦井さんを見ていると、真っ直ぐな自分の中にあるそのまんまの言葉を紡いだり、伝えたり、誰かの善を信じてみたり、そういう人間の根っこの純粋さみたいな部分を私は大事に思っていいんだなと思える。これはメイビーの感想でも当時書いた気がしたけれど、素直な人を見ていると気づいたら自分も素直になっているし、温かい人を見ていると自分の温かい部分を思い出せる。メイビーがそういう作品であったのと同じように、私にとって浦井さんはそういう人だし、そういう浦井さんを見ていると本当に、びっくりするぐらいに安心する。

 

あと、これは好きになった当初の頃からずっと思っていることだけれど、浦井さんという人間が存在しているだけで、それを知っているだけで、なんというか、この世界への安心感みたいなものがぐっと底上げされるな、とよく思う。もちろん浦井さんが世界全体を支配しているわけでもないし、浦井さんが私の日常に直接関わってくることなんてない(それはなくていい)し、物理的に何がどう変わるなんてことは当たり前だけどない。

ただ、この世界に浦井さんという人がいる、ということを知っているだけで、世界そのものに安心できるというか、世界の体温が一度上がるような感覚がある。「あぁ、こんな人がいたんだ」「こんなにあったかくて愛情に満ちている人が存在するんだ」「この世界にはこんなにも力強い光を放ってくれる人がいるんだ」と、私は何度も浦井さんに思っていて、それに何度も救われている。それは多分、あのラジオを聴き始めた2020年の春からずっとある感覚で、浦井さんの姿を見ていても、ラジオ越しに声を聴いていても、文字として彼の言葉を受け取るときも、彼の歌を聴いているときもそうで、その媒体がなんであっても、私は浦井さんという人にいつも、ものすごく安心する。本当に太陽みたいな人だなぁ、と何度も思う。いつだってぽかぽかの陽だまりをくれて、めちゃくちゃどでかい愛を惜しみなく降らせてくれる。分け隔てなく万人に温かさを与えてくれるお日様のようでもあり、どんな闇の中でも呑まれない力強い光のようでもあり。

 

 

20周年コンサートの時にも、ものすごく強くそれを感じたのを覚えている。あの会場全体を余裕で埋め尽くすぐらいのとんでもないパワーと、その会場内にいる人達全部に渡しても余るぐらいの愛情をたっぷり持っている、そのポテンシャルの計り知れなさというか、あらゆるエネルギーの保有量の多さにあらためてびっくりしてしまったし、あらためて大好きになってしまった。あの頃がちょうど、好きになり始めて1年ぐらいだったと思うけれど、「1年前に沼に転がり落ちた私、ほんとうに大正解!」と帰り道ほくほくした気持ちで帰ったのを今も覚えている。その勢いであのブログを書いたら、より一層愛が募って家の中で幸せで溶けそうになった。

浦井健治 20th Aniversary Concert - 140字の外

 

 

これは今でも自分で読み返しては幸せな記憶に浸ったりするし、やっぱり素敵な人だなぁと再確認したりもする。たまたまだけれど、私があそこに書いたものは円盤には入らなかった部分も多くて、勢いで書き残しておいて本当によかったなぁ、と今もよく思う。あんなに幸せな空間の記録がこの世界に何も残らないなんてさみしい。書き残してくれてありがとう当時の私。

そして、それまでは基本的に自分から浦井さんを好きな方をフォローしたりだとか、話しかけてにいったりだとか、いいねしたりだとかもせず、ただたまに覗きにいってみてはひっそり観察をする……という、存在を認識されないような、いわばROM専スタイル(とはいえ一人でずっと喋ってはいる)を続けていたのだけれど、あのブログは思いの外多くの方が読んでくれたようだったし、それが誰かの記憶の補完になったり、あの場に行けなかった方の想像の元にでもなっていたのならそれはすごく嬉しいなぁ、と当時すごく思った。あのブログを書いたことで繋がれた方もいて、それはご縁だなあと思うし、何かの愛をたっぷり乗せた言葉を紡ぐことはやっぱり、素敵な循環を生むのだな、と思う。私は文章を書くことも、好きなものや人について喋ることも好きで、いや、好きというよりはもっと、寝るとか呼吸するとかご飯を食べるとかそういうところに近い部分にそれはあるので、これからも書いていきたいし、書くんだろうなと思う。

 

 

 

そこから更に一年が経ち、ちょうど一年後の2022年の4月にはFCコンサートにも行った。その時に思ったのは、すっかり「浦井さんのことを好きでいる私」が定着してきたな、ということだ。約2年、短いけれど、その間365日×2の日常を自分が過ごしてきたと考えると、長いような気もした。私の構成要素の一つとして「浦井健治という人を好きな自分」がどっしり存在するようなっていた。1年前の20thコンサートの時点では、好きになって1年弱は経っていたもののまだ少しソワソワしながら会場に向かっていたけれど、FCコンの時にはもうすっかり愛情過多でろんでろんに溶かされる心構えを持って席に座っていた。浦井さんの存在も、浦井さんを好いている自分の存在も、あの頃よりも自分の中にどっしり居座っている。私の日常の中にすっかり浦井健治さんという人は溶け込んでいるし、浦井さんを好きな自分の自我は、すっかり私の中に馴染んでいる。

 

舞台上で役として歌う浦井さんも、お芝居をする浦井さんも大好きだし、もし「浦井健治」として生きているだけだったら見られなかった浦井健治という人の肉体を持った別の人の人生を見られることは、本当に幸せだなと思う。浦井さんが役者という職業についていて、それを今この時代にちょうど生きて見られている奇跡にはめちゃくちゃ感謝している。

ただ、なんだかんだで私はラジオの浦井さんに惹かれたところから始まっているので、やっぱり「浦井健治」として話している浦井さんの姿を見ると、すごくほっとする。「あぁそう、私この人がすごい好きなんだよなぁ」と思う。ふわふわした姿も、ギャハギャハ笑う姿も、幸せそうに嬉しそうにこちらを見ている姿も、さりげなく周りに気を配る姿も、とんでもなく格好良い姿も、相手を真っ直ぐに見つめて話を聞く姿も、なんかこんなに全部好きで大丈夫だろうか、と思うぐらいには未だに結構全然全部好きだなと思う。画面越しでも同じ空間にいても同じように飛んでくる真っ直ぐな言葉も、FC向けに書かれるダイアリーや会報誌の、より丁寧にこちらを向いて届けてくれる真摯な言葉も好きだ。

 

そう、言葉と言えば、浦井さんはよくカテコで観客の「???」を生む挨拶をされたりするけれど、何というか、多分浦井さんの言葉は行間に色々入ってることが多いのだろうな、と思う。天然案件な時もあるし、伝えたい内容が恐らくABCDEだとして、その中のACEだけ言葉にするので聞き手が置いてかれている、みたいなパターンもあるのだと思うけれど。

ただ、インタビューでつらつらと淀みなく話す姿を見ていると言語化が苦手な人では全くないのだろうなと思う。浦井さん、詩みたいな言葉を書く人だなぁ、とダイアリーを読んでよく思うのだ。言葉と言葉の間に言語外の情報が沢山入ってることが多い。読んでしばらく経ってから頭の中で点と点が繋がって「あ、そういうことか」と時差で気が付いたりする。言語化されていない部分まで受け取れると、すごく深くまで浸透する。

頭の回転が速い、とよく人から話されているのを聞くけれど、多分言葉もそれなんだろうな、と思う。本人の頭に100ぐらいあることが15ぐらいの言葉になって出ていて、それは言語化とかの話でもあるのだけど、そもそもその前に浦井さんの思考がかなり高速でものすごく大量なんだろうな、と。故に時に言葉が追いついていない時はあるのだろうけど、インタビューで静かに淡々と語られている文章を読むと、なんというかとても頭の良い人なんだろうなと度々思う。この人、想像できないぐらい思考のスピードが速くて、思考の層が多いのだろうな、と思う。頭の良さも色々と種類があるだろうけれど、浦井さんはとにかくすごく細い思考の糸を高速でヒュンヒュン縫っているみたいな頭の良さを感じる。めちゃくちゃ細い糸のモンブランみたいな(例えはそれでいいのか?)。ただ、その一部を言葉にすることも多いので、余白はこちらで読み取らないといけない、みたいな時もあるのだろう。全てを説明する文章というのも野暮なもので(自分はやりがちだけど)、私はダイアリーで書かれる余白の多い浦井さんの言葉が、豊かで好きだ。その言葉の中にあるもの、外にあるもの、どれにも浦井さんの誠実さが詰まっていて、いつでも嘘がなくて真っ直ぐで、気持ちが沈んでしまう状況下でも、必ずどこかに光を混ぜてくれる。光を信じさせてくれる。喋り言葉にしても書き言葉にしても、浦井さんの言葉が私はとても好きだ。浦井さんの人柄がそのまんま滲んでいるようで。真っ直ぐで濁りがなくて、心に馴染む。受け取ると心の温度がふっと上がる。

 

 

「必ずどこかに光を混ぜてくれる」と書いたけれど、浦井さんはやっぱり、底知れない光の持ち主だな、と思う。愛の保有量もすごいけれど、光の保有量もとんでもない。

上でも何度も書いているし、これからも言い続けるのだろうけど、私にとって浦井さんはやっぱり太陽なのだ。とんでもなく大きくて、強くて、眩しくて、その光を分け隔てなく万人に降らせる太陽の光そのものだと思う。ファンタジックな表現になってしまうけど、この人はなんか、世界中が闇に包まれていても、絶えることなく光を発し続けることができるぐらい、光が大きくて強い人だ、とたびたび思う。もちろん、こちらの知らない部分ではきっと色々あるのだとは思うけれど、見せないでいてくれる部分が沢山あると思うけれど、こちら側にはいつも必ず光を届けてくれる強さのある人。その在り方を称賛してしまうと「ファンの前では弱いところを見せず綺麗な部分、美しい部分のみを見せるべき」みたいな、私が非常に嫌いなプロ論押し付けファンみたいな表現になってしまいそうで書き方が難しいのだけど、それでも、地の底まで気分が沈んでしまいそうな状況の中でも必ず光を見せてくれる、そちらを向かせてくれる浦井さんの在り方に私はとても救われることが多かったから、そう在ってくれることにとても感謝しているし、どでかい敬意を持っている。とはいえ無理をして欲しくないとは思う、思いつつも、そんな心配さえも失礼な気がしてしまうぐらい、何というか、浦井さんの光は大きくて、どっしり力強くて、見ていてどこまでも安心するのだ。私は浦井健治という人を見ているととても安心する。これはもうずっとそうだ。好きになり始めたあの頃から、今の今まで、浦井健治という人の安心感はすごい。

 

 

そんな浦井さんが「推し」になったことは、私にとってものすごく、支えになったな、と思う。今もずっとなっている。私はあまり陽な人間ではないので、普通に日常を過ごしていてうっかり目の前の諸々に幻滅したり、やんわり失望したり、淡々と絶望したりもする。それ自体はただの性質なのでそれを悲観もしないけれど、そういう私にとって、うっかり真っ暗闇に顔面を浸してしまったような時に、確実に「この人は大丈夫だ」と信じられる、大きくて温かい、安らげる光のある場所を知っているというのは、すごく救いになるし、心の拠りどころになる。心の支えとか、拠りどころとか書くと、それは時に危ういのではないか、それは依存なんじゃないか、と脳内の気難しい保険担当が顔を出したりするのだけれど、浦井さんは不思議と、あまり他者に依存心を持たせない人なような気がする(少なくとも私にとっては)。太陽が遠くで光を放っているように、浦井さんもまた私にとって身近な存在という感じはしないし、こちらへの愛情はざぶざぶに注いでくれるけれど、それもまた陽だまりのようなもので、全身に浴びせてくれる太陽光みたいな、心と身体にチャージされる栄養分みたいな愛情なので、隙間に入り込んでくるようなものではないというか。太陽に縋り付くような心情は生まれないように、浦井さんにもまた、そういう気持ちはあまりない。ただただ温かくて、力強くて、優しい浦井さんを、安心して好いていられる。それが心地良い。

 

 

 

 

さて、

この「推しが増えた話」はタイトルを③としているように、①と②が存在していて、今見たらどうやら、どちらも2020年9月に書いていたらしい。①は推しが増えるだなんてまるで思ってなかった話、②は浦井さんを推すまでのプロローグみたいな話だったと思う。本編に入るまでにずいぶんかかってしまって、もはや推しが増えてからだいぶ時間が経ってしまった(その間にもう一人増えた)。

というのも、何度か書こうとは試みたものの、時間が経てば経つほど、好きでいる時間ものびて、また書きたいことも増えたり変わったりするので、なかなか続かなかった。時間が経てば思考も感覚も変わるし、今の感覚とずれるものに文章を繋げるのはどこか気持ち悪かったので、何度か書き直しては、また放置を繰り返し、下書きの数だけは増えていく一方、中々閉じられなかった。

 

私が初めて浦井さんのお芝居を観るために劇場に足を運んでからも、もう3年以上経つ。私は初観劇が天保十二年のシェイクスピアなので、2020年2月。そこからここまで色々な舞台作品に出会ったけれど、元を辿れば浦井さんが色んな作品に連れて行ってくれたお陰なんだよなぁ、と思う。

そもそもが割と雑食なのもあるかもしれないけど、今、私が特にこういう作品!とかこだわりなく「なんか楽しそうかも〜」の思いからふらっと構えることなく劇場に向かえるのは、浦井さんが色んな観劇体験をくれたから、というのは大きいと思う。色んな世界を見せてもらえたし、色んな浦井さんを見せてもらえたし、色んな楽しみ方を教えてくれた。観始めた頃はまるで深海みたいだなと思っていた演劇界隈(舞台を主戦場とする役者さんを殆ど知らなかったので、知ろうと思わなければ知ることのできない、でもそこには未知の楽しい世界が広がっている、という意味で深海生物みたいだなと思っていた)を、浦井さんという潜水艦に乗って潜って探検している、みたいな気分だった。少しずつ、浦井さんの関わる作品、関わった作品、共演した役者さん、その繋がりや作品の歴史を知っていきながら、深海の地図が見えてくる。日生劇場から始まり、クリエ、帝劇、新国中劇場、小劇場、トラム、青年館、いろんな劇場にも連れて行ってもらえた。色んな作品、役者さん、空間、歴史、音楽、物語。私の知らなかった深海は深くて広くて楽しくて、潜るたびに、進むたびにもっと先を知りたくなった。その深海の案内人が浦井さんで良かったな、と思う。今はもう一人でも楽しく探検できるようになったけれど、浦井さんに色んなところに連れて行ってもらって、その安心感の中で色んな景色を案内してもらえたからこそ、その美しさを知れたからこそ、好きになることができたのだろうな、と思っている。どこに向かえば楽しいだろう、どこに広がってるんだろう、と今は一人で色んなところに向かって行ける。それは多分、「ここに帰ってくれば大丈夫だ」と思える、海の中の住処を浦井さんが作ってくれたからだと思う。とても感謝している。

推しができると世界が広がる、と初めて推しができた時に思った。知らなかった場所に向かい、知らなかった世界を知り、知らなかった感情を味わい、知らなかった自分を見つける。推しと出会わなければ知らなかった世界を、私は今沢山知っているのだな、と思う。浦井さんに出会えたことで、浦井さんの「今」を追い続けてみたことで、私が知れたこともまた、本当に沢山ある。上にも書いたけれど、数年前には「これからは舞台も少しずつ観てみたいな〜」ぐらいだった私が、これだけ観劇が好きになっているのは確実に浦井さんのお陰だし、私は舞台を観ているときの自分が好きだから、新しく好きだなと思える自分に出会えたのもまた浦井さんのお陰だ。

 

 

人生のターニングポイントなんて後から振り返れば色々あるのだろうけれど、浦井さんに出会えて、たまたまラジオを聴いて、そして救われて、気付いたら好きになっていたあの地点は確実に、「今の私」に辿り着くための大きいターニングポイントだったのだろうなと思う。あの時もし天保十二年のシェイクスピアを観ていなければ、ラジオを聴き始めていなければ、聴き続けていなければ、この3年間の中で私が見てきたものはごっそりなかったかもしれない。ドラマ『カルテット』の台詞じゃないけど、人生をやり直すスイッチがあったとしても、私は今の自分がいる地点が何だかんだ好きだし、恐らく押さないだろうと思う。そりゃ「あの時こうしていれば」みたいなことは普通に山ほどあるし、あの時間には二度と戻りたくないなみたいな時期も全然あるし、何かもう少しどうにかこうにかならなかったかなとか、色々思いはする。全然するけど、結局何処かの地点を修正したことで今の自分に辿り着けなくなってしまうのなら、多分私はそのスイッチは押せないのだ。私は今の地点を手放せないし、手放したくもない。

そう思わせてくれる大きな理由のひとつとして推し達は、私の過去と今にいてくれる。仮に「もっと良かったかもしれない世界線」が隣にあったとしても、私は偶然に偶然が重なって出来た今の推しへの出会い方も、そこから推しを推してきたこれまでの時間の積み重ねも、今持っている気持ちも1ミリもなくしたくはないから、多分結局この世界線を選ぶ。そう思えるのは、数年分振り返っただけでも楽しかった時間、愛おしかった時間、これからも記憶に残り続けるだろう大切な時間が沢山思い出せるからで、それは多分、すごく幸せなことなんだろう。

最初に「推しを推している時の自分は好きだと思える」と書いた。何かを好きでいることが、その何かを好きでいる自分を好きにさせてくれる。私はその時間にも、その自分にも救われることが多い。そしてもしかしたら、上に書いたようなことは、推しは私の人生すらも肯定させてくれる、ということなのかもしれないな、と思う。今ここの地点に辿り着けて良かったと思えるのは、それまでの全てを含んだ、自分の辿った道筋まるごとの肯定でもあるから。大袈裟かもしれないけど、でも実際そうなんだよなと思う。あの地点でたまたまそこに向かった私、あの地点であの人に出逢った私、あの地点であの作品に出逢った私、そしてそれを経て今に辿り着いた私。何かが欠けていたら今のこの地点にはいないのだと思うと、なんかそれってすごいことだよな、と純粋に思う。別にだからといって、これまでの道のりが全部愛おしい、とかそんなことにはならないけど、それでもやっぱり、「まぁ、悪くないじゃん?」と思わせてくれるのだから、すごい。自分のここまでの時間を、見てきたものを、感じてきたものを肯定できるのは、心にとって、ものすごく健やかなことだと思う。

 

 

天保十二年のシェイクスピア③ - 140字の外

これを書いてからももう3年が経つ。

天保十二年のシェイクスピアが中止になったあの時からは4年。私の中であの時間は「"あそこ"にはもう二度と帰れないのだろうな」という幻みたいな時間として記憶に刻まれている。ものすごく楽しくて、愛おしい時間だったからこそ、それが突然終わってしまったあの時から、あの時間は夢だったんじゃないだろうか、みたいな感覚が自分の中にずっとある。あの地点であらゆるものを失い、あの境界線にあらゆるものを置いてきてしまったような。そして、あの日からぐるんと変わってしまった、あの頃からしたら「非日常」な「日常」を歩き続けて、そこからもずっと良くも悪くも変わり続ける日々の中で、多分この先「変わる」ことはあっても「戻る」ことはないのだろうな、ということをある程度経ってからは思うようになった。そもそも世界は不可逆で、戻るなんてことはあり得ないのだけど、それでもあの頃は、「戻る」ことに光を見ていた人がたくさんいて、社会も「戻る」ことを目指していた。けれどそのうち、「戻る」も「変わる」もぼんやりして、非日常も日常もぼんやりして、何もかもが行ったり来たりするうちに、よく分からない世界に少しずつ、薄れた毒に慣れるように、甘い香りに鼻が麻痺していくように、そうやって世界の輪郭がぼやけていって、気の遠くなるような長い時間があったような気がする。この数年は時間感覚が曖昧だ。そこから更に今は、状況も、人も、確実に大きく変わった。なんかどうやらこの世界は"元に戻った"ことになっているらしいけれど、今も私は、"戻った"とは思わない。

 

 

世界は戻りはしないし、そもそも私たちは戻れない。

けれど、戻ることはなくあの地点から今まで、変わり続けていく日常の中で、「あの地点」には戻れない「今」の上で、私は浦井さんを好きになれたし、そこから今ここにくるまでに、好きと思えるものにたくさん出逢うことができたことは、確かなのだ。あの頃の私が知らなかった好きなものが、今の私の世界にはたくさんある。途切れることなく時間は続いていて、あの地点にはもう二度と戻れないけれど、それでもよく分からないまま、よたよた歩いてきたこの時間の上で、私はなんだかんだここまで、ちゃんと道を作れて、歩いてこれたのだな、ともまた思うのだ。

あの時、世界の回線が全てぶつりと切れて、世界が止まってしまったような、灯りが消えてしまったような暗さの中で、浦井さんは紛れもなく私にとって光だったのだと思う。たった少しの時間で私の心に灯りを分けてくれて、今この瞬間の足元に灯りを灯してくれて、見えないはずのこの先の道まで照らしてもらえたような気がした。まるで先の見えない、未来と今とを繋ぐ線すらぷつりと切られてしまった、どこからも切り離された孤島にいるような不安に埋もれていたあの時、世界を、未来を、かろうじて信じさせてもらえたことに、そこに繋ぎ止めてくれたことに、本当に私は救われたのだと思う。

 

 

そこが始まりだった。浦井さんを好きになったことはあの地点から始まっていて、浦井さんを好きになってからの時間を思い返すことは、あの時から今ここまでにくるまでの時間を辿ることだった。全てがぐるんと変わったあの時、あれ以前とあれ以降の境界線のようなあの時、そしてその直前の、あまりに楽しくて幸せだった天保十二年のシェイクスピアを観ていた束の間の幻みたいな時間。浦井さんを好きになったことを、好きでいた時間を振り返ることは、「あの時」から今までを思い返すことで、それは多分、私にとってはあまり容易なことではなかったのだと思う。

ドラマ逃げ恥のSP版が放送された2021年の元旦、正直2020年を振り返るにはまだキツイな、と見ながら思った記憶がある。それは多分、今この地点もその先もまだまだ読めない時期に、異様だった1年間を振り返る心持ちが、余裕が、あの時の私にはなかったからだと思う。

それからまたしばらく時間が経って、この1年ぐらいでようやく、客観的にこの数年間のことを見られるようになった気がする。それは今の状況がどうということではなくて、多分、時間の問題だと思う。あの始まりからだいぶ時間が経って、この数年間から少し距離を取れる位置に自分を置けるようになった。

だから多分、これをようやく書けたのだと思う。この数年間で失われたものも、戻れないあの頃のことも、取り戻せない空白の時間も、けれどその時間の中で出逢えたものも、好きになれたものも、その中にあったからこそ残った大事な記憶も、全てセットだから。こんな状況になったからこそ好きになれたとか、出逢えたとか、悪いこともあったけど良いこともあったんだとか、そんなことは言いたくはないし言わないし言ってやらないけど、それでもこの数年間の中で、それは全部同じ時間の中にあったものだから。あの時からここまで、この世界線を生きてきた私には、全部その中にあったものだったから。だから全部丸ごと抱えて、今の地点から歩いていくしかないんだよな、と思う。当たり前なんだけど、でも、そう思えるのは多分、その時間の中に愛おしいと思えた時間がたくさんあったからなんだと思う。

 

 

この先も、世界は止まらないし戻らないし、変わり続ける。どんなふうに続いていくのか、続いていかないのか、いつ何が起きてそれがどう転んでいくのか、何もわからない。相変わらず分からないまんまで、ひとつ分かったと思ったらまた分からないが増えていく。はあ、わからなくて怖い、と心の奥の方でぼんやり、常に思っている。思っていても仕方がないから奥にしまうけれど、それでもやっぱり、どこかにはずーっと居る。たびたび、たちの悪い諦めやぼんやりとした絶望感に引っ張られそうになる時もある。

 

でも、少なくとも私には好きなものがある。好きな人がいる。

観たいと思えるものがあって、会いに行きたい人がいて、楽しみにできる未来がある。それは、どこを歩いているのか分からなくなるような日々の道標になるし、うっかり暗さに持っていかれそうな時、目指すべき灯りになる。あの人がいる。あの作品がある。観たい、聴きたい、会いたい。そうやって歩く先に少しずつ用意された光が、私にとっては日常の希望になる。この世界に見たいと思う景色があるということ、そして会いたいと思える人がいるということは、少なくとも私にとっては、日常を続かせていくための力になる。

推しは私の日常には現れないし、関与しない。私の人生とは離れた場所で生きている人で、遠くで光っている人で、けれど同時に、私の心の内側に棲んでいる人だ。時に私の人生の推進力の源になってくれるし、ぐるぐると回り続ける日常のサイクルを乗りこなすためのエネルギーをもたらしてくれる。それはやっぱり、すごいことなのだ。

 

 

 

 

今月もまた、毎週日生劇場に足を運ぶ日々を過ごした。あれから4年。浦井さんが出演するカムフロムアウェイを観に、私の一番好きな劇場に足を運ぶ。私の始まりの地で、もう一人の推しに出逢った場所でもある。そんな劇場で、なんとその二人が共演してくれるというのだから、やっぱり世界は時々私のことを甘やかしてくれている気がする。

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あの日、あの時、あの瞬間、たまたま出逢った人。舞台に立つ人からすれば、客席にずらりと並ぶ人たちは数えきれないほど沢山だろうけれど、舞台を客席から観る私とて、それはまた同じなのだ。たまたま、この日、この劇場で、この作品の、この役の、人に出逢った。もし仕事が忙しかったら?もし予定がずれていたら?もし気分が乗らなかったら?もし天気が悪かったら?たった少しの出来事でそのチケットは私の手元にはなかったかもしれない。あったとしても"その日""その回""その瞬間"を観ていなければ、その出逢いを掬うことはできなかったかもしれない。私たち各々の持つ"好き"は本当に、あらゆる偶然の集結なのだ。そう思うと、人の人生が交わることは、そしてそれが特別な点になることは、本当に奇跡的だ、と思う。

カムフロムアウェイもまた、この世界の中に無数にある中の、とある島に集まったいくつもの意味ある"点"の話だと思う。本来交わることはなかったかもしれない誰かと誰かの人生が、たまたまその場所で交差した。その背景には痛ましい事件があり、あの時あの島にいた人の中にも人の数だけそれぞれ異なる状況があり感情がある。この物語が描く希望や温かさは確かにそこに存在した真実で、それは今を生きる私たちにとっても道標になってくれる光でもあるけれど、あの時あの島にあった出来事でさえ、きっと本当はそれだけで語れるものでも、包めるものでもないのだ、ともまた思う。それは思わないといけない。きっとこの作品はそんなことは百も承知の上で、それでもまとめて包んで、誰の思いも蔑ろにすることなく、そのうえで確かにそこに存在した希望を置いてくれている作品だとも思うけれど。

 

ダイアンとニックが自分達の出逢いについて複雑な思いを語る場面、私は彼らのあの感情をものすごく自分と地続きに感じたし、普遍的なものだと思った。彼らの出逢いは"こう"ならなければ存在しなかった。この世界のすべては、何かがそう転がって、起きてしまって、たまたまそうなったから生じている。私たちは自分の意志で人生ゲームのボードの上を歩いているつもりでいる(時につもりにされている)けれど、そのボードは突然傾けられたり、ひっくり返ったり、予想もつかない動きをする。その時私たちはあの小さなピンのように軽く弾き飛ばされて、コロコロと転がって、なすすべもなくどこかに転がりついたりする。自分の意志の枠外にある大きな何かは、いとも簡単に私たちを吹き飛ばしてしまう。そういう意味の分からない、普通の顔してその実ルールがめちゃくちゃなこの世界で、私たちは気付いたら存在していて、生きていて、けれどそんな中で時に大事な何かに、誰かに出会うのだ。

その過程にはきっと沢山の出来事が存在していて、それは自分から見えるものもあるし、認識すらできないものもある。でも、その時、その場所で、"その時の私"で、何かや誰かに出逢えたのならば、それが自分にとってありがたく価値のあるものだと感じられたならば、絶対に、私たちはそれを大事にして良い。身に起きたすべてに意味を見出す必要はないけれど、その時自分の心が動いたのなら、視界が色付いたのなら、世界が緩まったのなら、それらすべてが必然のように思えたのなら、それはやっぱり、自分にとって"意味ある"ものだったのだ。

 

 

私があの時浦井さんに出逢えたのは、この世界であらゆるものがコロコロ転がって、私の人生で私が転がして、そして何かに転がされて、沢山の偶然と、もしかしたら必然だったかもしれない何かとが無数に重なって、たまたまそこに"点"が置かれたからだ。私はその交わりを、重なりを、あの時もこれまでも、今もずっと、ありがたく思っている。観られて良かった。聴けて良かった。あなたの存在を知ることができて良かった。

これからも私は変わり続けるし、否応なしに変わらされ続けるし、それはきっとこの世界も、そしてそこに生きる浦井さんも同様で、というか誰一人として例外なく、私たちは同じところにはとどまれない。私は好きな人やものに関して語る言葉に少しでも嘘が混ざるのがいやだから、これからもずっと好きでいるだろう、とは書けない。先のことは分からないし、私は自分が分からないから。けれど、あの時からこれまで、私は浦井さんのことを好きでいられて幸せだったし、好きになれて良かったと心から思う瞬間が沢山あったし、そして今も幸せだ。あの瞬間に浦井さんのことを好きになれたからこそ今の私がいて、今の私は浦井さんのことが未だに好きで、それは確かな事実で、私はそれを、とても愛おしく思っている。私の人生を満たす大事な頁のひとつで、それはけっしてなくならない。

 

 

だから私は今日も、この変わり続ける不確かな世界の中で、安堵の光みたいなあの人を、安心して好きでいようと思う。世界も自分も変わったって構わない。不安定でも波があってもそれでいい。どんな瞬間も、今の私がすべてで、私は今にしかいられない。だったらその瞬間、好きなだけ好きでいたらいい。分からないもので溢れているからこそ、好きだと分かる人に会いに行ったらいい。その時私は、自分のことも、この世界のことも少しだけまた好きになれる。

今日も私は、浦井さんのことが大好きだ。

 

 

VARIOUS

浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS

東京公演マチネ、行ってきました〜〜〜!!!!!!

 

いや最近ブログ書いてなかったけど(書いてるけど終わらなくて下書きだらけになっちゃう)、流石にこれは書くよ!何でも良いからとりあえず書く!もう何でもいいから私の好きだったところコレクションを発表します!みたいな感じで書く!と思って今書いてる。だってめちゃくちゃ楽しかったんだもん…………………何かしら残しとこ………

 

さて、前置き長くなると書き終わらなくなることは分かってるので、もう好きな話を冒頭からします。大事なのは勢い、勢いで行こう。

 

 

 

まずはこれ。

衣装が大天才!!!!

ありがとうございます!!!!!え、もう本当に今のところTwitterで私のしてる話7割衣装から派生した話みたいなところがあるぐらい、本当に今回衣装が天才だった。浦井さん、それはもう大変格好良いんだけど、ご本体がまず最高に格好良いんだけど、今回の衣装が天才すぎて137076割増しで本当に格好良かった。これを書いている今はまだ写真も映像も上がってきてないので、私の頭の中にしか存在してないんだけど、本当に本当にあの、お色直し後(?)のあの、あの3つ目の衣装が本当に………………本当に…とっても良かった……………………………………めちゃくちゃ似合ってるし……………きらきらでひらひらで…………華やかで煌びやかで格好良くて和洋折衷の色気もあり………………………本当に………あの…すごい良かったです。めちゃくちゃお似合いでした。ふせったーの中では「現代に現れし王次みたいな衣装」とかひっそり申しておりましたが、格好良さと色気と眩しさと雄々しさと諸々が限界突破しててちょっと登場した瞬間衝撃がすごくてしばらく呼吸の仕方を忘れてた。本当にすごい、何だあの衣装。呼吸を奪うタイプの衣装だった。私が好きになってから見た浦井さんの衣装の中で一番好きかもしれない。ありとあらゆる方向になんかわからないけどめちゃくちゃ好きでした。日本語がひどい、ごめんなさい!

そんなわけで、もちろんあの衣装もめちゃくちゃ素敵だったんですが(私の観測範囲だけでもあの衣装になぎ倒されている人は沢山見かけた)、最初の赤のポップな感じの衣装も好きで、というのも私は赤を纏っている浦井さんがとても好きだからなんですが、最初からとても好きな浦井さんが出てきたので…ちょっと困ってしまった。最初から好きな浦井さんが出てくるなんてそんな…ねぇ……心の準備がさ…ちょっとこう……びっくりしちゃった………。浦井さんって赤が本当によく似合いますね………。それはさておき、ゲームっぽいオープニング、からのバナナココナッツセット🍌🥥!のポップな雰囲気にぴったりな赤だった。周りの方々も含めてカラフルな感じがかわいかった(飲み物も担当カラーになってた?)。マイクも赤だった。色担当あるの、アイドルっぽくもあるし戦隊モノっぽくもあるな〜とか考えてた。浦井レッドだった。続く衣装、生着替えで(言い方)お召し替えされていた二つ目のフード付きの黒い衣装も、その衣装の時の楽曲の雰囲気に合っていて素敵でした。私はオーバーサイズなお洋服を着ている浦井さんがとても好きなんですが、ゆるっとしたシルエットのこれも好きでした。この衣装といえばデスミュ観てみたかったなぁ……と何回でもなる話をしたくなる。観てみたかったなぁ。浦井さん、黒が好きと話されているのをよく聞くけど、当たり前に黒も似合う。浦井さんが黒を着ると黒に勝ってるからすごいなと思う。浦井健治with黒にしてしまうパワーがある。私は布面積の多い黒を着ると完全に黒に負けて呑まれます(聞いてないです)。

さて、お色直し後の衣装の破壊力があまりにすごくて他の記憶が飛びかけたんですけど、今回本当に、衣装が全体的にとても好きでした。いやでもやっぱり最後に言っておこう、あのお色直し後の衣装、本当に本当に最高でしたありがとうございました…………………浦井さんの魅力をこれでもかというぐらいたっぷり引き出すような……最高の衣装でした……あの衣装の写真集欲しい…………

 

 

お前、my girl、君

なんか開発途中のAIが作った小説のタイトルみたいになっちゃた。何の話かと言いますと、行った人はわかるはず、VARIOUS、「お前」にもなれるし、「my girl」にもなれるし、「君」にもなれる。してくれる。上手前方ブロックにおりました私は、かの曲のかの歌詞の「お前」にしていただきまして(ちょうど上手に来てくれたので)無事に昇天いたしました。CDは何回も聴いているので、VARIOUSの曲の歌詞も浦井さんの声もすっかり耳に馴染んでいるし、「この曲のここの歌い方がすごい好き〜」みたいな箇所が沢山あるし、たぶんもう多分浦井さん本人より沢山聴いてるんじゃないかなと思うし、そのぐらい耳は慣れているのに、やっぱり目の前で歌ってくれると新鮮に「ハーーーーーーーーーーこの曲を歌う浦井さん、好きだな……………?!」となります。加えてライブだとyouの対象がこっちを向いてくるのでウッ…となる。センブロで「愛しのmy girl」浴びてたセンブロの民たちもさぞかし幸せだったであろう………。全部の曲のyouが客席に向いているわけではないだろうけど、それでも向けてくれている曲も沢山あって、普段曲を聴いていて「あなた」とか「君」とか「お前」とか歌詞に出てきた時に、基本自分を素通りしてどこかの誰かに向かう矢印としてそれを聴いてしまいがちな私は、現場で不意打ちでこっち向いてくる矢印にぶっ倒れそうになります。浦井さんめちゃくちゃ矢印向けてくるのでその度に「んぎゃっっっこっち向いてる………」ってなる。慣れない。でも何ですかね、浦井さんから招かれた空間に向かうと、こう、こちらが向けて飛ばしている愛情量の500倍ぐらい返ってくる感じはあるので、どばーーーっと愛情をいただいて、抱えきれなかった分はお土産にも貰って帰ってくる感じはあるので、youがこっちに飛んでくるのもそりゃあそうだというか、懲りずにびっくりはするんだけど、「ウン、そうなんだよなぁ………………」みたいな、ノックアウトされて床で大の字になりながらも納得しているみたいな感覚になります。

 

 

スパークル

スパークルの演出が全体的にめちゃくちゃ好きでした。視覚記憶が弱いので詳細は思い出せないんだけど。VARIOUS(CD)で浦井さんの歌うスパークル、原曲より更に眩しくて澄んでいて、早朝の森の澄んだ空気みたいだし、何の不純物もないどこまでも透き通った水みたいだし、水面の上できらきら光る朝日みたいだし、何というか、よりファンタジックで、すごく純度が高いなぁと思っていて。そういう印象があったので、あの上から客席に降ってくるきれいな照明の光も、浦井さんの周りを舞う「君」の概念みたいな軽やかで真っ白で眩しい存在も、私が事前に持っていた"浦井さんの歌うスパークル"のイメージと一致して、美しくて眩しくて清らかで、すごく好きだった。綺麗な世界を見たなぁ。

あとこれはふせったーにも書いたんですけど、「この世界のような教科書のような笑顔」の少し前(「君は僕の前ではにかんでは澄ましてみせた」との間?だった気がする)あたりで、この世界の教科書のような笑顔をしていた浦井さんが最高にキュートでした。すごいウルトラスペシャルミラクルキュートスマイル、120点満点の教科書みたいな笑顔だった。教科書に載せたらいいと思います。

 

 

私は立ち上がる⚔

曲が始まり、あ、アーサーさんだ…………………!と思った数秒後、(いや、あれ、このアーサーさん、私の知らない人だ………………?)となった。キングアーサー期間中何度も聞いた、一幕最後の最高にテンションが上がる、めちゃくちゃ格好いい私は立ち上がる。すっかり剣を使いこなし、騎士たちの中心に立つ我らが王アーサーが最高に格好良い私は立ち上がる。「民、アーサーさんに着いていきます!」と民心が完全に出来上がる私は立ち上がる。そんなこの曲を数ヶ月ぶりに聴ける、数ヶ月ぶりにアーサーさんが見られる…………!と目をキラキラさせたのも束の間、なんか、元のアーサーさんの格好良さに加え、格好良さが違う方面にも爆発していて何か色々ヤバい格好いい生物がいてちょっとむしろ怖かった。あの、書き始めておいてあれなんですけど、ちょっと衝撃が強すぎてあんまり記憶に残っていない。これはあの、例のとんでもない衣装なんですよ。とんでもない衣装着て、数ヶ月ぶりのアーサーさんで、しかもKAよりもさらに剣振り回して、最高に格好良く踊ってるわけじゃないですか。まずあの衣装の時点でだめなのに、KA通いの日々を思い出すあの曲を聴けば、最高に高まる一幕最後の群舞の中心に立つアーサーを思い出し、ブリテンの民だったあの頃(そんな経ってない)の記憶がぶわっと蘇るわけですよ。アーサーさん…ってなるんですよ。でも目の前の人、明らかに私の知ってるアーサーじゃないんですよ……………なんか色んな意味で最強のアーサーさんいた…………………格好良さに遠慮がなかった…………こう、アーサーさんって内に秘める、留めておかなくてはならない、一人で抱えなければならないものが沢山あってしんどい人だと思うんですけど(雑にまとめてごめんなさい)、胸の内に青い炎を静かに燃やしているような人だと思うんですけど、VARIOUS限定版アーサーさんは、なんと言いますか、だいぶ(色々)(そう、色々)開放していて、どっかーーーーーーーーんと魅力が洪水のように客席までなだれこんできまして………そう……なんか…やばくて……記憶があんまりないです。なだれこんでくる何かやばいものに呑まれてアワアワしてたら終わった。剣くるくるしてたことと訳わからんぐらい格好良かったことしか覚えてないです。新種のアーサーさんをありがとうございました。

 

 

 

(いっこだけちょっと挟みます)

グッズ、買えなかったな…

良いことだけ残しとこ〜とも思ったんですけど、すみません、ちょっと一言だけ……グッズ買えなかったな…。今回会場がまぁこう、グッズ売るのに適してない形というのもあるのかな〜とは思いますが(並ぶスペースが圧倒的に足りてない)(グッズ列、建物の上手サイド(?)側で1階〜5階まで上がって5階からロビー通路通って下手サイド(?)の階段5階〜1階まで続いてて、一応列の最後尾までぐるぐるして追ってはみたんだけど、追っただけで「なんかもういっか………観る前に体力ゲージ消費しちゃいそう……」となってしまった。待機の階段暑かったのもあり)、あまりにこう、グッズ気軽購入難易度が高かったな…と。まあ先行物販時間枠に行けよって話ではあるんでしょうし、私はグッズのモチベが今回そこまで高くなかった(単純にその日早く向かう気力と行列に並ぶ体力がなかった)(グッズのラインナップ自体はめちゃかわいかったよ!)ので、まぁ良っか〜ってなっちゃったんだけど、でも、とはいえもう少し、気軽にちょろっと買えたら良かったよね………🥲とは思いました。予約販売あったら良かったですねぇ…。マチネ、公演終了後、パンフしか売ってなかった(他は全部完売してた)ので、パンフだけ買ってお家に帰ったんですが、せめてなんか記念に一つぐらいはお土産欲しかったな……という気持ちも残りました。ペンライトとか贅沢は言わないからさ……お写真とかアクスタとか……(全体的にもう少し在庫あったら良かったですね……) (客の購買意欲が予想以上だったのかな……)何かしらお持ち帰りできたら嬉しかったな………また今度の機会で買うね……

そんなわけでグッズ列並び怠惰人間、残念ながらハートのペンライトは掲げられなかったので、イマジナリーハートペンライトを点灯して着席していたわけですが、どこかで浦井さんが「心のペンライト」って言ってくれたのでめちゃくちゃ喜んで点灯しました(心のイマジナリーハートペンライトを)。私が犬だったら多分めちゃくちゃしっぽ振ってたと思うあの瞬間。「心のペンライト、心のペンライトついてるよ!振ってるよ〜〜〜😭!!!!(すき〜〜〜!!!!)」ってなった。グッズ買えなかったなァ…の淋しい気持ちが少し成仏しました。すき。

 

 

 

さて、早いけど総括!

めちゃくちゃ………

①格好良い

あの………VARIOUS、浦井さんがめちゃくちゃ格好良くなかったですか……………?えっ…いつも言ってる……?まぁそれはそうなんですけど………でもなんか……めちゃくちゃ…とても…格好良かったんですよ……びっくりしちゃった……。やっぱり衣装のパワーは大きい気もする。かの衣装着てる浦井さん格好良さが爆発していて、登場してしばらく「…え、えっ……えぇ………?」で、逆に記憶が全然残ってない。悲しい。でも映像化されるって言ってたからあの天才衣装の浦井さんも残るはず、嬉しい。記憶に頼れない時は記録に頼るしかない。楽しみにお待ちしております。あっ話がまた衣装に持ってかれた。

いやーー、なんかもう、すごく、格好良くて…………。選曲もね、色んな浦井さん、そう、それこそVARIOUS!な浦井さんを楽しめる並びになっていて、かわいい浦井さん、恐ろしい浦井さん、眩しい浦井さん、強い浦井さん、楽しそうな浦井さん、ダークな浦井さん、優しい浦井さん、あったかい浦井さん(そろそろ浦井さんがゲシュタルト崩壊しそう)(だんだん浦丼さんに見えてきた)、と沢山の浦井さんの顔を見られてとても楽しかったんですけど、そんな中でも、「格好良い浦井さん」の""格好良さ""がさぁ………………なぁ……という話です。浦井健治という、恐ろしく格好良い生き物………。おんなじようなことずっと言ってるんですけど、如何せん記憶が飛んでるから抽象的なことしか言えないんですね、ごめんなさい。でも、あの空間には確かにめちゃくちゃ格好良い生きものがいたんです…いたんですよ…幻じゃないもん……トトロ見たもん………………………

 

 

②楽しかった!!!!

VARIOUS、めちゃくちゃ楽しかったです。あの日、気候なのか何なのかあんまり朝はコンディションが良くなかったんですけど、帰り道にはめちゃくちゃHAPPY元気マンになってた。渋谷の人混みも爆速で通り抜けて電車までニコニコで辿り着けた。やっぱり人間、太陽(うらいけんじさん)を浴びると元気が出るものですね。

まず、始まりがバナココだったの、「さ〜〜あ今日はとことん楽しんでってね〜〜〜!!!」のパワーを感じて、最初からあっという間にVARIOUSランドに連れて行ってくれて最高だった。「あ、バナココのイントロっぽい音……?くるのか……?くるのか……?きたーーーーー!!!!」みたいな満を持してのバナココ、満を持しての浦井さん登場!!から、とても高まった。めちゃくちゃ高揚感あった。このポップで楽しくて明るくて幸せな空間に、あ〜〜楽しみにしてたこの場所にようやく来れたんだな〜〜〜!という実感が盛り盛りになる始まりで、最初からすごく楽しかったし、本当〜〜にあっという間で、当たり前に最後まで楽しかった。体感として「あぁ、そろそろ終わっちゃうのかな……」とか思って、「いや気のせいかもしれない、わたしの気のせいで、本当は実はまだ30分しか経ってないのかもしれない……」と思い込もうとしたら、ちょうど浦井さんが「そろそろ最後になってきましたが…」みたいなこと言うから「ヤダーーーーーーーー終わらないでーーーーーーーーー」って私の中の5歳児がダダこねてた。楽しい時間って何であんなにあっという間なんだろうね………?

VARIOUS、浦井さんの、今日この時間はとことん楽しんで、盛りあがって、笑って、幸せになって、満たされていって欲しい、という気持ちがすごく伝わってくる時間だったなぁと思います。幸せな気持ちで満たされた、カラフルな風船をお土産にプレゼントしてもらったような。あの空間で感じた楽しくて幸せな、色とりどりの記憶と、浦井さんからのたっぷりのパワーと愛情が詰まった風船。もちろんこの時間にもいっぱいあげるし、持ちきれなくて余った分はお家に持って帰ってねー!って手渡された気がしちゃうぐらいには、今回も沢山受け取ってきたなぁと思います。浦井さんは一体いくつ風船を持ってるんだろうなぁ。浦井さん、本当にすごく、与える人だよなぁ、と行くたびに思う。私も客席から少しぐらいは返せていると良いな。できるのは与えてもらったものを楽しむことと全力でばっちばちに拍手することぐらいだけど。どうか届いていますように。

 

 

③好き

うーーーんやっぱり私、浦井さんのこと、めちゃくちゃ好きだなぁ………と思いました。

浦井健治という人の安心感と、あったかさと、パワフルさ、本当にすごい、と毎回実感する。やっぱり生で見ると、浦井さんから招かれた場に存在すると、会場の空気が浦井さんの発するパワーと愛情で満ちてるし、それをずっと浴びてるわけで、すごい全身で「あーーーーどんどん私の充電が満たされてゆく…………」と感じる。普段役で見る時、役のエネルギーとして客席にビリビリと届いてくるものが、浦井健治さんとして存在する浦井さん主体の場だと、会場のお客たちに向かってまるごと直接どっかーーーーーんと飛んできて、対象が全部こっちというか、全部降ってくるので、なんかもう、本当に、満たされた…………………………(完敗)となる。毎回言ってる気がするけど何回でも書いちゃう。浦井さんがお芝居をする場も、それを観に行くのも大好きだけれど、浦井さんが浦井さんとして立っている場も、歌っている場も、話している場も、やっぱりめちゃくちゃ好きだなぁと思います。浦井さんという人が好きです。浦井さんが毎回毎回「大好きだよー!!」と伝えてくれるので、こっちも負けじと大好きなんですよーーー!!!と返したくなる。愛に溢れた人は愛に囲まれるのだなぁと浦井さんを見ていると思う。

愛情はギブアンドテイクではないけど、やっぱり個人に愛情のバッテリーみたいなものはあって、浦井さんはめちゃくちゃ保有量が多い人だと思うから、それを周りの人に、ライブの時には私たちに沢山与えてくれて、私はそこで少ない充電を毎回毎回たっぷり200%ぐらいに充電してもらって、そうすると満ち足りた気持ちになれて、それを誰かやどこかに手渡せる余力が生まれるんだな、みたいなことを思う。だから、giveの循環の大元になれる浦井さんのことを、本当にすごいなぁと思うし、やっぱりその保有量に毎回新鮮にびっくりする。愛がでかい。少エネ省エネ人間の私は充電をいつも満タンにはできなくて、30%ぐらいの感じで毎日なんとか凌いでるけど、たぶん沢山分け与えられるような愛溢れる人間にはこの先もなれないだろうけど、それでも貰ったgiveをちゃんとありがたく受け取って、余裕がある時にはちゃんと周りに渡して回していけたらいいね、と浦井さんの場に行くと素直に思えたりする。与えられて、与えて、の循環に、できる時には入れたら良いな。

 

 

 

さて、そんなわけでVARIOUS、とってもとってもとっても、楽しかったです!!

Pieceを出した時は悲しみややり切れなさの中、それでも前を向いていこう、ちゃんと繋がっているよ、というような想いを伝えていたけれど、今回はカラフルな風船を未来に飛ばしていこう!楽しく明るく!🎈という気持ちを込めた……(ニュアンス)というようなことをどこかのインタビューで話していた気がするけれど、浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS〜もそのまんまCDのメッセージが表れたような場でした。今日はこの空間でとびきり楽しんで、笑顔になって、明るくなって、幸せになって、心の風船もたくさん飛ばして行ってね!という場が作られていて、オープニングで登場した瞬間から「今日は最高に楽しいところまで連れて行くよ〜!!」と言われたような気持ちになったし、実際めちゃくちゃ楽しかった。VARIOUSのCDと同じくいろんな浦井さんが見られて、聴けて、カラフルな遊園地みたいでとっても楽しかったです。メリーゴーランドも観覧車もお化け屋敷もジェットコースターもなんでもあった。色とりどりな浦井さんを沢山見られて幸せでした。

 

長々ゆっくり書いてたら、とうとうVARIOUSも最終日、最後の回がもうやってくる時間になってきてしまった。最後まで楽しく元気でHAPPYな場になりますように。今はもうこちらも晴れているので、安心した気分で祈っておきます!

それでは、浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS〜、最高に楽しくて幸せな時間をありがとうございました!!🎈🎈🎈

 

言語化と共有と諸々

 

 

我が推し・高橋一生氏には度々口にする言葉シリーズがある。

その一つとして高橋さんを推している人であれば恐らく一度は聞いたことがあるだろう

この作品を観た後は、共有をしないで自分の中で大事に留めておいてもらえれば

というお言葉がある。

※時により言葉の細かいところは違うのであくまでニュアンスとして

 

ある時は映画の試写会や舞台挨拶で、ある時はドラマのインタビューで、彼は度々この言葉を観客(視聴者)の前で口にしていて、最近で言うと雪国のインタビューでも聞いたような気がする。

私も(記憶力はポンコツなのでどの作品の何の機会だったかは覚えていないけれど)、生でその言葉を彼から受け取ったことが何度かあって、その度に普段からTwitterでペラッペラ喋りたいことを喋り倒している身としては、何かこう「すみません……」という気持ちになったりもして、「そこの君、言語化欲求に身を任せてなんでもかんでもTwitterで喋ってるんじゃないよ」と釘を刺されたような気分になる(とはいえ懲りずに喋り続けるのだけれど)。

 

だだ、この一見風紀委員のお言葉のようにも聞こえる高橋さんのこの言葉は、作品を受け取る一人一人への優しさであり、最大限の敬意なんだろうな、とも思う。舞台にしてもドラマにしても映画にしても、公式アカウントが使用する(推奨する)公式タグが用意されていて、作品によっては「ぜひタグをつけて感想を呟いてくださいね〜!」と舞台挨拶の最後に促されたりもする。そのぐらいにSNS上の声というのは制作サイドにとって、考えている以上に大きいものなんだろうな、と度々思う(だからこそ、少しでも力になったら良いなぁと思う作品には、応援の意も込めてタグを使って呟いたりもする)。ただ、そんな場であっても高橋さんは「共有せずに、自分の中で大事にしておいてください」を繰り返し伝えくれている。

 

 

共有

この高橋さんの言う「共有」とは何だろうか、と彼が話すたびにいつも考える。具体的なアクションとしては、例えばTwitterであれば感想を誰かに共有すること(ツイートする)、誰かの呟きを見て共感すること(いいねを押す)、誰かの感想を見てそれを他の誰かに共有すること(RTする)などを指しているのだろうなと思う。自分の思考や感情を誰かと共有する、もしくは誰かのそれを知ることで(その人の感想を)共有する、または誰かのそれをまた違う誰かと共有する。そのすべてが頭にあるのかもしれないけれど、主に高橋さんが言っているのは一つ目で、「自分の中にあるものを、誰かに共有すること」の部分なのかな、と思う。自分の中で生まれたものを誰かに共有せずに、自分の中で留めておいてね、と。

 

それをなぜ「優しい」と感じるのかと言えば、その言葉は、何かの作品を受け取ったあと、自分の中で生まれたふわっとした何かを、言葉に変換することも誰かに見せることもせず、そのまんまの状態自分の中だけで大切にしておいても良いんだよ、ということでもあるのだろうな、と解釈しているからである。フェイクスピアで言うところの「高得点が勝ち」の世界の中に、あなたが今受け取ったほやほやの気持ちや、そこから生まれた言葉をわざわざ置きに行かなくてもいい、あなたの受け取ったものは、誰に評価される必要もない、あなただけの、貴重で尊いものだ、と言ってくれているんじゃないかな、と何となく勝手に思っている。ひとつの作品を見て、何かを受け取って、あなたの中に生まれたものは、他の誰にも見せる必要のない、あなただけの特別なものだ、と。

それは同時に、点数稼ぎの言葉を発する行為へ警鐘を鳴らす言葉でもあるのかもしれないけれど、それでもその根幹にあるのは、作品を受け取った人への最大限の敬意なんじゃないだろうか。

受け取り手にいくら「受け取り方は自由」と伝えたとしても、もしその感想を共有することがその場の前提になってしまっていては、「評価される」「公の場に表せる」「他人に理解可能な」感想にどうしても偏ってしまう。そのために「できたてほやほやの誰かの何か」が、加工され、修正され、整えられ、時には歪められて、「共有されるための何か」になる。高橋さんは多分、そのつまらなさや悲しさを憂いてもいるのだろうし、もっと評価されない感想を大事にしていいのだよ、とふんわり(遠回しに)伝えてくれているんじゃないだろうかな、と。

私は高橋さんの、そういう細やかさや相手の奥の部分に向ける優しさが好きで(彼がその行為を「優しさ」という言葉に変換することを好むかは置いておいて)、その真意の読み取りづらさも何だかんだ好きなんですが、度々繰り返すその言葉は、すごい高橋さんらしいな、と思う。

 

ただ、高橋さんのその受け手に対する敬意を受け取りつつも、私は何かを受け取った時の想いを残しておきたい人間でもあるので、結局のところ大体の場合は何かしら言葉にして残すし、一番手っ取り早い方法としてTwitterにあげたりブログを書いたりする。記憶力が弱いので、とにかく自分の中で生まれた何かを言葉にして残しておきたい。特に舞台であればその日に観たものはその日にしか出会えないものなので。言葉にすることで元のものが削がれてしまったり、元の形とは変わってしまったりすることもあるかもしれないけれど、やっぱりその時感じたものの一部を後になっても味わえるように、私は形に残したくなってしまう。

あとは単純に書きたい、外に出したいという欲が自分の中にそもそもある。何かを受け取った時に何かを発さないとバランスが狂うときがある。そして、その「出したい」という感覚は、言語化して自分のメモにだけにとどめておくだけでは満たされない時があって、書きたいという欲の隣に、自分の外の世界に置きたい、という欲があるのだろうな、と思う。必ずしもセットなわけではないけれど、多分それは、受け取る人がいて初めて芝居が完成する、みたいな話と近いところにあって、いやそれと同じところに置くのはおこがましいけれど、でもやっぱり世界のどこかに投げたいし、誰かに受け取って欲しい言葉というのはあるのだと思う。

 

ただ、人が読むことを前提とした文章を書くときに、無意識に削られてしまうものというのは確かにあって、それは考えものだなぁと思う時もある。この書き方で誤解を生まないだろうか、誰かの感想を潰すことにならないだろうか、とか無駄に考えすぎてしまったりする。私の中から生まれた感情や解釈や思考は私だけのものなので、それは誰に遠慮する必要もないのだけれど、それを外に出すにはやっぱりある程度の加工が必要で、やっぱり人の目を気にした瞬間、それが評価を求めるものでなかったとしても、失われてしまう「生のなにか」はあるんだなと思う。

言葉にもしたい、でも自分の中で生まれたほやほやの形のないものを大事にもしたい。すぐに言葉にしたくなってしまう人間なので、だからこそ高橋さんのその言葉を心に留めておきたいな、とも思う。受け取った瞬間のその貴重な感情や感覚、そこから浮かぶ思考や発見を、言葉に変換する必要も、外に出す必要もないのだと。

 

 

「私にとってはエクレア」の許容

その前提を意識的に置いておかないと、うっかり感想合戦みたいな感覚に飲み込まれてしまうような気がする。上にも書いたけれど、作品の宣伝として感想をSNSにあげることを求められるのが常の環境に身を置いていると、無意識に整った感想を生成するようになってしまうというか。

より深い感想、より正しい感想、より面白い感想。SNSは特に、"より〇〇な感想"合戦のような感覚をもたらしやすいのだとは思う。私は常々「ハーーーー好き!」「んーーよく分からんかった…」みたいなド浅い感想を出したい時にちゃんと出すことでその感覚を意図的に潰しているけれど、それでも「果たして本当にこの作品はこう受け取ることを意図していたのか……?私の狭い視野による妄想解釈では……?」と思ってしまったりもする。どんな風に受け取ろうと受け取り手の自由だ、と頭には入っていてもつい「正解の解釈」を探し出そうとしてしまうのは多分、現代文試験症候群みたいなものなんだと思う。もはや癖。A,B,C,Dどの感想がより正しいでしょう?みたいな思考回路が頭のどこかに染み付いている。今の時代、その「正しい」がSNSで言えばいいねの数、とか捉えられてしまいがちなのがより厄介なんだろう。固定的な正解がある分、現代文の試験の方がまだ健全かもしれない(学生時代、問題作成者との解釈違いにハ?となる時もあったけど)。

もちろん批評において正解はないけれど間違い(文脈を読み間違えた解釈)はある、というのはそれとして、でも、私は正解のある試験を受けているわけでも、批評家として作品を批評しているわけでもないので、結局のところその作品をどう受け取ろうと受け取った人の自由だとも思うし、なんというかシュークリームを投げてこられたけど、自分の中にチョコレートがあったからそれをエクレアとして受け取っちゃったみたいな食べ方だって別にいいじゃん?と基本的には思っている。だってチョコレートがあるんだもん。そしたらエクレアになっちゃうじゃないですか。

例えば作り手が「これは人類の普遍的な罪をテーマにした作品です」と言ってても、「えっ私はクソデカ感情に名前をつけようと奮闘して諦めて友情に収めた男の話かと思いました…」(すごい適当に架空の話を創り出してる)とかいくらでもあると思うんですよね。作り手の意図が全く分からない場合もあるし、伝わってきてもしっくりこない場合もあるし、自分のそれと一致しない場合もあるし。それで、「これはシュークリームじゃなくてエクレアじゃないか!」とか怒り出すのは論外として、正当な批評を求められる立場にいるわけでもなければ、何を何だと思ってどう食べたって自由だと個人的には思っている。

 

 

 

他者の感想の取り入れ方

というわけで、浅かろうが読み間違いだろうが知るか〜!精神で、基本的に浮かんだことを喋るようにはしてるのだけれど、複数回観た作品や喋りたくなる作品に関しては、色々こねくり回して深海まで潜って長文感想を生成する時もある。ただ、それが誰かの「こんな感想呟かない方がいいかな……」を生むこともあるのだな、とRT先を見にいって思ったこともある(「こんな風に全然考えてなかった、私の見方が浅かったのかな……」というような内容のツイを見かけてしまった)。

例え浅かろうが間違っていようが(実際その方がどんなことを思っていたのかはわからないけれど)、あなたの感想は唯一無二の尊いものなので、どうか私の妄想込み偏り感想を「正解」として読み込まないで…………と当時めちゃくちゃ恐れ多くなった記憶がある。たまに書くド長文感想、基本的に頭の中をそのままドバドバ放出しているだけなので、構成なんて考えてないし、上と下で言ってること違ったりもするし、それを自覚しつつも全然放置して出しちゃうようなゆるゆる長文感想なので、楽しく読んでくださる方がいるのは毎回とても嬉しいなぁと思うけれど、そんなに上に置かれてしまうとちょっと怖くなる。とはいえ懲りずに書きたくなったら毎度書いてしまうのだけれど、たまたま目にした人はその辺に置いてあるお菓子食べるぐらいの気分で読んで欲しいと常々思っている。

 

ただ、確かにボリュームのある言葉の塊というのはその量だけでそれなりのエネルギーを持つと思っていて、それを読むと若干脳を乗っ取られるというか、引っ張られてしまうのもまたわかる。私自身も引っ張られがちな人間である。自分で感想を一通り出し終えてからじゃないと人の感想は読めなかったりもする(ドラマは別)。だから、何かを観終わった後、読み終わった後、「他の人はどう思ったんだろーーー?!」の好奇心を一旦大人しくさせることを意図的にやるようにしている。これが純粋な好奇心からくる場合まだいいのだけれど、自分に中に湧いた思考や感覚について「これは正しいのか……?」みたいな正解確認として他人の感想を漁りたくなる気持ちがある場合には厄介なので、より気をつけて「ウン、一旦落ち着こうね!!」をしたりもする。

餌(他人の感想)を前に待て!するみたいなものなので、結構「ヌヌ…(食わせろ…)」とはなるのだけれど、自分の感覚が液体状態のままで他人の感想を入れてしまうと、知らぬ間に他の人の感想を自分の感想として認識してしまったりするので、液体のうちは他のものを入れないようにしている。仮にそれを「正解」だとして取り入れたわけではなかったとしても、単純に自分の感覚がやわやわな状態だと簡単に他人の感情と思考が入り混ざってしまうので、せっかくご飯食べたのに自分が美味しいと感じたのか不味いと感じたのか、甘いのか苦いのか酸っぱいのかわからない、みたいな状態になってしまう。それを好む人もいるのだろうけれど、私はそれは何となく、もったいない気がするので。せっかく何かを見て、自分の中に生まれたものがあるのなら混ぜずに大事にしたい。少しずれるけど、ネタバレを好まないのも基本的にはここからきていると思う。先に何かを知ってしまうことで、目の前の新鮮なものに意味をつけられてしまうのがいやだ。「これはめちゃくちゃ大切に育てられた鶏の卵と超高級な生クリームと純国産のトマトを使ったオムライスです」とか事前に知りたくないんですよね。誰かの口コミもシェフの説明も要らない。まずは自分で食べて味わいたいし、その料理に名前をつけるのも自分でやりたい。初めの一口は二度とやってこないので。(あくまで喩えの話なので料理の事前情報には特にこだわりはないです)

ただ、ある程度自分の中で固体化してしまえば、他人の感想を取り入れても混ざることはなくなるので、そこからはまた掛け算みたいなことができて楽しいなぁとも思う。自分の感想がAだとして、液体のまんまBの感想を読むとまるごとBになってしまう現象が起きてしまうことがあるけれど、自分の感想Aを固体化してからBを読むとCの解釈が新しく生まれたりする。それはすごく楽しい。めちゃくちゃ感覚的な話なんだけれど、個人的にはとても大事にしている。

ただ一方で、別に固体化する必要もないんだよなぁとも思う。別にやわやわの状態で終わらせてもいい。ナチュラルに液体固体言い出しましたが、固体化≒言語化かな、と書いていて思いました。自分の中でその作品がある程度腑に落ちた状態(固体)というのがあって、そこにいくまでの頭の中でいろんな要素がふわふわゆらゆらしている状態(液体)は、固まってないので他のものに影響されやすいんですよね。で、ある程度固まってくると、言語になる段階まで上がってくるし、"解釈"ぐらいの固さが出てくるというか。固まってもまた形を変えていくんですが、液体の時の混ざり方、変わり方とは質が違うというか。ただ、この段階になったとしても、あまりに見すぎていると中毒を起こした気分になったりもするので、あと自分の中からぽこんと生まれる何かを逃してしまう(先に頭に色々入れたことによって)ことも起きるので、タイミングと量は常々計りながら入れていく必要があるな、と思う。個人的には自分が作品を考えることに満足したあとがベストなんだろうな、と思います。ただ、誰の感想も取り入れず、自分の中に生まれたものも液体のまま放置する残し方でも良いんだよな、と。たぶん記憶としては薄れやすいけれど、身体のどこかにその記憶は埋もれているだろう、みたいな残し方。つい言葉にしたくなりがちだし、人の言葉も読みたくなりがちだけど、そんなことも思う。

 

 

共有、確かに危うい

上で書いたようなことは、最初に書いた共有と異なる、「他者の頭の中にあるものを共有する」の意味の共有だと思うんですが、こちらもこちらで「自分のできたてほやほやの感覚」を分からなくしてしまう危うさがある。誰かの感想を読むことで、それに乗っ取られてしまったり、自分の中にある感覚が見えなくなってしまったり、「これは間違っているのか…?」と無意識に打ち消してしまったり。確かにそんなことはいくらだって起きると思う。というか、一言検索をかければ無数の感想が手に入ってしまう今の時代、意識的にやらないようにしない限りは、自動運転的にやってしまいがちな気がする。

厄介なことに、「共有」はめちゃくちゃ楽しい。私は他人の感想を読む行為自体が好きだし、自分の感想を読んでもらえたら嬉しくもなる。もしSNSのない世界が今も続いていたら、誰かと一緒に観た映画、舞台については話せても、一人で見た作品、一人で読んだ本については、たまたま同じものに触れた人に出会わない限りは、完全に一人の世界に閉じたものになる。全てを共有したいとは全く思わないけれど、素敵な作品を知った時に、同じく受け取り手になった誰かとその世界や、そこで感じたものを共有できるのは、やっぱり楽しい。美味しいご飯を食べて「これ、美味しいね〜」と言い合えるだけでそれがちょっとした思い出になるみたいなもので、一人で大事にしまっておく記憶と同じぐらい、誰かと分け合い、交換し合った何かの記憶も、尊くて豊かなものだと思う。共有は楽しいし、自分の頭の世界を広げてくれる。

 

けれど一方で、「自分→他人」の共有は、言葉にならない場所にある曖昧な感覚や、倫理/論理的でない思考を削いでしまうことがあるし、「他人→自分」の共有は、自分の中の感覚を見えなくしてしまったり、他人の感想を自分のものと思いこんでしまったりする怖さがある。どちらにも共通しているのは、自分の思考や感覚が、自分で掴めなくなることだろうか。

そもそも作品に限ったことでもない。どこかにいる誰かの思考や感情や経験が、まるで目の前に置いてあるかのように感じられる、一度探せばいくらでも何かしらの膨大な情報が流れ込んでくるSNSの世界に何かしらの形で住んでいれば、他人の視点や思考や感情が自分のそれと無意識下で混ざり合うことなんていくらでも起きているのだろうな、と思う。プロの手によって校閲された文章からは、ある程度書き手の匂いみたいなものが薄くなる印象があるけれど、日常の中で「どこかの誰か」がポンと生成した言葉は、良くも悪くも生モノだなという感じがする。無機質なふりをしていても匂いが強い。悪意も善意も捩れも妬みも愛も興奮も好きも嫌いも全部どっかり乗っているような、無加工の言葉。仮に本人にとってそれが加工済みであったとしても、何かしらの枠組みをもとに他者に手を加えられていない表現には、その人が生々しくそのまんま乗っているような気がする。その生々しさは、フィルターを通していない分見た側に入ってきやすいのだろう。それを日常的にやっているのだから、そりゃあうっかりすると自分の思考も感情も迷子になるよな、と思う。

 

 

 

と、ここまでが舞台2020(ニーゼロニーゼロ)を観る前に何となく書き溜めていた文章。

高橋さんがたびたび口にする「共有」という言葉について、あまりによく出てくるものだから私もつい頭の中で考えてしまうことが多く、こんな文章をちまちま書いていたのだけれど、やはりニーゼロでもこの周辺の話をしているような気がした。

 

ここにニーゼロの感想を書くつもりはないので深くは触れないのだけれど、「共有」の部分に関して言えば、ニーゼロの初見時、高橋さんが「共有」に対して抱いている感覚(身体感覚に近いものを)まるごと浴びせられたような気分になった。わあこの人、理屈ではなく体感で「僕が思う"共有"の気持ち悪さってこういうことですよ」を浴びせてきたな、と思った。あぁ、この人がずっと言ってきたことって"これ"か、みたいな体感としての理解。と同時に、自分にない感覚をそのまま脳に送られるみたいな体験って、結構恐ろしいものだな、とも思った。脚本を書いたのは上田さんだし、それがそのまま高橋さんの思考というわけではもちろんないのだけど(話を聞く限り3人で作っている部分が多そうなので、混ざってはいるだろうけど)、肉体を持ってこちらに向かってくるのは高橋さんなので、こちらからすれば「高橋さん、すごいもん浴びせてきたなー」とは思ってしまう。いや、それを実際に感じさせる白井さんの演出がすごいんだろうと思う。実際浴びせてきたのは白井さんなんだろうとも。

いつだかたまたま読んだ作品の感想に「その人の思想や思考に全く共感できないのに、その圧倒的な力によって完全に納得させられてしまう。"そうだ"と思わされてしまう、"そう"なのだと思ってしまう。それがめちゃくちゃ怖かった」というようなことが書いてあって、そこまでの浸透力を持った作品や作中人物に、私は未だ会ったことがないかもしれないな、とすごく印象に残っていたのだけど、ニーゼロを観てしばらく時間が経ったあとにそれを思い出した。その方が書いていたほどのことが自分に起きたわけではないし、そこまで占拠された感覚はなかった(むしろ作品に流れる思想に対する違和感を残させてくれる余白を個人的には感じた)けれど、それに近い体感ではあったのだろうと思う。

 

ニーゼロは、あらゆるテーマを混ぜこぜにして、そこに客も入れ込んで洗濯機で容赦なくぐるぐるん回しているような作品だなと思う。なので、この作品は〇〇がテーマだ、とか語るのが特に合わない作品だなと思うんですが、やっぱり何度見ても「個と全」というワードは頭に浮かんでいた気がする。「自分とそれ以外」「全の一部としての自分」「自分以外(=世界)と対峙する存在としての自分」「個の集合体としての全」「あなた(たち)と私」「私たち」、言い方は色々あるけれど、観ている間、頭の中で色んな場所に飛ばされるんですよね。個としての私、全としての私、誰かにとっての「自分以外のすべて」の一部である私。

 

で、回を重ねるごとに、観ている間にはあまり高橋さんの「共有」の概念のことを思い出さなくなったのだけれど、流れてきた感想を少し読むたびに思うわけです、「あー、私という人間の個の境界が揺らいでいるな」と。それが悪いことかというと、上にも書いてきたように必ずしもそうとは思わないのだけれど、それでもあの瞬間、あのパルコ劇場でその瞬間だけそこに生まれる一回きりの80分間で"私"がいろんな立ち位置で受け取ってきたはずのものが、誰かの何かを読むことで変容してしまうことは確かで。そうやって取り入れることで何かまた変わることがあったとしても、それが面白い変化であったとしても、それでもその時は何かを入れたくない、と思ってしまって、結局は殆ど誰の感想も取り入れなかった。それが、個としての私を見失うことに思いの外簡単に繋がってしまうような気がした。

私はたまに、自分が考えていると思っていることは果たしてどこまで私のものなんだろうか、みたいなことを考えて気持ち悪くなったりするのだけど、ニーゼロを見た後は少しそれが過剰になってしまう感覚があった。なので、結構意図的に他の人の感想をシャットアウトしていたんですよね。まぁ、中の人が再三「自分の中で大事に」を伝えていて、しかも今回は内容が内容なので、結構やっていた方もそれなりにいたかもしれないけれど。ニーゼロ公演期間に作られていたネタバレ可感想コミュニティもたまにちらっと覗いてみては、面白いなーと思いつつも、しばらく眺めていると、なんだかその感想達がまるで、あのAIの顔の前を流れる匿名の無機質な文字に見えてしまう感覚に陥ったりして、結局あまり見られなかった。温度の通った人の声と、無機質な情報とを分けるものは、それをそうだと感じさせるものはなんなのだろうか、と考えたりもした。

 

 

…と、ここまで書いていて、自分は影響を受けやすい人間なのだなぁ、と気付く。

ニーゼロを見る前は「共有は確かにね、危ういですよね。言いたいことは重々承知しております。その敬意もめちゃくちゃありがたく頂戴します。それは本当に。でもね、とはいえね、喋りたいんですよ。そもそも共有自体が別に悪ではないでしょ?」と思っていた(要約)はずが、観終えた後はどこか「人の頭の中と自分の頭の中の境界線がなくなることって、あれ、やっぱりめちゃくちゃ気持ち悪くないか?」という感覚が強まっていた。例えば、自分の感想にいいねがつくことがたまにふと恐ろしくなる。仮に「分かる」と思った押したいいねだとして、それはどこまで「分かる」なのか。そもそもそれは本当に「分かる」なのか。「分かる」ってなんなのか。文章を介して私の思考が他人の頭に入り込んだのか。それとも元々そこにあったものと共鳴したのか。一つのいいねだったらそこから"人"を感じられるのに、それが10、20と増えていくにつれ"人"ではなく"数の塊"になっていく感覚は何なのか。その数がひとつの生き物みたいに私の言葉にくっついて謎のエネルギーを産む、私の言葉が私のものではなくなり、何か他の人のエネルギーを連れ添えた何かになっていくみたいな奇妙さは何なのか。それは恐らく前からうっすらと感じてはいた感覚で、けれど一塊の他者と対峙したGLとずっと対峙していたことで、その感覚により自覚的になってしまったのだと思う。

 

考えすぎだ、の一言で済ませてしまえばいいのかもしれないけれど、やっぱり「分かる」って結構、安易に使いすぎてはいけない感覚なんじゃないんだろうか、と思ったりする。だって、あまりに手軽に「分かる〜!」ができてしまう今の時代、私達は共感や同意のボタンの目の前に常に座らされているような(「あなたはどれが"わかる"?これ?これ?それともあれ?」と次々"わかる“のネタが流れてくる回転寿司のカウンターにいるみたいな)もので、それは、ものすごく簡単に手軽に、誰かの思考や感覚を、自分のものとしてセットしてしまえるような環境なんだと思う。まるで、自分の思考を既にあるメニューの中から選ぶみたいな。あれ、思考って選ぶものだったっけ? まぁ自分で作り出したはずの思考もどこかの誰かが既に考えたことだったりもして、GLの言うようにそれはそれでデジャヴみたいなところもあるのだけど。

そして同時に、常に誰かの"わかる"のネタが流れてくる椅子に座りながら、反対に自分の出した言葉が常に「分かる」「分からない」のカウンターに並べられるに状態にも置かれている。同意と共感のボタンがセットされたカウンターに座って「分かる」寿司と「分からない」寿司を見ながら、自分の無印寿司を流していく。それに「分かる」の札がつけられたりつけられなかったりして流れていく。なんか、そのスピード感のある「分かる」「分かる」の手軽さはやっぱりどこか気持ち悪いよな、ということをあらためて感じた。

※もちろん「いいね」=「わかる」ではないし、私もあらゆる意味合いであのハートマークを押す(同意、共感、ブックマークがわり、「へぇ〜」という興味、違う思考回路に対する「なるほどな」という認知と理解、かわいいな〜(好き)、お祝い、労い(「お疲れ様です」とか「心中お察しします」とか「私には想像もつかないけどとにかくごゆっくり休めますように」とか)...etc.)。だから「いいね」はただ何かしらの反応を意味するのだとは思うのだけれど、プラスかマイナスかでいえば、大体はそのツイートに対してプラスの意を込めて押しているだろうとは思う。

 

だんだん書きながら「この人の話は一体いつ終わるんだろう………」と自分で思ってきたのでそろそろ本題に戻る。多分たまたまこの文章をここまで読んでいる人もそろそろ「この人一体何の話をしていたんだっけ……?」と思っている頃かもしれない。私も思っている。とはいえ、そもそも思考の連なりをそのまま書いているだけなので起承転結もオチもないのだけれど。書きたいことを書き終わったら終わる。ので、さっさと次に行こう。

 

 

一番は

さて、もう一度作品の感想に限定した話に戻ってみる。作品の(とくに舞台作品)を観るときに、一番私が大事にしたいのはなんだろうか、と考えたら、それはやはり、作品の理解より、作品の背景の理解より、その作品が社会にとってどんな意味を持つのかより、登場人物の心情の理解より、彼らの発した台詞の理解より、まずは「私自身がその作品と出逢ったその一回きりで、何を思ったか?私の中で何が起きたか?」なのだと思う。

何故か、と理由を書こうと思えば後付けで色々書けるだろうけれど、理由なんてなくて何かが外部から入ってきて、それによって自分の中で渦巻いて動き回るその感覚自体が好き!というのが一番かもしれない。対象を理解したいという思いもあるけれど、自分の中で起こる化学反応の方にも同じぐらい興味がある。それを見た自分は何を考えるのか、何に心が動くのか?

観劇に関して言えば、舞台オタクというほど演劇に詳しいわけでもないし、ミュオタというほど詳しいわけでも(略)、ミュージカルのみをたくさん観たい聴きたい欲があるわけでもないし、全体的にあらゆる背景への理解がまだまだ基本浅い私は、多分やっぱり"浴びに行っている"感覚が未だ強いのだろうと思う。なーんかきっとこの作品の背景には色んなことがあって、関連する作品や時代の中での位置付けなんかがあったりして、すごい作品だったりするんだろうか、うーんなーーんかとにかく色々あるんだろうけどとりあえず浴びよ!行ってきます!みたいな気持ちで毎度観ている。作品によっては多少の予習はするけれど、基本的には予習怠惰人間ゆえに真っ新な状態で観ることが多いので、その作品を理解できているのかというと大体できてないんだろうなと思う。後々「今日は予習して行けばよかったな〜」と思うこともある。ただ正直、舞台に限らず、理解しに行くため作品を見るわけでもないし、考察するために見るわけでもないし、何かを知るために見るわけでもないよなとも思う。別にその都度作品からより多くを受け取りたいわけでもない。ただ作品を見ることそのものを楽しみに観に行っているし、それによって自分の中に何かしらの感情や思考が発生すること自体が好きなのだ。その量も質も、正直それが合ってるのか間違ってるのかも、よく考えたら割とどうでもいい気がする。理解できる部分が増えたら面白さも増えるだろうし、感じ取れるものが多ければより豊かな体験にはなるかもしれないけど、休みの日にそんな高尚すぎる予定を入れると疲れてしまうので、結局はなんか、この身一つで劇場に行って席に座って、もらって帰れるものだけもらって帰ればいっか、みたいなところに落ち着く。より知ろうとか、より受け取ろう、より考えようとかするとなんか私は頭でっかちになってしまう気もするし、休日に自分を窮屈にする義務はあまり持ち込みたくない。

とはいえ最近は観劇をし始めた頃と比べると、受け取れる情報量が大分増えたなとは思うけれど、よく考えたら別にその頃も今も、別に楽しみ方は変わっていないんだなと気付く。楽しみの種類と数が変わるだけ。いや、処理できる量は限られているので数もあまり変わっていないかもしれない。

 

自分の世界ではない物語の世界の中で何かを見ること、それにより何かしらそれまで自分の中になかったもの生まれること、自分の中にあると気付いてなかったものに気づくこと、それ自体が楽しい。一般的にはこの感覚は「楽しい」というよりは「面白い(interesting)」なのだろうけれど、でも、なんかやっぱり何だかんだ「楽しい」んだと思う。この世界にありながら、この世界にはない物語の世界の中で生きる人たちに出会って、考えて、想像して、そしてまた後から思い出したりして、とかそういうことがきっと好きなのだ。

だからこそ、その営みのひとつとして、文章にそれを残したくなる。何を考えたのか、何に心が動いたのか、誰に惹かれたのか、逆に、誰が嫌だったのか、どこに違和感が残ったのか、どこで憤りを感じたのか。物語の中だったら好き勝手に好きになれるし、嫌いになれるし、その中の正しさも美しさも、誰に遠慮することもなく考えられる。その自由の中で、制限なく思考と感覚をポップコーンみたいにパチパチ生み出せるのが心地良い。だから、そこでこそ生まれた思考や感情を、残ったものを、形にしたくなるのだろう。それは自分との会話であり、作品との会話でもあるのだと思う。私にとっては欠かせないものなんだろう。息を吸ったら吐きたくなるように、何かを見たら話したくなる。言語化が全てではないと思いながらも、結局は大体言葉にしたくなってしまう。多分性分なんだと思う。

 

 

「表現」としての共有

文章は自己表現のツールでもあるけれど、表現するものは「自己」だけにとどまらない。見たもの、感じたもの、聴こえたもの、あったもの、この世界に存在する何かを、存在した何かを、もう一度自分の言葉としてこの世界に表す行為(私はそれをまとめて「自己表現」と呼ぶことには違和感がある)。世界を一旦自分の中に入れて、自分を媒体として外に出す行為のひとつとして、文章はあると思う。それは人によっては絵を描くことであったり、歌うことであったり、踊ることであったり、何かを作ることであったりするんだろう。私の場合はそれが文章で、世界に対して何かを言葉で表し、現すことで満たされるものがある。

 

高橋さんは「共有」を好まないし推奨しない。それに一部同意はできるし、彼はそうだろうなと思う一方で、どうにも自分の中で腑に落ちない部分があるのは、そもそも根本的に、役者という仕事をしている高橋さんと、一般企業で週5日働く(私のような)人間とでは、生き方の下地みたいな感覚にかなりの違いがあるのが大きいような気がする。役者という職業に就いている高橋さんにとって、「表現」は毎日当たり前のようにそこにあるものだ。それこそ芝居を「呼吸のようなもの」というほどに、それをあって当たり前のもの、なくてはならないものと感じている高橋さんは、私たちから見れば恐らく過剰なほどに、きっと毎日「表現」をしている。声で、表情で、身体の動きで、毎日毎日毎日息を吸って吐くように表現をしている。それは誰かの感情や、思考や、過去や、記憶や、生そのものであったりするのだろう。

一方、表現を生業にしていない、私を含む多くの人は、基本的に「表現」を求められない。日常生活で必要とされるコミュニケーションは、そこに感情や思考が伴うものであってもあくまで他者との意思伝達のための手段であり、表現ではないと私は思う。だからひょっとすると私たちは、日常的に「表現」に飢えているんじゃないだろうかとたまに思ったりする。その人がそれを自覚的に求めていない場合それを「飢え」と表現して良いのか分からない。ただ、現代社会で生きている大体の人は、多すぎるインプットに対して、アウトプットが足りていないんじゃないか、みたいなことを時々考える。世界から受け取る情報はあまりに多いのに、生み出したり作ったり世界に何かを与える機会や時間は、自主的に求めない限りは私たちにはあまりない。日々いろいろな情報が頭に入り、誰かの色んな声が頭の中で周り、体内にぐるぐるぐるぐると世界から入り込んだ何かが静かに渦巻いている。無意識のうちに一方的に何かを取り込み、それを出すことのないまま、ただ毎日みんな自分のやることをやっている。けれど、何かを「やる」ことは必ずしも「出す」ことではないし、けれど出されずとも入るものは新たにどんどん入ってきて、入ったものは出て行くことなく蓄積されていく。そんな不健康さを、なんとなく自分にも、身近な周りの人にも、SNSでやたら攻撃的に毒を散らす人たちにも感じることがある。みんな何かを世界に出すこと、表すことが、どこか不足しているんじゃないか、みたいなことを、単なる体感の話だけど思ったりする。聞いて欲しい、見て欲しい、わかって欲しい、と何かを発信する心理は、SNS上のそれだと自己顕示欲やら承認欲求やらと捉えられがちだけど(もちろんそれもあるだろうけど)、シンプルに何かを世界に表したい、放出したい、ということでもあったりするんじゃないか。それが、高橋さんの言うところの「共有」に繋がっていたりするんじゃないだろうか。役者さんの表現は、それこそ「自己表現」ではなく、自分の身体を通して他者の生を表現することだろうから、自分自身の表現ではないだろうけど、それでも生身の肉体を通している以上、かなり自分に近い場所での表現ではあるのだろう。「私たちから見れば恐らく過剰なほどに」と書いたように、私たちからすれば、彼らの表現の量は、その放出するエネルギー量は、想像もつかないぐらいに大きいのだろうな、と思う。常人であれば1日で枯渇してしまうぐらいのエネルギーを、彼らはずっと放ち続けることができる、できるように求められる。特に生で、目の前で歌を歌う人や芝居をする人を見ると、その空間をその人で満たせるだけの途轍もないエネルギーを感じて、とんでもないな、と毎度新鮮に驚いてしまう。

何が言いたいかと言うと、そんな、過剰なぐらいの表現を日常的にこなしてしまう役者という生き方をする高橋さんと、むしろ表現の場に日常的にどこか飢えている私とでは、そもそも「共有」やら「表現」やらの話をする時に、前提にある感覚がまるで違うよな、と思ったのである。日常的に何かを世界に表して、空間を震わせ、作品を作っている人は、そりゃあ多分、日常で「共有」などしなくても、常々「共有」(広義)しているようなものなのだから、事足りるのかもしれない、と。他人の書いた他人の言葉を、他人の感情に乗せて喋っているので、自分の中身を共有しているかというと違うけれど、それでも自分の身体を通して思考や感情を発することは確かだし、そもそも、芝居自体が「共有」の要素があるものだしな、というか。だからそりゃ、「足りてる」よな、という。(ちなみに劇場空間での時間と空間の「共有」は高橋さんは良いもの(言葉)として扱うので、同じ言葉にたくさんの意味を込めることほどややこしいことはないですね、とこの文章を書いていても思います。本当ややこしい。)

だけど、私みたいな人間は、何かを通して自分の中に生じた何かを、外に表すことが日常のなかには組み込まれていないので、一概に「共有はおすすめしませんよ、あなたの中で大事にしてくださいね(ニッコリ」と言われてしまうと(別に言われているわけではないが)、ちょっとこう、口を塞がれたような気分になるのもそりゃそうだよなぁと。あんまり主語を大きくしてもあれなのでもう私に限定しますが、世界から入れたものを、何らかの形で出したくなるんですよ、私は。作品を見たら喋りたくもなるし、推しを見たらその記憶を残したくもなるし、私の見たもの聞いたもの感じたものを冷凍保存できるわけじゃないから、その形を少し変えてしまうとしても残したいし、それを外の世界に出したくもなる。だって、大袈裟かもしれないけど、表現って、その時自分がそこにいて、そこで見て、聴いて、そこで息をした、その時そこに生きていた証みたいなものだから。別に自分が生きた証を残したいだなんて壮大なことを考えているわけではなくても、それでもあの日あの時あの場所に自分はいたんだなとか、こんなことを感じてこんなことを考えていたんだなとか、あの空間で息をしていたんだなとか、外に残そうとせずとも自分の中には何らかの形で残るのかもしれないけど、それでも外に出すことで初めて生まれるものもあるから。私はやっぱり、誰かに、世界に「共有」することがやめられないし、好きなんだろうな、と思う。

 

 

拝啓 高橋さん

こんなに長々と書くつもりもなかったのに、気付いたらとんでもない長さになっていた。書き始めた頃から一年弱経っているので、もはやリレーみたいな気分で書き繋げている。もうすぐ高橋さんの誕生日なので、ちょうどいいし誕生日までにまとめよう、と今は書いています。

拝啓、高橋さん。高橋さんがやたらと「共有」という言葉を使うからって、言葉一つでこんな長々の長文で反論みたいなことしなくてもいいじゃないか、そもそも高橋さんが言った「共有」の意味を拡大しすぎてないか、みたいな反省は3ミリぐらいはあります。すみません。まぁ最後は私はなんだかんだで共有が好きなんですと終わっているけれど、これは別に反論ではなく、「共有」という概念を投げられたので、それをお題に色々とその周りのことを考えました、の話なのでよしとしましょう。私は基本的に討論が苦手なので、これは対話のつもりで書いた文章です。「共有」について、あなたはそう思うのですね、私はこう思うんですが、どうなんでしょうね。あなたの視点はどのようなものでしょう。私の視点はどのようなものでしょう。比べて、擦り合わせて、想像して、色々考えたら面白いかもしれませんね。ふふふ。の文章です。

 

いつだって自分の頭の中も、心の中も、分かっているようで分からないし、探ろうとしていつも潜っていけるほど細やかには生きられないし、それでも言葉にできるときもあるし、できないときも、したくないときもある。けれど、想いを言葉にするという行為は多分、自分の中のその"なにか"を掴もうとする、掴みたいと思う気持ちの表れでもあって、その過程で時にオリジナルのそれからは形が変わってしまったり、歪んでしまったりすることもあるかもしれないけれど、それでも、言葉にすることで自分の中にあったふわふわの"なにか"の輪郭が、少しはっきりする瞬間も沢山ある。だから私は、言葉の力を借りて、自分の中を潜って探して掬い取って、少しでも"なにか"の形を知ろうとしてしまうのだと思う。

自分のですらそうなのだから、他人の考えていることなんてもっと分からない。だから、聞いてみるしかないし、話してみるしかないし、それを元にその視点を想像してみるしかない。時々その分かり得なさに絶望するし、「分かりあう」だとか「分かちあう」だとか、そんなものは幻なんじゃないかと思うし、それでも聴くことに、読むことに、想像することにどこか希望を見ようとしてしまう。誰かのフィルターを通してみた世界を、誰かにとってちょうどいい道具(私にとっては言葉)を通じて、知ることができる。「共有」の純粋な形って、綺麗な部分って、そんなものなんじゃないだろうか、と思う。私は誰かの「共有」をありがたく思うし、私が「共有」できることもまたありがたく思う。綺麗事の綺麗な部分で、そう思う。(綺麗事 - とるにたらない話)

 

 

 

さて、いい加減にそろそろ終わります。高橋さんが「共有」を連呼するので、何となく書きたくなったその周辺のことを考えていたら、私の中の言語化近辺のもろもろと、自分の頭の中を世界に他人に放り投げることのもろもろと、他人が外に置いた頭の中を覗くことのもろもろを、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ謎にやたらと長い文章ができてしまった。しかも同じようなことを繰り返し繰り返し、じっくりコトコト飽きずに煮込んでいる。まあ浮かんだままに喋りたいように喋っているのでしょうがない。ただ、考えられてよかったな、と思う。普段ほわほわとさせている部分が、言葉にしたことで固まって形になって、「あ、私こんなこと考えてたんだ」と知れた部分が沢山あった。また上に書いたことの繰り返しになってしまう。でも、書いてて面白かった。思考の種をくれてありがとうございます。

高橋さんは、私に思考の種を投げてくることが多いなと思う(勝手に私が考えるだけなんだけど)。特に最近は、私にとって高橋さんという存在が、思考中心の推しになってきているなということはよく思う。研究対象に近い位置に来ている。この人は最近何を考えているのだろうな、この人の出る作品で私は何を考えるのだろう、この人は次どんなお芝居をするのだろうな、そしてどんな"人"になるのだろうな、そしてその中のどんな要素が中の人に足されていくのだろうな、と。ここ1年ぐらいは正直、高橋さんに「好き!!!」という感情はあまり湧かないのだけれど(今の話なので先のことは分からない)、それでも高橋さんが何か作品の中に存在するとき、それが間違いなく世界のどこかに存在する、その世界で息をして生きてきた、そして今生きている、"役"というよりは"人"だと信じさせてくれる、騙してくれる、錯覚させてくれる、その"人"として見させてくれる、その思考も感情もその元となる経験も記憶も全て身体に埋まっているような、その存在の仕方が好きだ。その瞬間そこに立ち上がるその"人"の人生に、それに何度も心動かされてきた。そして今も、それを楽しみにしている(ただその存在や作品を好きだと思えるのかはもちろん作品次第ではあるけど)。先のことなんて分からないけど、多分この先もしばらくは彼のことを観察し続けるんだろうし、興味は持ち続けるんだろうし、"今"の旬のお芝居を見たいと思うんだろうし、「この人なんかやっぱすげーーなーーー」と懲りずにそのすごさの中身も大して分からず何度も思うんだろう。そして、なんだかんだで私の現在地の大元はほとんど高橋さんなので、結局は実家みたいなもので、声を聞けば安心するし、元気そうにしていることがわかると「よかったな」と思う。だからどうか元気に、健やかに、できればお芝居の仕事を続けながら、この先も姿を見せてもらえる場所にいてくれると良いな、と願う。山小屋の主はどうか来世にしてもらえると助かります。

 

ちなみにいつものことながら、高橋さんはこちらを見ていないと思っているので、その前提でこういう文章を書くことができています。なので、拝啓の先にあるのはご本人ではなく、私の作り出した宛先の高橋さんという幻です。どうぞこれからも今まで通り、こちらは見ないでくださるとありがたいです。どうかこれからも覗き返さない深淵でいてください。でもお芝居は見せてください。

それでは、どうぞこれからも高橋さんが健やかに、お芝居ができることを祈っております。高橋さんがこれからも、お芝居をしていて幸せだと感じられる瞬間を味わえる作品に出会えることを祈っております。お誕生日おめでとうございます。42歳の1年間、幸せな時間が多く訪れますように。私も42歳の高橋さんのお芝居を楽しく見られますように。願わくば高橋さんを通じて私も素敵な作品に巡り会えますように。

 

お誕生日おめでとうございます!

 

「好き」はドンタコスだけのものではない

 

巷は推し活ブームやらオタクブームが…みたいな話をよく聞く今日この頃、濃度の高い「好き」を求められる世の中はしんどいよね、の意見もよくTwitterで見かける。「私も推しが欲しいよ〜」と話す友人の話を聞いて、特定の「好き」の対象がない人にとってはそれが結構な圧に感じられたりするんだろうな、と思ったりする。確かに「好き」の強要は気持ち悪いし、窮屈だし、さぞかし鬱陶しいだろう。過度に推奨されれば、それがないことに欠落感を覚える人もいるのかもしれない。ただ、当の私は割と強めの「好き」の対象が今はあるので、そちらの話はさしあたってしたいとは思わない。私がしなくても今は多分、世間の話したい誰かが沢山話してるだろう。

 

ただ、なんか、「好き」を意味する、もしくはその周辺の日本語があまりにも少なくないか、みたいなことは最近よく思う。例えば私が、高橋一生を好きだとか、浦井健治を好きだとか、加藤和樹を好きだとか(敬称略)、そんな「好き」の話をしてたら、仮に赤の他人でも(私のツイートを遡りさえすれば)「あぁ、そうなんでしょうねぇ」となると思う。毎日ではなくとも、日常の中に埋め込まれている割と強めの好きは、「好き」と言いやすいし、理解も得やすい。

ただ、なんかもっとライトな好きって無数にあるじゃないか、と思う。「好き」という言葉が、そのジャンルのオタク(詳しい人)の専売特許になっているみたいなところはやっぱりあって、例えば「紅茶が好きです」と言ったら、「へ〜何の茶葉が好きなんですか?どこのお店の紅茶が好きなんですか?好みの淹れ方とかあります?」みたいなレベルの「好き」が、一般に「好き」という概念として認知されてるというか。そこまででもないのなら「あ、でも好きと言っても毎朝リプトンのティーバッグで適当にミルクティー飲むぐらいの好きなんですけどね、アハハ」とか付け足したほうが(付け足さなくちゃいけないとまでは言わないけど)会話がスムーズに進むというか、煩わしさが減る感じというか。軽い感じの好きをちょっと、あらかじめ下げとくみたいな前置きが必要なのが、面倒だなと思ったりする。

それこそ最近だと(前から繰り返しあるのかもしれないけど)、「お金をかけてこそオタクの鑑とか、長年時間と金をかけてきた古株が偉いとか、そんなことはないよ、好きの表し方も時間も程度も、人それぞれで良いんだよ〜」という類のツイートもよく見かけて、オタクの中では「好きを争うとかダルい」「好きでマウント取るのダサい」「各々好き勝手に推しジャンルや推し人を好きでいたらいいでしょう」みたいな風潮も(昨今の流れがあるからこそなのか)あるよな、とも思う。ただ、それもある程度の強さの「好き」を持った何らかの集団の中の話であって、もっとライトな「好き」の話は、そこまで出てこないよな、と思う。でももっとライトな好きの話って沢山ないか?

 

多分私は今2つの話をしたくて、一つは「ライトな好きって言いにくいよな」の話で、もう一つは「ライトな好きに当てはまる言葉があんまりなくないか?」という話。

「ライトな好きって言いにくい」は、一つは今のオタク!推し!文化により、「好きは深ければ深いほど素晴らしい」みたいな「一見さんお断り」「にわかは語るな」的な空気感が少し一般化している(実際その空気が強いかはジャンルによりけりとして)のだろうな、という話。推しジャンルに関しての「好きの程度も表し方も人それぞれ」「人の好きを勝手に推し量るものではない」の話ではなく、よりライトな「好き」の方の話。軽く好きなものを「〇〇、好きなんですよね〜」って気軽に言いづらい根底には「深い=良い」「浅い=良くない」のイメージがあるんだろうか、と思う。そもそも軽いとか浅いとかって、日本語自体に悪い意味合いがあるし、"浅い"こと、"軽い"こと、自体があまり良しとされていないから、軽い好きも浅い好きも、何となくよろしくない感じがするんだろうか。でも、例えば0地点が「可もなく不可もなく、特に何も思わないし何も感じない、世界に存在してるんだな、へぇ、ふーん」みたいな感覚だとして、プラスの100地点がいわゆるオタクの「好き!!!!」の場所だとする(逆にマイナスに針が振れれば「好ましくない」とか「好きじゃない」とか「嫌い」とか)。で、今一般的に使われてる「好き」って割と100地点とか、80-100に使われることが多い気がするのだけど、それでも10地点の好きも30地点の好きも、立派な+に針が振れてる感覚だと思うんですよね。「とても好き!」と針がびゅーーーん!と振り切れるような好きでなくとも、「割と好きだな」とか「好ましいな」とかいう「好き」っていくらでもあると思うんですよ。でも、何となくそれを「好き」というと語弊が生じそうな場面が、そこそこにある。だから、それを「好き」と言うには前置きをおいたり、後付けを足したりしなくてはならないような気がしてしまう。で、私はそれが面倒なんだと思う。これは私個人が「この程度の「好き」だと好きって言いづらいな……🥺」とモジモジしてる話ではなく(いや何となく、これに対する求めてないリプがもしつくとしたら「そんなことは気にせず、あなたの好きを喋って良いと思いますよ😊」「私は別に軽い好きだろうと好きなように話すけどな〜w」とかだなと思って……そういうことではなく……)、こう、システムが面倒なんだと思う。面倒というか、足りてない。不便。

 

で、そこから思うのが、例えば1〜30ぐらいの「好き」の感覚に対する日本語ってあんまりなくないか?という二つ目の話。もちろん、「好き」という日本語は1〜100のあらゆる「好き」をカバーしてるていにはなっているんだけど、実際そう機能しているのかというと微妙なところではある。英語のloveとlikeが、和訳だと「愛してる」と「好き」になっているのをよく見かけるけど、多分何となく好きな度合い、スケールの違いなのかなと思ったりする。likeよりloveの方が強くて深くてでかい愛のイメージ(英語詳しくないので間違ってたらごめんなさい)。でも、そういう分類があってもloveがlikeより偉いとかの話でもないように、そういう、「"好き"なんだけど程度と種類とサイズ感とかいろいろ違うよね」みたいな、そういう区分けを良い感じにしてくれる言葉はないのか。1〜39ぐらいの好きと、40〜70ぐらいの好きと、71〜89ぐらいの好きと、90〜100ぐらいの好きと、全部単語があってくれてもいいぐらいじゃないか。あると便利だなと思う。そこに気持ちの価値の差はなくて、ただ程度は違うよね、という認識だけがある言葉。そういうフラットで排他的じゃない、ラフな「好き」の分類が欲しい。

例えば1つ目の範囲がプリッツ、2つ目の範囲がカール、3つ目の範囲がピザポテト、4つ目の範囲がドンタコスとかいう名前がついてたとして(ついてたとしてください)、「私さ、最近、星野源のことカールなんだよね〜」「あ、そうなんだ!実は私はピザポテト〜!」「え、好きな曲教えてよ〜」とかいう会話がしたい。意思疎通が楽になる。その時、プリッツはピザポテトより劣っていないし、ドンタコスが偉いわけでもなく、ただ「種類」「程度」を表した概念である、という共通認識がそこにあれば、なんかもう少し「好き」に関する話が楽にできるようになるよな、と思う。ランクアップもランクダウンもない。そもそもランクじゃないのだ。プリッツプリッツで美味しい。カールはカールで美味しい。それだけである。それが当たり前の前提になっている、そういう世界線に私は住みたい。「あんたの好きはドンタコスじゃなくてカールだよ」とか、誰かの「好き」を高く見積もることも低く見積もることもなく、「私はドンタコスだからプリッツみたいな生半可な気持ちで推してない」とか「好き」でマウントを取ることもなく、それぞれのプリッツもカールもピザポテトもドンタコスも、みんなそれぞれに尊重される、楽で、ほどよく干渉のない「好き」がある世界、住みやすそうだな、と思う。

別にだからと言って、誰かの「好き」の形を好きにならなくちゃならないわけでもないし、仲良くなる必要もないし、ただ、各々の「好き」をもっと気楽に適当に話せたら良い。実際、私がTwitterで見ていて楽しいなと思うアカウントは、「好き」の対象が一致している人というよりは、「好き」の在り方が素敵だなとか、見ていて楽しいなとか、そう思える人が多い。私は割と好みがあるけど、好きな(他人の)「好き」の種類も、結構人それぞれだと思う。自分と「好き」の程度(プリッツ/カール/ピザポテト/ドンタコス)や種類(どんな部分を好きなのか?例えば対象が役者なら顔なのか声なのか芝居なのか歌なのか)が一致している人が好きだ、という人もいるだろう。顔ファン顔ファンとして別に一つの在り方だよな、と思う一方、顔ファンを好まないという人がいるのも分かるな、とかはこの辺の話になるだろう。一致していなくても良いけど、好みの「好き」はある、という人もいるだろうし、別に他人の「好き」感情はどうでもいいという人もいるだろう。誰かの「好き」が自分の好みかそうじゃないか、みたいな部分は、本人に「あなたの「好き」の種類、私は好きじゃありません!」とか言わない限りは、それぞれの「好き」の在り方が自由であるのと同様に、自由であると思う。

 

話が少し逸れたけど、何にしても、もっといろんな程度や種類の「好き」を話しやすい土壌があると良いな、と思う。もちろんドンタコスの話はそりゃあ、していて楽しいし、話は尽きないけれど、気軽にプリッツやカールやピザポテトの話もしたいのだ。そして、ドンタコスやピザポテトがない人も、プリッツやカールの話を適当に話せたら良いな、と思う。冒頭に書いたような強い「好き」の対象を持てない人も、今の社会がドンタコスやピザポテト信仰の社会に傾いているだけなので、プリッツやカールも良いよね〜!の社会になれば、別に「推し」に対して大した必要性も感じなくなるだろう。大体の人は「なんかこれちょっと好きだな〜」ぐらいのものはあるだろうし、まぁ、なかったらなかったで別にいいよね、の流れが来るといい。「好き」なんて、そんなもんで良いと思う。誰かにとっては大切で、誰かにとってはどうでもよくて、「好き」という感情自体も、そのぐらいのものでいいと思う。

あと、「好き」のメモリが詳しさや細かさや深さで測られないといいな、とも思う。「別になんかぜんっぜん詳しく知らないし何が良いのかも分からないんだけど、心の奥にぐっさり刺さってあの曲が抜けないんだ」とか、「何が何だか分からないんだけど、あの人から目が離せないんだ今」とか、そういう訳の分からない、他人に伝達不可能の、どでかいドンタコスも愛されるとよいな、と思う。

 

人の数だけ、その対象の数だけ、「好き」の気持ちはあるだろうし、その好きの中身を語る言葉は人それぞれ編み出せるかもしれないし、「好き」を使わずにその気持ちを表したものもまた美しい。「好き」を使わずとも、それが溢れ出てるので言われずともわかる、みたいな人を見ているのも楽しい。だから、別にその気持ちを直接的に表す単語が全てではないけれど、基礎単語としての「好き」の区分けはもっとあってくれたら、「好き」もより豊かになるかもしれない。もう少し適当に、緩やかに、「好き」が好き勝手に楽しく語られる世界になると良い。

 

 

 

 

 

あとがき

でもこれ、直接対面してる人に使うとだいぶグロテスクなことも起きそうなので、あくまでもなんかモノとか趣味とか芸能人の方とか、そういうそれなりに距離のある人のみに使わないと危ないんだな、と今、その世界線に頭を運んでみて気付きました。まぁいつどこに使うにしても、言葉は気をつけて使わないと恐ろしいものですが。ただ、新たな言葉を生むことは概念を生むことで、それは人間の思考や感情を生むことにも繋がるんだな、と少しパンドラの箱を開けかけたような気持ちになりました。名前をつけることは、定義づけることで、それを存在させることなのだな。良いことをもたらそうと思ったのに意図せざる結果を生んでしまったかつてのどこかの偉人たちのことを少し思いました。

あと、実際この世界線に飛んだらTwitterのbioとかに「田中太郎さん🫶ドンタコス💓 ※カール以下の方はお断りです🥺 山下花子ちゃん🌸プリッツ 」みたいなこと書いてあったりしそうで、それはそれでホラーだなと思いました。あと「好きなんだ〜」って言ったら「え、プリッツ?それともカール?」とかどこからか選ばなくちゃいけない圧とかも生まれそうだ。ifの世界線って大体細かく考えてみるとすごい怖くなる。何事もむずかしいね!

 

一応最後に商品名適当にガンガン使いまくってすみませんの謝罪をいれておきます。すみません。当方は美味しいしょっぱいお菓子が好きです。プリッツもカールもピザポテトもドンタコスも好きです。お菓子くんたち、ご協力ありがとうございました!!!

まぁカール、もう買えないんですけどね(西日本だとまだあるのかな?)……好きだったな………

 

nostalgia

Kazuki Kato concert Tour 2022 ~nostalgia~

渋谷1日目の15時のnostalgiaに行ってきたゆる日記です(レポではないです)。

 

10月29日(土)、晴れ、渋谷。歌手の加藤和樹さんの現場に行くのはかれこれ3回目。早いな?まだまだ新入生は入学して数ヶ月、1学期の半ばぐらいの気持ちでいるのにもう10月。訳もわからずおじゃました野音からは気付けば半年経っているし、FCに入ってからはもう8ヶ月も経つのですか。早……………?

…などと時の流れの速さを感じつつ、秋感満載のnostalgiaに行ってまいりました。

 

先日深夜に気分で好きな季節アンケートを取ったりなんかしたんですが、私は四季の中で秋が一番好きで、まあ理由は色々あるのだけれど、nostalgia、秋の空気に浸らせてくれる音楽と空間で私にはとても居心地が良かったです。秋、無理のない感じがすごく好きなんですよね。過去を振り返ることも、少し現在地で止まってみることも、暗さの中を辿ることも、やんわり許容してくれる懐の広さが好きで、今ここではないどこかや、今ここにはない何かに想いを馳せることに、寄り添うまで近くはないけれど、それをただ「いいよ」と見てくれているような。変に気負ったり急いだりテンションを高めたりすることもなく、そのままそこに居ることを許容してくれる季節だなあと思います。自分の中の温度感と街の温度感が一致している感じが好き。

とまぁ私の秋語りは置いておいて、nostalgia、そんな私の好きな秋の空気が詰まっていて、聴いていてとても素になってしまった。逆に素になりすぎて、和樹さんのことを好きな自我がどっかに行ってしまって、和樹さんのことを好きな自我の保護者みたいな気持ちでしばらく席に座っていたりしたんですけど(何の話?)、最初はふーん顔で見てた保護者の私も「あら、あなた素敵な人が好きなのね」と納得して他人事顔で帰ったみたいなので良かったです(何の話?)。

 

それでは前置きはこのぐらいにして、nostalgiaの個人日記をゆるゆると書いていきます。なぜゆるゆるとと書くかというと、ゆるゆる書いていいんだと自分に思わせておかないと、最近1万字超え記事ばかり書きすぎたせいか自分で謎にブログのハードルを上げすぎていて、書き終わらないこと多々になっているからなんですけど、まぁそんなわけでゆるゆると好きだった話を適当に書きます。どんだけ予防線張るんだ。適当に生きような………

 

 

秋のアルバムをありがとうございます…

これは最初にお礼。そう、これは個人的な印象なんですけど、春や夏や冬の歌に比べて、秋の歌ってあるはあるけど何となく少ない気がするんですよね。桜開く春、出会いと別れの春、新たな道が開ける春、きらめく海が眩しい夏、青い空の夏、楽しい祭りな夜の夏、降り積もる雪の冬、温かい家が待つ冬、恋人たちのクリスマスの冬……春も夏も冬も定型文すらありそうなほど巷には沢山の曲が出回っているのに、秋の曲って少なくないか?そんなことない?いやあるじゃん?というこれは秋好き人間からの苦情なんですけど、そんなわけでNostalgia BOXは全て秋の音楽ということでいただきました。秋になったら聴きたくなる曲を増やしてもらえて嬉しい。それを生で聴ける機会をいただけて、私の中で秋の音楽と、それと結びつく幸せな記憶を貰えました。ありがとう。

 

ノスタルジア

今回のnostalgia、郷愁、懐古…その言葉の意味通り「今ここにはないもの」を想う歌が沢山あって、冒頭に書いたように私は秋のそういう時間を許容してくれる懐の大きさというか、秋自体が持つ哀しさや淋しさ、暗さにどこか安心する人間なので、すごく秋らしい選曲だなあ、と思った。

年齢的なものもあるかもしれないけれど、私は未だ人生で大事な人やものを失くしたような経験はあまりないので、喪失の歌はあくまでその心情を想像することしかできない。ただ、カバー曲を歌われている時にもよく思うけれど、和樹さんは自分の一部になっていたものを失った人の歌がすごく似合うというか、もうそこにはないものを目に映す姿が似合うし、その目の先にある景色が見えるような気がするんですよね。そこにあったもの、在った人、変わってしまった景色、いなくなってしまった人、失ってしまったもの、かつてあった過去、なくなってしまった現在、あったかもしれない未来。全ての場所と、全ての時間が在って、同時になくて、それを見せられるだけの層が和樹さんにはあるのだなぁ、と。その厚みが和樹さんにあるからこそ、こちらにもその視界が見えるのだろう。「分かる」とは思えないけれど、見えるような気がするし、何故か知っている、とも思う。その先に見ている対象は違うけれど、今ここにはない、もう見えない、もう戻れないどこかや何か誰かは、自分の中にもあるからかもしれない。過去あったものも、今あり得たかもしれないものも、未来ですらもう叶うことのないものも、全部今ここにはないもので、それに想いを馳せながら「もしも」を考えてしまうこともある。ifで思い浮かべてしまう過去も現在も未来も、考えたところで何をもたらしてくれるわけでもないけれど、それでもその時間を持つことは必要だったりするし、「もしも」の歌詞にあるように、時に希望になったりもする。

過去自分が辿ってきた場所を懐かしむことも、過去出逢った人たちと過ごした時間を思い返すことも、今や先を見る時間と同じぐらいに大切なんだろうな、と。好きだったもの、好きだった人、好きだった景色、好きだった時間。そこに留まり続けることはできないけれど、確かにそこに在ったものを確かめることは、自分自身を確かめることでもある。それは自分の足場をきちんと見て、きちんと踏むことであり、そこがあるからこそ今に立っていられるし、先を見ようと思えるのかもしれない。

だから、そういう一人の時間をもたらしてくれるような秋が、私はやっぱり好きなんだなぁとまた思ったりする。結局秋へのラブレターに落ち着いてしまった。秋にクソデカ感情を抱く人みたいになってきてる。でも秋は好きです。秋への好きを再確認させてくれてありがとう。

 

 

 

バンジージャンプことエールキャッチ会

この話をせずには閉じられない。この話を残さずには終われない。

これはいよいよ席で待ちのタイムだった時の死にそうなツイートなんですけど、本当に心の底からバンジージャンプのほうがいけると思ってた。さっきまでステージの上で見ていた輝かしい人が扉のすぐ向こうで待ってるって何?開けたら和樹さんがいるドアとバンジーのドアの列に分かれてたら、絶対バンジーの方がいけると思った。実際バンジーしたことないのでバンジーに舐めてんじゃねぇよって怒られそう。ごめんバンジー。でも全然バンジーの方がいけると確信していた。

接触イベント自体はお渡し会で一旦済ませてそちらで一旦召されてきてはいたんですけど、今回は何せ「エールキャッチ会」と名のつく通り(初めて聞いた時本当に「エール…キャッチ…何語…?」となった)エールを和樹さんにキャッチさせねばならないという使命を最初から託されている。あのエールキャッチ券を渡されるとは、すなわちその使命を果たさねばならぬという義務を渡されているわけです。前回はただマスクの下で動揺を隠しながら光り輝く生命体から円盤を受け取れば良いイベントだったけど、今回は光り輝く生命体に自ら声をかけなければならないわけで………え…?と本当に難易度が高くてCD現場で買ってからも危うくチキンは逃亡しかけた。「エールキャッチ券をお持ちでない方はご退出ください〜(ニュアンス)」のアナウンスとともに脱出したい衝動に駆られた。逃げたさがすごかった。いやもうごめんなさいこれ本当「めんどくせぇな!じゃあもうウダウダしてねぇで諦めて帰れや」って話なんですけど、違うんですよ、いや違くはないんですけど、あの、心理状態を説明しますと、近くでは拝見したいわけです………ご本人の視界には入りたくないけど私の視界には入って欲しい………認知(その瞬間のみですら)はされたくないけど、近くで見れるありがたい機会があるのであれば見てみたい……なのでできることならカオナシの扮装で「ア、ア……」とか言いながら一言メッセージだけ渡して立ち去りたいけどそんなことは許されない……………ので、まあ意を決して、先日も人生初の対面イベントに挑んだわけですが、結局お渡し会は発光体すぎて記憶が飛んだので、エールキャッチもまあ惨敗するだろうなとは思いました。でも惨敗を覚悟して挑まねばならない時も人生にはあるだろう?

 

そして当たって砕けろいざ本番、第一声は「相手の目を見て大きな声でしゃべりましょう!」の小学生の標語みたいなことを頭に浮かべながら、とは言いつつ結局声は小さいので大したボリュームではないんですけど、最初は頑張って目を見てそれなりに聞こえるボリュームで喋り出したんですけど、ほんっっっとに一目見たら無理だった………………。

前回眩しすぎて目が焼かれたので視界の記憶が残らず「顔、あった……?」と思いながら帰路についたんですけど、今回も「うわ、このおにいさん、おおきい」「まぶしい」「こまった」と思って以降結局あんまり視界の記憶がないのは、多分私が徐々に視線を下げてしまったからなのでしょう……。第一声は何とか目を見て伝えたものの、徐々にフェードアウトして声は小さくなるし、自分で何言ってるかもだんだんわからなくなってくる。「あっどうしようすごく見られている、え、時間ない急がなきゃ、え、ごめんなさい、何言った?どこまでいった?今円盤とDVDとか口走ったけどそれ一緒じゃん?ごめんなさい、アホ?…いや止まってはならぬそんなことより早く終わらせねば……………」とか頭の中でぐるぐるさせながら、だんだん焦ってくるし「アァとにかく早く立ち去らなきゃ………!」とか思いながらも、しどろもどろぎりぎりの日本語で言いたいことは伝えたのだけど、とにかくめちゃくちゃ焦った。

めちゃくちゃ焦ったのだけど、和樹さんは何というか、急かす雰囲気など1ミリもなく、とてもとても温かい目で(恐らく)(見れてないけど)見守ってくれていて、相槌も(うっすら)(多分)聞こえてきて、優しく言葉の続きを待っていてくれているのが分かって、その優しさが見ずとも上から降ってきて、本当になんか……大天使だった。大天使カズキエルだった………………………えーーんママ………と思ったけどあの優しさを降らしてくる術は大天使だ……………………私がエールを投げなくてはならないのに……優しさを頭上に降らせてくれてありがとうございました………………天使ってやっぱり美しいんだな………

…とまぁ間近で大天使の優しさを受け取らせていただいたわけなんですが、接触イベントの時の和樹さん、本当に纏う空気感が柔らかいのだな……と2回体験してみて感じました。和樹さん、場によってかなり居方が変わる印象があるのだけど、今回「ファンと直接関わる場にいる加藤和樹さん」のパターンを初めて拝見して「………?なんて眩い光………?春の陽光……?柔らかな羽………?………………あぁ、天使………(理解)」と思いました。この人原材料名の一番上に優しさがある人だ……とよく思うけれど、なんかそれを間近で体感して、優しさって肉眼で見えるんだ…と思ったし、発する何かがとんでもなく柔らかくて、まばゆくて………もう…だめでした。私の日本語は敗北しました。辿々しいにも程がある。伝わったんだろうか。でもまだひよっこなので望みはある。新入生がはじめての定期試験でズタボロになるのは無理もない。と思いたい。今後に期待したい。と言えるようになっただけでも、お渡し会ですら行くことを躊躇っていた自分を思い出せば大大大進歩なので偉い。今後もがんばります…

 

 

「どの瞬間も今が一番だと言える僕でいたい」

これは印象に残った和樹さんのお話シリーズ。vintageのこの歌詞がすごく好きだと話していて。私はこういう言葉を他者から聞く時に、なんとなく「今=自分の一番最新が一番好き=これまでの過去のいつよりも今この瞬間が一番好き」みたいな印象を受け取ることが多くて、どの瞬間においても「今この時=一番先端」が好き、みたいな意味合いで解釈していることが多かったのだけど、和樹さんのそれはもう少し広い、過去に優しい意味合いなんだなぁ、と話を聞きながら思っていた。例えば今、昔の自分の曲を聴いたときに「声高……?!どこから出してんの?!」とか若いなぁとか思ったりはするけど、それでもその時はその時で、その瞬間はその瞬間で自分のできる精一杯をやっていて、昔の自分にとってはそれがベストだったんだろうなと思う、みたいな話をされていて。何かいつだか他の話を聞いたり読んだりしたときにも似たようなことを思った気がしたけれど、和樹さんは過去の自分に向ける目がとても優しそうだな、と思う。ストイック、真面目、の方面の話であればもちろん自分には厳しい人ではあるのだろうけれど、過去の自分、例えば今より未熟で間違うことも多かった自分に対して、優しい目を向けることができる人なのだろうな、と。自分の中に住んでいる役を大切にするように、過去の自分のこともきっと大事に思っている、思えているのだろうなあとか。

だから、"どの瞬間も"と言った時に、和樹さんの場合は、最新の"今この瞬間"の連続で"どの瞬間も"、と言っている意味合いではなく、今この瞬間も、あの瞬間も、これからも、その時その時の目の前の時間や、そこで頑張っている自分のことを、その時の自分が一番だと言えたらいい、という柔らかくて広い意味合いになるのだなぁ、と思った。今この瞬間から見た時、あの時の自分も、今の自分も、"その時において一番"と思える。すごく抽象的なことをすごいニュアンスで書いてるんですけど、まあ何が言いたいかというと、過去の自分と仲が良さそうで素敵だな、だから尚のこと周りにも優しい目を向けられるのだろうな、各自分の置き方や向き合い方がきっと上手なんだろうな、と思った話でした。

 

 

 

vintage

もともと今回のアルバムNostalgia BOXの中で、vintageが個人的に一番好きではあったのだけど、生で聴くとまた違った印象になるなぁと。どこの歌詞が響くかも違ってきて面白かったし、より好きになりました、vintage。

vintage、ステージの上に立つ人の歌なので、歌の主に共感することはないけれど、同時にあちら側からこちら側に歌われる歌でもあるので、歌の向きはこちらに向いている。なので、ステージ上で歌われたらたまらんだろうな、と思っていたんですけど、やっぱりとても素敵だった。共感することはない、と書いたけれど「10年後僕は僕を信じ続けることが出来るのかな 舞台裏にまで届く拍手の音に応えられるように」の部分とかは、その光景や音をつい想像してしまったりはして。舞台裏まで届く拍手を和樹さんはいつも聴いているのだろうな。自分が去った後、和樹さんの歌を、姿を求める拍手の音をいつもどんな思いで聴いているのだろう。こちらからすれば拍手って感謝だし、愛だし、応援だし、一番簡単に贈れる、伝えられる、一番直接的なお礼であり、愛情表現みたいなものだと思うけれど、それを受け取る側のこと、それを裏でも聴いているステージの上の人のことも、あの歌詞を聴いていると想像してしまう。届いていると良いな、と思うし、届け続けられたら良い、と思う。

 

目の前で歌われた歌詞がびっくりするほど自分の中に浸透する瞬間って、本当に何も考えられなくなるぐらいにその歌詞と音楽で自分が埋まって泣きそうになるのだけど、今回生で聴いて一番歌詞が心に頭に入り込んできたのが「今目の前にいる君は どこへ向かう道の途中なのかな」の部分で。個人的に今ちょうど道を決めかねている状況にいたりするので、ぐるぐる考えて悩んで逡巡して戻って分からなくなったりする日々にある中、この歌詞が、目の前で和樹さんから歌われる言葉が、すごく刺さってしまった。隣で聞いてくれているような、見守ってくれているような、今この瞬間の道の途中にいる自分を見てくれているような感覚に勝手になってしまって、それだけですごく安堵してしまった。先を急かすわけでも促すわけでもなく、「これからどこに向かっていくのかな」「どこに向かう道にいるんだろうね」とゆったり微笑むような、同じ場所で道を見つめてくれるような言葉に、自分でもびっくりするほど安心してしまった。あぁそうだ、まだ途中なんだよな、ここで終わるわけではないし、これが続くわけでもないし、途中なんだよなあ、とふっと力が抜けた。

選んだ結果や、その先で得たものや、意味のありそうな時間ばかりが目立ってしまいがちだけれど、進んでないように見えるような時間も、立ち止まって同じような場所でぐるぐる考えているような時間も、目立つ何かと同じぐらいに自分の中に残るはずで、記憶には残らずとも自分を形作るものの一部になっていくはずで、無駄な時間、取るに足らないもの、と切り捨てなくていいんだよなあ、と思えた。vintageの歌詞に出てくるようなことをずっと考えながら聴き入ってしまった。「皺も染みも自分らしくヴィンテージのように」きっと生きていくのだろう目の前の和樹さんを見ながら、私もなんてことのない毎日を続けながら、自分なりの思考や感情を重ねて、言葉を刻んで、少しずつ生きていけたらいいな、と思った。年老いるまでにも沢山会いにいくつもりでいるけれど「お互いに年老いても素直でいれば また会えた時に今より笑顔でいられるさ」の歌詞は、素直な和樹さんが歌うからこそ説得力があって、私も素直さを捨てずに持っていきたいな、と素直に思った。素直でいることって、多分自分でいることだし、自分のことを分かっていることだと思うから(とはいえそれは簡単ではないけど)、それを小さなところで日々積み重ねていくことが、結果自分が自分たる証になっていくのだろうし、きっと目の前のこの人はそうやって生きていくのだろうな、と。だから、同時に、目の前に立つ和樹さんにまた次に会う時も、次の次に会う時も、私は私で自分の毎日を大事に重ねて、その時その時の私にとっての素直な自分で会いにいけたら良いなと思った。そしたらきっとまた、その時の和樹さんが笑顔にしてくれるのだろう。

ステージの上に立つ人とそれを見る人と、拍手を贈る人とそれを受け取る人と、立つ場所は違くても、見えている景色は違くても、そこに来るまでにはそれぞれの時間を持っていて、それを持ち寄って、そこで会う時には同じ時間を記憶に刻んでいく。それぞれ積み重ねられていく層の中に、少しずつ同じ層が挟まっている。あの日、あの時、あの場所で、ステージの上と下で共有した時間。束の間の時間だけれど、その共有は確かにあって、それが確かに、お互いに刻まれていくのだと思うと、なんだかそれはすごく素敵なことだ、と思った。

 

 

 

 

 

さて、今回は一度しか行っていないので、曲の記憶も結構ふんわりしている。でも幸せな時間だったことはばっちり覚えているし、その後のエールキャッチ会で一旦記憶を全て吹き飛ばされたことも覚えています。無事にその後少し取り戻しましたが。

そんなわけで、何があったか、何を喋っていたか、何を歌っていたかのレポ的なものは書けるほど記憶のストックがないなぁと思い、見たもの聴いたものというよりは感じたこと思ったことの大半の文章になりました。nostalgia日記。まぁでも、記録ではなく記憶を残したいなとはよく思っていて、記憶を残すってそういうことか、とも思うので、私の書きたいことは達成したかもしれない(本当は記録も残したいんだけど)

 

nostalgia、秋の終わりに素敵な時間をありがとうございました。10月は野音の円盤に、新しいアルバムに、nostalgiaに素敵なプレゼントを沢山いただけて幸せでした。良き秋をありがとうございました〜!!!🍁🍂

COLOR②

COLOR① - 140字の外

これの続き。

 

4回目

my初日ぶりの浦井ぼく。

とはいえ、2週間も間が空くととかなり記憶も薄れてしまうので新鮮に観ていたような気がする。うらそんそんうらそん、の5回のうちの4回目。その前の3回を経て何故かCOLORという作品に対するブレーキがだいぶかからなくなったので、「多分今回はそのまんまそこに居ればちゃんと観られるだろうな」と思った。

そして、ちゃんと居れたし観られた。安心した。浦井ぼくをちゃんと知れた。分からないけど、知れた。

 

成河ぼくを2回観た後の浦井ぼく、重力が3割増しぐらいに感じた。重くて、柔くて、脆くて、暗くて、どこか閉じている。この「暗い」とか「重い」、比喩的な意味合いではなくて、ただ暗い、だし、重い。"暗い人"の"暗い"じゃなくて、"重い話"の"重い"じゃなくて純粋な意味の"暗い"、"重い"。何でそう思うのかは分からなかった。草太が暗くて遠い場所に進んで行ってしまう、その孤独さが深海みたいに深くて、暗くて、見えなくて、危ういな、と思った。

 

 

観劇後、ふせったーに書いていたことを読んで、少しまた思い出す。

 

一方のうらいぼくは、自分の世界の周りの「分からないこと」も、「分からない」という状態自体も不安で恐ろしくて、昨日も書いたけれど、外からのあらゆる刺激に対して感覚過敏になっているように見えた。音も光も人もモノも、世界の全てのボリュームが過剰でうるさくて、その上その全てがわからないから怖いのだろうという感じがする。植物に顔をうずめる姿は、家を出て静かな場所に逃げ込むのと同じく、何も語らない植物は静かで心地よくて落ち着くのだろうな、とか。世界に対して閉じることで外界から身を守っているような。身体的には母よりも父よりも大きいはずのうらいぼく、猫背で一人ぽつんとそこにいる姿がとても小さく見えた。

 

そんはぼくの場合は明るさが曇るのがつらい、と見ていて思うけれど、うらいぼくの場合はせっかく少しずつ少しずつ開いた彼の心が、開けた世界が、また誰かの小さな拒絶によって閉じてしまうのがしんどいな、と思う。

 

結局2回しか会えていないので、彼がどんな人だったのか私はあんまり分かっていないような気がするけど、まぁ分かるってなんだって話だけど。

浦井さんの草太は、深くて暗くて濃い、奥まで色が詰まったような人に、最後、なるように見えた。新しい過去が作った彼の色。母との衝突の場面、ずっと探して、求めて、繋ごうとしていた過去に辿り着くことを諦める。その後、秋の場面で「みんなと同じようにはなれない」と言う彼に「自分だけの色」を探してみたら良いと母は言う。そうして着地した場所が、浦井さんの草太は、暗さや、孤独や、喪失の許容にあるような気がした。思い出せなくて良い、今この時の自分があればいい。同じ意味を持った言葉を聞いているはずなのに、成河さんの草太が発する言葉とは受け取るものが違う。

最後、「もっと感動する色に出逢えるかもしれないから」の言葉の置き方が、この日はすごく印象に残った。希望ではなくて、未知への安心みたいな言葉に聞こえた。不思議だった。

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濃藍(こいあい)とは?:伝統色のいろは

 

 

 

5回目

my楽、そんはぼく。もはや馴染みがすごい(自分にとって)。

浦井ぼくをちゃんと見られた後のそんはぼく、やっぱり白いなぁ、と思った。そんはぼくは始まりがかなり白い。物事の意味がなくて、世界がすべて無印で、白くて、世界をじーっと見つめている。その白さが明るくて、その白さが世界を反射していて、少し眩しいぐらいに真っ白に見える。

そんなことをぼんやり考えながら、うらいぼくが暗く見えるのは浦井ぼくにとっての世界が暗くて不可解だからで、成河ぼくが明るく見えるのは、世界が真っ新で真っ白だからだろうか、と思ったりした。成河ぼくは自分を囲む世界それ自体に恐怖は感じていないような気がする。未知の色が違う感じ。世界やそこにあるすべてに意味付けがされてなくて、だから、「生き返らなきゃ良かったのかな」という言葉も自分という存在が生きていることの意味への素朴な疑問、という感じがする。

 

そんはぼく、割と世界に対して最初から開いてるような感じがする。でもだからこそ、外に出て人に会い心を閉ざしていってしまう過程で、その明るさが曇ってしまうのが見ていてしんどくなる。光が澄んでいて真っ白な人に影が差すのを見ると辛くなってしまう。けど、その後新しい過去を構築していく過程で、また健やかさを取り戻していくのを見て、あぁこの人はやっぱり真っ直ぐでたくましくて、光の純度が高い人なんだなと思う。

 

ふせったーでこんなことも書いていた。わかる。成河ぼく、真っ白だからこそ、その明るさが翳っていくのが見ていて辛いな、と思った。成河さんの草太は世界に、周りの人に、きっと最初は積極的に開いていたのだろうから、開いたまんま晒した、むきだしにした心が、無遠慮に適当に傷付けられたのだろうな、とか思うと辛い。作り笑いをする姿も、それすらできなくなる姿も、あんなに外に真っ直ぐに向いていた明るい目が、暗くなって内側に閉じていくのも、痛ましくてつらい。

ただ、そこから、小劇場が爆発するんじゃないかというぐらいの母との感情大大大衝突バトルを経た後の成河ぼくは、また明るさをまた取り戻すように見える。息ができない、と本当に苦しそうに泣いて、わんわん母の胸にしがみついて泣いて、成河ぼくはまた世界に戻っていく。やっぱりなんというか、基本的には開放的な感じがする。あそこでまた、開放の人に戻るのだな、という感じがする。ただ、また真っ白な明るさに戻るのではなくて、成河さんの草太は、最終的には爽やかな、空みたいな、風みたいな、淡い水色の色の人に見える。新しい過去を、真っ新なうえに新しく築いていく、逞しさと清々しさが見えるような気がする。その健やかさが、植物みたいな人だな、と思う。

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薄水色(うすみずいろ)とは?:伝統色のいろは

 

 

そんなこんなで私の全5回のCOLORは終わった。最終的に全部観終えてみて、こうやって少し書いてみて気付く、最終的には、COLORを物語として受け取っていたな、と。

結局のところ、私はやっぱり物語は物語としてしか見られないのだと思う。物語であるからこそ安心してそこの世界にいられるし、そこにいる人を真っ直ぐに見ていられる。この作品が、物語としてではなく、何とも位置付けられないような場所で、現実と虚構の間で、この作品を受け取ることを意図していたのであれば、私はそれからは外れているんだろうし、そこにはやはり立てない。

例えば、誰かの人生に自分の人生を見てしまうこと、誰かの人生の余白を勝手に想像してしまうこと、時にその想像で埋めた視界からその人を語ってしまうこと。物語を見るときにはゆるされるそれは、実在する人間にやってしまったら、簡単に暴力になってしまう。ドキュメンタリーやエッセイ、本人が本人として何かを語るのなら、そこで語られた"それ"が全てだ。そこ以外に真実はないし、そこから色々考えたとしてもそれはこっちの話だ、と思える。けれど、それを元にした物語は、やっぱり難しい、と思う。

エッセイとかドキュメンタリーとか、そこまで遠くなくても、例えば近くの友人とか、その辺の歩いてる人とか、その言葉や行動からその人の背景を想像することは自由だと思う。というか、想像すること自体は、他者の視界を覗こうとして見ること自体は、むしろ必要だろう。分からないからこそ、見えないからこそ、見てみようとするしかないから。けれど同時に、そこに勝手に"物語"を見てはいけない、とはやっぱり思う。勝手に感情を付与して、ストーリーをつけて、他人の人生を加工して見ることは、見た気になってしまうことは、恐ろしい。

 

だから「実話を元にしたフィクション」は、私にはやっぱり向いていないんだろうなと思う。それが作られることそれ自体はその作り方次第だと思うから、別に良い悪いはないのだろうと思う。ただ同時に、安易に実在する他人の人生に感情移入してしまうことに慣れてしまうのは、やっぱりなんか悍ましいよな、とも思う。でも、その「実話」を生きた人に誠実に作られる作品があることもわかる。でも……と続く言葉をいくらでも繋いでしまいそうだ。なので、まぁ白黒つけられる話ではないといういつものそれだろう。今回で一つわかったのは、私はなかなか一発では受け取れないな、ということぐらいだろうか。受け取れるにはある程度の条件が揃わないといけない、ということも。

 

ただ、5回観てみて、COLORという作品を受け取ってみて、全部詰まっていて飽きる時間がなかったな、とか役者さんのお芝居が素敵だったな、とか、そういう頭の部分の感想を置いておいても、観られて良かったな、と思う。

 

この作品を観ていると(といってもちゃんと観られるようになってからの話だけれど)、知らないうちに、心の層の一番奥の部分でそこに居るような感覚になる。心や自分の在り方の構造、多分人によって認識が違うと思うけれど、私は一番柔い(一番幼い、古い、でもあるかもしれない)自分が一番内側にあって、一層、二層、三層、とそれからの自分が周りを覆っている、それで、全ての層が全部ある状態、最新の私の層が一番外側で偉い顔をしているのが「今の私」の通常形態である、みたいな認識をしているのだけれど、COLORは、その中でも一番内側の層の部分が外側にくるまでべろん、と剥がして、そのその自分を客席にすとんと座らせて観ている気分になる作品だな、と思った。ほわほわで、柔くて、定まらなくて、剥き出しの状態の層。それは多分、自分の存在の輪郭を掴めない「ぼく」がそのまんま目の前にいるからなのだろうし、その「ぼく」が新しく自分を少しずつ重ねていく姿を見ながら、私の中にも、そうやって自分の存在を構築してきた記憶が、表面的には残っていなくても、身体的に残っているのだろうな、と思ったりする。ふわふわな状態で「ぼく」を見て、時に今の自分や、間の層の色々な自分が、色々なことを感じ、考える。行ったり来たりしながら、目の前で自分を探し、自分を重ねて、構築していく「ぼく」を見る。純粋にその時間が面白かった。

ただ、そこの自分はあまり言語を持たないので、COLOR、感想という感想が出てこないな、とも思う。外側の自分が考えたことは一部残るけれど、大半は劇場に置いてきている気がする。ただ、まぁ、何かを感じ取ったり、持って帰ったりするのではなくて、そこでただその時間をそこで見て、過ごす、というだけでいいのだろうなとプログラムのめぐさんの言葉を読みながら思ったりもした。何でもかんでも持ち帰らなくていいし、生成しなくていいし、増えたり減ったりしなくてもいいんだろう。ただ、そこで時間を過ごしたという記憶は、私の中のどこかには埋まって残るのだろうから。

 

 

 

さて、初対面では「あまり仲良くなれないかもしれないぞ…」と思ったCOLOR、最終的には割と仲良くなっていたことに気付いて面白いな、と思った話でした。久々になーんにも考えずに頭の中の言葉をそのまんまの温度感でブログに書いている気がする。ほとんど見返してもないので誤字もあるだろうけれど、この温度感で書く文章も楽しかった。

 

そんなわけでCOLOR東京楽、おめでとうございました。観られて良かったです。地方公演も走り抜けられますように。

 

 

COLOR①

 

 

こんなに印象変わることもあるんだな…というぐらいにmy初日と後半戦の感覚がまるで違ったので備忘録。ふせったーだと遡りにくいからブログに書くけど、気分的にはふせったーぐらいの気持ちのブログ。

 

初回

my初日は手持ち席の中で一番前方席で、ほぼほぼドセン。とても良いお席だったから、正直「手持ちの中では一番の良席がmy初日に来たか、もったいないかなぁ。んーでもこのご時世だと早めに前で観られるのはそれはそれで良いかもしれない?(なんせガイズで帝劇史上最高のお席がmy楽で飛んで行ったので)」なんて思っていた。ありがたく初日からオペラグラスなしで観られる席に座っていた。

さて、そんな初回の感想はTwitterにも書いたけど、とはいえ観た後はその感覚が何なんだかいまいち自分でも理解できていなかったのだけれど、今振り返ると「めちゃくちゃブレーキかけながら観てしまったがためにほとんどストーリーに心が動かなかった」みたいな状態に陥っていたと思う。いや、陥っていたと書くと悪いことのようだけれど、ただ単にそういう状態になった、ぐらいのものか。「ブレーキかけながら」と書いたけれど、ブレーキがかかってしまったのも意図的ではない。初めて観る作品、初対面の人間と一緒で最初は心をあまり開いてないことが多いので、どのあたりで開くかとか、どのぐらい開くかとか、結構作品によりけりだなと思うけれど、初回のCOLOR、びっくりするぐらい私の心が開かなかった。自分と舞台の間になんかアクリル板5枚ぐらいある?ってぐらいに入ってこなかった。入ってこなかったのか私が入れなかったのか。と言いつつも、浦井ぼくの小さく見える背中には、世界から取り残されたみたいな孤独が見えるようでギュウ…と苦しくなり、柚木母の包みこむような、それでいて芯の強さもありそうな母の姿に「同年齢でもちゃんと母と息子の関係性に見えるんだな…」と驚き、出てくる度に違う人かと思ってしまう神奈川県ぶりの成河さん、やっぱり今回も3人しか舞台上には出てこないはずなのに全5人ぐらいに感じてすごいな、と思ったりしながら興味深く見ていたりして、初回も「観劇体験」としては十分楽しかったのだと思う。草太と母の衝突の場面はあまりに大きいエネルギーを正面から浴びすぎて、ビリビリして、わけもわからず泣いていた。あそこは毎回鳥肌が立ったけれど初回は息が止まったぐらいガッと入ってきた。自分の中で何が起きてるか分からないけど知らないうちに涙が伝う瞬間、舞台の上の人の何かをそのまんま貰っているんだろうなと思う。どでかい何かをぶつけられて、わけもわからず泣いている。

そう、感情が動いた瞬間はたくさんあったのだ。あったけれど、完全にストーリーに置いていかれた。話を追えていなかったとかではなく、「入れてもらえない」みたいな状態がずっと続いてしまった。かなり感情の波が大きくうねる話なので、そこから完全に置いていかれると結構身の置き方が分からなくなる。その感情の動きにぴったりはまっている音楽も過剰に聞こえてしまう。観ながら「んー、どうしたもんか…」と正直思った。

 

それは、私がノンフィクションがフィクション化されたもの(余命何年ものの映画とか2◯時間テレビの再現ドラマとか)に対して苦手意識を持っていたことが大きかったんだろうな、とやっぱり思う、Twitterにも書いたけれど。誰かの人生に起きた経験を"物語"としてパッケージ化したものをどう見て良いのか未だに分からない。それに心を動かす、端的に言えばそれに"感動する"ことと、誰かの人生を都合よく物語化して消費する行為との区分けが自分の中で上手くできていない。なので、心を動かしていいのか、どう見たら良いのか分からなくなるのだと思う。(もちろん、例えば2◯時間テレビのそれとCOLORが同じ位置にあるという話ではないですが)

 

ただ、とはいえ、今回発表された時にそれを構えていたかというとそういうわけでもなく、そこはなぜか「まぁ知らんけど何とかなるでしょ〜」の楽観主義が発動していた。適当である。ただ、観るならちゃんと自分にとっての楽しみ方、見方を見つけたかったから(not for meだったらそれはもう仕方ないけど、やっぱり楽しめるなら楽しみたいじゃないですか)、なるべく坪倉さんのお話は読まないようにしていたぐらい(読んだら多分実話を元にしたフィクション苦手症候群が発動して上手く受け取れないことは分かっていたので)。なので、正直初回観に行った時も全然自分ではそれに関して構えているつもりもなかった。

のだけど、結果として、多分思いの外自分の中でめちゃくちゃブレーキがかかってしまったのだろうな、というのが初回の正直な感想だった。上に書いたような、「都合良く物語化された他者の人生の一部を消費しているのでは?」の感覚が、恐らく実際頭によぎっていたわけでもないのに、無意識レベルの場所で発動していて、多分ストーリー自体に心を動かすことを自分で抑制していた。それとは別に、単純に物語という世界の中に閉じている安心感がないのも、場に身を委ねられなかった理由のひとつだったんだろうなと思う。

で、観終わって「あーなるほど、そうなるんか」と思った。自分が。見る前楽観視野郎をしていたので、思ったより結構そこのブレーキが働いてしまったことにびっくりしたし、これは後数回手持ちの分、楽しめるんだろうか(enjoyの意ではなく自分なりの見方を探せるかという意)、と少し心配にもなった。まぁここでも結局はまた何とかなるだろとも思ってはいたけど(適当なので)。そんなこんなで、初回は、役者陣のお芝居それ自体には心を動かされたけれど、作品には心が止まってしまっていた(結果として)、みたいな見方をしていた。終わった後「なるほど……」と思った。で、さて、どうなるかな、と思って1週間空いた。

 

 

2回目

いや、本当にびっくりした。

色々と違う要素はあって、まずキャストが違う。成河さんぼく、めぐさん母、浦井さん大切な人たち。作品の印象がガラリと変わる、それ自体に純粋にびっくりした。聞いてはいたけど本当に別物だった。台詞も音楽も話も大枠は同じはずなのに違う物語に見える。「ハーーーー面白………?」と思った。で、そのキャストが違うことで違う物語に見えるびっくりの隣で、私が前回よりずっとすんなり受け取れたびっくりがあった。普通に「えっ何が起きてる?」と思った。なんで?前回のアクリル版5枚どこに行った?あの身の置き方の分からなさからくる落ち着かなさどこ行った?

多分あらゆる要素からそれは起きていたんだろうけど、とはいえ私に起きたという結果がまずあるので、何でそうなったか、なんてのは結局は予想でしかない。のだけど、予想の中で言うと、まず大きいなと思ったのは座席の位置。普段もそりゃあ、近い方が舞台上の人間達に心理的に近い距離で見てるな、とか、引きで観ると客観的な第三者として見ていたり、時間軸としても近いと"その瞬間"だけに居る感覚になるけど、2階席から観ると"全体のうちの一部"として目の前の時間を感じていたりとか、座席によって受け取り方って変わるよなぁ、とは思う。思うんだけど、えっそんなに変わる……?まさかそんなに変わるとは思わなかったけど、2回目、手持ちの中で本当に私にとっての「ベスト席」だったのだと思う。

そう、ここの席。後方センターブロック少し下手寄り。ここがCOLORの私のベストポジションだったのだと思う。my初日、「とても良いお席」と書いたけれど、ほぼドセンの前方席、私には近すぎたのだろうな、というのが全部観てみての結論である。近くで観ると私は舞台上の人達の感情にかなり同調しがちなので、普通であればグッと入り込めることが多いのだけど、あの日は逆に恐らく作用した。めちゃくちゃ大きな感情の波が目の前まで来てるのに、当の私は自分の感情が動くことを無意識に抑制してるので、その波をアクリル板5枚越しに見て、その相いれなさに困惑した。終始身の置き方に困っていたのは、客観的に観るにはあまりに近すぎるし、かと言って舞台上に視点を置いて感情を動かすこともできなかったからだろうと思う。加えてそもそも初回だから、心のガードが若干固いとか、そんな自分の中の諸々と、劇場の中に配置された位置があまりにも合ってなかったのだろうな、と思う。複数回目だったらまた違ったと思うけど、初回にあの距離感は、私には合っていなかったのだろう。

 

そして、座席の位置に加えて、2回目はキャストが成河ぼくの回だった、というのも大きかったと思う。

「何がどうなってそう感じるのは分からない」、そう、分からなかったんだけど、今も分かりきってはいないのだけど(そもそも分かるって何じゃいな話なので)。この感覚をもう少しだけ掘り下げると、成河さんだと「"ぼく"の物語」になる、というのは多分、抽象度の高さなんだと思う。成河さんのぼく、存在の質感はとてもリアルな感じがするのだけど、話としては成河さんぼくの話だと、"ぼく"の話として観ていられる気がした。"ぼく"の存在自体も、その彼とそのお母さんが過ごした時間としても、話としても、なぜか抽象度が高いような気がした。もちろん"草太"という一人の個ではあるのだけど、何故か成河さんは"ぼく"の感覚が強い感じがする。そしてめぐさんも、その"ぼく"の一人のお母さんとして、一般人Aみたいな感覚で見られたのが不思議だった。この間メリーを見たばっかりなのに、そのめぐさんを「どこかの誰かのお母さん」として見ている。二人とも、何というか個でありながらも、代入できそうなのだ。nみたいな存在。これは本当に感覚的な話なので、あくまで私にとっての話で、何でそう感じるのかも正直未だに全然分からない。ただ、この世界にこういう人がいて、こういう時間を過ごした人がいる、というその時間を目撃しているような時間。「"ぼく"の物語」と書いていたけれど、「物語」という感じもあまりしないのかもしれない。

 

一方で、浦井さんの"ぼく"は"草太"という男の子の物語として私は見てしまうのだと思う。で、その"草太"という人にはモデルがいることを私は事実として知っている。そうすると、この話がフィクションではなく、この世界に実際に生きている実在する"個"の人生の話を物語に落とし込んだ話だということが、どうしても無意識によぎってしまうのだと思う。それがある上で観たあの話は、初回の私には"個"すぎて、その人が目の前であまりに個として"生きて"いて、その表情までもが見えてしまって、多分上に書いたような諸々がある私は、受け取り方がわからなくなってしまった。浦井さんのお芝居を見ているのに、それに心が動くのに、それが受け取れないという経験が初めてすぎて、ちょっと終わった後は軽くショックだった。目の前で"生きている"と思うからこそ、そのお芝居自体に心動かされるからこそブレーキが働いてしまう。何じゃそりゃ、と思ったけどそうなってしまったものはそうなってしまった。どちらが良い悪いじゃないのだ、座席の位置も含め、私のブレーキとの相性が一度目は完全に合わなかった。作品は丁寧に作られていることが分かるし、お芝居にも惹きつけられて、えっ誰が悪いわけでもないのに何この状態……?私の心の問題………?いやでもブレーキ自動発動だし……とぐるぐるしていた。

 

それが2回目、後方席で成河ぼくの抽象度の高い"ぼく"の話を観たことで、多分そのブレーキを発動させない見方を一旦させてもらえたのだと思う。離れた座席で、客観的な位置で、それを"個"の話というよりは、「この世界のどこかにいる"ぼく"という存在」の話として、少し遠くから見られたことで、逆に感情が動いた。動かせた。ブレーキがかからなかった。だからなんかすごく泣いた。何なんだこれは、と思った。あの、2回目を観終わった後の「なんだこれ………?」感はすごかった。前回とまるで違う話を見たと思ったし、前回とまるで違う体験をした。あー入れてもらえたと思ったし、私も入れることができた、と思った。完全なる物語としてでもなく、実話を元にしたフィクションとしてでもなく、ただそこに流れるどこかの誰かの時間を目撃した、みたいな見方をさせてもらえた2回目だった。

 

3回目

この日はナチュラルにチケットを取り間違えて本来はうらぼく回だったけどそんぼく回になったそんぼく回。

この日多分初めて、ようやく最初から見方というか、身の置き所というか、自分の心の置き場がちゃんと安定した状態で見始められたと思う。COLORという作品をちゃんと最初から受け取れた。だから、逆に今度は目の前の成河ぼくを"草太"としても見れていた気もしたし、この"ぼく"はどんな人なんだろう、と思いながら見つめていた。成河さん、すごく存在がそのまんまいるんだなぁ、と思った。その人がそこで息をしてそこで生きてる感じがする。それをたまたま私は目撃しているのだ、という感覚になる。2回目も思ったけどめぐさんの歌はどうしてこんなにダイレクトに心にくるんだろうか、と自分の感情の動き方に自分でびっくりした。歌だけでなくお芝居も、めぐさんは感情がそこに在って、見えて、その感情に伝染してしまう感覚になる。浦井さんはひかるくんみたいな太陽みたいな役が本当に似合うなと思った。誰かの心を緩める、パッと照らす、この人は信じても大丈夫だと自然と思わせる温かさと明るさ。なのに表面だけなぞるような声で言葉を交わして、渇いた会話をするのもリアルだから怖い。うわ、こういう人いる……と思った。大切な人たちの浦井さん、柔らかくなったり固くなったり、温かかったり冷たかったり、信頼できたり胡散臭かったり、その行き来が新鮮で楽しい。

3回目、ようやくちゃんと全体を拾えたような気がして、少なくとも私が受け取れる分は受け取れたような気がして、嬉しかったな、と思う。そこで生きている人をちゃんと一人一人見つめられた。この人はこんな人なのかな、この人は今何を考えているのかな、この人は何を感じているのかな、とか、そういう純粋に湧いてくる思考と、あとは作品の中に流れる流れに乗れている感覚が、弾き出されていない感覚が、普通に嬉しかった。別に乗れることが正ではないし、合わせなきゃいけないだなんてことはないし、別にnot for meだったらそれはそれなんだけど、それでも何かが"合った"なと思えたのは嬉しかった。そして、ここでようやくCOLORという作品の見方が自分の中でカチッとはまったので(それがどういう見方なのかはわからないけど)、「あ、ここでもう一回私は浦井ぼくを挟まなくてはならん」と思った。チケット取りをミスったのでどこかしらで足そうとは思っていたけど、ここで追うことにした。次は浦井ぼくを観なくちゃならない、浦井ぼくをもう一度知りたい、と思ってチケットを足した。

 

 

(4回目に続く)