140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

愛するとき 死するとき 2部の大人たち

 

もし1部の「僕」が映画監督になり自らの人生を映画化したら……。

 

プログラムの8ページ、小山さんのコメントでは2部について上のように書かれている。ただ、戯曲をざっくり読んだ感じは、1部、2部間の繋がりははっきりとは分からなかったので、小山さん演出の日本版「愛するとき 死するとき」オリジナル解釈なんだろうか。ポストトークに参加された方のレポを追っていたときにちらりとそんな話を見かけたような気がする。

あの映画の中の役名は、「父」「母」「ブロイアーおじさん」なので、あの映画の視点はあの家の兄弟のどちらかのもの。と言っても明らかにペーター軸で話が進んでいくので、あの「映画」の主人公らしいのはペーターだ。ということは、「僕」はペーターなんだろうか。一部の「僕」が過去を振り返り、ある程度抽象化して物語化したあの映画で、「僕」が過去の自分を投影した存在がペーターなんだろうか。「僕」は、ペーターであり、あの映画監督であり、もしかするとあの映画の中のすべての人達なのかもしれない。

 

2部は唯一、大人と子どもの世界が両方描かれる。ペーター、ラルフ、ディルク、アドリアーナ、イナ、ハーゲンら若者達。ブロイアーおじさん、母、父、ヨランタ、ミランら大人達。

「アドリアーナはディルクと付き合っていた」「アドリアーナがペーターに夢中なのは皆知ってる」「イナはハーゲンの側にいたい」「ラルフと付き合っている間アドリアーナはずっとペーターのことを考えていた」

若者達の想いは素直で正直で、見ているこちらに常に筒抜けだ。誰が誰を好きで、誰が何を考えているのか。彼らは皆どこかしらで言葉にする。一方の大人達の関係性は、ほとんど言葉では示されない。彼らが何を考えていて、どんな関係にあって、それぞれをどう思っているのか、明確には分からない。でも、それぞれの登場人物の間に、何か色々な事情が複雑に絡まっているのだろうということだけは分かる。それについて、観劇中も観劇後も気付けば考えてしまうことが多かった。

 

 

ブロイアーおじさん

2部のキーパーソン、ブロイアーおじさん。

ブロイアーおじさんは、一人だけ与えられる情報量がかなり多い。まず、ペーターとラルフの叔父であること。(そして恐らく、父親が西に逃げる冒頭、車の家の外でクラクションを鳴らして待っているという描写から、父を西へ逃す手伝いをしたのはブロイアーおじさんなんだろう)。かつての妻(もしくは恋人?)であるハイジという女性に捨てられたこと。刑務所に12年間いて「クリーニング」されてきた、かつての反体制派の英雄であること。ミランとヨランタと面識があること。刑務所から出た今は、息を潜めるように体制に従順に暮らしていること。

けれど、こんなにも色々な情報があるのに、ブロイアーおじさんがどういう人なのかは、最後まであまり分からない。靄に包まれているみたいに、何を考えているのか、どんな人なのか、分からない。それは多分、ブロイアーおじさんが元々持っていた殆ど全てを、彼の奥の奥に封じ込めてしまったからなのだろうな、と思う。彼の持っていた思想、意思、熱意、感情、彼が「こう生きたかった」と思っていたもの全てを、殺さなければ生きていくことができなかった人。

「俺は人生について別の考え方があるって言いたかっただけなんだ」「でもそれは何も生み出さなかった」

刑務所を出て、ひとつの家庭の中で普通に暮らし、息子となった子ども達を育てるためには、彼は彼が元々持っていた、彼を形作っていたほとんど全てを消さなければならなかった。こうなりたい、こう生きたい、こうありたい、そう望む心、その人を動かす原動力、それが火だったとしたら、その火を消されてしまった、というよりは自ら消させられた人、という感じがする。自らその火を消し続けることを強いられた人、12年間という長い時間の中で、自ら自分のことを監視し、抑制することを馴染ませられてしまった人。そういう息苦しさや閉塞感に、慣れざるをえなかった人に見える。

 

 

父と母とブロイアーおじさん

ペーター、ディルク、アドリアーナのドライブ場面。ペーターに対しこのエゴイスト!と怒るアドリアーナに、「俺と付き合ってラルフ(兄)のことを考えていればいい」というようなことを返すペーター。それを見たディルクは「お前ら、お前らの親みたいなんだな」と言う。

この言葉が、一人の女性を兄弟どちらもが妻(彼女)にしたことがある、という状況を指しているのか、それとも…?とずっと考えていたのだけれど、もしこのディルクの台詞がペーターの台詞に対してのものであるなら、エヴァ(母)は「マンフレード(ブロイアーおじさん)のことを考えながら父と結婚した」もしくは、「父のことを考えながらマンフレードと再婚した」とも受け取れる。どちらとも取れるけど、もし前者だとすれば面白いな、と思う。エヴァは本当はマンフレードのことを想っていて、けれど「父」と結婚した。

ブロイアーおじさんが訪ねてきた場面で、エヴァの名を呼ぶ前に「(まるで何年も練習してきたかのような視線でエヴァの方を見る)」と戯曲には書かれている。もしマンフレードの方も、叶うことはないと思いながらも本当はずっと、エヴァと結ばれることを願っていたとしたら。もしかすると、あの二人は、かつて密かに互いを想いながら、別の人と一緒になったのかもしれない。そして、皮肉なことにあの状況が、二人の間に流れた年数が、たまたま二人を結びつけた。本当であれば一緒にいるはずじゃなかった二人。それが時代の、社会の流れによってたまた捻れ、交わったのだとしたら。二人の息子たちの父親になる、という名目の裏に、そんな事情が隠されていたら面白いな、と思う。

個人の手には負えない社会の流れによって、個人の運命が簡単に変わってしまうのはいつの時代も同じだろう。もちろんその被害を個人が受けることも多くあり、それを軽視するべきではないけれど、時によってはそれによって生まれたものや繋がったものが、結果当人にとってかけがえのないものになったりもする。悪いことばかりじゃない、とまとめてしまうのは安直だけれど、それによってしか起こりえなかったこと、というのもやはりあるのだろうな、と思う。それがもし、あの二人にも起きていたのだとすれば、とつい想像してしまう。

最後、あの家には父が帰ってくる。帰ってきた父を、あの二人はどう迎えたのだろう。父は何を思ったのだろう。パンよりビールの歌を歌いながら、あの三人は何を考えたんだろう。これからどうなっていくんだろう。分からないまま、あの三人の映画はそこで終わる。

 

 

ミランとヨランタとブロイアーおじさん

ミランとヨランタには謎が多い。ので、正直最初は全然この二人のことがわからなかったし、今も分かっているのかはよく分からない。分からないけど、分かるということもないのかもしれないけど、何となくずっと考えている。

ミランとヨランタはブロイアーおじさんと面識があること。ミランはかつて刑務所にいたこと、そしてそこで精神的もしくは肉体的苦痛を与えられていたこと。ヨランタは、彼のことを「(どういう人間か)知ってる」と言うぐらいにはブロイアーおじさんと親密な関係にあったこと。明確なのはこれぐらいだけれど、この3人の間には想像できる余白が沢山あるので、それをもう少し考えてみたい。

 

ミランが刑務所に入れられたということは、恐らく彼も元々は反体制側の人間である。そして今は、刑務所内での「虐待」のせいか、その後の生活のせいかは定かではないが、精神を病んでいる。ミランは「やつらが俺たちを虐待したんだ」と言う。この"やつら"とは、おそらくミランを捕らえた側の人間のことだろう。では、"俺たち"とは? 

ミランはその会話の前にヨランタの話をしている。彼女のことをどう思うか、彼女が昔どうだったか知らないだろう、とディルクに聞く。そうすると、会話の文脈的に、"やつら"か"俺たち"の中にヨランタが入るのだろう、と思う。最初、「ヨランタがミランを部屋に閉じ込めているということは、ヨランタはミランを矯正させようとする体制側の人間なのか…?」とも思ったけれど、かつてのブロイアーおじさんと親しかった、ということはやはり、ヨランタも反体制側の人間だったのだろうと思う。ミランの言う"俺たち"を「反体制側の人間」とざっくり捉えることもできるけれど、何となくミランの指す"俺たち"は「俺たち(夫婦)=ミランとヨランタ」なんじゃないだろうか、と思った。ミラン同様にヨランタも、"やつら"に「虐待」されたことで今のヨランタになってしまったのではないだろうか。

 

ミランの言う「元々のヨランタ」はどんな人だったのだろう。

エヴァに「あなたのこと立派な人だって言ってた」と言われ、ヨランタは「立派な人だった、って言ったのよ」と返す。ミランとマンフレードと共に反体制派の組織の中にいた、マンフレードから見たら「立派」な人だったヨランタ。かつて、「反体制派の英雄」だったマンフレードが「立派」だというのだから、組織の中では有能で勇敢な人だったのだろう。そして、彼のことはよく知っている、とその妻にわざわざ言うぐらいだから、もしかするとマンフレードに好意を寄せていた時期があったのかもしれない。それが恋愛感情かはさておき、英雄とされていたかつてのマンフレードを、ミランはきっと尊敬していたのだろうし、良き同志として信頼していたのだろう。だからこそ、マンフレードが去った時にはひどく裏切られた気分になったのかもしれない。「腰抜け」と罵るぐらいには。

現在のヨランタは過度な程に自分を矯正しているように見える。模範学校の教師として働き夫を養い、監視するヨランタ。まるで元々体制側の人間だったかのように、ミランを厳しく管理し、生徒を正しく指導しようとする。「正常じゃない」ミランと、その時代において極めて「正常」であろうとするヨランタ。

 

彼女が部屋に閉じ込めているのは、誰なんだろうか。

ミランを閉じ込めているようで、彼女は過去の自分をあの部屋に押し込めているのではないか、と思ったりする。彼女は夫に、過去の自分自身を見ているのではないだろうか。

現状の社会に対する、怒り、憤り、反抗心、かつて自分の中にあったものを、そしてそれを抱いて反体制組織で戦っていた自分を、あの部屋に押し込めているのではないだろうか、と思う。精神を壊し、ここから出してくれと叫ぶミランは、ヨランタの心の中の過去のヨランタなんじゃないだろうか、なんてことを、自分の中の何かを必死で抑えるように薬を流し込むヨランタの姿を見て考えてしまう。

 

「立派な人だった、って言ったのよ」

かつての同志が褒めていたのは今の自分なんかじゃない、過去の自分だ、とヨランタは自嘲気味に言う。刑務所の中で彼女に何があったのかは分からない。けれど恐らく彼女も、ブロイアーおじさんと同じく、そこでの時間の中で、反体制派としての自分を捨てざるをえなかったのかもしれない。

ヨランタは、今の自分が正しいのだ、と信じたい。だからこそ、生徒には高圧的に指導することで、東ドイツにとっての「正しい」人間になるよう導こうとするし、精神を病んだ夫のミランにきつくあたり、部屋に閉じ込めるのではないだろうか。正しくあろうとする自分と同じ方向に、他人も導こうとする。

それでも、マンフレードが今の自分ではなく過去の自分を褒めたのだと声を荒げるのは、彼女が本当は、過去の自分こそ"自分にとって"正しい自分なのだ、とどこかで思っているからではないだろうか。「今の自分が正しい」「今の自分が必要だ」そう言い聞かせながら、その時代の社会にとっての「正しさ」と、そこを生き抜くために「必要」な自分を、ヨランタは常に身につけている。模範学校の、極めて「模範」的な人間として。社会に馴染ませるために、自分を捻じ曲げて型にはめる。けれど、そうあるのが正しいのだ、と思いながらも、本当は過去の自分を欲しているのではないだろうか。本当は過去の自分を殺した自分を誰より蔑んでいる。「馬鹿な女」だと。だからこそ、かつての同志であるマンフレートが「立派だ」と評したのは過去の自分だと分かってしまう。誰よりも自分がそう思っているから。

けれど、きっとその蓋はヨランタにとって開けてはいけない蓋なのだ。閉じ込めるように、封じ込むように、ヨランタは薬を流し込む。

 

 

病んでいる大人たち

2部の大人たちは、基本的にどこか病んでいるように見える。分かりやすいのはミランだけれど、情緒不安定なヨランタ、かつては自分も精神を病んでいたと語る母、常にふらふらと歩くブロイアーおじさん。全員、触れてはいけない、触れたらその人を壊してしまいかねない何かをしまい込んでいるような気がする。それに触れさせないように、皆そのすれすれのところを守りながら過ごしている風に見える。

ヨランタを訪ねた際に母が言った「最近、ペーターが昔のマンフレードみたいにおかしくなっている」という言葉を聞きながら、あの時代において「おかしくなる」とはどういうことなんだろうか、と考えた。逆に「おかしくない」状態とはどんなものなんだろうか。国や社会に従順であることが「正常」で、無謀にも逆らうことが「異常」なのか。国に疑問を持ち声を上げることが「正常」で、何もせず大人しく黙っていることが「異常」なのか。「異常」も「正常」もその時代によって、国によって、簡単にひっくり返る。それも、きれいに表と裏、誰かにとって1が正常で2が異常、誰かにとっては2が異常で1が正常、だなんて決まっているわけもなくて、異常も正常も、人の数だけ、社会の数だけ、無数に存在する。社会が定めた「正常」に当てはまらない人は、常に「異常」とみなされる。あの時代の東ドイツとは定義される「正常」の種類が違うだけで、それは今の日本も同じことだろう。現に今、色んなところで色んな人が、「あの人はおかしい」と誰かを簡単に反対側の位置に置いているのを見かける。そしてきっと知らず知らずのうちに、私もそれをやっているのだろうな、と思う。

正しさは確実に自分の側にあると信じて疑わない人の言葉は、仮に例えそこに社会としての正しさや、科学的な正しさがあったとしても、どこか恐ろしい。母がヨランタに言った「あなたが反対側の人間だってこと忘れてた」というのは、「反体制側の人間」という意味もあるかもしれないけれど、その言葉の核は、もっと根深いところにあるのかもしれないな、と思う。自分にとっての「異常」の位置にある相手、自分にとっての「異常」に「正常」を置く相手、分かり得ない、理解し得ない、「おかしい」人。

一番分かりやすく「おかしい」ように見えるのは、ミランである。突然叫びだし、会話も時折成り立たず、よく分からないことを言う。ミランは確かに、精神を病んでいるのだろう。けれど、彼は「おかしい」のだろうか。刑務所で「虐待」され、自分の思想や意志を暴力的に奪われた人間が、精神を病むのはおかしいことだろうか。異常な世界の中で異常な状態に陥ってしまうのは、「異常」なんだろうか。その中で病まずに正常でいられることは「正常」なんだろうか。社会と、個人のあらゆる正しさとおかしさがぐちゃぐちゃに入り混じったあの時代、健やかに生きることはどれだけ難しかったのだろう、と想像する。ブロイアーおじさんの「また落っこちたくはないんだ」という言葉。彼はどれだけのものを封じ込めて、毎日を「正しく」過ごそうとしていたんだろうか。

 

 

正しさの代わりの愛

ここまで書いていて、私は2部の大人たちを「正しさ」を軸に捉えていたのだな、と思う。正しさ、言い換えればその人の美学、こう生きるべきだ、こうあるべきだ、その人が生きるための、軸となる何か。それを奪われ、維持できなかった大人達が、2部には出てくる。ただ、彼らがそれのためだけに生き、それを奪われ、彼らにとっての大切なものが何もかもなくってしまったのか、と言うとそれは違うような気がする。

ブロイアーおじさんは、出所後、エヴァとペーターとラルフと4人、家族として暮らす。きれいな仕事ではない仕事をして、いつもよろりと歩く姿を見れば、彼にとって楽な生活だったわけではないことが分かるけれど、大切な二人の息子と妻と暮らしたブロイアーおじさんは、不幸せな訳ではなかったんじゃないか、とも思う。かつての英雄としての自分を失くしたとしても、何もなくなるわけではなくて、そこにまた「ブロイアーおじさん」として生きる暮らしが新しく生まれた。エヴァの夫として、ラルフとペーターの父親として、別の人生を知り、過ごすことができたブロイアーおじさんは、もちろん元の活力溢れるマンフレード・ブロイアーに戻ることはできないけれど、それでもそこには別の幸せもちゃんと存在していたのではないだろうか。

7年後、ヨランタには赤ちゃんが生まれる。スーツを着たミランは、花束を持って妻と子どもの元に向かう。その7年の間にふたりの間に何があったのか、ふたりがそれぞれどんな時間を過ごして、どう変わったのかは分からない。けれど、ふたりで過ごすことでしか辿り着けない場所に、ミランとヨランタは7年間歩いて行ったのだろうな、と思う。ヨランタにそっくりな赤ちゃんを「子豚ちゃん」と呼ぶミラン。その前にはけっして見せなかったあどけない笑顔で子どもとミランに笑いかけるヨランタ。常にピンと張っていたふたりの間の空気が、とても柔らかくなっていた。 

 

「正しさ」は、一人のものだな、と思う。

それは私たちが生きるうえでなくてはならないもので、持たずにはいられないものでもある。誰かと共有することもあるけれど、全てにおいて共有できる人などいない。けれど、誰かに対する気持ちは、相手がいて初めて生まれるもので、一人で作れるものではない。

ブロイアーおじさんにとっての、エヴァと子ども達。ヨランタにとってのミランミランにとってのヨランタ。そして二人にとっての子ども。彼らは正しさを失ったけれど、失った場所にそれを戻すことはできなくなってしまったけれど、そこに誰かへの愛を置いたんじゃないだろうか。それで苦しさがなくなるわけでも、その場所が埋まる訳でもないけれど、それでも、それが彼らを生かし続けることはあるんだろう。正しさが混沌としていた時代だからこそ、自分の中に軸を築けないからこそ、誰かへの気持ちを拠り所として、大事に持つ。それが幸せへと繋がるのかはわからない(ペーターはそのために残ったことで最後傷付く)けれど、それでも愛を選ぶ人がいて、そして選ばない人もいて。色んな選択をした人がいたんだろう。あの時代のあの状況だからこそ、「愛する」ことが人々にとって、今よりずっと、命に直結するぐらいに大きなことだったのもしれないな、と思う。愛が全てを解決するなんてことはあり得ない。3部の彼のように、愛によって失われるものもある。けれど、失くしてしまった自分の正しさや、取り返せない過去、それらでついてしまったどうしようもない傷を、ひび割れて戻らない自分の隙間を、愛が埋め合わせて救ってくれることもまたあるのだろう。

と、ここまで考えてようやく、ずっとどこか腑に落ちていなかったこの作品のタイトルが、自分の観てきたあの世界に馴染んだような気がする。私にはまだ到底辿り着けなさそうな愛と、生きることと、死ぬことの、話。観終わった今も分からないことだらけだけど、分からないことは分かった(気になった)ことよりもずっと自分の中に残るから、きっと、これからも時々思い出すのだろうな、と思う。