140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

COLOR②

COLOR① - 140字の外

これの続き。

 

4回目

my初日ぶりの浦井ぼく。

とはいえ、2週間も間が空くととかなり記憶も薄れてしまうので新鮮に観ていたような気がする。うらそんそんうらそん、の5回のうちの4回目。その前の3回を経て何故かCOLORという作品に対するブレーキがだいぶかからなくなったので、「多分今回はそのまんまそこに居ればちゃんと観られるだろうな」と思った。

そして、ちゃんと居れたし観られた。安心した。浦井ぼくをちゃんと知れた。分からないけど、知れた。

 

成河ぼくを2回観た後の浦井ぼく、重力が3割増しぐらいに感じた。重くて、柔くて、脆くて、暗くて、どこか閉じている。この「暗い」とか「重い」、比喩的な意味合いではなくて、ただ暗い、だし、重い。"暗い人"の"暗い"じゃなくて、"重い話"の"重い"じゃなくて純粋な意味の"暗い"、"重い"。何でそう思うのかは分からなかった。草太が暗くて遠い場所に進んで行ってしまう、その孤独さが深海みたいに深くて、暗くて、見えなくて、危ういな、と思った。

 

 

観劇後、ふせったーに書いていたことを読んで、少しまた思い出す。

 

一方のうらいぼくは、自分の世界の周りの「分からないこと」も、「分からない」という状態自体も不安で恐ろしくて、昨日も書いたけれど、外からのあらゆる刺激に対して感覚過敏になっているように見えた。音も光も人もモノも、世界の全てのボリュームが過剰でうるさくて、その上その全てがわからないから怖いのだろうという感じがする。植物に顔をうずめる姿は、家を出て静かな場所に逃げ込むのと同じく、何も語らない植物は静かで心地よくて落ち着くのだろうな、とか。世界に対して閉じることで外界から身を守っているような。身体的には母よりも父よりも大きいはずのうらいぼく、猫背で一人ぽつんとそこにいる姿がとても小さく見えた。

 

そんはぼくの場合は明るさが曇るのがつらい、と見ていて思うけれど、うらいぼくの場合はせっかく少しずつ少しずつ開いた彼の心が、開けた世界が、また誰かの小さな拒絶によって閉じてしまうのがしんどいな、と思う。

 

結局2回しか会えていないので、彼がどんな人だったのか私はあんまり分かっていないような気がするけど、まぁ分かるってなんだって話だけど。

浦井さんの草太は、深くて暗くて濃い、奥まで色が詰まったような人に、最後、なるように見えた。新しい過去が作った彼の色。母との衝突の場面、ずっと探して、求めて、繋ごうとしていた過去に辿り着くことを諦める。その後、秋の場面で「みんなと同じようにはなれない」と言う彼に「自分だけの色」を探してみたら良いと母は言う。そうして着地した場所が、浦井さんの草太は、暗さや、孤独や、喪失の許容にあるような気がした。思い出せなくて良い、今この時の自分があればいい。同じ意味を持った言葉を聞いているはずなのに、成河さんの草太が発する言葉とは受け取るものが違う。

最後、「もっと感動する色に出逢えるかもしれないから」の言葉の置き方が、この日はすごく印象に残った。希望ではなくて、未知への安心みたいな言葉に聞こえた。不思議だった。

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濃藍(こいあい)とは?:伝統色のいろは

 

 

 

5回目

my楽、そんはぼく。もはや馴染みがすごい(自分にとって)。

浦井ぼくをちゃんと見られた後のそんはぼく、やっぱり白いなぁ、と思った。そんはぼくは始まりがかなり白い。物事の意味がなくて、世界がすべて無印で、白くて、世界をじーっと見つめている。その白さが明るくて、その白さが世界を反射していて、少し眩しいぐらいに真っ白に見える。

そんなことをぼんやり考えながら、うらいぼくが暗く見えるのは浦井ぼくにとっての世界が暗くて不可解だからで、成河ぼくが明るく見えるのは、世界が真っ新で真っ白だからだろうか、と思ったりした。成河ぼくは自分を囲む世界それ自体に恐怖は感じていないような気がする。未知の色が違う感じ。世界やそこにあるすべてに意味付けがされてなくて、だから、「生き返らなきゃ良かったのかな」という言葉も自分という存在が生きていることの意味への素朴な疑問、という感じがする。

 

そんはぼく、割と世界に対して最初から開いてるような感じがする。でもだからこそ、外に出て人に会い心を閉ざしていってしまう過程で、その明るさが曇ってしまうのが見ていてしんどくなる。光が澄んでいて真っ白な人に影が差すのを見ると辛くなってしまう。けど、その後新しい過去を構築していく過程で、また健やかさを取り戻していくのを見て、あぁこの人はやっぱり真っ直ぐでたくましくて、光の純度が高い人なんだなと思う。

 

ふせったーでこんなことも書いていた。わかる。成河ぼく、真っ白だからこそ、その明るさが翳っていくのが見ていて辛いな、と思った。成河さんの草太は世界に、周りの人に、きっと最初は積極的に開いていたのだろうから、開いたまんま晒した、むきだしにした心が、無遠慮に適当に傷付けられたのだろうな、とか思うと辛い。作り笑いをする姿も、それすらできなくなる姿も、あんなに外に真っ直ぐに向いていた明るい目が、暗くなって内側に閉じていくのも、痛ましくてつらい。

ただ、そこから、小劇場が爆発するんじゃないかというぐらいの母との感情大大大衝突バトルを経た後の成河ぼくは、また明るさをまた取り戻すように見える。息ができない、と本当に苦しそうに泣いて、わんわん母の胸にしがみついて泣いて、成河ぼくはまた世界に戻っていく。やっぱりなんというか、基本的には開放的な感じがする。あそこでまた、開放の人に戻るのだな、という感じがする。ただ、また真っ白な明るさに戻るのではなくて、成河さんの草太は、最終的には爽やかな、空みたいな、風みたいな、淡い水色の色の人に見える。新しい過去を、真っ新なうえに新しく築いていく、逞しさと清々しさが見えるような気がする。その健やかさが、植物みたいな人だな、と思う。

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薄水色(うすみずいろ)とは?:伝統色のいろは

 

 

そんなこんなで私の全5回のCOLORは終わった。最終的に全部観終えてみて、こうやって少し書いてみて気付く、最終的には、COLORを物語として受け取っていたな、と。

結局のところ、私はやっぱり物語は物語としてしか見られないのだと思う。物語であるからこそ安心してそこの世界にいられるし、そこにいる人を真っ直ぐに見ていられる。この作品が、物語としてではなく、何とも位置付けられないような場所で、現実と虚構の間で、この作品を受け取ることを意図していたのであれば、私はそれからは外れているんだろうし、そこにはやはり立てない。

例えば、誰かの人生に自分の人生を見てしまうこと、誰かの人生の余白を勝手に想像してしまうこと、時にその想像で埋めた視界からその人を語ってしまうこと。物語を見るときにはゆるされるそれは、実在する人間にやってしまったら、簡単に暴力になってしまう。ドキュメンタリーやエッセイ、本人が本人として何かを語るのなら、そこで語られた"それ"が全てだ。そこ以外に真実はないし、そこから色々考えたとしてもそれはこっちの話だ、と思える。けれど、それを元にした物語は、やっぱり難しい、と思う。

エッセイとかドキュメンタリーとか、そこまで遠くなくても、例えば近くの友人とか、その辺の歩いてる人とか、その言葉や行動からその人の背景を想像することは自由だと思う。というか、想像すること自体は、他者の視界を覗こうとして見ること自体は、むしろ必要だろう。分からないからこそ、見えないからこそ、見てみようとするしかないから。けれど同時に、そこに勝手に"物語"を見てはいけない、とはやっぱり思う。勝手に感情を付与して、ストーリーをつけて、他人の人生を加工して見ることは、見た気になってしまうことは、恐ろしい。

 

だから「実話を元にしたフィクション」は、私にはやっぱり向いていないんだろうなと思う。それが作られることそれ自体はその作り方次第だと思うから、別に良い悪いはないのだろうと思う。ただ同時に、安易に実在する他人の人生に感情移入してしまうことに慣れてしまうのは、やっぱりなんか悍ましいよな、とも思う。でも、その「実話」を生きた人に誠実に作られる作品があることもわかる。でも……と続く言葉をいくらでも繋いでしまいそうだ。なので、まぁ白黒つけられる話ではないといういつものそれだろう。今回で一つわかったのは、私はなかなか一発では受け取れないな、ということぐらいだろうか。受け取れるにはある程度の条件が揃わないといけない、ということも。

 

ただ、5回観てみて、COLORという作品を受け取ってみて、全部詰まっていて飽きる時間がなかったな、とか役者さんのお芝居が素敵だったな、とか、そういう頭の部分の感想を置いておいても、観られて良かったな、と思う。

 

この作品を観ていると(といってもちゃんと観られるようになってからの話だけれど)、知らないうちに、心の層の一番奥の部分でそこに居るような感覚になる。心や自分の在り方の構造、多分人によって認識が違うと思うけれど、私は一番柔い(一番幼い、古い、でもあるかもしれない)自分が一番内側にあって、一層、二層、三層、とそれからの自分が周りを覆っている、それで、全ての層が全部ある状態、最新の私の層が一番外側で偉い顔をしているのが「今の私」の通常形態である、みたいな認識をしているのだけれど、COLORは、その中でも一番内側の層の部分が外側にくるまでべろん、と剥がして、そのその自分を客席にすとんと座らせて観ている気分になる作品だな、と思った。ほわほわで、柔くて、定まらなくて、剥き出しの状態の層。それは多分、自分の存在の輪郭を掴めない「ぼく」がそのまんま目の前にいるからなのだろうし、その「ぼく」が新しく自分を少しずつ重ねていく姿を見ながら、私の中にも、そうやって自分の存在を構築してきた記憶が、表面的には残っていなくても、身体的に残っているのだろうな、と思ったりする。ふわふわな状態で「ぼく」を見て、時に今の自分や、間の層の色々な自分が、色々なことを感じ、考える。行ったり来たりしながら、目の前で自分を探し、自分を重ねて、構築していく「ぼく」を見る。純粋にその時間が面白かった。

ただ、そこの自分はあまり言語を持たないので、COLOR、感想という感想が出てこないな、とも思う。外側の自分が考えたことは一部残るけれど、大半は劇場に置いてきている気がする。ただ、まぁ、何かを感じ取ったり、持って帰ったりするのではなくて、そこでただその時間をそこで見て、過ごす、というだけでいいのだろうなとプログラムのめぐさんの言葉を読みながら思ったりもした。何でもかんでも持ち帰らなくていいし、生成しなくていいし、増えたり減ったりしなくてもいいんだろう。ただ、そこで時間を過ごしたという記憶は、私の中のどこかには埋まって残るのだろうから。

 

 

 

さて、初対面では「あまり仲良くなれないかもしれないぞ…」と思ったCOLOR、最終的には割と仲良くなっていたことに気付いて面白いな、と思った話でした。久々になーんにも考えずに頭の中の言葉をそのまんまの温度感でブログに書いている気がする。ほとんど見返してもないので誤字もあるだろうけれど、この温度感で書く文章も楽しかった。

 

そんなわけでCOLOR東京楽、おめでとうございました。観られて良かったです。地方公演も走り抜けられますように。