140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

マタ・ハリ2025 〜拝啓マタ・ハリ様〜

 

元々の手持ちは東京公演の4枚だった。

 

初見作品に対して用意するチケット枚数としては妥当だったと思う。しかし、東京公演が終わり、自分でもびっくりするほど「足りない…」と思った。4回も観たのに。作品通いの人からすれば4回は少ないだろうが、一般の観客としては十分な枚数だ。1階席から観られなかったのは心残りではあったが、一度も見切れることなく全4回のmyマタハリを楽しむことできた。けれどなぜか、全然足りてなかった。自分の中の渇きにびっくりした。マタハリが欲しい。マタハリに飢えている。マタハリで潤したい。思考回路がどんどんラドゥーに近づいていく自分が気持ち悪くて面白かった。

しかし足りないとは思っても、恋焦がれたマタハリは東京を去ってしまったし、大阪の日程には都合が合わなくて行けないし、基本各地方公演には出向かない私にとっては博多座はあまりに遠すぎた。私にとって博多座とはフォロワーたちがTLで見せてくれる、いつか行きたいなと思っているがそれは今ではない…の状態が数年続いていた小さな夢ぐらいの遠さがある、噂に聴くだけの素敵な劇場であった。なので全然マタハリが足りていないけれど、大人しく配信を待ち、そのうち届くだろう2021マタハリのDVDを待とう…と思った。

 

 

はずだった。

f:id:kinako_salt129:20251111235510j:image

人生、何が起こるかわからない(小規模)。

(小規模)とは書いたが、私にとってはかなりの特大ビッグニュースである。一人で飛行機に乗ったこともなく、愛知公演より遠い劇場に向かったこともなく(それですらかなりの好き作品に限る)、基本的に「飛行機取るのとか考えただけでめちゃくちゃめんどくさい、一人で飛行機取って乗るまでの工程を考えるともうベッドに沈み込みたくなるよね〜〜博多座も梅芸もいつかは行きたいけど、よほどの狂いがないとむりだろうな〜〜」みたいなことを常日頃ベッドに寝そべりながら思い、ツイートしている人間が私である。そんな人間が、博多座公演1週間前を切ってから博多座行きを決めることが、あるんだ…………といまだにびっくりする。流石に自分の手で粛々とホテルを押さえ、飛行機を押さえ、最後にチケットを仕掛けていったあの狂気的な行動については身に覚えがあるので、気付いたら博多座にいたとは言わないが、いやでも、気付いたら飛行機に乗っていた感じはあった。「えっ、私本当に飛行機に乗っているんですが……」と思った。保安検査場を通り抜け、搭乗ゲートを通過し、座席に座ってみたら本当に博多座行きを決行してしまったらしい自分に驚いた。人生はわからない。

 

詳細はリアルタイムで沢山呟いていたので省略するが、myマタハリ博多座は本当に楽しかった。初の博多座観劇がマタハリでよかったし、念願の博多座は本当に素敵な劇場だったし、やっぱりあの時狂気に任せて博多座行きを決めた自分は正解だったと思う。滞在した2日間はお天気も良くあったかくて、外を歩いているだけで気分が上がった。特にどこにも行けなかったし、博多らしいものも食べなかったけれど、旅行気分も味わえた。日常から離れた土地で過ごす時間はやっぱり特別で、心地がよかった。

ありがとう博多座、ありがとうマタ・ハリ、ありがとうマタ・ハリ博多座公演。

そんなわけで、博多座マタハリの振り返りはこんなところにして、ここからはマタハリの話をします。とはいえ、もうすでにマタハリの感想については沢山ツイートしているのだけど、なんとなくマタハリで記事を残しておきたくてこれを書き始めてしまった。

好きな作品の登場人物に対しては、一登場人物としてではなく、観るたびに一人間として対峙しているような感覚が強くなるので、今回は最後にマタに手紙を書こうかと思う。沢山呟いた感想は私の観客としての言葉だけど、ここでは私という人間として、舞台の下からでも上からでもなく同じ地平の上に立つひとりの人間としての言葉を、二人のマタに向けて綴りたい。 後半でこそアルマンやラドゥーのことをたくさん考えてはいたけれど、私がこんなにもこの作品を好きになれたのは、やっぱりこの作品の中で生きるマタという人のことが好きだったからだと思う。マタという人は常にこの物語の中心にいて、主軸で土台だからこそ、意外と私は彼女について書いていなかったなと思い、二人のマタに向けて手紙を書いてみたくなった。

 

 

 
拝啓 柚希マタ/マルガレータさま

私はあなたのことを初めて観た時に、すごく動物的な美しさがある人だなあ、と思いました。動物として、生命として強くて、逞しくて、美しくて、エネルギーに満ち溢れている。私の500倍ぐらいのエネルギー量がありそう。静かな森で偶然目が合った、神聖で美しい、けれど生命力に満ちた鹿みたいな、そういう、動物的なのに神秘的な生き物を見てしまったような感覚になって、じっと見つめてしまった。

そう、マタとしてのあなたはすごく、上に書いたように力強い人に見えるのに、舞台裏の姿はとっても自然体で、朗らかで、誰相手にも同じ高さに立って関わりそうな人で、世界に対する包容力があって、純粋で、時に女の子のようだった。だから、「ああ、この人はマタハリという存在を作り上げたんだなあ」と思いました。でも、強い仮面を被った人という印象はなくて、マタにもマルガレータにも、私は生命的な逞しさを感じた。

マタハリという存在は確実にあなたの要素から作られているけれど、マルガレータとしてのあなたは別個としてずっと生き続けてきて、それはマタハリとは別に存在しているように見えました。マタハリとマルガレータの間には幕がしっかりとある。けれどマタとしての姿が偽物というわけでは決してなく、彼女の力強さも堂々としたふるまいも、周りを魅了する圧倒的な美しさもあなたを元としていて、舞台に立つマタハリを見てこそあなたという人がわかる、とも思う。

私はよく人の"素"ってなんなのだろうかと考えているのだけど、一般的にはあなたの舞台裏の姿を人は"素"と呼ぶのかもしれない。マタとしてのあなたとマルガレータとしてのあなたは確かに分かれている。人は力を抜いた姿を"素"と捉えることが多いような気がするし、私もそう思ってしまいがちです。ただ、作り上げた姿があったとして、その中にもその人の本質は現れるように思うから、マルガレータとしてのあなたを素と呼んでいいのかはわからない。けれど、何にしろあなたが、皆を魅了するマタハリとして作り上げる姿も、飾らないマルガレータとしての姿も、とても好きでした。マタハリのあなたもマルガレータのあなたも、いつでも自然体に見えるから不思議だった。

マタ・ハリ」という存在を作り上げるまでに、痛みも苦労も迷いもきっと沢山あったのだろうし、あなた自身にはないものを身につける必要もあったのだろうけれど、それでもしなやかで逞しく、大地にどっしりと根を張った、力強い美しさを咲かせているマタハリという人もまたあなた自身なんだなと思いました。あなたを見ていると、その人の持つ色んな要素が、舞台の上に立った時には宝石のように、形を変えて輝きを変えて現れるのだな、とも感じられた。時に大木のような逞しさを、時に道端に咲く花のような普通の愛らしさを、けれど時に手の届かない一輪の花のような気高さを見せるあなたは、人としてとても美しかった。私にあなたの輝きを、その生き様を見せてくれてありがとうございました。

 

 

 

拝啓 愛希マタ/マルガレータ様

「人って発光するんだ……」とあなたを見た時に驚きました。内側から光が漲っていて、その光の元はあなたがマタハリとして生きてきた中で育てた、身につけた強さであり、美しさなんだろうなとも思いました。

私はあなたのことを、強度の高い硝子細工のような人だなと思う。硝子細工は細やかで繊細で脆くて、けれどだからこそ美しい。本来落としたら割れてしまうような、守られるべき、大事に扱われるべきものだけれど、あなたはマルガレータの人生ではきっと一度も、誰からもそう扱われはしなかった。だからきっと、何度も落とされ、投げられ、踏み潰されたのだろうと思います。

人が強さを身につけねばならない時、簡単というか、よくやりがちな術として、細やかさを封じ、ある程度鈍感になり感覚を薄れさせ、粘土みたいなどてっとした固さとある種の柔らかさを持って外界からの衝撃に備えるというやり方があって、そうすれば落としても割れないし、些細な衝撃で壊れることもない。ただ、その過程で、元々あった細やかさみたいなものは失われがちだと思っています。人の命が常に危険に晒されていたあなたの生きた世界でもそういう人はいくらでもいたでしょうし、残念ながら私の生きる世界でもきっと沢山いる。私の中にもそういう部分はあります。

けれどあなたは、その細やかな美しさを保ったまま、そのまま強く、固く、外からの攻撃を受けても簡単には壊れない存在の仕方を、マタハリとして生きる中で磨き上げていったのだなと思います。だってあなたは、マタハリとして強く生きるその姿も、硝子細工のように細やかで、万華鏡のように精緻な美しさを残したまま、輝いているから。繊細さを美しさとして残したまま、けれど自由に強く我が道を進むあなたの姿は、とても眩しくて格好良かった。

「そうして私は生まれ変わったのよ、マタハリとして」というあなたの言葉が私はとても好きです。マタハリとしての生に魂をかけて生きる気高さが、勇ましさが、眩しくて大好き。虐げられたマルガレータの人生を抜け出して、マタハリになったからといって、相変わらずあなたを支配しようとする男もいただろうし、あなたが生きた道筋を蔑む人もいくらでもいただろうから、脆くて美しい硝子細工のままではとてもいられなかったのだろうなと思います。マルガレータの人生でも、マタハリの人生でも、きっとあなたは沢山の傷を負ったのでしょう。それでも「傷さえ輝く宝石のように」というあなたの言葉のとおり、あなたは強くて、眩くて、美しかった。あなたを下に見る人やあなたから何かを奪おうとする人たちに屈せず、自分を奮い立たせ、決してその輝きを曇らせなかったあなたが大好きです。あなたの生き様を見られて幸せだった。ありがとうございました。

 

 

 

多分観る前から何となく好きなんじゃないかな、とは思っていたものの、こんなにもマタハリという作品を好きになるとは思っていなかった。

「生き抜いてこそマタハリ」というアンナの言葉通り、戻れはしない自分の人生を、ひたすら前に進め続けて、どんな瞬間もすごく"生きている"感じがする彼女のことが、そうして最後まで自分として人生を生き抜いた彼女たちのことが、私はとっても好きだったのだと思う。

 

 

強く美しい二人のマタハリにたっぷりの愛を込めて。

ありがとうございました。

 

 

ここが海

 

2025.9.23

f:id:kinako_salt129:20251230201153j:image

 

開演前も開演してからも、流れる海の音が印象に残った。

 

私はどちらかといえば海に縁のある人間なので、海は遠いものではなく近いもので、行くものではなくてそこにあるもので、近すぎるからなのか逆に海に対する固定の印象というものがあまりない。時には淡くて、時にはじめっとしていて、時には寛大で、時には清々しくて、時には吸い込まれそうで、時には無口で、時にはきらめいていて、時には安らぎをくれる。海は色々な顔を見せるから、海の固定的な印象というものがない。

この作品の海は静かだな、と思った。静かで、ずっと同じようで、ずっと繰り返すようで、けれど少しずつ確かに変わっていく、彼らの生活や関係性のようだった。

 

 

 

 

岳人

岳人という人が、最初は正直苦手だなと思った。

冒頭、仕事の話をしている時も、友理が自らを男性だと思っていると打ち明けた時も、「あ、なんかこの人のこの感じ、苦手だ」と思ってしまった。早口で自分のペースで話を進めたがる、自分の論理の枠の中で話を収めたがる、そうして"納得"しようとする、そういう人に見えたからだった。真剣に話をする時に笑っている岳人がいやだなと思ったし、だからこそ何で笑っているのかと訊く真琴に「もっと言ってやれ」とか思っていた。

けれど、あれは多分彼の防御壁のようなものだったのだろうな、とも思う。何か大きなことを体験した時、それがその人にとってすごく衝撃的で、時には傷付くことで、けれどそれ受け入れなければならない時、人は笑ったりする、と読んだことがある。また、あまりに自分の傷に近くて、自分にとって大きすぎることを語るとき、人は笑うことがあると。笑うしかないことがあると。それとはまた少し違うかもしれないけれど、彼にとって友理の告白は、あまりに大きくて、あまりに衝撃が強くて、倒れないために、扉をバタンと閉めてしまわないために、彼は笑うしかなかったのかもしれない、と最後まで観て、今また振り返って思う。

最後の方にはすっかり岳人に気を許していた。舞台上の人物に対する「気を許す」感覚というのは面白くて、自分の席と舞台上のその人との距離は変わらないのに、気づいたらすごく近くにいるような気がする。最後には岳人はすごいな、と思っていた。最初「うげぇ」とか思ってごめん、と思った。私は人の言動やふるまいのひとつにその人のすべてが詰まっていると思いがちな癖があるな、と反省した。たしかに、私が最初岳人に抱いた警戒心の中身の一部は合っていたかもしれない。けれど人は変わるし、人は色々な側面や層を持っているし、特に大きな出来事があった時、その人はその人の"通常"を保てなくなる。揺れて、固まって、また揺れてを繰り返して、その変容に対応していく。自分の日常を、自分の中の枠組みを、変えざるをえなくなった岳人が、繰り返す日常の中で、ホテルの中で、コテージの中で、熱を出したり耳から血を出したりしながら、変化を遠ざけることなく、友理の告白を、決断を、それにともなう変化をともに引き受けていく過程は、すごかった。すごかった以外に何か言葉が思いつけば良いけど思いつかないので、すごかった、と今は書く。岳人はすごいな、と思った。

 

 

 

友理の声は、2回目の登場時にはかなり低くなっている。あの時点での友理は意識的に自ら声を低くしていたのだろうか、と思う。もしくは、「高めに喋ることをやめた」のか。

彼女の声の変化について、日常的に近くで過ごす岳人は最初「気づかなかった」と話していた(それが本当かはわからないけれど)が、断片的な日常を見せられる私たち観客には、友理の変化が分かりやすい。友理の声は低くなり、口調も変わり、服装も変わり、いつしか真琴は「友理」と呼ぶようになり、友理自身のふるまいも、周りのふるまいも変わっていく。

私はこれを見て、社会的な性別の記号を、友理が付け替えたように感じた。「ぽさ」について真琴と岳人が話す場面がある。ぽくするのかな、いや、ぽさの問題じゃないでしょ、いやでもぽさを意識せざるをえないみたいなこともあるじゃん、みたいな(うろ覚え)。たとえば、声が高いこと、控えめなこと、柔らかい口調、服装、足の開き方、会話の時の(精神的な)姿勢。友理が無意識に、また意図的に自らから取り外した「女」に付与される記号を、私は普段どれだけ身につけているだろうか、と思った。平成で生まれ育ち、令和で大人をやっている私は、その前の世代と比べれば「女」の記号とされるものをあえて自らに貼り付ける機会は少なかっただろうし、今も少ないだろうと思う。けれど、昔は柔らかくも高くもない自分の声が好きじゃなかったし、愛嬌があると評されるタイプではない自分の性格は万人受け(≒社会受け)しないだろうとどこかで思っていた。過去形で書いているが、完全に今思っていないかというとそうとも言い切れないので、 自分に巻きついた不要な記号の残骸をべりっと剥がして放り投げたくなる。

友理が感じた自身の性別への違和感というのは、まず身体的なものでもあったのだろうし、そういった社会的な性別役割として「女」に付与される性質に対するものでもあったのだろう。だから、それから自らを切り離すために、「女」ではなくなるために、口調を、声の高さを、振る舞いを、服装を、変えた。自らに貼りついた「女」の記号を剥がし、「男」のそれを身につけたように、私には見えた。そして、脳裏に真琴と岳人の「ぽさ」の会話が浮かんだ。

「ぽく」することが男になることなのかとか、「ぽさ」に近づけることが友理の望んでいたことなのかとか、そういうことを言いたいのではけっしてなくて、それは友理がどうありたいか、どうあるのが自然かということだから、そんなことは他人が何かを言う範囲のことではないし、言いたくもない。ただ私たちは、いや私は「ぽさ」から逃れることができるんだろうかとか、今の時代だんだんと薄れていっているだろう「ぽさ」の成分のこととか、好ましく感じて自ら選択する「ぽさ」のこととか、色々なことが頭に浮かんだ。声が低いとクールに見られたり、パンツを履いていると格好良く見えたり、髪が長いと「女性らしく」見られたり、甘いものが好きだと「かわいく」見えたりする、そういうぽさと、ぽくなさのことを考えた。考えてまた、波にのまれて、わからなくなった。また考えると思う。

 

 

「岳人はゲイじゃない」

友理が3回繰り返した言葉。

その人をその人として好きになり、そのあとでその人の性別が変わった場合、その気持ちは、その矢印はどうなってしまうのか、どうすればいいのか、分からない、と思った。私はあの言葉は、岳人からすれば「その気持ちの矢印は本来私に向くはずのものではなかった」と言われているようなものだと思った。
友理自身の性的指向は語られていないから、もしかしたら今後身体が男性になっていった時に女性を好きになるのかもしれないし、男性を好きになるのかもしれないし、もしくは誰のことも好きにならないのかもしれない。けれど、岳人は女性である友理を好きになり、結婚した。友理からしたらそれは変えられない事実で、それはつまり"「男性である自分」を「男性になった自分」を、好きになるセクシャリティ"ではない、ということだ。だから、友理にとってのあの言葉は、「あなたは私を好きじゃない」だと思った。あなたは私を、本当の私を愛することはできない。 

よく異性愛者が同性愛を"理解"するうえで「ただその人を好きになっただけで、その性別を好きになったわけではない、"その人"が好きになったのだ」という"解釈"をするが、それは同性を好きになることへの不理解から生まれる、自分の"理解"可能な範囲で同性愛者に対して"納得"するための誤った捉え方である、異性愛者が異性にのみ恋愛感情を抱くように、同性愛者もまた同性にのみ恋愛感情を抱くのだ、というような当事者の方の考えを見たことがある。
だから、きっと「友理の性別が変わるからと言って存在自体が変わるわけではない、その人自体であることは変わらないのだから愛も変わらないはずだ」とか、そんな単純なことではないとわかる。ただ、それもまた本人達にしか分からないことなんだろうなと思う。そうでない、とは言い切れないし、そうある可能性も、そうでない可能性もあるのだろう。二人のことだから、それはこれからの二人にしか分からないことだと思う。

 

女性はホルモンバランスの精神面への影響の大きさを男性よりも自覚しやすい。私も身体の影響力の大きさを毎月感じる。ホルモンで性格が変わるし、何なら人格すら変わるような気がする。別人のようだと自分でも思う。ホルモンの話だけでなく、人間は環境によっても病気によって人間関係によっても、大きな原因によっても小さな原因によっても変わる。他人に対して好きだと思っていた気持ちが、相手や自分の変化で分からなくなることは、大きな変化でなくても日常的にあることだと思う。それが、土台部分である性別であるなら、それは本人(友理)にとっても、配偶者(岳人)にとっても、ものすごく大きなことだと思う。友理自身も自分の変化を感じるだろうし、「性別」が変わることで岳人が感じ取る変化もあるだろう。その人のどの部分が好きで、その人をその人たらしめていると感じる部分はどこで、その人の何を愛しているのかなんて、本人にしか分からないし、本人だって"その瞬間"のことしかわからないだろうと思う。

 

それでも私はやっぱりどうしても分からないことがひとつあって、これは暴力的な問いなのかもしれないけれど、性愛や恋愛は、そのほかのあらゆる愛や関係性よりも上に置かれるものなのだろうか。友理が自分自身の認識する性別で生きることを選ぶことは尊重されるべきことだ。その選択を受け止めた、共にそれを引き受けた岳人はすごい、と思った(「すごい」が適切な言葉ではない気がするけど、でも私は岳人の変化も、その過程もすごいと思った)。
友理は男性になり、岳人と戸籍上「夫婦」でいることはできなくなる。友理は男性で、岳人はゲイじゃない。友理と岳人の間にあった関係性は恋人・夫婦・(子に対する)親で、そのうち前者二つは今後持続することができなくなる。友理は男性で、そして男性になるからだ。わかる。

でも、わかるけれどわからない、と思った。友理と岳人の間にあった絆が消えるわけじゃないとか、恋愛ではなく人間としての愛があるだろうとか、そんなことが言いたいわけではない、ないのに、無性にむなしくて、悲しくて、腹がたった。けっしてあの二人にじゃない。前提になっている、ありとあらゆる枠組みに対してだと思う。
二人の想いが、選択が尊重されてほしい。けれど、家族というものが、やっぱり恋愛感情をベースとした、その上に築かれるものであることを見せられたようで、それがすごくいやだなと思った。

戸籍上、友理が男性になるためには離婚が必要だ。それは分かる(いや分かりたくはない、それはそもそもこの国がいつまでも同性婚を法律で認めていないからだ)。でも、けれど、「岳人はゲイじゃない」からを理由にあの二人がもう一緒にいられないことに、恋愛関係を結ぶことはもうできなくなったからあの二人が今まで通りの家族としていられないことに、勝手にやるせなさを感じてしまった。これはものすごい個人的で身勝手なやるせなさだと思う。

友理は今まで通りを続けることに無理を感じて冒頭の話をする決断にいたったのであって、それは岳人のことを考えてのことでもあって、あの二人はあの二人の想いに基づいた選択をして、これからもまことを含めて"家族"を続けていくのだから。私のこれは、完全に私の個人的な引っ掛かりだと思う。
私は多分、恋愛関係が差し引かれると関係性が崩れてしまうというのが(いや、崩れても壊れてもないし、あの二人が構築していく変化だとはわかっているのに)、あー、やっぱりわからない、と思ってしまった。何でそんなに、根本の土壌みたいなところに、いるんだろう、恋愛というものが、と思ってしまった。本筋から逸れた話かもしれないけれど、この世のありとあらゆるところに、双方向の恋愛感情を抱く関係性を基盤としたものが作られ過ぎていることに、そこから逸れた人間は途端に生活の歯車が狂うように設計されているこの社会に、私はやっぱりうんざりしてしまうのだと思う。

 

 

途中

この作品、最後はすごく「途中」で終わるなと思った。

物語は終わり、生活は続く……みたいな「この話はここで終わるけれど、後も彼らの人生は続き、彼らの生活は続いていくんだな」という「続き」を感じたと言うよりも、すごく「途中」だなと思った。たまに開くドアの隙間から覗くように彼らの生活の断片の一部を見て、少しずつ捲られていく日付を夏から冬まで追い続けていたら、突然途中で終わった感じだった。夏から始まり、冬が来て、春は来なかった。

でも、よく考えたら、私たちの人生はいつも途中で、私たちの毎日はいつも切り悪く終わって夜になる。強制終了して眠りにつく。人生の終わりだって同じようなもので、いつか突然誰が決めたのかも知らないよく分からないタイミングで終わりが来る。私はその結末を知ることはなく、私の結末を知るのは自分ではなく他人だけだ。なんか当たり前にそうなっているけれど、そういうものとして受け入れられているけれど、よく考えると「なんだそのへんてこなシステム」と思う。あまりに不便すぎる。でも、誰の人生の今も途中で、最後ですら途中で、私たちの見る人生はどの瞬間も途中なのだ。

常に途中で、変化の渦中で、わからないことはわからないまま目の前にある。わかるのがいつなのかもわからないし、わかるようになるのかもわからない。目の前の問題がいつ解決するか、解決するのかしないのかもわからない。いつでも途中で、問いも途中で、答えも途中で、中途半端だ。だから、私はこの作品を観終わったときに、「終わったな」と思わなくて、「途中なんだな」と思った。彼らの生活はものすごく途中だった、私のそれが途中なのと同じように。あの三人はこれからどう生きるんだろう、という大きな未来の話というよりは、あの三人はあの後どこに住むんだろうとか、来年も飾りをつけてお祝いするんだろうかとか、真琴はまだどこかにゴミを入れ続けてるんだろうかとか、そういう、あの日の小さな延長線上の"明日"の積み重ねを想像した。あの三人も途中を生きていて、小さく変化し続けるこの社会の中で、またあの三人の在り方も関わり方も変化していくのだろうなと思う。私にも彼らのその先がわからないように、彼らにもそれはわからないのだよな、と思って、当たり前なのだけど、私たちは平等に途中なんだなと思った。

 

 

 

日常は繰り返しだ。同じような毎日を繰り返して、気づいたら季節が変わり、生活の一部が少しずつ組み変わっていく。その積み重ねの上に社会の変化があるのだなと思う。友理たちの生活の先に私はいて、私たちは同じ、地続きの地平の上に立っている。あの三人の家族の会話のように、私たちは常に関わり合いの中で、会話の中で、高度なキャッチボールをしていて、そこにはありとあらゆる前提が置かれていて、けれどその関わりの中で、その前提もまたくずされ、形を変えてゆく。私たちはいつでも種を持っていて、それは社会を変容させてしまう可能性を持っていて、大きな変化を生むための種を、日常の中で、誰かとの会話で、ひとつのツイートで、日々の生活の小さな選択で、蒔いているのかもしれない。

 

 

 

フランケンシュタイン 〜私の脳に一体何が起きていた?〜

 

フランケンシュタイン東京楽おめでとうございました!(※と言っていたら書き終える頃には名古屋も無事に終わりました、名古屋楽もおめでとうございます!)

f:id:kinako_salt129:20250430163914j:image

フランケンについては①②と日記を書いているのですが、追加で書いておきたい話をもう少し書こうかなと思い、まとめとして書いてみることにしてみました。

 

基本ノープランで文章を書くので今回も適当にどかどかと書いていくのですが、珍しく目次だけ作ろうと思います。はい、では行ってみよう!

 

 

目次

  • 一体私の脳の中で何が起きていた…? 
  • ルンゲ〜〜〜
  • ifルートを考えてしまう
  • 怪物は目の前の人間をトレースする?
  • 4回目(4/29ソワレ)の話 (穏やかなアンリ、ビクターの狂気、怪物の中のアンリ)
  •  一体私の脳の中で何が起きていた…?(リプライズ)
  • もう1回少しだけ距離を取って自分の話を聞いてみる( 2幕の食べ合わせの話/視点の話/カトリーヌの話)
  • それでもやっぱりフランケンが好きかもしれない

 

 

一体私の脳の中で何が起きていた…?  

フランケンシュタインと自分との化学反応が本当に不可解すぎて、初回から4回目(※書き終わり時点では5回に増加)までずっとなんか本当に自分に何が起きているのか分からない。私の脳で何が起きていますか…?これを書いている今もわかっていない。というかそもそも久しぶりの観劇ブログがフランケンになっていることに自分でも驚いています。

正直、円盤で観て「う〜ん、あんまりfor meじゃなかったかも……そして胃が痛い……」と感じて、生で観た1回目でも「ん〜円盤で観た時よりは面白かったし観た感覚も違ったけど、やっぱり私向けじゃないんだろうな…」と思った作品が、こんなに2回目、3回目、4回目と回を重ねるごとに印象が変化するとは思っていなかった。4回目を観終えた今、私は割と「なんかフランケンシュタイン、好きかも………」まで思っています。そんな変わることある…………?今もまだ、合わないなと思った部分が解消されたわけではないのだけど、観た後の体感がまるで違うので本当に不思議。生の観劇は何が起こるかわからないな本当に…………。人間の感情は本当に理屈ではないんですね……………。この変遷の謎(解けるとは言ってない)についてはまた後ほど書きます。

 

 

ルンゲ〜〜〜

まずルンゲの話してなかったからしたい。私はルンゲのこと、円盤で観た時は「ビクターのことを第一に考えている、本作の大切な息抜きである面白タイム担当も兼ねた、でも早々に死んでいってしまう執事のおじさん」だと思っていて、実際それも合ってはいるんでしょうけど、今回生で何回か見ていて加わった印象として「あっこの人、結構なんか、根が頑固というか、意思が強固な人だな…………?」というのがありました。「ビクターのことを大事に思っている」というのは認識していたけど、それが近くでそっと見守るような愛だけではなく、ビクターに関することであればかなりその出方が時によっては強固になりそうだなというか……。それを感じたのは、幼少期のビクターのことを殴ったステファンのことを強い目で見ていた(睨んでいるようにも見える)のを目撃した回で、「あ、この人対ビクター以外の人間に対しては結構我というか内に持つ意思が強いんだろうな」と。もちろん立場上表立って何か意見したりはしないけれど、内心「何も坊ちゃんのことを理解っていない癖に……」ぐらいには全然思っていそう。ビクターが嬉しそうに犬を生き返らせた話をする時、後ろのルンゲの表情はどんどん曇っていくけれど、ルンゲは「母の死を受け入れられていないビクター」のこともその後の「取り憑かれたように"生命創造"に熱中するビクター」のことも、どう思って隣で見ていたんだろう。幼少期からのビクターの気持ちを理解しながらも、その狂気や野望や志までは理解しきれず、それでも絶対にビクターの望みを叶えてあげたいのがルンゲなんだろうなあ。「坊ちゃん」という呼び方そのまま、ルンゲにとってのビクターはずっと幼い子どものようでもあるけど、自分の全てを捧げる絶対的な主人でもあり。

ルンゲってビクターに対しては、柔らかくて振り回されるかわいい執事なんだけど、結構他に対しては強く出たりもしそうだな……と思うんですよね。最初にアンリに注意したのもそうだけど、自分の軸の中心に完全にビクターを置いているから、この世界の圧倒的優先事項がビクターで、そこに向かうためには猪突猛進というか、その想いのために他を考慮しなそうな感じがある。ルンゲが喋るシーンは基本ビクターに向いていることが多いから印象としては主人想いの、でも主人に振り回されてあわあわする執事、みたいな印象が濃くなるけど、その他の人が喋っている時、後ろに控えながらの「大人」の顔をしているルンゲは結構硬質な人だよな……と思う。

坊ちゃんのためになんでもする、というのも決して口だけではなく、ビクターが選んだ道が仮に倫理に反していても、仮に後でビクターが後悔するだろうことが目に見えていても、多分ルンゲはビクターの意思を第一に尊重する人なんだろうなと思う。ルンゲにとってこの世界は坊ちゃんかそれ以外かでできている。なので、坊ちゃんに危険が及ぶ可能性があれば、たとえそれがアンリの顔をしていても躊躇いなく「怪物」呼ばわりして殴ることができてしまうんだよな……(いや、そもそも普通の人はあれを見て"アンリ"どころか"人間"とすらとても思えないものなのかもしれない)(でもあなたの坊ちゃんがずっと作ろうとしていたのはそういう人ならざる生き物だよ)。

 

ifルートを考えてしまう

そう、上のルンゲの件もそうなんだけど、フランケンって【HAPPY END】【BETTER END】【BAD END】の選択肢を(BETTER END?)をすべて選び間違えている感じがありませんか?MIU404で言うところのスイッチ概念なんですが………

 

フランケンシュタイン!分岐ルート>

・母が病気なのに息子が来てしまう!父、息子に対して⇨「殴って怒る」「なぜだめなのか説明する」

・葬儀屋がウォルターを殺してしまった!更にビクターは怒りに任せて葬儀屋の頭をぶん殴ってしまった!アンリは…⇨「ビクターを気絶させて全て自分が罪を負う」「一旦話し合う」

・怪物が目覚めた!ビクターは…⇨「アンリだ!すぐに駆け寄る」「今までの研究の記憶を参考に様子を見る」

・ビクターが危険!ルンゲは…⇨「坊ちゃんを守るために怪物を殴る」「怪物の気を逸らせるか試みる」

・ルンゲが殺されてしまった……もうこの生き物はアンリじゃないのかもしれない……ビクターは目の前の生き物を…⇨「アンリではない怪物が生まれてしまった…殺すしかない」「生命創造の責任を取って教育を試みる」

・ビクター、市長探しの際に姉が行方不明!姉を…⇨「探す」「探さない」

・怪物が義父も姉も殺して残るは妻と自分だけ!妻を自分の…⇨「そばに置く」「離れたところにいてもらう」

and so on....

 

ね〜〜なんかもう少し、どうにかこうにかならなかった……!!!!??!!(大涙)

しってますよ、こんな選択肢があの物語にないことは、わかってるんですよ、野暮なことを言っているのは………。切羽詰まった時こそ人は判断を誤るし、でもその選択にこそ"その人"がいたりもするし("咄嗟に"全ての罪を被ろうとしてしまうアンリさんよ……)、人間は理性の生き物じゃないし、そんなに自分の心を操り制御できるのならそもそもビクターは自分の中の抑えられない狂気に困ったりはしていないし、生命創造なんてしないしそんなことできてたらこの物語はないですからね……………。でもさ〜〜〜〜!だってあの時ルンゲが怪物を殺そうとしなかったら、ビクターが怪物をアンリの魂の器としてではなく一人の"命"として認めてあげていたら、怪物は生まれて初めて目にした人に命を奪われそうになることもなく、あんなクソみたいな闘技場に飼われることもなく、もしかしたらあの純粋性を持ったまま、それこそ"新しい命"としての人生を生きることもできたんじゃないんですか………いやそれでもアンリの記憶はいつか蘇ったのかもしれないけど………。なあ、創造主さんよ、あんたが望んだのは"新たな生命の創造"じゃなかったのかよ…………………………。あんたは結局"アンリ"に会いたかっただけなのかよ………………(そうなんだよな……………)。

 

 

怪物は目の前の人間をトレースする?

怪物の話が出たので怪物の話をさせてください。

怪物って基本的に、生来の性質としての積極的な加害性はないと思うんですよ。ルンゲのことを襲ったのはルンゲが自分を攻撃してきた外敵になったからで、多分ルンゲが何もしていなければおそらく襲うことはなかった。だから、ビクターの首を絞めたのも、加害目的でも食目的でもなく、鎖をガシャガシャするように、動くように身体を動かし、ただ触れたものに対して力を入れただけだったんだろうな、と思っていたんですが…………

カトリーヌと会話している時、歌っている時、怪物ってカトリーヌの動作を真似るじゃないですか。もしかして、ビクターに抱きついたのって、その前にビクターから後ろから抱きしめられたから、だったりしますか………?抱きつきを模倣した………?生まれて初めて見た存在を母だと思うとしたら、怪物にとってのビクターは創造主である前に母なんだよなあ……と思って。こっちへおいで、と言われて歩いていって、抱きしめられて、同じように抱きしめ返したら攻撃されるって………そんなのあんまりじゃないか……………。おい、ルンゲ………の気持ちになりました。ルンゲは坊ちゃんが第一だからね、わかるけどね。でも、怪物にとって初めて見た母親のような存在であるビクターが、自分の存在を"怪物"だとみなし、"アンリ"ではなかったからそのまや生かすことを諦め、命を奪おうとしてきた記憶が怪物の記憶の始まりなんだと思ったらさ……あんまりだよ本当に………

怪物が「捨てられた」と歌うのは、恐らくジャックがしきりにそう言っていて(恐らく喋る前から言葉を理解することはできていたのだろうから)、実際に用済みだからと追い出す時にもゴミのように"捨てた"からだと思うけど、怪物がそれに傷ついているのは、あの地獄のような場所でさえも、自分が必要とされている場所として、自分を殺さない場所として、心のどこかであの場所を拠りどころしていたからなんだろうか、と思う。あの場所をただ自分を縛る、虐げられるだけの場所だと思っていたら、あそこから出られたことを、"捨てられた"より"抜け出せた"と思うんじゃないだろうか。自分を繋ぐ鎖から解放されたいと願いながらも、存在価値を認められるあの闘技場にいられることを、生かされていることを、捨てられないことを、怪物は"求められている"と思っていたんだろうか。生みの親には、生まれた瞬間に不要の烙印を押されたようなものだから。抱きしめたかったのに、抱きしめて欲しかったのに、それは許されなかったから。

「昨日初めて見た夢」のように怪物を抱きしめてくれる人がいたら、彼をひとりの人間として受け入れてくれる人がいたら、きっと怪物はその姿を模倣してあたたかい人間になっただろうにね。それがビクターであったなら、良かったのにね…………

 

 

 

 

 

4回目(4/29ソワレ)の話

続いてまだまだほやほや、4回目の話をします。私はこの回を観られて良かったよ………

 

アンリさん、あなた……

私の観劇が、あきかず→こばかず→こばかず→あきかず、のため、my初日ぶりの中川ビクターと組む加藤アンリを見たわけですが、「本当にアンリって……ビクターに呼応してるんだ………」と驚きました。酒場のシーンも君夢も全然違うんだ………。アンリ自体が別人というわけではないけど、人間って目の前の相手に対して都度自分が作られ、形成されていくみたいなところは多かれ少なかれある(自我がめちゃくちゃ強い人間でなければ)と思うんですが、アンリさんは特にかなり相手に合わせて変化しそうなタイプっぽいしな……と思いながら久々の中川ビクターに出逢ったアンリさんを見ていた。加藤アンリという人が、中川ビクターに出逢った世界線と小林ビクターに出逢った世界線の両方を見ているようで不思議な気持ちになりました。

もちろんそれは中の人(和樹さん)が二人のお芝居を受けてその時その時のアンリを生み出しているという話でもあると思うんですが、それもまたアンリと中の人の性質の共通項みたいで面白いなと。アンリって、多分出逢った人によってかなり性質も人生も変わっていきそうな人(実際この物語の中でもビクターに運命を変えられた人でもあるので)だなと思うので、二人のビクターとの出逢いと関わりを見たことでそれがより感じられたようで。ストーリー自体は変わらないけれど、出逢う人が違えばその出来事の意味が変わるから、中川ビクターと出逢った人生、小林ビクターと出逢った人生はアンリにとってまったく違う意味合いを持つのだろうな、と思いました。

 

ところで、4回目のこの日のアンリさんの君夢、どこか円盤で観た君夢と近いところがあった気がして、とは言ってもあの「自分にしか見えていない光の道(先は死)を何の疑いもなく突き進もうとするアンリ」ではなかったので、何が似ているように感じたんだろうと考えていたんですが、多分、死を前にした時の穏やかさが似ていたんだと思う。この日の君夢は穏やかだった。「来てくれたんだね」も「覚えてる?」も「それで君が死刑になったら?」もすべて穏やかな口調で、その時点ではもう自分の人生の結末を受け入れているような静けさがあった。死刑が確定した後目を合わせたエレンに(いいんだ)と言うように首を振る時も、少し微笑むのだけではなく笑っていて、あぁ、もうこの人、納得してしまったんだ……と思った。穏やかな笑顔だった。

その穏やかさの意味合いが円盤とは違うのだけど(円盤のアンリは自分が進む先にある死に対しての躊躇いがないけど、この日のアンリがそうだったわけではない)、過去の出逢いやビクターへの想いを語る時も、まるで自分の人生を頁を大事にめくり振り返るような、それをもうこれからは続いていかないものとして語るような、固い決意の上の穏やかさがあって、その言葉をビクターは片手で制止しようとしていて。そりゃああんな穏やかに自分との記憶を過去として振り返るアンリを見たら止めたくもなる。あれを閉じた過去のようなものとして語ることは、もうその先を諦めているということだから。

そうやって自分の命の結末を"運命"として受け入れてくれとビクターには伝え、自らは納得したように笑っていたけれど、そんなあの日のアンリさんもビクターと離れた途端顔をくしゃっと顔を歪ませて崩れ落ちれていて。「君が見せてくれた〜」から始まるアンリの独白は、ビクターの前では見せまいとしていただろう、自分の中でもビクターに会うまでは抑えられていただろうもう一つの本音が、溢れてしまわないように抑えるような、自分の命の使い道はこれで良かったのだと言い聞かせるような言葉に聞こえた。いくら自分で選んだ未来を受け入れていても、その決意が固くても、目の前にいるビクターを見れば、触れれば、そりゃあ抑えていたものが、納得して蓋ができたと思っていたものが溢れてしまうだろうな……と。けれどそれでもビクターの前では出さないのがまた、何よりもビクターのことを案じる彼らしさだろうなと思った。その前が穏やかだっただけに、ビクターが離れてから「死んでも僕は幸せ」の部分で声を詰まらせていたり、最後弾頭台に上がった時に嗚咽を漏らしていたのが、ビクターには見せないと決めているだろうアンリの本当の根っこの想いが表れているようで。でもビクターのために命を終えると決めた決断にけっして悔いはないのだろうし、そう、本心ってひとつじゃないよね………………と思いました。アンリさん………あなたって人は…

 

ビクターの狂気

あの、ビクターの狂気って本当にアンコントローラブルなものなのかもしれない……とようやく……理解できたかもしれない………

幕間にこのようなツイートを残していたんですが、そう、私は中川ビクターという人のことを全然理解できてなかったんだけど(円盤、初回)、4回目のこの日、「あれもしかして、この人の中の狂気、"生命創造への衝動"なるもの、本当にアンコントローラブルなものなのかもしれない………」と初めて思って、少しだけこの異質な天才を理解できた(気になった)ような気がした。

あっきーさんという人の非凡さもあると思うけど、中川ビクターってやっぱりどう考えてもこの世界から浮き出ていて異質で、本当に「周囲から理解されない天才」で、私も例に漏れず「私、この人のこと、わからない………………」と群衆と同じような気持ちで中川ビクターのことを見ていたようなところがあって。元々頭脳が天才→小さい頃母親を失くす→生き返らせたいという強い願い→ジュリアの犬を生き返らせることができた→命を再生させることは可能と気づく→そこに希望を見出す、というビクターの思考や生命創造(≒死者蘇生)への執着の理屈は理解できるけど、それは頭の話で、心情としてはビクターという人間を受け入れがたかった。「だってこの人、絶望した世界に希望をもたらすとか言ってるけど、結局新たに世界に絶望する存在(怪物)を生み出しただけじゃん……そもそもその希望も人類っていうよりは自分にとっての希望じゃん……勝手な夢物語みたいな夢抱いて自分は安全な場所にいて、尊厳も何もない場所で生まれたばかりの状態で生きなければならなかった怪物のことを考えたらビクターの苦悩なんか知ったこっちゃないわ…………」と脳内では結構ビクターにはボロクソなことを思っていた。というのも円盤初見時の私はかなり怪物寄りの視点からこの話を見ていたので、怪物を生み出してしまったことに関しては加害者でしかないうえに無責任なビクターのことを許せなかったし、何ならアンリのことも身勝手な夢の共犯者だと思っていたんですよね。だからこそ「フランケンシュタイン」という作品を「アンリとビクターの物語」として捉えるのがすごく嫌だった。日記①でもその辺は書いていた。

私が円盤観て主に刺さらないなと思ったの、存在としては赤子と同じような罪のない怪物が、身勝手で向こう見ずな理想を抱いた「ビクターとアンリの物語」の被害者にしか見えなかったゆえに、私がこの話を「ビクターとアンリの物語」として受け入れられなかったからなんだけど、そこは少し今日感覚が変わったのが面白かった。

・作品内に倫理観に欠ける人物、未熟な人物、一見理解しがたい人物が主要人物としている時に、母目線からか人間目線からか神目線からか何らかの視点で「ああ、しょうがなかったんだな(罪は罪として)」とその"仕方なさ"を受容できると見え方が変わると思うんだけど、ビクターはちょっとまだ受け入れ難い

そう、そう思っていたのだけど、生で観る舞台はやっぱり不思議なもので、小林ビクターを2回見て、その下地を作った上で中川ビクターを見た時に初めてなんか、中川ビクターの"仕方なさ"を理解できたような気がして。4回目で初めて感じたほやほやの感覚なので、あんまりここ言語化できないんだけど、中川ビクターのあの生命創造への衝動、死者に対する執着、時に人間としての倫理観が剥がれ落ちてしまう、自ら破り捨ててしまう狂気性って、本当に本人に制御不可能な、それこそビクターにとっての内に棲む「怪物」のようなものなのかもしれないな……?と。少なくともあの日の中川ビクターはそう見えたんですよね。※ここからの"ビクター"は基本的に"中川ビクター"を前提とします。

ビクターって生命創造への衝動と死者(死者蘇生)への執着が自分の中でもごっちゃになっていませんか?そもそもの根源は「死んだ母親を生き返らせること」にあったはずなのに、他者に理解されずに研究を続ける内に「人間達の中には溶け込めない異質な自分は、人間という低俗な位置を抜け出し、神に挑み神を超える存在になる」「神に許されない領域に踏み入れることでこの絶望(人間達の作る愚かで痛ましい世界)から抜け出す」みたいにすり替わっていって、"生命創造"こそが自分の夢であり使命、それがこの愚かな人間が作った世界を救う希望にもなる、と思っていそうなところがあるな、と。不可能に挑戦したい、生命の謎を解明したいという科学者としての性や、それに追いついてしまった並外れた頭脳もあるだろうけど、ベースには「人間(自分とは違う)への絶望」があり、それゆえにそこからの逃避・超越としての神への勝負がある。そして、神への勝負というのはこの世界の摂理を司り、人間に"死"を与える存在(≒母を奪った存在)である神への復讐であり、抗いでもあるんだろうなと。アンリの首を強く抱きしめる中川ビクターは、「お前(神)に渡すものか」と、アンリを生の世界に繋ぎ止めているようにも見えた。ビクターにとって、"神"とはこの世界に、そして自分に絶望を与える存在でもあり、人間とは相容れない自分が目指し、超越すべき対象でもあるのではないかな、と。それらが全部ごちゃ混ぜになって、ビクターの狂気を作ってしまい、時にそれは本人にも抑えられない"衝動"として現れてしまう。そして、かけがえのない無二の親友の命と天秤にかけてもその重さが勝るような気がしてしまう。

でも、元を辿れば幼いビクターの望みは「失ってしまった人との再会」だったんだと思うんですよね。それなのに、ビクターは基本的に心が迷子だから、自分の望みがどこにあったのかなんてもうわからない。わからないからこそ、本当はもうとっくに失くしたくない存在になったはずのアンリを"殺して"まで、"生命創造"の夢を追求しようとしてしまう。親友の首を"不可欠な犠牲"のひとつとしてカウントしてしまう。結局ビクターはアンリの無実を証言をすることを選ぶけれど、あの瞬間の迷いを、初めて観た時私は本当に理解できなかったんですよね。「そんなわけないじゃないか」と言いながら実験日誌を手放さないビクターがわからなかった。だから理解できなかったし受け入れがたくて、「理解し難い狂気的な天才」のキャラクターとしてしかビクターを見られなかった。けれど、4回目にして初めて「ああ、これは多分母親の喪失をきっかけに生まれてしまった狂気(アンコントローラブルな"生命創造"への衝動)の暴走で、ビクターは本当にこれを止められないのか」と思って、初めてビクターを人間として見られたような気がした。

だって、冷静に考えたらぐちゃぐちゃじゃないですか。大切な人を失いたくないのに一度失って、失ったものを取り戻すために"生命創造"をするの。ビクターはもうずっと正気じゃないんですよね。元々は失った大事な人(母親)を取り戻したかった(死者蘇生)はずなのに、そこから始まったはずなのに、そのために今度は大事な人(アンリ)の命を自ら奪うような真似をするのはもうわからなくなってしまっているから。ビクターはもう生まれてしまった"生命創造"への衝動を自分の中でコントロールすることはできないんだろうな、と。その自らの衝動を理解しながらも、それをどう制御すればいいのかがもうわからない。

でも一方で、あれはやっぱり"衝動"止まりでしかないんだよな、とも思う。"本心"がそこにあるとか、アンリよりも自分の野望が大事とかそういうことではなく、ただ自分の中に渦巻くものをビクター自身はどうにもできないんだろうなと。結局アンリの命を助けようとするし、アンリに生きていてくれと縋るし、それがちゃんとビクターの想いとしてある。それも本当で、でも抑えられない衝動をどうしても消すことができない。そういう人として、4回目の私は彼を理解しました。でも多分結局、中川ビクターの"生命創造"への欲求は、アンリを失ったことで途絶えたんじゃないかな、とも4回目の日は思った。結局彼に残ったのは「大切な人の命を甦らせたい」という願いだけだったんじゃないだろうか。それがまた後にエレンにも向いてしまうのだけど……

 

 

怪物の中のアンリ

私は怪物のことを基本的にアンリだとは思いたくないのですが、でも逆に怪物がアンリだったら、因果応報にもなるのか、と思ったりもします。もし怪物がアンリなら、自分が友人と共に描いた理想の代償を自分で払ったことになるから。その方が気が楽だ、とすら円盤を観た時に思った記憶がある。望んでもないのに"怪物"として生み落とされ、自分を生みだした人間に別の人間の名で呼ばれ、その人ではないと分かれば殺されそうになる。逃げ出して辿り着いた先でも虐げられ、利用され、裏切られ、捨てられる。闘技場では常にジャックやエヴァ、その取り巻きに痛めつけられていただろう怪物は、心理的にも肉体的にもずっと支配され拘束され、わけもわからず怯えながら闘って生き繋ぐ毎日を過ごしていたのだろうなと思う。なんの罪もない赤子のような怪物が、そんな目に遭わなくてはならないことに何も理由がないなんて辛すぎるから、いっそ記憶を失ってもその存在は"アンリ"だったら良かったんじゃないかと勝手に思った。納得する理由が欲しい見る側の勝手な話だけど。

それでもやっぱり、怪物は怪物で、あの日生まれた時点でひとりの人間で、ビクターとアンリとは無関係の、それなのに二人の抱いた夢に巻き込まれた被害者だと私は思ってしまうから、怪物を怪物としてしか見たくなかった。怪物は怪物で、ひとりの命で、誰にも抱きしめられず、誰にも愛してもらえず、"血と涙の物語"を孤独に生きてきた人で、この世界に生まれたことを憎んでいて、自分を生み出した創造主のことを恨んでいて、それなのにアンリの要素が自分の内に残るから、きっとビクターのことを嫌いにはなりきれない。憎いのに恋しい。苦しませたいのに会いに来てほしい。殺したいけど殺して欲しい。

怪物の意識の中に眠るアンリが現れる時、怪物としては「アンリの記憶がよみがえる」ような感覚なのか、それとも「アンリに意識を取られる」感覚なのかどちらなんだろうと思っていたけれど、おそらく後者の瞬間もあったのだろうな、と思う。一瞬だけアンリが目覚めてしまったに見える瞬間があって、あれは多分一時的に「アンリ」が"死んだ後の世界"を生きてしまっていることに気付いた瞬間だったのだろうと思う。分断されたはずの首を押さえ、一度閉じたはずの世界が目の前に広がることに戸惑い、状況を理解しようとし、恐らくは気付いた一瞬。あれは、怪物の意識の隙間で目覚めてしまったアンリだったのだろうな、と。 この感じ方ももしかしたら回によるのかもしれないけど、私はあの瞬間のあれは"アンリ"なのかなと思った。

ただ、恐らく、基本的には怪物は怪物として、内に棲む他者であるアンリの記憶を理解していったんじゃないかなと思う。アンリと同じ顔で君夢の動きを繰り返すのは確実にビクターを苦しめる怪物の意図があってのことだろうし、怪物は自分の中に徐々に染み込んでくる記憶を、自分の頭の元持ち主である"アンリ"のものだと理解して、ビクターをより深く知ったんだろう(だからこそ適切な傷の刻み方が分かる)。自分の頭に他人の記憶が染みていくのはどんな感覚なんだろうか。記憶は感情を伴うから、アンリのビクターへの感情だって怪物の中に流れてきたんだろうなと思う。自分のものではないものが、自分のものになっていくような感覚の中で、それでも復讐を続けなければ自分の道を辿れなかった怪物。

 

最期、柔らかいアンリの声で発せられる「ビクター」は、誰のものだったのか、と毎回思った。死の間際、一時的に前に現れたアンリの声なのか、怪物が記憶を手繰り寄せ意図的に真似て出した声なのか、それとも本当は"ともだち"にそう声をかけたかった怪物の、アンリのような声に隠したもう一つの本音なのか。

怪物はビクターの前ではもうすっかり「復讐しにきた非道な怪物」になっている(ならざるを得ない)ように見えるけど、道に迷った子どもと話す時、一人でいる時、まだ闘技場にいた頃の純粋で素直な怪物が時折見える。そうだよな、と思う。生まれてから闘技場で捨てられるまでの間を生きた、あの無垢で純粋な怪物も消えたわけじゃない。愛されたいと願う気持ちも、行先が分からない不安も、淋しさも孤独も哀しさも全部消えずに怪物の中にある。けれど「復讐のためにビクターの元に現れる怪物」は、全てを後ろに押しのけて怒りに変え情を捨て、復讐に向かわざるを得ない。怪物に明確に自我が生まれたのは「怒り」ゆえだっただろうけど、それまでの日々で生まれ、感じたはずの「喜哀楽」だって怪物のもとからなくなったわけじゃないだろうに、全てを怒りに呑ませることしかできなかった怪物のことを思うと哀しい。"アンリ"じゃない彼自身にだって、彼の感情があり彼の生きた時間があり、「怒りに身を染めた復讐のために生きる怪物」以外の彼がいたはずなのに。最期に復讐を遂げた瞬間、怪物は何を思ったんだろう、ビクターに、内に居るアンリに、そして自分自身に。全ての始まりであるビクターに自分の命を閉じてもらえて、怪物は納得できただろうか、自分の復讐の、自分の物語の結末に。

 

 

 

 

 

一体私の脳の中で何が起きていた…?(リプライズ)〜

はい、4回目の話はここまでにして、そんなわけでリプライズです。あらためて、円盤〜1回目まではあまり刺さっていなかった私に一体何が起きたんでしょう。フランケンという作品は、ビクターは、アンリは、怪物は、一体私に何をしたんですか………?

 

体感としては正直未だにあんまりわかってなくて、私お酒飲まないんであれなんですけど、フランケンってビールみたいな感じありますか?最初の一口は美味しくないけど、飲み続けると美味くなるみたいな……気付いたらゴクゴク飲んでいたみたいな……違う?違うかも。初手でフランケンが刺さらなかった理由は分かるんですけど、フランケンにここまで頭を持って行かれている理由は分かってないと言う怖さ。好きじゃない理由は分かるけど好きな理由は分からないんですよ。でもこれは好きじゃないってことじゃないんです、逆に好きじゃない理由が明確なのに好きなのが怖いんですよ、わかりますか?何を言っているか……(わかりません)。でも、好きじゃない理由の部分を放置すると「おい、放置すんなよ、語れよ好きじゃなさも」と私に怒られそうなので、一度距離をとって、フランケンの好きじゃないところをそっちの私に語らせます。はい、どうぞ、選手交代です。

 

 

もう1回少しだけ距離を取って自分の話を聞いてみる

あらためて、ちょっと真面目に初見時の私がフランケンのここがしっくり来なかったな〜という部分の話をします。(フランケンに対する悪い話はあんまり聞きたくない!という方はここで閉じてくださいね)

 

2幕の食べ合わせの話、視点の話

・こう、二幕で完全に私が怪物目線に切り替わってしまうというか、人間の命も尊厳も何もかもが蔑ろにされゴミのように扱われる世界に感覚を合わせてしまうと、その後のビクター周りの出来事の感情の動きについていけなくなるんだよな…

・人が人として扱われず命が軽んじられるあの闘技場の世界を散々観させられた後に、"大切な人が失われる"という個の物語に照準が合わせられないというか……ジュリアやエレンの命が失われていくことに物語性をあてられないというか……

・これは完全に体感の話をしています こう、一幕と二幕の世界の縫い合わせに失敗している感じ……

・二幕の世界の中に突然一幕の世界が再び現れた時に、うまく混ざらず分離してしまうからどう見たら良いのか分からなくなる 二幕の地獄があまりに地獄すぎるので

そう、①で書いていたこの辺りの話です。

円盤で観た時、本当〜〜に何にも知らずに観たので、普通に突然二幕で現れる闘技場の場面のダメージが大きくてですね……。怪物、何も知らずに生み出されて命を狙われて、それだけでも可哀想なのに、辿り着いた先がこんな地獄だなんて聞いてない…………と思ってしまった。あそこはもう少し引きで観て「うわ〜〜なんか倫理観飛んでそうな男と女が出てきたな〜〜」ぐらいで観てたら良かったんだろうけど、私は何も意識しないとカトリーヌとか怪物の地点からあの場面をくらってしまうので、普通にきつくなるんですよね。なので円盤初見時の「合わなさ」は割と2幕の闘技場の話をしている。あれを怪物やカトリーヌの視点(虐げられ支配される視点)から観てしまうと、その後のビクターの話が入ってこなくなるんですよね、地獄の種類が違いすぎて。なので普通にしんどくなってしまい、1幕の話の道筋の上を歩けなくなるというか、ビクター周りの話へ心が向けられなくなってしまうというか……。なので、私は今回生で観るにあたり、2回目以降の観劇は、2幕は意識的に心理的距離を取りながら観ていたところがあります(距離感を間違えるとくらいすぎてきつい、または自動的に防御してしまい感情があまり動かなくなるので後半がうまく受け取れない)。ただ、これはどちらかというと単に私の性質上"合わない"という話なので、見方を調節すればなんとかならないこともない。

2幕の食べ合わせの話は似ているけど少し違くて、ミュージカルフランケンシュタインって「フランケンシュタイン博士が怪物を創造した話」かというと、そうでもあるけどそうでもないじゃないですか。なんかもっと、ビクターの話じゃないですか……ビクターにとってアンリとは、エレンとは、ジュリアとは、そして彼らを通して知る命とは、魂とは…という話だと私は思っており……でもそれをやるには2幕の闘技場の人間の命が軽すぎて、受け取りづらくなってしまう。ビクターの物語が贅沢なものに見えてしまう。食べ合わせの話はこういう話です。

感覚的に言えば「普通に善がなさすぎて私に向いていない」「闘技場の世界が(カトリーヌなど虐げられる立場にいる人間にとって)物語ることすら許されない地獄すぎて、1幕の人たちの“悲劇"として語られる物語がみんなどうでもよくなる」みたいな話(食べ合わせが悪いの話)で、もう少し引きで見た物語の枠組み的な話で言えば、 「"人間ではない怪物が生きた地獄"の話をするために、あの闘技場の場面設定は適切だったのか?」という疑問が残りました。"人間ではない怪物"がこの世界に絶望し、孤独を感じる地獄を描きたいのであれば、もう少し怪物が"人間ではないから"迫害されるとか、差別されるとか、そういう類の地獄を描いた方が適切なのでは……?という。あれは人間の生み出した地獄であると同時に、人間(カトリーヌ)にとっての地獄でもあるので、そうすると「俺からすればお前たち人間の方が怪物」がなんかしっくりこなくないか………?と思ってしまった。怪物から見た"人間という怪物"の地獄を描くのなら、もっと適切な地獄があったのでは……?と。あれは怪物にとって地獄の世界であると同時に、人間にとってもむごく残酷な世界で、そしてだからこそ"同じように"(より雑に、より残虐にであるかもしれないけれど)怪物も命を尊重されなかった。彼は"怪物"だから命を軽んじられたというより、"利用価値がある存在"だったから彼らに利用され虐げられ、捨てられたのだと思うので、あれが"怪物"だったからこそ受けなければならなかった苦しみなのかというと、そうではないのかなと。

そして、私がやっぱりどうしても、あの場面が"ああである"必要があったのかと考えてしまう、その主な理由がカトリーヌの存在で。"怪物"のような人間たちに地獄で生きることを強いられ、自らもまた良心を捨てざるを得なかった、"けだもの"になりたいと望むことしかできなかったカトリーヌという人が、この物語には生きているから。

 

カトリーヌの話

怪物は自分を生み出したビクター(創造主)に生まれてきた恨みをぶつけることができる。「俺の憎しみは生まれてきたこと」だとすれば、その憎しみの対象は間違いなくビクターだ。実際それはあまりにも無責任に"生命を創造"してしまったビクターの罪でしかなく、怪物にはそれを問う権利がある。それじゃあカトリーヌは誰にそれをぶつけたら良かったのだろう、と思う。ビクターはこの世を生きる人間だから、身勝手に怪物を生み出した罪を、責任を怪物は問うことができる。復讐することもできる。じゃあ、人間として生まれたカトリーヌは、ゴミのような人生を生きねばならなかった恨みを、一体誰にぶつければよかったのだろう。それはそのまま「人間は生まれてきたことの責任を誰に問えば良いのか」という問いに繋がるのかもしれない。怪物に地獄を与えたのは生み出した人間(ビクター)だとすれば、人間に地獄を与えたのは生命を生み出した"神"だろうか。カトリーヌは、人間は、神にその地獄の責任を問えば良いのだろうか。

 

怪物が「お前ら人間の方が怪物だ」と話す時、そこにカトリーヌもまた含まれるのだろうか、と考えてしまう。

闘技場を燃やした後の賢くなった怪物はきっと、カトリーヌのしたことを理解しているはずだろう。初めて会話を交わしてくれ、北極に行くという夢を共に持った存在。ビクターに生み出され、殺されそうになり、迷い込んだ闘技場の主にはひたすら闘わされ暴力で支配され、他の人間にはおそらく蔑まれ恐れられている、そんな怪物にとって初めて対等な関係性を持つことができた人がカトリーヌで、きっと後にも先にも彼自身を"人間"のように扱ってくれた人は彼女だけだったんじゃないかなと思う(それはカトリーヌにとって怪物が"人間ではない"から、ではあるのだけど)。自分を心配してくれて、一緒に笑いあってくれて、一緒に地獄を生き、その中で遠い夢を共に見つめた唯一の人。これまで命を狙われるか、虐げられるか、恐れられるかしかなかっただろう怪物にとって、カトリーヌは初めて自分を同じ地点から見てくれた存在だったんだろうなと。

そんな彼女が自分を裏切ったのだと気付いた時、彼女自身のために自分を見捨てたのだと知った時、怪物は彼女をどう思ったのだろうか、と。何の疑いも持たずに彼女に差し出された毒入りの水を飲み、思い通りに動かない身体で戦い終えてボロボロな自分の前に現れた彼女に笑顔で手を振った自分のことをどう思ったのだろう。

 

恐らく怪物がそれまでに出会ってきた"人間"を見てきた末に生まれただろう「お前ら人間こそが怪物」の中に、カトリーヌは含まれるのだろうか。初めて心を許せただろう、初めて「好き」という感情を抱いただろう人から裏切られた怪物からしたら、彼女を含んでも仕方がない。そう思う一方、カトリーヌを"怪物"にしたのは、彼女の尊厳を奪い続けてきた人間であり環境でしかなかっただろうとも思う。怪物にならざるを得なかった、そうあることを選ばざるを得なかった人生。彼女の人生は、むしろ人間であり女性であった分、怪物のそれよりも凄惨なものだったかもしれないから。

円盤を観た時には、何もストーリーを知らずに観ていたので、ひたすらに痛めつけられる怪物を見続けた後に、更には唯一怪物の味方と思われたカトリーヌが裏切る展開に「そんな………まさか……あなたまで怪物を傷つけないでくれ……………そんな……」と怪物の心境を思い苦しくなってしまったのだけど、今回のフランケンを初めて生で観た時には「ああ、なんか本当にこれは、仕方なかったし、誰にもどうしようもなかった……仕方なかった……」と思った。だってあれ以外に、どうなりようもなかった。

カトリーヌはずっと地獄に生き続けていて、これからもそう生きるしかなくて、そこに垂らされた光の糸に手を伸ばさない選択肢は、彼女になかったのだ。カトリーヌが手を伸ばし瓶を取る瞬間、彼女が良心を捨てて怪物を見捨て、自分の自由を選んだように見えるし、実際「そんな目で見ないで」と怪物に強く吐き捨てる彼女にとってはそうだったのだろうと思う。けれど、果たして彼女にあの小瓶を手に取る以外の選択肢なんて、本当にあっただろうか。父親には性的に消費され母親には金銭のために売られて、放り込まれた闘技場では人として扱われず、尊厳を奪われ続ける日々を過ごしていた彼女が、初めて得た"人間"になれるかもしれないチャンス。それを掴まない選択肢が彼女にあっただろうか。彼女の人生の分岐点にも見えるあの選択は、二者択一の分かれ道のようでその実ほぼ一本道でしかないように思う。選択肢が選択肢になるのは、ある程度恵まれた人間に許された特権だ。三階席で観た時、あの小さな小瓶に光が反射して、カトリーヌの目の先に光る小瓶はまるで彼女の人生に差し出された光のように見えた。暗く惨めな人生の中に、ようやく差した僅かな光。ゴミのような今の人生から抜け出せるかもしれない、小さな希望。先の展開を知る私はその光が紛い物であることを知っているから「その光を掴んではだめだ」と思ったけれど、あの瞬間の彼女にとって、それはまぎれもない光だった。あれを手に取って、いったい何が悪かったのだろう。

彼女の地獄は人間の地獄だ。だからこそ、この物語の中での彼女の人生は"人間にとっての地獄"であり、けれどこの物語の中ではあまり掬われない地獄だとも思う。"怪物にとっての地獄"を描き彼女を良心に天秤を傾けられなかった人として扱うのならば、私はもっと彼女にとっての地獄を大切にして欲しかったのだと思う。だからいつもどこかで置いていかれる部分があった。生きた創造主を持たない彼女の地獄への恨みは、嘆きは、一体誰にぶつければよかったのだろう。才能や地位を持つビクターのように"神"に挑むことなどできなかった、"持たざる"人間であるカトリーヌは、一体どうゴミのような人生に、自分に絶望をもたらした"神"に抗えば良かったのだろう。

 

これは身勝手な願いでしかないけれど、どんな形にせよ、あの日怪物が起こした火事が、彼女のゴミのような人生を、終わらせてくれていたらいいと思ってしまう。命を落としたかもしれない、けれど彼女を虐げ支配し続けた"けだもの"のような人間たちも、そこで同じようにあっけなく死んだかもしれない。奇跡的に逃げ延びてどこかに辿り着いたかもしれない、そうして自分を"人間"として扱ってくれる人に一人でも出会えたかもしれない。あの火が、彼女の望まなかった人生の全てを焼き尽くしてしまえばいい。全部ご都合主義の、私の浅はかな願いでしかないけれど、どうか彼女の人生が一度終わり、ゴミのような人生を自ら捨てられていたらいいと願ってしまう。

彼女の人生を、"怪物が唯一信じていた人にすら裏切られる"、"けれどそれもまた彼女にとってはどうしようもなく、仕方ないことだったという地獄"だなんてストーリーの一部として利用しないでほしい。勝手に物語らないでほしい、物語ることすらできなかった、許されなかった彼女の人生を、"ビクターとアンリの物語"の悲劇の部品の一部のように扱わないでほしい。私はそれを、何処へともなくこの作品に、勝手に願ってしまう。

 

 

 

それでもやっぱりフランケンが好きかもしれない

さて、ここまで一旦書き手を「フランケンの好きじゃなさ」を語りたい私に譲って書いてみましたが、やっぱりこれは書いて良かったなと思います。私はどうしても、フランケンを真剣に観るならカトリーヌのことも真剣に見てしまうし、そうするとやっぱり上に書いたようなことは考えてしまうから。「何が細かいところ諸々引っ掛かるけど好き!」の引っ掛かりの一括りにできないぐらいにはカトリーヌの人生をもっと大事にしろよ、という思いはある。

それも私で、でもなぜか同時にフランケンのことをなんだかんだ結構好きになっているのも私なんだと思います。なるほど、好きさと好きじゃなさは共存するらしいです。好きの目盛りって、0を真ん中に「好き」と「嫌い」があるわけじゃなくて、それぞれの棒グラフがあるのかもしれない。「色々思うところはあるんだけど結局なんだかんだ好き」「好きじゃないところはあるんだけど全体としては好き」とはまた違って、「好きじゃないんだけど好き」というのは私の中では新種の感情で、なんかまた、新しい体験をしたな……と思いました。

 

 

f:id:kinako_salt129:20250506015419j:image

まあ、その「好き」はどうやら私の認識を思ったより超えていて、気付いたら名古屋まで行ってきたわけなのですが………。

私はいったいフランケンの何が好きなのか、なぜ遠征怠惰民の私が日帰りで名古屋まで来てしまったのかはいまだにわかっていないんですが、今日一つ分かったのは観ている間の自分の集中力がめちゃくちゃ高いなということです 余分な思考があまり過らない

これは名古屋帰りの私のツイートで、名古屋帰りの時点でこんなことを呟いているのだから、いまだに私はあんまりフランケンのことを好きな理由がわかっていないです。少し距離をとって考えたら"この場面が好き"とか、もちろん音楽が好きとか、好きな箇所はあげられるけれど、何で私がこの作品のためにわざわざ名古屋まで飛んでいってしまうぐらいに好きなのかはまだわからない。いったい何が私をここまで突き動かしているのかはわからない。

でも、上に書いたように、フランケンは私に"その瞬間"の連続を与えてくれる作品というのは大きかったと思います。最終的には私はこの作品を5回観たことになるけど、やっぱり複数回観ると、どこか「あ、次はこのシーンだ」とか脳が先取りしてしまったりするじゃないですか。後の展開を思って今を見てしまったりして、"今この瞬間の登場人物"と一緒の視点位置にいられなくなる。それによって感じられる奥深さや、全体像を見た時に浮かび上がる個々の場面の意味合いとかもあるけれど、私は1番の本音としては、まだ先を知らない登場人物と同じように、"その瞬間"を毎瞬味わいたいんですよね。"今"にしかいたくない。線ではなくて点の連続の上にいたい。

フランケンは作品の中になんかめちゃくちゃ大きいうねりがあって、そのうねりはちゃんと私を連れてってくれるというか、振り回してくれるというか、""今この瞬間""にのみいさせてくれる引力の強さみたいなものがあって、気付いたら毎回初回みたいな気持ちで5回も観ていた。毎回ちゃんと先のわからないジェットコースターに乗せてもらえるみたいな感覚。この後訪れる展開を知っているのに、毎回息を呑んで舞台を見つめてしまう瞬間がある。それは毎回の公演が「何が起こるか」「それが自分にとってどう映るか」が分からない新鮮なものであって、ストーリーは変わらずともそこにある意味がいくらでも変わりうるからなんだろうな、と思います。

 

多分、私は未だにフランケンのことを全然わかってないんですけど、何かもうすっかりフランケンシュタインという作品が通る回路を脳に作られてしまっているので、私はもう知らぬ間に「フランケンが刺さる」側に立ってしまったのだな……とここにきて今更気付いています。円盤観た時には「みんなよく分からん…」と思っていた登場人物たちのことも好きになってしまってるし………。フランケンのこと全然分かってないんだけど、何かを"分かって"しまった。何なんだこれは。一体いつが分かれ目だったんだろうな……わかりません。多分、フランケンって頭の中で閉じることがなくて、終わることも分かることもないんですよね。だからこそ、あの時間の中を永遠に彷徨うことができてしまうというか、観終わったはずなのに終わっていないし、気づくとどこかに頭が戻っている。ビクターが過去の幻影を見るように、私たちもまた"あの日観たフランケンシュタイン"の幻を見続けてしまうのかもしれない。各回の方向性、各ペアの組み合わせの化学反応、各座席から見た視点、その日受け取った音、空気。それらが組み合わされば、全く同じフランケンの記憶を持つ人は一人としていないから。そうやって各々が記憶の中に持っているそれぞれ違う幻を繋ぎ合わせて、かつてのフランケンの亡霊たちも"""それぞれのミュージカル・フランケンシュタイン"""を創造していたのかなと、今回観てみて思いました。私も自分の中に蓄積された私だけのフランケンシュタインを大事にして、もうしばらくはその中を彷徨ってみようかと思います。

 

 

 

さて…………!

そんなわけで、当初考えていた2倍ぐらいの量になってしまいました。が、まあたくさん書けたので大満足!絶対長すぎて途中でよくわかんないこと書いてそうだけど!まあいっか!なんだかんだで5回観ましたというと、世間一般では普通に沢山観たんだねぇとなるかと思いますが、フランケンに関しては再再演、かつハードな狂いの民が多い印象があるので、これは割と「ふらんけんしょうがっこう2ねんせい、はじめていったいったふらんけんえんそくで こんなことをおもったよ!びっくりしたなあ!わあ…」みたいな作文の気持ちで書いているところがあります。だって、5回観ても結局よく分かってないところだらけなので………ついでに言うとなぜ好きなのかもまだ分かってないので………円盤、出してくれないかな……………いかないで、フランケン……!わたしまだあなたのこと全然わかってないの………えんばんをだすって、やくそくして!ほんとうは、全ペアはいしんもみたいの!(強欲なジュリア)

 

はい、ということで、長くなってしまったフランケン振り返りをこんなところで終えようと思います。私に想定外の狂いを与えたミュージカルフランケンシュタイン。まさか名古屋に飛ぶとは全く思っていなかったフランケンシュタイン。なぜかビクター2体とイゴール2体とカトリーヌ1体のチャームが揃ったフランケンシュタイン。たったの数週間でこんなに印象が変わるとは思っていなかったフランケンシュタイン。1ヶ月弱、お世話になりました!素敵な観劇体験をありがとうございました。

 

 

おはなし、おしまい!!!!!!

 

 

フランケンシュタイン日記②

 

 

フランケン初心者ほやほや2回目と3回目の観劇記録です。前ならこの作業絶対モーメントでやっていただろうな……と思うけど今や消え去ってしまったモーメント……(懐かしいね)。そんなわけで、まとめてこばかず回の2回を記録します。

 

 

1回目のフランケンは「円盤観た時よりは面白く観れたけど、やっぱりたぶんfor me作品ではないな………?」というのがざっくりとした印象でした。ただ、帰宅後もなぜか曲が頭の中を周り、気づくと「あの時のビクターは…」「怪物は……」「アンリさんは……」などと考えているという謎症状を数日間発症していた(怖かったな……)。そんなわけで、2回目のフランケン、初めましてあきかず回の振り返りをします。

 

 

 

🧟4/20マチネ(こばかず)🧟

・アンリさん………………

・………年上部下兄決意固アンリさん……………

まずこれは幕間のうわごとのような呟き。

"年上のアンリさん"という生き物を初めて見た生き物の産声。でも多分あんまり頭が働いていないので、「あっ……なんか………好きかも………」しか考えてない。

 

 

〜そして終演後〜

f:id:kinako_salt129:20250422225520j:image

アクスタが1体増えました。

チャームを記念に1個買おうと思っただけだったのに気づいたら「チャームと…小林さんのアクスタを一つ………」と口走っていました。結果こばかずが揃いました。めでたし。

 

そんなわけで無事2回目のフランケンを終え、最初に思ったこととしては「なんか前回よりも……二幕がいけたな………?」ということと 「たぶんフランケンシュタインこばかず味、好みだな……」ということでした。それでは振り返り。

 

・とりあえず多分私フランケンシュタインこばかず味、好み味……

フランケンシュタインってポテトチップスかも???????(???)

・なおこばかず味、店舗限定並に少ない

(そうだね)

・小林ジャック、軟体動物みたいにふにゃふにゃなのに蚊殺すみたいに人殺しそうで、初めて見た生き物でびっくりしちゃった

・怖…とか好き…とかより「新種のポケモンだ…」みたいな気持ちになってしまった

・あとあのこれ…私は関係性の捩れが好きなので、仕事関係での上下と年齢の上下が逆とか主従関係だけど従者側の方が精神的関係としては優勢とかそういうのが…好きなので……年上部下兄決意固アンリさんはそりゃあ…好き…………

・なんかこばやしビクター、アンリのこと囲った(お気に入りとして自分の元に置いた)と思ってそうなのにすっかり囲われてて……なんか……いや良い兄さんなんだけど……こわいね…………アンリ兄さん…… 

この辺は初めての小林ビクター/ジャック、あとはこばかずの組み合わせの妙の話をしていますね。年上部下アンリさん………………(刺)

小林ジャック、TLを見ていると軒並み刺さっていて、見てみたら確かに「あ〜〜〜〜〜〜(大納得)」の気持ちになりました。私としては、あの絶妙なゆるゆるほわほわ空虚感、目の前に現れた生物として初めて見たので「なんか、新しい生き物を見た……………」と思いながら観察していた。新種のポケモン小林ジャック。初めまして、あなた、目にひかりが、ないのね………

 

・君夢のビクターの手を振り払うところ、前回見た時は掴まれてる両腕を縦にブンって振り下ろして無理やり離させてて、今回は身体ごと押し返すようにしていて、どちらもアンリさんの強い意志を感じるけど印象が違くて面白かった

・前回は決意が固く守りたい意志が強いからこその冷たさ(結構強く振り落としてた)を感じたし、今回はこばやしビクターがあのままだと自分の元(死)まで着いてきてしまいそうな危うさがあって、生に無理矢理押し返しているようにも見えた 君はまだそちら側にいなきゃだめだ、みたいな

 

 

若干内容被るけど一幕の幕間メモ +α

・君夢の前のアンリ、分厚い固い壁に覆われてるみたいだった。全然死にたくないのだろうけど決意は固い、あれはもう民衆の声など聞こえてないしどうでも良さそう
・ビクターの証言が採用されなかった時の表情は固かったけど、その後に納得したように笑いませんでしたかあの人……淋しそうにでも納得したように……
・ビクターの手、前回見た時は下に両手振り払うようにしてたけど、今回は後ろに押してたの、生の道に押し返すようだった
・年下上司という関係の捩れ、好きだ…
・小林ビクターはアンリの命を自分の野望に利用するのはほんの一つの思いつき、それこそ衝動どまりだったはずなのに、アンリの死で箍がはずれてしまった感じがする。
・ややフランケンに慣れてきた二回目の私、弾頭台に立つアンリを見て、「もしやこのあともうアンリとは2度と会えない……?」と気づいてしまい時を止めたくなった 退場が早いよ……………
・小林ビクター、あまりに脆すぎないか……理解されない外野との間に立てた固い壁の内側にいる本人があまりにやわやわすぎるよ、そんな状態で和樹アンリに会ってしまうなんてそんなのは……可哀想に…………(好きです)
・たぶん小林ビクターは壁の内側に人を入れるのが怖くて仕方がなかったのを、壁の外側に追い出すことで誤魔化していたのに、きっと和樹アンリはいつのまにか内側にいて気付いたらその壁を内側から支えてすらいてくれたんだろうな…
・和樹アンリが生きていてくれたら、それこそあのエレンが研究室を訪ねてきた時、アンリが閉ざされたドアを開けてくれたように、外界とビクターを繋ぐドアになってくれただろうに
・あんなに柔らかくて頼もしくて温かいクッションみたいな存在になっておいて死んでいくの、むごい アンリ本人はそれに無自覚そうなのがまた

 

以下、人をダメにするクッションことアンリさんの話

・かずきアンリさんってなんかこう、人をダメにするクッションみたいなところある 多分結構ある

・あぁわかった、アンリさんの怖いところ、相手にとって自分がいかに大切な存在かを理解していなさそうなところだ…………………………………………

・いやなんかあの人(かずきアンリさん)間違いなく相手のことを好きで尊敬していて大事にしていて、それなりに自分も信頼されていて良い関係が築けているとは思っているだろうけど、なんか相手にとっての自分という視点が、確実に少なそう……多分愛は渡すものなんだよな…………………………………

・円盤見ただけだけど再演のかずきアンリさんの怖さは多分わかりやすくて、自分にしか見えてない光の道を躊躇いなく突き進んでるところが目が決まってて怖かったんですが(私はね)、今回見てるアンリさんにはそれはないのに何がが怖くて、なんだろう……と先週から考えていたんですが、一つはたぶんこれ

・自分が人間をダメにするクッションだということを理解していない、アンリさんは………思ったよりも相手の内側に侵食してもう抜けてはならないような場所まで染み込んでいることをあまりわかっていない……

・それなりに大事な存在だということはわかってると思うよ、でも多分、アンリさんが思うよりもうだいぶ内側に浸透している…………と私は今日こばやしビクターを見て思いました………誰があのあとビクターの柔い部分を受け止めてあげられるんだろうという………

 

 

二幕の話

・前回よりも二幕の食い合わせの悪さ感が私の中で解消されたんだけど、それが二回目だからなのかキャストの差なのか自分のコンディションなのか座席位置なのか要因はわからず……

・小林ジャック、なに、あのふにゃふにゃ軟体動物みたいな生き物、それでいて「うざ、邪魔〜」とか蚊殺すみたいに人殺しそう 初めて見た生き物すぎる
・ゆるゆるなのに普通に感情あるからちょっとした苛立ちでも人殺しそうだし加虐趣味もありそうだし、興味や楽しみとしても暴力使いそうだし、暴力の動機のバリエーションがすごそう
・和樹さんはなんで膝折り畳んで仰向けになった状態から起き上がりながら歌歌える…………?
・小林ビクター、あの懺悔の歌で何を思っている………?こっちを見てそんな顔をしないでください………地獄に救いを求めている………?なぜ笑う……?ぐしゃって笑って泣いてこっちを見ないでください…………
・わからんけど、小林ビクターって多分本当は人のことが好きなんじゃないだろうか。私は物語のキャラクター、生き方の軸に概念がある人と人がある人がいると思ってるんだけど、小林ビクターは野望や夢が軸にあると思いきや全然本当は人なんじゃないだろうかあの人。だからもうアンリ失ってからずっとどうしたら良いかわかんないんじゃないかな…
・私の中でジュリアがよくわからなくて、幼少期のジュリアと今のジュリアが繋がらないんだよな……本取り上げて走り回るジュリアの我の強さが今もあったらビクターの壁もぶち壊せそうな気もするけどな……。お淑やかであなたのことを何でも受け入れるみたいなキャラになってるのがよくわからない。
・正直あっきーさんのビクター見てる時はビクターが存在として独立しすぎていて「この人ジュリアのこと本当に好きなのか…?」と結婚後も思ったけど、小林くんだと「心の壁は作っているけど本当は大切で、内側に入れたいと思っている(でも不幸にするのが怖くてできない)」ぐらいに見えたので、あの二人の感じはこの組み合わせの方が好きかな…(年齢もあるかも)
・二幕、わたしは多分2階か3階席から観た方が向いている気がする。1階だとカトリーヌ視点に近い感覚で見すぎてしまって結構きついから逆に感情のシャッター降りちゃうんだけど、遠いともう少し俯瞰で観られるので距離あったほうが見やすい。あと小林ジャック、残虐だし目死んでるけどめ「キャラ」っぽさが強いのでそこで少し気が抜ける。
・和樹さん、首はめ直してから声の響きが広がるアレ、マジで何技………………というか、「全身ボロボロ」の解像度が高すぎて首と腕がズレているのが遠目から見てもわかるの、何………
・怪物はカトリーヌに裏切られたといつ理解したんだろう
・でも、円盤見てた時の印象よりはカトリーヌの裏切りの酷さが薄まっているなと思った、「仕方なさ」がより強く残る 人間として扱われない人間としてあそこに生きざるを得ない、ああせざるを得なかった、その選択肢しかなかった彼女の仕方なさ
・最後の「ビクター」、前回観た時と同様に「アンリの声」と分かる声ではあったけど、何かが違くて、何がとはわからないけど「小林ビクターに向けられたアンリの声」に聴こえて、うわぁ………………となった。あんな声を………あの瞬間に聞かせられる小林ビクター…………
・ビクターが心から望んだアンリの蘇りが、怪物にとっての復讐の最後のとどめにになるの、本当に………。アンリは最期に親友の願いを一瞬だけ叶えて、怪物は「大切なものを全て奪う」の残り一つ、ビクターにとって最大で最後のひとつをそこで成し遂げるんだな……………………

・こばジャ「暴力の動機のバリエーションがすごそう」って書いたんだけど、その人のこと気に入っててもつまらなくても苛ついてても全部加虐に向きそうだから、人間らしいといえばらしいけど、常にゆらゆらしていて針がどこに振れるかわからなすぎて、子どもとか虫とかにも近いかもしれない

 

うん、うん、うん、わかる…………

なんかこう、フランケンシュタインという作品が少しだけ身体に馴染んできたと言いますか、全体的に登場人物をちゃんと人として見られるようになった感じがあったよね、2回目………。初回(といえど円盤は見ている)はなんか、2幕がやっぱりなんか自分の中で分離してしまっていて、2回目でようやく少しスムーズに繋がったというか、乳化したような感じがあって、作品全体として飲み込めたというか…そういう感じ、ありましたよね………(過去の自分との対話)。

あとは初回は1回後方サイド、2回目は三階席センブロ(ほぼドセン)だったんだけど、オケの響きは全然2回目の方が良かった。歌はちょいちょい聴き取れなかったんだけど、「ちゃんと生オケに聴こえる……!」と思った記憶がある(1回目は、「さっき確かにチューニングの音も聞こえていた気がするが、本当に生オケ、だよな……?」というぐらい音がのっぺりしていた)。ので、音響的な満足感は2回目の方がありました。

まああとは、こばかず味が私の多分好み味というのは大きかったのかもしれない。関係性が私好みだったのもあり、個人的に受け入れやすかった。こばかず味でフランケンの飲み込みがスムーズになったところで再度いただくラストのあきかず回を楽しみにしています。次はたぶんもう少し嚥下が上手くいくと思うので……

 

 

 

 

そんなわけで、次、3回目のフランケン、2回目のこばかず回!行ってみよう〜!!!

 

🧟4/26ソワレ(こばかず)

f:id:kinako_salt129:20250428001050j:image

・あの、もしかしてなんかあの、フランケンって3回目で効いてくるワクチンみたいなところありますか……………………?

・なんか、来ちゃったかもしれない、"効き"が………………………………………

そう、3回目にしてようやく「あれ、なんか今回、結構好きだったかも…………?!」と思って、終演後の拍手(私の)がこの日一番大きかった。各場面にちゃんと自分の心情が追いついて、「あっこれちゃんと今回"はまってる"な」と思った。はまってるというのは、各場面でちゃんと置いてかれずに正規の位置にいれているというか、「あっこの位置で見るのか……」みたいな感覚があってしっくりきたような感じ。逆にいうとそれまではたぶん、意図していない隙間にはまって観ていたような感覚があり。3回目で関節がようやく正常位置にはまったみたいな…(怪物?)そんな感じがしました。

 

つづき。

・あの、君夢………

・あのなんかTLで読んだ気がするけど、君夢の悪夢リプライズみたいなやつ……これか…………………………………となりました…………

・今日酒場のアンリさんにメロメロになりすぎて酒場が終わるのいやすぎた 一時停止しようや…………となりました

・今日なんかギュッッッッ🫀ってなった箇所沢山あったんだけどそれがなんなのか全然思い出せない なぜ………

・君夢のアンリさん、ものすごく強くビクターを突き放すのに、ビクターが連れて行かれて振り返った瞬間にはもう崩れ落ちる前から泣いていて………

・そういえば怪物に明確に感情が宿るの、"捨てられた"後だと思ってたんだけど、今日はカトリーヌと歌っている時にもどこかで一瞬強めに感情を感じた気がしたんだけどどこだったかな…

・あと今日怪物が階段を上がる姿が、アンリが弾頭台への階段を上がる姿と重なったんですが、あれはそういうことですか……………?怪物も自分の人生の終着点に向かっているからですか………?怪物は……自分の結末に納得しましたか…………?

・「君が見せてくれた〜」からのアンリさん全然死にたくなさそうで、一人遺したくもなさそうで、夢の中なんかじゃなくてすぐ後ろでビクターのことを見守っていたそうで、でも道がそこしかなかったから階段を上っているように見えたので、怪物、あなたは…?どんな気持ち……?と思いながら見てしまった

・前回も思ったけどこばビクター、強く突き放さないとアンリの行く先についてきてしまいそうな危うさがあるから、お兄ちゃんかずアンリが後ろへと押し返したり(私の前回)、強く振り払ったりする(今回)のがすごくわかる、兄アンリさんは優しいけど厳しいんだよ、あなたに生きていて欲しいから………………

・でもこばビクターだってあなた(アンリさん)に生きていて欲しいんだよ………………………………勝手に太陽にして置いていかないでよ…………………(視点不安定)

そう、そう、そう、そう……………君夢がすごく、すごく良くて……………

再演円盤との印象とは全然違うなというのは1、2回目でも思ったけれど、3回目のこの日のアンリさんは本当に全然死に向かいたくはなさそうでさ……………。最終的に決断への躊躇いも後悔もなかったのだろうけど、けっして望んでそこに向かっているわけではないんだなと思った。

危うくて不安定な小林ビクターのことを、きっとこれからだって時に隣で、時に後ろから見守ってあげたかっただろうに、それでも選ぶ道がひとつしかなかったからその選択を取ったように見えた。この日、最初に群衆に囲まれる場面と、2回目の場面とでアンリの表情が全然違うのが印象に残った。2回目、もう目に何も映していないような、人に囲まれながらもうそこにはいないような、温度のない表情をしていた。

決意を固めていたからこそ、「来てくれたんだね」という前のアンリ、最後にビクターに会えて嬉しい反面このまま会わずにいれば、固めた決意を揺らがせずにいられたとも思っていそうだなと思ったり。会えばどうしたって揺らいでしまうから。本当なら、本当に望むのは、と固めた決意の奥の本音が溢れてしまいそうなアンリがいたように見えた。「それでもし君が死刑になったら?!」の激しさは、それまで穏やかに頼もしく小林ビクターを支えていた兄のようなアンリだからこそ、思わず漏れ出てしまった想いの強さのようで……すごくよかった………。小林ビクターはいつも頼もしく温和な加藤アンリがあんなに激しい感情を見せるところ、きっと初めて見たんじゃないだろうかと思うとまた…………………

縋り付くビクターを強く振り払ってから、振り返った瞬間にはもう泣いていて、その後崩れ落ちてからの言葉は自らに言い聞かせるようにも聞こえた。それでも、それだけの想いがある故に自らが進むべきだと分かっている死への階段を、一歩ずつ上っていく姿がすごく印象的だった。

 

 

 

・えっ……どうしよう……なんかフランケンって……遅効性の毒…………?

・ここにきて効き始めたところ申し訳ないですが、あなたラスト1回なんですよね………

(そうなんですよね……)

 

・あとアンリさんってなんか喧嘩強そうな感じある(絡まれた時に腕捻ってるので)けど、ビクターは弱い……?それとも酔ってるからよれよれしているだけ………?それぞれの立場・役職的に肉体が強い設定なのかそうでもないのか微気になりしている

・私の中ではなんかビクターは頭脳派で肉体は強くないのかなと思ってたので、いくら武器持ってても、恐らく闘技場でバカ強になっている上そこからさらに3年経って色々仕上がってそうな怪物と戦うのは……無理がないか坊ちゃん……?とはらはらしてしまうけど意外と健闘する

・でも多分、怪物ってビクターに殺意(物理的な)があるわけではないだろうから、あれ手加減してるのか……仕留めようとおもえば全然余裕でできるんだろうな………

この辺は素朴な疑問シリーズ。先生、軍医というのは軍人(戦闘要員)としても動けるような存在なんでしょうか…?(調べなさい)

 

エレンの話。

・そういえばエレンがビクター説得しに来る場面「時間がないの、よく考えて」の部分、今日は怒りが強かったように見えたな…

・エレンが出て行ったあと、ルンゲがどうなっても私とジュリアお嬢様はぼっちゃまの味方だとビクターに伝える台詞を聞いて、「ああ、この人たちはビクターの味方にはなれても導く人・誤ちを正す人にはなれないわけで、エレンはずっと孤独だっただろうな……」と思った この二人はついて行ってしまうから

・父母をどっちも失ったビクターを叱ることができるのはもうエレンしかいないのに、それを痛いほどわかっているだろうに、明らかに誤った道に進む弟を止められず、「いつも僕のことをわかってくれない」と言われたら、そりゃあもうなんか、やりきれないよな……

・エレンにとってアンリはようやく見つけた(出会ってくれた)ビクターの理解者だっただろうから尚更だろうな。そんな無二のひとすら自分の欲(欲しいものを全て手に入れる)に利用しようとするビクターのこと、そりゃあ怒るし、どうしたら良いのかわからないよ……

・でもあのジュリアとエレンが「彼は天才なだけ(怖いわけではない)」みたいな歌にこにこ歌うのは本当に怖い、あの、天才と怖さは共存しますが………………………?となってしまう

・あれに関しては周りの人に「いやあの、怖いですよね………………」と共感してしまう

そう、この日は前2回よりもエレンのやるせなさを感じたような気がして、すごく胸がギュウ……となった。ルンゲもジュリアもビクターへの想いは強いけれど、あの二人は最終的にはビクターの進む方向に沿ってしまいそうな強さなので(それに関してはアンリもそう)、明らかに彼が誤った道に進んでいると気付いた瞬間のエレンの絶望と孤独はすごいだろうな、と。弟を恐れて奇人扱いする周囲と、全てに寄り添いすぎてしまう婚約者と執事、自分と同じようにビクターを見て、心配して、時に正そうとしてくれる存在がいないエレンはすごく孤独だったのだろうなと思った。

 

・こばビク、アンリの首のことだいじな宝物みたいにぎゅって持ってるの、小さい男の子みたいなんだよな…

・あと普通に上手からの登場で踊ってるこばジャずるいです あんなのは見てしまうだろ…………好の音がした……

・そういえばジャック、怪物のこと荷物かけみたいに使って鎖にステッキかけてた時あった……?

これは小林くんシリーズ。

小林ビクターは基本的に幼くて、外壁を高く築いて周囲の人間を見る気も自分の内側に入れる気もないからこそ、中の柔いビクターが本当に脆くて不安定で子どものままで、一人になった瞬間にまるで少年のように見えるなと思う。だから、その内側に入れていたアンリを失った瞬間箍が外れてしまったような人。小林ビクターにとっての加藤アンリは不安定なビクターを囲う籠のようで、狂気を抑える蓋のようで、ビクターを外界から守る壁のようで、周囲とを繋ぐ扉にもきっとこの後もアンリが生きていたらなっていたんじゃないかな…と思ったりした、のにさぁ……………………。だからこそ、そんなアンリの頭を抱える小林ビクターはすごく幼く見えて、大事なぬいぐるみを抱き抱える男の子のようにも見えた。怪物が起き上がった時に喜ぶ無邪気さも、心許したペットに対するそれのようで。アンリにいちゃんが…もっと一緒にいてあげられればよかったのにな……………

小林ジャックはふわふわのバキバキなので感情ないように見えて全然苛立ちでも人ころしそうだし、楽しみでも人を虐げそうなので、喜怒哀楽全部暴力に繋がってそうだよね。喜怒哀楽(哀なさそうだけど)全部が空虚。ゆら〜っと空気抜けてるみたいな存在の仕方するのに、暴力のスピード感がエグい速くて、仕組みが謎で怖い。ネジ足りないというか、ネジを指す場所全部適当にしちゃいました〜みたいな神様がミスってそうな生き物。

中の人が踊れる人なのが随所に出ていて動きがとても……良…

 

 

 

はい、そんなわけで3回目は初めて「なんかミュージカルフランケンシュタイン、面白かったかも……………???!?」と観終わったあとに自然と感じられた日となりました。円盤と初回(生)観劇時にはあまり刺さらずで、2回目で徐々に私の中に馴染み、3回目で何かの回路が開いた感じがあり、なんか不思議な作品だね…………………。逆にフランケンが初回から「最高!!!!!ど刺さり!!」ってなる人もいるんだろうか。私にとっては3回目でようやく心の奥地まで届いてくる作品だったようなので、この後の4回目が楽しみです。そう、これを書いている私は今4回目のブリリアフランケンに向かっています。読む人がいるのかは分かりませんが、あなたがこの文章を読む頃には、私は4回目のフランケンへと辿り着いていることでしょう。

行ってきます………

 

 

フランケンシュタイン日記①

 

 

そういえば、最近全然ブログを書いてな〜い!と思って久しぶりに開きました。多分まとまった長文を書く体力と根気がない……。Twitterで細切れに感想書いてはいるんだけど、「後から見た時にはやっぱり文字の塊の方が振り返りやすいんだよな〜〜」「でも書くのもめんどくさ〜い」「あっそっか、ツイート内容ほぼコピペで貼ってけばいいじゃん!」と思い至りましたので、コピペベースフランケンシュタイン日記を書きます。フランケンシュタイン日記?

 

 

これは何回もツイートしてるけど、私はフランケンの円盤だけ履修しており、円盤だけを見た感想は、「う〜〜ん刺さるハマる人がいるのはめちゃくちゃわかるけど、for me作品ではない」という感じでした。私は善の少なすぎる話に適性がないので、特に二幕が不向き。和樹さん過去出演作品として履修するのにはめちゃくちゃ良かったけど、ストーリーがあんまり刺さらなかったうえに、普通に胃が痛くなった(それは当時観ていた笑う男との合わせ技でもある)ので、円盤は1回観て棚に眠らせてありました。ので、初回を観る前は「生で観るのはまた違うだろうから、楽しく観れたらいいけど、まああんまり期待値を上げ過ぎずに行こう…………」ぐらいの気持ちでした。

 

 

そんなわけでmy初日は、12日マチネ

※注釈:ええ、ちなみに私の当初のmy初日は20日マチネ(こばかず)だったんですが、なんかチケットがリセールに落ちていたのでつい初日を早めてしまいました。まあ元々先行で抽選入れていた日ではあったので……あきかずは多分なんかまず見ておいた方がいい感じあるし……予定通りといえば予定通り……。

 

そんなわけで、当日のツイートを振り返ってみましょう。

 

🧟4/12 マチネ(あきかず)🧟

・やっぱりどうしても私は2幕が苦手なのは変わらんなと思ったんだけど、なんか、なんだ、すげ〜のよ、密度が………なにかをくらったんだけど………なんだろうね………

・あとあの……ラストの「ビクター」はだめだろ………ぜんぶ持ってかれた………あの声が残って残って仕方なかった…………目の前であんなん聞かされたらもう死に際まで、何なら来世まで耳に残り続けそうな「ビクター」だった………………

・フランケン、観劇直後は「なんか……密度がすごかったな………(ヘロ…)」としてたんだけど、回復して頭が戻ってきたので二幕の合わなさについて考えている

・こう、二幕で完全に私が怪物目線に切り替わってしまうというか、人間の命も尊厳も何もかもが蔑ろにされゴミのように扱われる世界に感覚を合わせてしまうと、その後のビクター周りの出来事の感情の動きについていけなくなるんだよな…

人が人として扱われず命が軽んじられるあの闘技場の世界を散々観させられた後に、"大切な人が失われる"という個の物語に照準が合わせられないというか……ジュリアやエレンの命が失われていくことに物語性をあてられないというか……

・これは完全に体感の話をしています こう、一幕と二幕の世界の縫い合わせに失敗している感じ……

・二幕の世界の中に突然一幕の世界が再び現れた時に、うまく混ざらず分離してしまうからどう見たら良いのか分からなくなる 二幕の地獄があまりに地獄すぎるので

・アンリさんって軍医だったんですね……となった プログラムを読んで

・という二幕の身の置き方の分からなさの感覚は割と円盤の時と変わらなかったんだけど、「ビクターとアンリの物語」に関しては円盤で観てる時よりもずっとぐっっと入ってくる感覚があって、生で観ると全然違った

・特にこれ、ラストで何か納得させられちゃったんだよな……なんか"こう"なるしかなかったんだなというか………あぁ、これがこの二人の二回目の帰結か……というか………ラストが分厚かった 言語化が難しい

・いや、最後のあの幻のような「ビクター」はさ………ずるいよ…………………

・1度目のアンリの死と向き合っていないビクターにとって、あの瞬間が明確なアンリの喪失なんだろうなと 不意に蘇ったアンリの声でそれをこちら側にも体感的に分からせてくるようで 剥き出しの心をそっと撫でるような柔らかく優しい声だった 幻みたいな一瞬

・オペラグラス忘れたのは残念だったけど、裸眼(裸眼ではない)で観てる時って音に多めに意識が向くから、音楽や歌声や台詞の印象が残るな……と思った

・特にあの、はい、「ビクター」が、残っております……(何回言ってるの)

・わかりますかね、あの、ぼんやりとした全景しか見えていない世界に突如紛れ込んでくる、あの異質な「ビクター」が…………優しさも善も希望も何もないあの二幕の、その最後に、束の間の救いのように現れるあの「ビクター」が…………………………

・自分の中で合わない点は明確になっているのに不思議と別ペアも観てみたいという気持ちにさせてくるフランケン、不思議

 

……はい、一旦ここまでで切ってみるんだけど、結構たくさん喋ってるな?そう、でも確かにmy初日、「うーんやっぱりfor meではないな〜」とか思いながらめちゃくちゃ呟いてた気がする。なんか引力がすごくて………合わないと思いつつもなんかすごい脳が持ってかれるというか……思考が回るというか………。というわけで続きもいってみましょう。この辺は下書きをまるっと画像でツイートしてたやつ。

 

・怪物、生まれた瞬間に殺されそうになったにも関わらず、誰に教えられたわけでもなく戦った相手にとどめを刺さない習性があったの、生まれながらか元の肉体の持ち主由来はわからないけど確かな善性があったのに、3年後には躊躇なくビクターの周りの人間を殺めていくの、"怪物"になったのは確実に後天的で人間のせいなんだよな。

・生まれた瞬間から自分の命を奪われそうになり、辿り着いた場所でも虐げられ自分含め人間の尊厳も何もない状況で生きて、"人間"になるわけがなく、そりゃあビクター本人を殺すだけじゃあ事足りないよなと思う。軽い命として扱われたら他者の命、特に自分の地獄を生み出した相手の周りの人間の命はそりゃ軽いよね。

・元の本人の中には能動的に人を殺めることへの抵抗感が恐らくはあっただろうに、ビクターの周りの無関係の人間を殺すまでに至ったのは、彼を"怪物"にしてしまったのは、ビクターを始めとする人間達でしかないわけで。生まれたての時は何も分からない獣ではあっても怪物ではなかった。

だからもし、ビクターが彼を生んでしまった責任を取り、言葉を教えて倫理観を育てれば彼は"怪物"にはならなかっただろうにね。私にはビクターが、「"怪物"だったから」彼を殺そうとしたのではなく、自分が生み出した生物が「"アンリ"ではなかった」から殺そうとしたようにも見えて悍ましかった。

・怪物から見たらそりゃあビクターの周りの人間の命は軽いわけで、二幕を怪物視点で見ているとその辺りの人たちが殺されていくのを無感情で眺めてしまうんだよな。一幕を観ている時にエレンの心情も背景も頭に入ってはいるのに、二幕の地獄で上書きされてしまって、一幕の延長線上に二幕を置けない感じ…

・あとやっぱりあの後描かれないカトリーヌの人生のこととかを考えたら、正直生命創造とか言ってるビクターの地獄なんて生温いじゃないですか。人の地獄を比べるものではないけど、物語性すらない地獄を一緒に置かれるとどうしたって比較してしまうし、ビクターが甘ったれに見えてしまう。

食べ合わせが悪いんだよな、一幕と二幕………何回かみたらスムーズになるのかな………

・私が円盤観て主に刺さらないなと思ったの、存在としては赤子と同じような罪のない怪物が、身勝手で向こう見ずな理想を抱いた「ビクターとアンリの物語」の被害者にしか見えなかったゆえに、私がこの話を「ビクターとアンリの物語」として受け入れられなかったからなんだけど、そこは少し今日感覚が変わったのが面白かった。

・作品内に倫理観に欠ける人物、未熟な人物、一見理解しがたい人物が主要人物としている時に、母目線からか人間目線からか神目線からか何らかの視点で「ああ、しょうがなかったんだな(罪は罪として)」とその"仕方なさ"を受容できると見え方が変わると思うんだけど、ビクターはちょっとまだ受け入れ難い

事実や歌われる心情だけを見た時には「なんだこいつ……」となるけど、その人の辿った心の道筋を自分が辿れて何かがはまった瞬間「あー……」となる瞬間がある(主要人物への共感・理解が必ずしも必要だとは思わないけど、多少はないと特にミュージカルは、物語の感情のうねりに置いてかれる感じはする)

 

わ、わ、わかる〜〜〜!!!!自分で書いたんだからそれはそうなんですが。

そう、初回は円盤視聴時に続きやっぱりビクターに対しての分からなさが強かった。いや、分からなさというか、受け入れ難さ。「アンリさんはこの人のこと好きなのかもしれないけど、ちょっと私にはわからないよ……なんだこの人…… ごめんねアンリエレン、私もこの人を受け入れられないかも………」と思っていた。

 

これは円盤を観た時もそうだったんだけど、二幕の怪物が生きねばならなかった地獄にあまりに救いがなくて、何の罪もない赤子のような存在がひたすら虐げられる事態を作り出したビクターが、その癖彼を生んだことへの責任感も罪悪感も持っていなそうなビクターが、いつか自分の幸せを奪いに来るであろう怪物な存在に怯えるビクターが、あまりに自分本位で無責任で許しがたかった。この世界はクソみたいなこと(ニュアンスすぎ)歌ってたけどあなたが生み出した生にまた一つ耐えがたい地獄を与えてるんですが…?なあ被害者面の創造主さんよあんたが地獄を生んでるんですけど……?と思ってしまった。後悔で歌われる"懺悔"に関しても、あくまで自分の行いによって自分の大切な人たちが失われたことへの悔いであって、怪物を生み出したことに対しての反省や罪の意識はないだろこの人……

あと円盤ぶりに観た、生としては初めましてフランケンの感想として結構大きかったのは「一幕と二幕の食べ合わせが悪くて消化不良になる」という合わなさで、感情の持って行き方が分からず二幕迷子になっていた。 私は二幕の闘技場のターンを、普通に観るとかなりカトリーヌに近い視点から観てしまってしんどくなり、逆に感情が動きにくくなるので、そうするとなんかもうビクターサイドの物語がうまく飲み込めなくなって見方が迷子になるんですよね。それが生で観るとより強いな………というのがあって、二幕はやっぱり結構うーん……となっていた。まあ、迷子になっていたところを最後の最後にアンリの一声で全部持ってかれたんですが……………………

 

それでそう、これに繋がるんですが

・私が円盤観て主に刺さらないなと思ったの、存在としては赤子と同じような罪のない怪物が、身勝手で向こう見ずな理想を抱いた「ビクターとアンリの物語」の被害者にしか見えなかったゆえに、私がこの話を「ビクターとアンリの物語」として受け入れられなかったからなんだけど、そこは少し今日感覚が変わったのが面白かった。

恐らくフランケンを楽しんでいる人、「ビクターとアンリの物語」を軸に観ている人が多いのかなと思っていて、でも円盤を観た時には私はそうは受け取れなかった(上記理由から、そう受け取るのがいやだった)。けど、生で観たらそれが少し変わったのが面白かった。

私が「ビクターとアンリの物語」としてこの話を受け入れがたかったのは多分、完全にアンリと怪物を別の生として見ていたからで、ビクターの罪とアンリの業を怪物が背負わされるのがすごい嫌だったんですよね。私には勝手に理想を夢見て希望を共有した二人が、無責任に一人の人間(人間として扱ってすらもらえないが)の生を生み出して、地獄を生きさせた話に見えたから。怪物はアンリじゃないのだから、誰かの生を繋ぎ合わせた"人間ではない何か"になることに同意もしていなければ、そもそもその経緯を知りすらしない。頭がアンリと同じでも怪物は彼という一人の生き物で、記憶が地続きじゃない以上それはもう別人で、アンリの"夢"の続きの結果としての悪夢のような現実を生きさせられる筋合いなんて絶対になかった。

 

 

そう思っていたので、私は「アンリを失ったビクター」の物語としても、「ビクターのために命をかけたアンリ」の物語としてもこの話を受け入れたくなかったんだけど、でもなんか、なぜか今回のmy初日のあの日、生で初めて、今回のあの二人のラストを見た時に、あの「ビクター」を聴いてしまった時に、なぜかすごい……納得してしまったんですよね……………………………

・特にこれ、ラストで何か納得させられちゃったんだよな……なんか"こう"なるしかなかったんだなというか………あぁ、これがこの二人の二回目の帰結か……というか………ラストが分厚かった 言語化が難しい

そう、「分厚かった」と書いたんだけど、本当になんか、あの二人の間にあるものの層がものすごく分厚くて、何もかもがあそこにあって、でも確かにそこにいるのは怪物とビクターで、それはあのほんの一瞬、幻のような柔らかい声で「ビクター」と呼ぶアンリが現れても、変わらないと頭では思うのだけど、なんかでも、なぜか納得してしまったんだよな…………………………あそこに辿り着くしかなかったんだよな………と。

アンリはあそこでようやく真に命を終え、死の間際でビクターの夢を一瞬だけ叶えた。ビクターはあそこでようやく初めて失った死者に出会うことができ、同時に永遠にアンリを失った。そして怪物は自分の命が尽きる最後、アンリの姿をした自分を殺させることで、ようやくビクターの周りの大事なもの"全て"を奪い、真に孤独にさせた。残る復讐の最後にして最大の一手を打った。

あんなにも三人の全ての帰結が綺麗に重なるラストを見せられたら納得するしかなかった。でも観ていた時は本当にわけがわからなかった。わけがわからないのに納得してしまい、何なんだ………これは………なぜ私は納得したんだ………………と思いながらふらふらのままブリリアを出たのちデニーズでサンドイッチを食べました。そしていまだにあんまりわかっていないような気がする、なんなんだ……………………

 

 

 

 

 

ちなみに後日談(その後のツイート)

4/14

・フランケン、多分私はマチソワしたら普通に胃が痛くなりそうなので適性はないし向いてもないんだけど、昨日からふとした瞬間に「あれ、ビクターは…」「あの時の怪物は……」「アンリって……」と脳内に思考が走るので、なんか一つ回路を占領されている気がする

 

4/15

・なんかちょっとマジでよくわからないんですが、気付くと隙間時間にフランケンのPVとゲネプロ映像再生してる どういう現象………………?

・私の頭は「吸引力あるしハマる人いるのめちゃくちゃわかるけどfor me作品ではないんだな」と理解しているのに、手は映像を再生しています なんだこれ

・ビクターに他人の手と繋ぎ合わせられている………?手〜は誰かの手…🎶?

・脳と手の意思が違う場合はどちらが正なんでしょうね…………新しい問いだね………(?)

・いやほら、頭で欲を抑制してて手がチケ取る場合とかは手が正じゃないですか(?)、でも今別にハマるの抑制してるとかでもないので………謎現象…………

・わたし、フランケン、刺さってないんだよな……………?(?)

・いや本当に、なんか普通に気づくと口ずさんでいる 君夢を

・まあ、あの私の次の手持ちはこばかずなんで………そこで様子を見るってことで…………この謎現象の………… 

 

 

刺さっていないはずなのに脳内を占領されているという謎現象に戸惑いを覚えていました。それが先週。その後フランケンシュタインこばかず味をいただくのはまたべつのおはなし…………

 

おはなし、おしまい。

 

(To be cotinue…?)

推しが増えた話③

 

 

何かや誰かを好きだと思う時、「あぁ私にはこれを好きだと思う感性があるのだな」と思う。

 

対象が推しであれば、推しの素敵なところを知った時、私はこの人のこの部分を好きだと思える心が、それを素敵だと感じ取る感性があるのだな、と思ったりする。

推しを推しているときの自分は好きだ。というか、好きなものを好きでいる自我のことが好きだ。なので、推しを推している自分のことも「悪くないじゃん?」と思える。何なら「最高じゃん?」まで思う。なぜなら推しは最高だから。間違いなく素敵だと心から思える推しのことを素敵だと感じられている自分もついでに「良いじゃん」と思える。推しによる自己肯定感の上昇。推しは素晴らしい。推しは今日も(わたしの)世界を救う。

なんてまあつい大仰なことをつい書いてしまうけれど、実際好きなものを好きでいる時間の自分のことを一番都合よく好きでいられるみたいな話かもしれない。でも、考えても仕方ないときにどうにもならない諸々のことを考えているより、好きなものや人のことを考えている時間の方がよっぽど健やかじゃないか、とは思う。そして健やかな時間を過ごしていると、やっぱり幸せ感情は積もるしメンタルに優しい。いつだか「推しを推している自分を推せる!」みたいな電車広告にキモ!となっているどこかの誰かのブログを読んだけれど(まぁそれを外側から言われる気持ち悪さは分かる)、自分ではない何かを見ていた方が自分を好きになれるみたいなこと、普通にないか?と個人的には思う。

 

 

 

今となってはあまり説得力もないけれど、本来は熱しにくく冷めやすい人間なので、あまり人に継続的に好きだな〜〜という気持ちを持てることがなかった。お芝居が好き〜とか歌が好き〜とか顔が好き〜とか声が好き〜素敵なお人柄〜とかいう気持ちはあっても、「この人ずっと追っていきたいぐらいに好き!」とはあんまりならなかった。日常の中にたまに現れてくれればちょうどいいぐらい。

仮に少しその奥に踏み入っても割と早々に飽きるし冷めていた。インタビューを読んでは勝手に冷めるし、素で喋る映像を見ては勝手に冷めるし、昔の姿や発言を目にしては勝手に冷める。別に何もなくても知らないうちに薄れている。基本的に勝手に好きになっては勝手に冷める。大体は一年も興味が継続しない。アイドルにどハマりする友人を横目で見ながら、何故私はこんなにも簡単に冷めるのだ……と思っていたけれど、まあ自然現象なので仕方がないな〜〜と諦めていた。まあそれでその人に迷惑がかかるわけでもないので、そんなもんだろうとも思っていた。多分あんまりそれは今も変わらないんじゃないだろうか。

 

ただここ数年は、やたらと新たな沼に転落しがちではある。

生の舞台には何かやばい魔術がかけられているというのは確実にあると思う。生で、同じ空間で、その瞬間そこにいる人しか目撃できない芝居を見てしまうというのは、やっぱりやばいのだ。やばいとしか言えないぐらいにやばいのだ。観劇をする人々の推しの平均数が多いのはそういうことなんじゃないかと思う。同じ空間でその瞬間しかそこにない同じ空気を共有するとき、そこにはやっぱり何か魔力が働くのだと思う。

流石にこれ以上は増えないだろう……といまや全然言い切れないのが怖い。一人目の推しを推し始めた時には「生まれてから初推し誕生までここまでかかったんだもん、私はこの先そんなに推しが増えることもないだろうな〜〜増えてもしばらく後だろうな〜〜」などと他人事のように思っていた。自分が信用できない。

 

それはさておき、継続的な「好き」を向けられる対象ができるというのは、想像していた以上に楽しいことだった。

推しが一人しかいなかった当時、それでも十分私の日常生活は推しに侵食されていたので、正直一人で手一杯だからもう増やせないな〜と思っていた。推しができたことで色んな世界を見せてもらえた。行ったことのない場所にどんどん連れて行ってもらえた。好きという感情に素直に従って動くことはこんなに楽しいのかと知った。誰かを好きでいる、その人の現在を追いかけるということが、自分の世界をこんなにも変えてくれるものなんだなぁと驚いた。ただ、「こんなにも世界を変えられちゃうの、一人で十分、キャパオーバーでしょ、むりむり私にそんなキャパはないよ………」と思っていた。好きな本も好きなドラマも好きな音楽も沢山ある。けれど、その人の今を追っていたいなぁと思うのは、一人で手一杯だと思っていた。

 

ところがそんなことはお構いなしに、推しというのは突然やってくる。予想もしない方向からやってくる。2020年初夏、私はいつの間にか、気づいたら温泉のような温かい沼に滑り込み始めていた。

 

 

 

時は遡り、2020年春。

1回目の緊急事態宣言が出たあの頃、まだ何もかもがどうなるか分からなくて、外の世界にも全く出れなくて、精神的にも物理的にも、なんだかずっと内に籠っているような時間がずっと続いていた。当時、社会全体も異様な非日常の空気に包まれていたし、私自身も一日中ずっと自室でリモートワークをしている状態で、正直なところ、ちょっと気が狂いそうだった。

寝る空間と働く空間が突然同じ場所になって、自分にとっての唯一無二の絶対安全リラックスゾーンを丸ごと奪われてしまったような感覚が、最初はとにかくきつかった。夢の中でもしょっちゅう仕事をしていた。慣れない新生活、その上気が休まらない。外に出てリフレッシュすることもあまりできず、自分の中に溜まる何かをどう消せばいいのか、どう栓を抜けば良いのか分からなかった。あの時期はコロナに加えて家の中でも問題が発生していて、部屋にいても気が休まらず、足元がぐらぐらで、外の世界も内の世界も揺らいでいた。世界のすべてが不安定だった。ずっと足場が揺れていて、地に足が着かなくて、自分にとっての「日常」がガタガタになっていた。色々なことが分からないまま、落ち着かないまま、不快なまま、不安なまま、ただ仕方なく、のろのろと進む日にちを追っていたような、何というか、ずっと泥のかたまりが喉につまっているみたいな息苦しさが、あの頃はずっとあったような気がする。

 

そんな中、天保十二年のシェイクスピアきっかけで2月頃から何となくずっと聴いていた浦井健治さんのラジオが、知らないうちに、1週間の中の楽しみになっていた。

当時のツイートを遡ると、「浦井さん、天使か何かなのか……?」とか「元気出る」とか「愛が惜しみない」とか、「底抜けに明るいのに(そういう人にたまに感じてしまう押し付けがましさみたいな)いやな感じがまるでなくて、ただただ聞いていて楽しい気持ちになる」とか、沼の外からこの方、本当に素敵なお人だな……と称賛しているツイートがちょこちょこあるんだけれど、もちろん書いたようにそう心から思っていたし、実際は書いていたそれ以上に救われていた。

 

たったの20分、しかも当時はファンでも何でもなかった私が聴いていても、カラッとした明るさを分けてもらえるような感覚があった。外は春の気候でぽかぽかしているはずなのに、あの時期は本当に気分がずっと曇天で、少し気分転換に家で映画を見たり、近所を散歩してみたりしてもあんまり変わらなかった気分が、浦井さんの声を20分聴いているだけで軽くなったり、「あ、なんかまだ自分大丈夫かもしれない」と思えたりして、すごいなぁと思った。し、同時にすごく不思議だった。なぜ少ししか知らないこの浦井健治さんという人に、私はこんなにも元気を貰っているんだろうか、と。

もちろん天保十二年のシェイクスピアの中で浦井さんのお芝居と歌を見て聴いて、その魅力はたっぷり浴びてきていたし、近いうちにもう一度絶対この人の舞台を観に行こう……とは思っていたけれど、それでも沼に足を踏み入れた感覚(自覚)は当時は全然なく。ただただ、万人に与えられる太陽光を浴びに行くみたいな気持ちでラジオを聴いて、元気を貰っていた。

 

完全に沼に沈んだのは5、6月だったと思う。

初期症状、気付くと「浦井健治」と検索をかけている。日常にたまに出てくるぐらいだったはずの「浦井健治」という文字が、結構な頻度で脳内に現れる。中期症状、何故か夢に浦井さんが出てくる。そして末期症状、気付いたら5月末には過去作のDVDを2本買っていた。私がどの段階で浦井さんに完全に落ちたのか、今となってはあんまり思い出せないのだけど、加速していったのは確実に2020年のGWだった。あのお篭り連休に、たまたま加入していたhuluでトライベッカを見て、新たな側面を沢山知って、興味がどんどん高まっていく。ついでにニーチェ先生を見てあっなるほどこの人はこういうキャラも似合う人なんだ……?と理解する(と言いつつも結局3話ぐらいまでしか見れていない)。

 

推しが増えた話②で書いたような気がするけれど、「天保十二年のシェイクスピアの王次」から始まり、「王次の中の人」になり、ようやくラジオを聴き始めて「浦井健治」さんの輪郭を掴み始めたのが3、4月。そして、ラジオと並行して見始めた、ご本人の素の一部も垣間見えるトライベッカとニーチェ先生を見つつ、検索で出てくる情報を軽く漁りながら「なるほど、こういう面もあるのね……?」と中身を何となくぼんやり掴み始めたのが5月前半。この頃でも十分沼に半身浴していた気がするけれど、それでもまだ「とても興味が湧くな……」の段階で、「テーマ:浦井健治さん」という調べ学習をしているみたいな感覚だったと思う。気付けばTwitterで「浦井さん」「浦井健治」「浦井 〇〇」などとワードを検索してはファンの方のツイートを読み漁り、気づけば観られそうな浦井さんの過去作を調べて、気付けば過去のインタビューを発掘し、気付けばファンクラブの案内ページを隅々まで読み、気付けば誕生日を調べては「あっ確かにすごく獅子座っぽい……」とか考えて……………と、こう並べてるとすごい気持ち悪い感じになってきたのでこの辺で止めますね……(オタクの調べ学習怖いですね……….)。そう、でもとは言え、「興味」は私の中では理性がある段階なので、まだ制御不能状態に陥っていないはずという謎の持論上、この時点ではまだ「推し」にはなっていなかった(と思っていた)。とはいえ、落ちる前の最後の悪あがきタイムではある。

そんな私を容赦なく沼底に蹴り落としてきたのが、DVD『ミュージカル シャーロック・ホームズ』。今考えてもあれは、とてもとても恐ろしい沼落としアイテムだったと思う。あんなん見せられて落ちるなという方が無理がある。どう考えてもあれを見て落ちるのは自然現象だと思う。リンゴが木から落ちるぐらい当たり前、浦井さんの沼のほとりにいる人間にシャーロックホームズのDVDを手渡したら皆次の瞬間には沼に落ちて見えなくなる法則がこの世にはある。再生ボタンを押した瞬間にはもう気付かず沼直行急勾配の滑り台に乗せられていた。

賢く心優しいエリックと、高圧的でプライドの高いアダム。役者さんは続けてみた作品のギャップがすごければすごいほど沼落ちの危険性が高まるなとはよく思うけれど、一人二役の双子はずるい。どう考えてもずるい。しかも双子という役の特性上、一度はけて衣装替えしてから違う役に……ではなく(それもあるけど)、ベッドを間に挟んで右に左に移動するだけでもう一方の役に入れ替わったりする。ギャップの往復ビンタみたいなをことされる。間数秒で役が入れ替わり、しかもその役で歌い出す。そのあまりの器用さと振り幅に完全に殴られた。

しかも私はアダムみたいな役に弱い。弱すぎるぐらいに弱い。もちろん現実にいたら全力ダッシュで逃げるし全然関わりたくないけど、物語の中にいるああいう役はめちゃくちゃ美味しい。もし当時現場にいたとして、あの冷たい目で蔑むように睨まれたら多分0.05秒で落ちていた。しかも中の人があんなにポカポカしてるからギャップがとんでもない。何なんだよ、そりゃ無理だもう落ちるわ、となかば半ギレで円盤を観ていた。(こう考えると、私は落ちる直前によくキレているらしい。「そんなのはずるいじゃん……?!?!」と怒っている。怒りながら沼の底に直進している。身に覚えがありすぎる。)

 

まぁ、とはいえラジオを聴いて「私この人……好きだなぁ………」と毎週思っていたのが、今浦井さんを好いている感情とほぼ変わらないので、結局のところ私はラジオの浦井さんで沼落ちしていったんだろうなぁ、というのが現時点での解釈ではある。そしてシャーロックで沼の底に着地したことを自覚させられ、王家の紋章のDVDもカートに入れて即購入、気付いたらファンクラブのカードが家に届いていた。我ながら沼落ちを自覚した後の仕事は本当に早い。

 

 

 

そんな浦井さんを「推し」として初めて見に行ったのが、2020年8月、シアタークリエで上演されていた『メイビー、ハッピーエンディング』だった。

初めてファンクラブでチケットを取って観に行ったmy初日、クリエの座席に着席した瞬間もう既に泣きそうだったのを覚えている。

天保十二年のシェイクスピアを最後に観たあの日以来、初めて入る劇場、初めて座る座席。座った瞬間幸せでいっぱいになってしまった。「あぁ、ようやくまた観にこれたんだ」とも思ったし、天保を初めて観た時に思った「浦井健治さんという役者さんの違う役のお芝居をまた観てみたいな」も、浦井さんを好きになってから思い続けていた「浦井さんにまた会いたいな…」も、ようやく叶うんだ、と思ったら嬉しくて幸せでたまらなかった。と同時に半年間の色んな記憶がぶわっと蘇って、「あーなんか本当に、生きてて良かったな……」と思った。ようやく報われた…というとなんか違う気もするけれど、ここまでよくがんばりましたね、のご褒美を貰えたような気がした。始まる前で既に十分満たされた気持ちになった。

 

そして、役としてだけれど、数ヶ月ぶりに浦井さんが目の前に現れたとき、ものすごくなんか、ホッとした。

浦井さんという人を見て、安心した。で、安心しながら、安心している自分に少しびっくりした。「私、この人のこと見ると安心するんだ」と思った。もちろんファンクラブに入っているぐらいなので既に十分好きである自覚はあったし、それからだって何度も「あー私この人のこと、すごく好きだなぁ」と思ってはきたし、でも、ひさしぶりに見た瞬間に最初に湧き上がるのが「安心」なんだなと思ったら、あぁ、私は思っているよりずっと、この人のことがものすごく好きなのかもしれない、と気付いた。

見た瞬間感じた「安心」の中身が、浦井さんが無事に健康でいてくれて、再び舞台の上に立てている姿を見られた、という安堵の気持ちもあったけれど、それ以上に、私自身が浦井さんという存在自体に対して、安心感を覚えている感覚が強かった。家に帰ると安心する、旧知の友人に会うと安心する、馴染みの店に行くと安心する、それに近い感覚で、浦井健治という人自体に安心した。「あぁ、浦井さんだ……やっと浦井さんに会えた……」と思って泣きそうになった。いや普通に泣いてた。あの閉ざされていた春の時期、ずっとこれが続いていくんじゃないかと錯覚してしまうぐらい薄暗い日常を、ずっと照らしてくれた太陽みたいなこの人に、ようやく会いに来れたんだ、と思ったら幸せで仕方なくなった。「あぁ私、この人のことがすごく好きだ」と思った。

 

たまたまその時の作品がメイビーだったのも良かったな、と今になって思う。メイビー自体がものすごくあったかいお話で、結末こそ切ないけれど、人の純粋な根っこの部分の、かわいらしさとか、真っ直ぐさとか、温かさとか、そういうものってやっぱり素敵なものなんだな、と素直に思えて、観ている間も観終わった後も、自然と心が緩まる作品だった。何かに愛を持ったり、誰かを大切に思ったりすること、その記憶を持っていることは、生きていく上でものすごく大切で、それがその人の心の栄養分になってその人を生かしていくのだな、とか、素直にストンと思えるお話で、それは私が浦井さんを見ていて感じる感覚にすごく近いところにあるような気がして。

浦井さん自身が、いつでもたっぷりの愛情を溢れさせている人で、いつでも真っ直ぐな想いを持って、それをそのまま言葉に乗せる人だから、私はいつも浦井さんを見ていて、あぁやっぱりそういうものって素晴らしいものなんだよな、と思えることが多い。ねじれた言葉とか、斜めから見た視点とか、そういうものが現実的で、真っ直ぐで純粋なもの、明るいもの、善いもの、シンプルなものは、簡単で安直だとか偽善だとか揶揄されがちなところがある社会で、それでもやっぱり温かいものも、真っ直ぐなものも、純粋なものも、優しいものも、きれいなものも、絶対にすばらしいものなんだと心から思わせてくれる浦井さんの在り方や言葉が私は大好きだ。

浦井さんを見ていると、真っ直ぐな自分の中にあるそのまんまの言葉を紡いだり、伝えたり、誰かの善を信じてみたり、そういう人間の根っこの純粋さみたいな部分を私は大事に思っていいんだなと思える。これはメイビーの感想でも当時書いた気がしたけれど、素直な人を見ていると気づいたら自分も素直になっているし、温かい人を見ていると自分の温かい部分を思い出せる。メイビーがそういう作品であったのと同じように、私にとって浦井さんはそういう人だし、そういう浦井さんを見ていると本当に、びっくりするぐらいに安心する。

 

あと、これは好きになった当初の頃からずっと思っていることだけれど、浦井さんという人間が存在しているだけで、それを知っているだけで、なんというか、この世界への安心感みたいなものがぐっと底上げされるな、とよく思う。もちろん浦井さんが世界全体を支配しているわけでもないし、浦井さんが私の日常に直接関わってくることなんてない(それはなくていい)し、物理的に何がどう変わるなんてことは当たり前だけどない。

ただ、この世界に浦井さんという人がいる、ということを知っているだけで、世界そのものに安心できるというか、世界の体温が一度上がるような感覚がある。「あぁ、こんな人がいたんだ」「こんなにあったかくて愛情に満ちている人が存在するんだ」「この世界にはこんなにも力強い光を放ってくれる人がいるんだ」と、私は何度も浦井さんに思っていて、それに何度も救われている。それは多分、あのラジオを聴き始めた2020年の春からずっとある感覚で、浦井さんの姿を見ていても、ラジオ越しに声を聴いていても、文字として彼の言葉を受け取るときも、彼の歌を聴いているときもそうで、その媒体がなんであっても、私は浦井さんという人にいつも、ものすごく安心する。本当に太陽みたいな人だなぁ、と何度も思う。いつだってぽかぽかの陽だまりをくれて、めちゃくちゃどでかい愛を惜しみなく降らせてくれる。分け隔てなく万人に温かさを与えてくれるお日様のようでもあり、どんな闇の中でも呑まれない力強い光のようでもあり。

 

 

20周年コンサートの時にも、ものすごく強くそれを感じたのを覚えている。あの会場全体を余裕で埋め尽くすぐらいのとんでもないパワーと、その会場内にいる人達全部に渡しても余るぐらいの愛情をたっぷり持っている、そのポテンシャルの計り知れなさというか、あらゆるエネルギーの保有量の多さにあらためてびっくりしてしまったし、あらためて大好きになってしまった。あの頃がちょうど、好きになり始めて1年ぐらいだったと思うけれど、「1年前に沼に転がり落ちた私、ほんとうに大正解!」と帰り道ほくほくした気持ちで帰ったのを今も覚えている。その勢いであのブログを書いたら、より一層愛が募って家の中で幸せで溶けそうになった。

浦井健治 20th Aniversary Concert - 140字の外

 

 

これは今でも自分で読み返しては幸せな記憶に浸ったりするし、やっぱり素敵な人だなぁと再確認したりもする。たまたまだけれど、私があそこに書いたものは円盤には入らなかった部分も多くて、勢いで書き残しておいて本当によかったなぁ、と今もよく思う。あんなに幸せな空間の記録がこの世界に何も残らないなんてさみしい。書き残してくれてありがとう当時の私。

そして、それまでは基本的に自分から浦井さんを好きな方をフォローしたりだとか、話しかけてにいったりだとか、いいねしたりだとかもせず、ただたまに覗きにいってみてはひっそり観察をする……という、存在を認識されないような、いわばROM専スタイル(とはいえ一人でずっと喋ってはいる)を続けていたのだけれど、あのブログは思いの外多くの方が読んでくれたようだったし、それが誰かの記憶の補完になったり、あの場に行けなかった方の想像の元にでもなっていたのならそれはすごく嬉しいなぁ、と当時すごく思った。あのブログを書いたことで繋がれた方もいて、それはご縁だなあと思うし、何かの愛をたっぷり乗せた言葉を紡ぐことはやっぱり、素敵な循環を生むのだな、と思う。私は文章を書くことも、好きなものや人について喋ることも好きで、いや、好きというよりはもっと、寝るとか呼吸するとかご飯を食べるとかそういうところに近い部分にそれはあるので、これからも書いていきたいし、書くんだろうなと思う。

 

 

 

そこから更に一年が経ち、ちょうど一年後の2022年の4月にはFCコンサートにも行った。その時に思ったのは、すっかり「浦井さんのことを好きでいる私」が定着してきたな、ということだ。約2年、短いけれど、その間365日×2の日常を自分が過ごしてきたと考えると、長いような気もした。私の構成要素の一つとして「浦井健治という人を好きな自分」がどっしり存在するようなっていた。1年前の20thコンサートの時点では、好きになって1年弱は経っていたもののまだ少しソワソワしながら会場に向かっていたけれど、FCコンの時にはもうすっかり愛情過多でろんでろんに溶かされる心構えを持って席に座っていた。浦井さんの存在も、浦井さんを好いている自分の存在も、あの頃よりも自分の中にどっしり居座っている。私の日常の中にすっかり浦井健治さんという人は溶け込んでいるし、浦井さんを好きな自分の自我は、すっかり私の中に馴染んでいる。

 

舞台上で役として歌う浦井さんも、お芝居をする浦井さんも大好きだし、もし「浦井健治」として生きているだけだったら見られなかった浦井健治という人の肉体を持った別の人の人生を見られることは、本当に幸せだなと思う。浦井さんが役者という職業についていて、それを今この時代にちょうど生きて見られている奇跡にはめちゃくちゃ感謝している。

ただ、なんだかんだで私はラジオの浦井さんに惹かれたところから始まっているので、やっぱり「浦井健治」として話している浦井さんの姿を見ると、すごくほっとする。「あぁそう、私この人がすごい好きなんだよなぁ」と思う。ふわふわした姿も、ギャハギャハ笑う姿も、幸せそうに嬉しそうにこちらを見ている姿も、さりげなく周りに気を配る姿も、とんでもなく格好良い姿も、相手を真っ直ぐに見つめて話を聞く姿も、なんかこんなに全部好きで大丈夫だろうか、と思うぐらいには未だに結構全然全部好きだなと思う。画面越しでも同じ空間にいても同じように飛んでくる真っ直ぐな言葉も、FC向けに書かれるダイアリーや会報誌の、より丁寧にこちらを向いて届けてくれる真摯な言葉も好きだ。

 

そう、言葉と言えば、浦井さんはよくカテコで観客の「???」を生む挨拶をされたりするけれど、何というか、多分浦井さんの言葉は行間に色々入ってることが多いのだろうな、と思う。天然案件な時もあるし、伝えたい内容が恐らくABCDEだとして、その中のACEだけ言葉にするので聞き手が置いてかれている、みたいなパターンもあるのだと思うけれど。

ただ、インタビューでつらつらと淀みなく話す姿を見ていると言語化が苦手な人では全くないのだろうなと思う。浦井さん、詩みたいな言葉を書く人だなぁ、とダイアリーを読んでよく思うのだ。言葉と言葉の間に言語外の情報が沢山入ってることが多い。読んでしばらく経ってから頭の中で点と点が繋がって「あ、そういうことか」と時差で気が付いたりする。言語化されていない部分まで受け取れると、すごく深くまで浸透する。

頭の回転が速い、とよく人から話されているのを聞くけれど、多分言葉もそれなんだろうな、と思う。本人の頭に100ぐらいあることが15ぐらいの言葉になって出ていて、それは言語化とかの話でもあるのだけど、そもそもその前に浦井さんの思考がかなり高速でものすごく大量なんだろうな、と。故に時に言葉が追いついていない時はあるのだろうけど、インタビューで静かに淡々と語られている文章を読むと、なんというかとても頭の良い人なんだろうなと度々思う。この人、想像できないぐらい思考のスピードが速くて、思考の層が多いのだろうな、と思う。頭の良さも色々と種類があるだろうけれど、浦井さんはとにかくすごく細い思考の糸を高速でヒュンヒュン縫っているみたいな頭の良さを感じる。めちゃくちゃ細い糸のモンブランみたいな(例えはそれでいいのか?)。ただ、その一部を言葉にすることも多いので、余白はこちらで読み取らないといけない、みたいな時もあるのだろう。全てを説明する文章というのも野暮なもので(自分はやりがちだけど)、私はダイアリーで書かれる余白の多い浦井さんの言葉が、豊かで好きだ。その言葉の中にあるもの、外にあるもの、どれにも浦井さんの誠実さが詰まっていて、いつでも嘘がなくて真っ直ぐで、気持ちが沈んでしまう状況下でも、必ずどこかに光を混ぜてくれる。光を信じさせてくれる。喋り言葉にしても書き言葉にしても、浦井さんの言葉が私はとても好きだ。浦井さんの人柄がそのまんま滲んでいるようで。真っ直ぐで濁りがなくて、心に馴染む。受け取ると心の温度がふっと上がる。

 

 

「必ずどこかに光を混ぜてくれる」と書いたけれど、浦井さんはやっぱり、底知れない光の持ち主だな、と思う。愛の保有量もすごいけれど、光の保有量もとんでもない。

上でも何度も書いているし、これからも言い続けるのだろうけど、私にとって浦井さんはやっぱり太陽なのだ。とんでもなく大きくて、強くて、眩しくて、その光を分け隔てなく万人に降らせる太陽の光そのものだと思う。ファンタジックな表現になってしまうけど、この人はなんか、世界中が闇に包まれていても、絶えることなく光を発し続けることができるぐらい、光が大きくて強い人だ、とたびたび思う。もちろん、こちらの知らない部分ではきっと色々あるのだとは思うけれど、見せないでいてくれる部分が沢山あると思うけれど、こちら側にはいつも必ず光を届けてくれる強さのある人。その在り方を称賛してしまうと「ファンの前では弱いところを見せず綺麗な部分、美しい部分のみを見せるべき」みたいな、私が非常に嫌いなプロ論押し付けファンみたいな表現になってしまいそうで書き方が難しいのだけど、それでも、地の底まで気分が沈んでしまいそうな状況の中でも必ず光を見せてくれる、そちらを向かせてくれる浦井さんの在り方に私はとても救われることが多かったから、そう在ってくれることにとても感謝しているし、どでかい敬意を持っている。とはいえ無理をして欲しくないとは思う、思いつつも、そんな心配さえも失礼な気がしてしまうぐらい、何というか、浦井さんの光は大きくて、どっしり力強くて、見ていてどこまでも安心するのだ。私は浦井健治という人を見ているととても安心する。これはもうずっとそうだ。好きになり始めたあの頃から、今の今まで、浦井健治という人の安心感はすごい。

 

 

そんな浦井さんが「推し」になったことは、私にとってものすごく、支えになったな、と思う。今もずっとなっている。私はあまり陽な人間ではないので、普通に日常を過ごしていてうっかり目の前の諸々に幻滅したり、やんわり失望したり、淡々と絶望したりもする。それ自体はただの性質なのでそれを悲観もしないけれど、そういう私にとって、うっかり真っ暗闇に顔面を浸してしまったような時に、確実に「この人は大丈夫だ」と信じられる、大きくて温かい、安らげる光のある場所を知っているというのは、すごく救いになるし、心の拠りどころになる。心の支えとか、拠りどころとか書くと、それは時に危ういのではないか、それは依存なんじゃないか、と脳内の気難しい保険担当が顔を出したりするのだけれど、浦井さんは不思議と、あまり他者に依存心を持たせない人なような気がする(少なくとも私にとっては)。太陽が遠くで光を放っているように、浦井さんもまた私にとって身近な存在という感じはしないし、こちらへの愛情はざぶざぶに注いでくれるけれど、それもまた陽だまりのようなもので、全身に浴びせてくれる太陽光みたいな、心と身体にチャージされる栄養分みたいな愛情なので、隙間に入り込んでくるようなものではないというか。太陽に縋り付くような心情は生まれないように、浦井さんにもまた、そういう気持ちはあまりない。ただただ温かくて、力強くて、優しい浦井さんを、安心して好いていられる。それが心地良い。

 

 

 

 

さて、

この「推しが増えた話」はタイトルを③としているように、①と②が存在していて、今見たらどうやら、どちらも2020年9月に書いていたらしい。①は推しが増えるだなんてまるで思ってなかった話、②は浦井さんを推すまでのプロローグみたいな話だったと思う。本編に入るまでにずいぶんかかってしまって、もはや推しが増えてからだいぶ時間が経ってしまった(その間にもう一人増えた)。

というのも、何度か書こうとは試みたものの、時間が経てば経つほど、好きでいる時間ものびて、また書きたいことも増えたり変わったりするので、なかなか続かなかった。時間が経てば思考も感覚も変わるし、今の感覚とずれるものに文章を繋げるのはどこか気持ち悪かったので、何度か書き直しては、また放置を繰り返し、下書きの数だけは増えていく一方、中々閉じられなかった。

 

私が初めて浦井さんのお芝居を観るために劇場に足を運んでからも、もう3年以上経つ。私は初観劇が天保十二年のシェイクスピアなので、2020年2月。そこからここまで色々な舞台作品に出会ったけれど、元を辿れば浦井さんが色んな作品に連れて行ってくれたお陰なんだよなぁ、と思う。

そもそもが割と雑食なのもあるかもしれないけど、今、私が特にこういう作品!とかこだわりなく「なんか楽しそうかも〜」の思いからふらっと構えることなく劇場に向かえるのは、浦井さんが色んな観劇体験をくれたから、というのは大きいと思う。色んな世界を見せてもらえたし、色んな浦井さんを見せてもらえたし、色んな楽しみ方を教えてくれた。観始めた頃はまるで深海みたいだなと思っていた演劇界隈(舞台を主戦場とする役者さんを殆ど知らなかったので、知ろうと思わなければ知ることのできない、でもそこには未知の楽しい世界が広がっている、という意味で深海生物みたいだなと思っていた)を、浦井さんという潜水艦に乗って潜って探検している、みたいな気分だった。少しずつ、浦井さんの関わる作品、関わった作品、共演した役者さん、その繋がりや作品の歴史を知っていきながら、深海の地図が見えてくる。日生劇場から始まり、クリエ、帝劇、新国中劇場、小劇場、トラム、青年館、いろんな劇場にも連れて行ってもらえた。色んな作品、役者さん、空間、歴史、音楽、物語。私の知らなかった深海は深くて広くて楽しくて、潜るたびに、進むたびにもっと先を知りたくなった。その深海の案内人が浦井さんで良かったな、と思う。今はもう一人でも楽しく探検できるようになったけれど、浦井さんに色んなところに連れて行ってもらって、その安心感の中で色んな景色を案内してもらえたからこそ、その美しさを知れたからこそ、好きになることができたのだろうな、と思っている。どこに向かえば楽しいだろう、どこに広がってるんだろう、と今は一人で色んなところに向かって行ける。それは多分、「ここに帰ってくれば大丈夫だ」と思える、海の中の住処を浦井さんが作ってくれたからだと思う。とても感謝している。

推しができると世界が広がる、と初めて推しができた時に思った。知らなかった場所に向かい、知らなかった世界を知り、知らなかった感情を味わい、知らなかった自分を見つける。推しと出会わなければ知らなかった世界を、私は今沢山知っているのだな、と思う。浦井さんに出会えたことで、浦井さんの「今」を追い続けてみたことで、私が知れたこともまた、本当に沢山ある。上にも書いたけれど、数年前には「これからは舞台も少しずつ観てみたいな〜」ぐらいだった私が、これだけ観劇が好きになっているのは確実に浦井さんのお陰だし、私は舞台を観ているときの自分が好きだから、新しく好きだなと思える自分に出会えたのもまた浦井さんのお陰だ。

 

 

人生のターニングポイントなんて後から振り返れば色々あるのだろうけれど、浦井さんに出会えて、たまたまラジオを聴いて、そして救われて、気付いたら好きになっていたあの地点は確実に、「今の私」に辿り着くための大きいターニングポイントだったのだろうなと思う。あの時もし天保十二年のシェイクスピアを観ていなければ、ラジオを聴き始めていなければ、聴き続けていなければ、この3年間の中で私が見てきたものはごっそりなかったかもしれない。ドラマ『カルテット』の台詞じゃないけど、人生をやり直すスイッチがあったとしても、私は今の自分がいる地点が何だかんだ好きだし、恐らく押さないだろうと思う。そりゃ「あの時こうしていれば」みたいなことは普通に山ほどあるし、あの時間には二度と戻りたくないなみたいな時期も全然あるし、何かもう少しどうにかこうにかならなかったかなとか、色々思いはする。全然するけど、結局何処かの地点を修正したことで今の自分に辿り着けなくなってしまうのなら、多分私はそのスイッチは押せないのだ。私は今の地点を手放せないし、手放したくもない。

そう思わせてくれる大きな理由のひとつとして推し達は、私の過去と今にいてくれる。仮に「もっと良かったかもしれない世界線」が隣にあったとしても、私は偶然に偶然が重なって出来た今の推しへの出会い方も、そこから推しを推してきたこれまでの時間の積み重ねも、今持っている気持ちも1ミリもなくしたくはないから、多分結局この世界線を選ぶ。そう思えるのは、数年分振り返っただけでも楽しかった時間、愛おしかった時間、これからも記憶に残り続けるだろう大切な時間が沢山思い出せるからで、それは多分、すごく幸せなことなんだろう。

最初に「推しを推している時の自分は好きだと思える」と書いた。何かを好きでいることが、その何かを好きでいる自分を好きにさせてくれる。私はその時間にも、その自分にも救われることが多い。そしてもしかしたら、上に書いたようなことは、推しは私の人生すらも肯定させてくれる、ということなのかもしれないな、と思う。今ここの地点に辿り着けて良かったと思えるのは、それまでの全てを含んだ、自分の辿った道筋まるごとの肯定でもあるから。大袈裟かもしれないけど、でも実際そうなんだよなと思う。あの地点でたまたまそこに向かった私、あの地点であの人に出逢った私、あの地点であの作品に出逢った私、そしてそれを経て今に辿り着いた私。何かが欠けていたら今のこの地点にはいないのだと思うと、なんかそれってすごいことだよな、と純粋に思う。別にだからといって、これまでの道のりが全部愛おしい、とかそんなことにはならないけど、それでもやっぱり、「まぁ、悪くないじゃん?」と思わせてくれるのだから、すごい。自分のここまでの時間を、見てきたものを、感じてきたものを肯定できるのは、心にとって、ものすごく健やかなことだと思う。

 

 

天保十二年のシェイクスピア③ - 140字の外

これを書いてからももう3年が経つ。

天保十二年のシェイクスピアが中止になったあの時からは4年。私の中であの時間は「"あそこ"にはもう二度と帰れないのだろうな」という幻みたいな時間として記憶に刻まれている。ものすごく楽しくて、愛おしい時間だったからこそ、それが突然終わってしまったあの時から、あの時間は夢だったんじゃないだろうか、みたいな感覚が自分の中にずっとある。あの地点であらゆるものを失い、あの境界線にあらゆるものを置いてきてしまったような。そして、あの日からぐるんと変わってしまった、あの頃からしたら「非日常」な「日常」を歩き続けて、そこからもずっと良くも悪くも変わり続ける日々の中で、多分この先「変わる」ことはあっても「戻る」ことはないのだろうな、ということをある程度経ってからは思うようになった。そもそも世界は不可逆で、戻るなんてことはあり得ないのだけど、それでもあの頃は、「戻る」ことに光を見ていた人がたくさんいて、社会も「戻る」ことを目指していた。けれどそのうち、「戻る」も「変わる」もぼんやりして、非日常も日常もぼんやりして、何もかもが行ったり来たりするうちに、よく分からない世界に少しずつ、薄れた毒に慣れるように、甘い香りに鼻が麻痺していくように、そうやって世界の輪郭がぼやけていって、気の遠くなるような長い時間があったような気がする。この数年は時間感覚が曖昧だ。そこから更に今は、状況も、人も、確実に大きく変わった。なんかどうやらこの世界は"元に戻った"ことになっているらしいけれど、今も私は、"戻った"とは思わない。

 

 

世界は戻りはしないし、そもそも私たちは戻れない。

けれど、戻ることはなくあの地点から今まで、変わり続けていく日常の中で、「あの地点」には戻れない「今」の上で、私は浦井さんを好きになれたし、そこから今ここにくるまでに、好きと思えるものにたくさん出逢うことができたことは、確かなのだ。あの頃の私が知らなかった好きなものが、今の私の世界にはたくさんある。途切れることなく時間は続いていて、あの地点にはもう二度と戻れないけれど、それでもよく分からないまま、よたよた歩いてきたこの時間の上で、私はなんだかんだここまで、ちゃんと道を作れて、歩いてこれたのだな、ともまた思うのだ。

あの時、世界の回線が全てぶつりと切れて、世界が止まってしまったような、灯りが消えてしまったような暗さの中で、浦井さんは紛れもなく私にとって光だったのだと思う。たった少しの時間で私の心に灯りを分けてくれて、今この瞬間の足元に灯りを灯してくれて、見えないはずのこの先の道まで照らしてもらえたような気がした。まるで先の見えない、未来と今とを繋ぐ線すらぷつりと切られてしまった、どこからも切り離された孤島にいるような不安に埋もれていたあの時、世界を、未来を、かろうじて信じさせてもらえたことに、そこに繋ぎ止めてくれたことに、本当に私は救われたのだと思う。

 

 

そこが始まりだった。浦井さんを好きになったことはあの地点から始まっていて、浦井さんを好きになってからの時間を思い返すことは、あの時から今ここまでにくるまでの時間を辿ることだった。全てがぐるんと変わったあの時、あれ以前とあれ以降の境界線のようなあの時、そしてその直前の、あまりに楽しくて幸せだった天保十二年のシェイクスピアを観ていた束の間の幻みたいな時間。浦井さんを好きになったことを、好きでいた時間を振り返ることは、「あの時」から今までを思い返すことで、それは多分、私にとってはあまり容易なことではなかったのだと思う。

ドラマ逃げ恥のSP版が放送された2021年の元旦、正直2020年を振り返るにはまだキツイな、と見ながら思った記憶がある。それは多分、今この地点もその先もまだまだ読めない時期に、異様だった1年間を振り返る心持ちが、余裕が、あの時の私にはなかったからだと思う。

それからまたしばらく時間が経って、この1年ぐらいでようやく、客観的にこの数年間のことを見られるようになった気がする。それは今の状況がどうということではなくて、多分、時間の問題だと思う。あの始まりからだいぶ時間が経って、この数年間から少し距離を取れる位置に自分を置けるようになった。

だから多分、これをようやく書けたのだと思う。この数年間で失われたものも、戻れないあの頃のことも、取り戻せない空白の時間も、けれどその時間の中で出逢えたものも、好きになれたものも、その中にあったからこそ残った大事な記憶も、全てセットだから。こんな状況になったからこそ好きになれたとか、出逢えたとか、悪いこともあったけど良いこともあったんだとか、そんなことは言いたくはないし言わないし言ってやらないけど、それでもこの数年間の中で、それは全部同じ時間の中にあったものだから。あの時からここまで、この世界線を生きてきた私には、全部その中にあったものだったから。だから全部丸ごと抱えて、今の地点から歩いていくしかないんだよな、と思う。当たり前なんだけど、でも、そう思えるのは多分、その時間の中に愛おしいと思えた時間がたくさんあったからなんだと思う。

 

 

この先も、世界は止まらないし戻らないし、変わり続ける。どんなふうに続いていくのか、続いていかないのか、いつ何が起きてそれがどう転んでいくのか、何もわからない。相変わらず分からないまんまで、ひとつ分かったと思ったらまた分からないが増えていく。はあ、わからなくて怖い、と心の奥の方でぼんやり、常に思っている。思っていても仕方がないから奥にしまうけれど、それでもやっぱり、どこかにはずーっと居る。たびたび、たちの悪い諦めやぼんやりとした絶望感に引っ張られそうになる時もある。

 

でも、少なくとも私には好きなものがある。好きな人がいる。

観たいと思えるものがあって、会いに行きたい人がいて、楽しみにできる未来がある。それは、どこを歩いているのか分からなくなるような日々の道標になるし、うっかり暗さに持っていかれそうな時、目指すべき灯りになる。あの人がいる。あの作品がある。観たい、聴きたい、会いたい。そうやって歩く先に少しずつ用意された光が、私にとっては日常の希望になる。この世界に見たいと思う景色があるということ、そして会いたいと思える人がいるということは、少なくとも私にとっては、日常を続かせていくための力になる。

推しは私の日常には現れないし、関与しない。私の人生とは離れた場所で生きている人で、遠くで光っている人で、けれど同時に、私の心の内側に棲んでいる人だ。時に私の人生の推進力の源になってくれるし、ぐるぐると回り続ける日常のサイクルを乗りこなすためのエネルギーをもたらしてくれる。それはやっぱり、すごいことなのだ。

 

 

 

 

今月もまた、毎週日生劇場に足を運ぶ日々を過ごした。あれから4年。浦井さんが出演するカムフロムアウェイを観に、私の一番好きな劇場に足を運ぶ。私の始まりの地で、もう一人の推しに出逢った場所でもある。そんな劇場で、なんとその二人が共演してくれるというのだから、やっぱり世界は時々私のことを甘やかしてくれている気がする。

f:id:kinako_salt129:20240331223124j:image

あの日、あの時、あの瞬間、たまたま出逢った人。舞台に立つ人からすれば、客席にずらりと並ぶ人たちは数えきれないほど沢山だろうけれど、舞台を客席から観る私とて、それはまた同じなのだ。たまたま、この日、この劇場で、この作品の、この役の、人に出逢った。もし仕事が忙しかったら?もし予定がずれていたら?もし気分が乗らなかったら?もし天気が悪かったら?たった少しの出来事でそのチケットは私の手元にはなかったかもしれない。あったとしても"その日""その回""その瞬間"を観ていなければ、その出逢いを掬うことはできなかったかもしれない。私たち各々の持つ"好き"は本当に、あらゆる偶然の集結なのだ。そう思うと、人の人生が交わることは、そしてそれが特別な点になることは、本当に奇跡的だ、と思う。

カムフロムアウェイもまた、この世界の中に無数にある中の、とある島に集まったいくつもの意味ある"点"の話だと思う。本来交わることはなかったかもしれない誰かと誰かの人生が、たまたまその場所で交差した。その背景には痛ましい事件があり、あの時あの島にいた人の中にも人の数だけそれぞれ異なる状況があり感情がある。この物語が描く希望や温かさは確かにそこに存在した真実で、それは今を生きる私たちにとっても道標になってくれる光でもあるけれど、あの時あの島にあった出来事でさえ、きっと本当はそれだけで語れるものでも、包めるものでもないのだ、ともまた思う。それは思わないといけない。きっとこの作品はそんなことは百も承知の上で、それでもまとめて包んで、誰の思いも蔑ろにすることなく、そのうえで確かにそこに存在した希望を置いてくれている作品だとも思うけれど。

 

ダイアンとニックが自分達の出逢いについて複雑な思いを語る場面、私は彼らのあの感情をものすごく自分と地続きに感じたし、普遍的なものだと思った。彼らの出逢いは"こう"ならなければ存在しなかった。この世界のすべては、何かがそう転がって、起きてしまって、たまたまそうなったから生じている。私たちは自分の意志で人生ゲームのボードの上を歩いているつもりでいる(時につもりにされている)けれど、そのボードは突然傾けられたり、ひっくり返ったり、予想もつかない動きをする。その時私たちはあの小さなピンのように軽く弾き飛ばされて、コロコロと転がって、なすすべもなくどこかに転がりついたりする。自分の意志の枠外にある大きな何かは、いとも簡単に私たちを吹き飛ばしてしまう。そういう意味の分からない、普通の顔してその実ルールがめちゃくちゃなこの世界で、私たちは気付いたら存在していて、生きていて、けれどそんな中で時に大事な何かに、誰かに出会うのだ。

その過程にはきっと沢山の出来事が存在していて、それは自分から見えるものもあるし、認識すらできないものもある。でも、その時、その場所で、"その時の私"で、何かや誰かに出逢えたのならば、それが自分にとってありがたく価値のあるものだと感じられたならば、絶対に、私たちはそれを大事にして良い。身に起きたすべてに意味を見出す必要はないけれど、その時自分の心が動いたのなら、視界が色付いたのなら、世界が緩まったのなら、それらすべてが必然のように思えたのなら、それはやっぱり、自分にとって"意味ある"ものだったのだ。

 

 

私があの時浦井さんに出逢えたのは、この世界であらゆるものがコロコロ転がって、私の人生で私が転がして、そして何かに転がされて、沢山の偶然と、もしかしたら必然だったかもしれない何かとが無数に重なって、たまたまそこに"点"が置かれたからだ。私はその交わりを、重なりを、あの時もこれまでも、今もずっと、ありがたく思っている。観られて良かった。聴けて良かった。あなたの存在を知ることができて良かった。

これからも私は変わり続けるし、否応なしに変わらされ続けるし、それはきっとこの世界も、そしてそこに生きる浦井さんも同様で、というか誰一人として例外なく、私たちは同じところにはとどまれない。私は好きな人やものに関して語る言葉に少しでも嘘が混ざるのがいやだから、これからもずっと好きでいるだろう、とは書けない。先のことは分からないし、私は自分が分からないから。けれど、あの時からこれまで、私は浦井さんのことを好きでいられて幸せだったし、好きになれて良かったと心から思う瞬間が沢山あったし、そして今も幸せだ。あの瞬間に浦井さんのことを好きになれたからこそ今の私がいて、今の私は浦井さんのことが未だに好きで、それは確かな事実で、私はそれを、とても愛おしく思っている。私の人生を満たす大事な頁のひとつで、それはけっしてなくならない。

 

 

だから私は今日も、この変わり続ける不確かな世界の中で、安堵の光みたいなあの人を、安心して好きでいようと思う。世界も自分も変わったって構わない。不安定でも波があってもそれでいい。どんな瞬間も、今の私がすべてで、私は今にしかいられない。だったらその瞬間、好きなだけ好きでいたらいい。分からないもので溢れているからこそ、好きだと分かる人に会いに行ったらいい。その時私は、自分のことも、この世界のことも少しだけまた好きになれる。

今日も私は、浦井さんのことが大好きだ。

 

 

VARIOUS

浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS

東京公演マチネ、行ってきました〜〜〜!!!!!!

 

いや最近ブログ書いてなかったけど(書いてるけど終わらなくて下書きだらけになっちゃう)、流石にこれは書くよ!何でも良いからとりあえず書く!もう何でもいいから私の好きだったところコレクションを発表します!みたいな感じで書く!と思って今書いてる。だってめちゃくちゃ楽しかったんだもん…………………何かしら残しとこ………

 

さて、前置き長くなると書き終わらなくなることは分かってるので、もう好きな話を冒頭からします。大事なのは勢い、勢いで行こう。

 

 

 

まずはこれ。

衣装が大天才!!!!

ありがとうございます!!!!!え、もう本当に今のところTwitterで私のしてる話7割衣装から派生した話みたいなところがあるぐらい、本当に今回衣装が天才だった。浦井さん、それはもう大変格好良いんだけど、ご本体がまず最高に格好良いんだけど、今回の衣装が天才すぎて137076割増しで本当に格好良かった。これを書いている今はまだ写真も映像も上がってきてないので、私の頭の中にしか存在してないんだけど、本当に本当にあの、お色直し後(?)のあの、あの3つ目の衣装が本当に………………本当に…とっても良かった……………………………………めちゃくちゃ似合ってるし……………きらきらでひらひらで…………華やかで煌びやかで格好良くて和洋折衷の色気もあり………………………本当に………あの…すごい良かったです。めちゃくちゃお似合いでした。ふせったーの中では「現代に現れし王次みたいな衣装」とかひっそり申しておりましたが、格好良さと色気と眩しさと雄々しさと諸々が限界突破しててちょっと登場した瞬間衝撃がすごくてしばらく呼吸の仕方を忘れてた。本当にすごい、何だあの衣装。呼吸を奪うタイプの衣装だった。私が好きになってから見た浦井さんの衣装の中で一番好きかもしれない。ありとあらゆる方向になんかわからないけどめちゃくちゃ好きでした。日本語がひどい、ごめんなさい!

そんなわけで、もちろんあの衣装もめちゃくちゃ素敵だったんですが(私の観測範囲だけでもあの衣装になぎ倒されている人は沢山見かけた)、最初の赤のポップな感じの衣装も好きで、というのも私は赤を纏っている浦井さんがとても好きだからなんですが、最初からとても好きな浦井さんが出てきたので…ちょっと困ってしまった。最初から好きな浦井さんが出てくるなんてそんな…ねぇ……心の準備がさ…ちょっとこう……びっくりしちゃった………。浦井さんって赤が本当によく似合いますね………。それはさておき、ゲームっぽいオープニング、からのバナナココナッツセット🍌🥥!のポップな雰囲気にぴったりな赤だった。周りの方々も含めてカラフルな感じがかわいかった(飲み物も担当カラーになってた?)。マイクも赤だった。色担当あるの、アイドルっぽくもあるし戦隊モノっぽくもあるな〜とか考えてた。浦井レッドだった。続く衣装、生着替えで(言い方)お召し替えされていた二つ目のフード付きの黒い衣装も、その衣装の時の楽曲の雰囲気に合っていて素敵でした。私はオーバーサイズなお洋服を着ている浦井さんがとても好きなんですが、ゆるっとしたシルエットのこれも好きでした。この衣装といえばデスミュ観てみたかったなぁ……と何回でもなる話をしたくなる。観てみたかったなぁ。浦井さん、黒が好きと話されているのをよく聞くけど、当たり前に黒も似合う。浦井さんが黒を着ると黒に勝ってるからすごいなと思う。浦井健治with黒にしてしまうパワーがある。私は布面積の多い黒を着ると完全に黒に負けて呑まれます(聞いてないです)。

さて、お色直し後の衣装の破壊力があまりにすごくて他の記憶が飛びかけたんですけど、今回本当に、衣装が全体的にとても好きでした。いやでもやっぱり最後に言っておこう、あのお色直し後の衣装、本当に本当に最高でしたありがとうございました…………………浦井さんの魅力をこれでもかというぐらいたっぷり引き出すような……最高の衣装でした……あの衣装の写真集欲しい…………

 

 

お前、my girl、君

なんか開発途中のAIが作った小説のタイトルみたいになっちゃた。何の話かと言いますと、行った人はわかるはず、VARIOUS、「お前」にもなれるし、「my girl」にもなれるし、「君」にもなれる。してくれる。上手前方ブロックにおりました私は、かの曲のかの歌詞の「お前」にしていただきまして(ちょうど上手に来てくれたので)無事に昇天いたしました。CDは何回も聴いているので、VARIOUSの曲の歌詞も浦井さんの声もすっかり耳に馴染んでいるし、「この曲のここの歌い方がすごい好き〜」みたいな箇所が沢山あるし、たぶんもう多分浦井さん本人より沢山聴いてるんじゃないかなと思うし、そのぐらい耳は慣れているのに、やっぱり目の前で歌ってくれると新鮮に「ハーーーーーーーーーーこの曲を歌う浦井さん、好きだな……………?!」となります。加えてライブだとyouの対象がこっちを向いてくるのでウッ…となる。センブロで「愛しのmy girl」浴びてたセンブロの民たちもさぞかし幸せだったであろう………。全部の曲のyouが客席に向いているわけではないだろうけど、それでも向けてくれている曲も沢山あって、普段曲を聴いていて「あなた」とか「君」とか「お前」とか歌詞に出てきた時に、基本自分を素通りしてどこかの誰かに向かう矢印としてそれを聴いてしまいがちな私は、現場で不意打ちでこっち向いてくる矢印にぶっ倒れそうになります。浦井さんめちゃくちゃ矢印向けてくるのでその度に「んぎゃっっっこっち向いてる………」ってなる。慣れない。でも何ですかね、浦井さんから招かれた空間に向かうと、こう、こちらが向けて飛ばしている愛情量の500倍ぐらい返ってくる感じはあるので、どばーーーっと愛情をいただいて、抱えきれなかった分はお土産にも貰って帰ってくる感じはあるので、youがこっちに飛んでくるのもそりゃあそうだというか、懲りずにびっくりはするんだけど、「ウン、そうなんだよなぁ………………」みたいな、ノックアウトされて床で大の字になりながらも納得しているみたいな感覚になります。

 

 

スパークル

スパークルの演出が全体的にめちゃくちゃ好きでした。視覚記憶が弱いので詳細は思い出せないんだけど。VARIOUS(CD)で浦井さんの歌うスパークル、原曲より更に眩しくて澄んでいて、早朝の森の澄んだ空気みたいだし、何の不純物もないどこまでも透き通った水みたいだし、水面の上できらきら光る朝日みたいだし、何というか、よりファンタジックで、すごく純度が高いなぁと思っていて。そういう印象があったので、あの上から客席に降ってくるきれいな照明の光も、浦井さんの周りを舞う「君」の概念みたいな軽やかで真っ白で眩しい存在も、私が事前に持っていた"浦井さんの歌うスパークル"のイメージと一致して、美しくて眩しくて清らかで、すごく好きだった。綺麗な世界を見たなぁ。

あとこれはふせったーにも書いたんですけど、「この世界のような教科書のような笑顔」の少し前(「君は僕の前ではにかんでは澄ましてみせた」との間?だった気がする)あたりで、この世界の教科書のような笑顔をしていた浦井さんが最高にキュートでした。すごいウルトラスペシャルミラクルキュートスマイル、120点満点の教科書みたいな笑顔だった。教科書に載せたらいいと思います。

 

 

私は立ち上がる⚔

曲が始まり、あ、アーサーさんだ…………………!と思った数秒後、(いや、あれ、このアーサーさん、私の知らない人だ………………?)となった。キングアーサー期間中何度も聞いた、一幕最後の最高にテンションが上がる、めちゃくちゃ格好いい私は立ち上がる。すっかり剣を使いこなし、騎士たちの中心に立つ我らが王アーサーが最高に格好良い私は立ち上がる。「民、アーサーさんに着いていきます!」と民心が完全に出来上がる私は立ち上がる。そんなこの曲を数ヶ月ぶりに聴ける、数ヶ月ぶりにアーサーさんが見られる…………!と目をキラキラさせたのも束の間、なんか、元のアーサーさんの格好良さに加え、格好良さが違う方面にも爆発していて何か色々ヤバい格好いい生物がいてちょっとむしろ怖かった。あの、書き始めておいてあれなんですけど、ちょっと衝撃が強すぎてあんまり記憶に残っていない。これはあの、例のとんでもない衣装なんですよ。とんでもない衣装着て、数ヶ月ぶりのアーサーさんで、しかもKAよりもさらに剣振り回して、最高に格好良く踊ってるわけじゃないですか。まずあの衣装の時点でだめなのに、KA通いの日々を思い出すあの曲を聴けば、最高に高まる一幕最後の群舞の中心に立つアーサーを思い出し、ブリテンの民だったあの頃(そんな経ってない)の記憶がぶわっと蘇るわけですよ。アーサーさん…ってなるんですよ。でも目の前の人、明らかに私の知ってるアーサーじゃないんですよ……………なんか色んな意味で最強のアーサーさんいた…………………格好良さに遠慮がなかった…………こう、アーサーさんって内に秘める、留めておかなくてはならない、一人で抱えなければならないものが沢山あってしんどい人だと思うんですけど(雑にまとめてごめんなさい)、胸の内に青い炎を静かに燃やしているような人だと思うんですけど、VARIOUS限定版アーサーさんは、なんと言いますか、だいぶ(色々)(そう、色々)開放していて、どっかーーーーーーーーんと魅力が洪水のように客席までなだれこんできまして………そう……なんか…やばくて……記憶があんまりないです。なだれこんでくる何かやばいものに呑まれてアワアワしてたら終わった。剣くるくるしてたことと訳わからんぐらい格好良かったことしか覚えてないです。新種のアーサーさんをありがとうございました。

 

 

 

(いっこだけちょっと挟みます)

グッズ、買えなかったな…

良いことだけ残しとこ〜とも思ったんですけど、すみません、ちょっと一言だけ……グッズ買えなかったな…。今回会場がまぁこう、グッズ売るのに適してない形というのもあるのかな〜とは思いますが(並ぶスペースが圧倒的に足りてない)(グッズ列、建物の上手サイド(?)側で1階〜5階まで上がって5階からロビー通路通って下手サイド(?)の階段5階〜1階まで続いてて、一応列の最後尾までぐるぐるして追ってはみたんだけど、追っただけで「なんかもういっか………観る前に体力ゲージ消費しちゃいそう……」となってしまった。待機の階段暑かったのもあり)、あまりにこう、グッズ気軽購入難易度が高かったな…と。まあ先行物販時間枠に行けよって話ではあるんでしょうし、私はグッズのモチベが今回そこまで高くなかった(単純にその日早く向かう気力と行列に並ぶ体力がなかった)(グッズのラインナップ自体はめちゃかわいかったよ!)ので、まぁ良っか〜ってなっちゃったんだけど、でも、とはいえもう少し、気軽にちょろっと買えたら良かったよね………🥲とは思いました。予約販売あったら良かったですねぇ…。マチネ、公演終了後、パンフしか売ってなかった(他は全部完売してた)ので、パンフだけ買ってお家に帰ったんですが、せめてなんか記念に一つぐらいはお土産欲しかったな……という気持ちも残りました。ペンライトとか贅沢は言わないからさ……お写真とかアクスタとか……(全体的にもう少し在庫あったら良かったですね……) (客の購買意欲が予想以上だったのかな……)何かしらお持ち帰りできたら嬉しかったな………また今度の機会で買うね……

そんなわけでグッズ列並び怠惰人間、残念ながらハートのペンライトは掲げられなかったので、イマジナリーハートペンライトを点灯して着席していたわけですが、どこかで浦井さんが「心のペンライト」って言ってくれたのでめちゃくちゃ喜んで点灯しました(心のイマジナリーハートペンライトを)。私が犬だったら多分めちゃくちゃしっぽ振ってたと思うあの瞬間。「心のペンライト、心のペンライトついてるよ!振ってるよ〜〜〜😭!!!!(すき〜〜〜!!!!)」ってなった。グッズ買えなかったなァ…の淋しい気持ちが少し成仏しました。すき。

 

 

 

さて、早いけど総括!

めちゃくちゃ………

①格好良い

あの………VARIOUS、浦井さんがめちゃくちゃ格好良くなかったですか……………?えっ…いつも言ってる……?まぁそれはそうなんですけど………でもなんか……めちゃくちゃ…とても…格好良かったんですよ……びっくりしちゃった……。やっぱり衣装のパワーは大きい気もする。かの衣装着てる浦井さん格好良さが爆発していて、登場してしばらく「…え、えっ……えぇ………?」で、逆に記憶が全然残ってない。悲しい。でも映像化されるって言ってたからあの天才衣装の浦井さんも残るはず、嬉しい。記憶に頼れない時は記録に頼るしかない。楽しみにお待ちしております。あっ話がまた衣装に持ってかれた。

いやーー、なんかもう、すごく、格好良くて…………。選曲もね、色んな浦井さん、そう、それこそVARIOUS!な浦井さんを楽しめる並びになっていて、かわいい浦井さん、恐ろしい浦井さん、眩しい浦井さん、強い浦井さん、楽しそうな浦井さん、ダークな浦井さん、優しい浦井さん、あったかい浦井さん(そろそろ浦井さんがゲシュタルト崩壊しそう)(だんだん浦丼さんに見えてきた)、と沢山の浦井さんの顔を見られてとても楽しかったんですけど、そんな中でも、「格好良い浦井さん」の""格好良さ""がさぁ………………なぁ……という話です。浦井健治という、恐ろしく格好良い生き物………。おんなじようなことずっと言ってるんですけど、如何せん記憶が飛んでるから抽象的なことしか言えないんですね、ごめんなさい。でも、あの空間には確かにめちゃくちゃ格好良い生きものがいたんです…いたんですよ…幻じゃないもん……トトロ見たもん………………………

 

 

②楽しかった!!!!

VARIOUS、めちゃくちゃ楽しかったです。あの日、気候なのか何なのかあんまり朝はコンディションが良くなかったんですけど、帰り道にはめちゃくちゃHAPPY元気マンになってた。渋谷の人混みも爆速で通り抜けて電車までニコニコで辿り着けた。やっぱり人間、太陽(うらいけんじさん)を浴びると元気が出るものですね。

まず、始まりがバナココだったの、「さ〜〜あ今日はとことん楽しんでってね〜〜〜!!!」のパワーを感じて、最初からあっという間にVARIOUSランドに連れて行ってくれて最高だった。「あ、バナココのイントロっぽい音……?くるのか……?くるのか……?きたーーーーー!!!!」みたいな満を持してのバナココ、満を持しての浦井さん登場!!から、とても高まった。めちゃくちゃ高揚感あった。このポップで楽しくて明るくて幸せな空間に、あ〜〜楽しみにしてたこの場所にようやく来れたんだな〜〜〜!という実感が盛り盛りになる始まりで、最初からすごく楽しかったし、本当〜〜にあっという間で、当たり前に最後まで楽しかった。体感として「あぁ、そろそろ終わっちゃうのかな……」とか思って、「いや気のせいかもしれない、わたしの気のせいで、本当は実はまだ30分しか経ってないのかもしれない……」と思い込もうとしたら、ちょうど浦井さんが「そろそろ最後になってきましたが…」みたいなこと言うから「ヤダーーーーーーーー終わらないでーーーーーーーーー」って私の中の5歳児がダダこねてた。楽しい時間って何であんなにあっという間なんだろうね………?

VARIOUS、浦井さんの、今日この時間はとことん楽しんで、盛りあがって、笑って、幸せになって、満たされていって欲しい、という気持ちがすごく伝わってくる時間だったなぁと思います。幸せな気持ちで満たされた、カラフルな風船をお土産にプレゼントしてもらったような。あの空間で感じた楽しくて幸せな、色とりどりの記憶と、浦井さんからのたっぷりのパワーと愛情が詰まった風船。もちろんこの時間にもいっぱいあげるし、持ちきれなくて余った分はお家に持って帰ってねー!って手渡された気がしちゃうぐらいには、今回も沢山受け取ってきたなぁと思います。浦井さんは一体いくつ風船を持ってるんだろうなぁ。浦井さん、本当にすごく、与える人だよなぁ、と行くたびに思う。私も客席から少しぐらいは返せていると良いな。できるのは与えてもらったものを楽しむことと全力でばっちばちに拍手することぐらいだけど。どうか届いていますように。

 

 

③好き

うーーーんやっぱり私、浦井さんのこと、めちゃくちゃ好きだなぁ………と思いました。

浦井健治という人の安心感と、あったかさと、パワフルさ、本当にすごい、と毎回実感する。やっぱり生で見ると、浦井さんから招かれた場に存在すると、会場の空気が浦井さんの発するパワーと愛情で満ちてるし、それをずっと浴びてるわけで、すごい全身で「あーーーーどんどん私の充電が満たされてゆく…………」と感じる。普段役で見る時、役のエネルギーとして客席にビリビリと届いてくるものが、浦井健治さんとして存在する浦井さん主体の場だと、会場のお客たちに向かってまるごと直接どっかーーーーーんと飛んできて、対象が全部こっちというか、全部降ってくるので、なんかもう、本当に、満たされた…………………………(完敗)となる。毎回言ってる気がするけど何回でも書いちゃう。浦井さんがお芝居をする場も、それを観に行くのも大好きだけれど、浦井さんが浦井さんとして立っている場も、歌っている場も、話している場も、やっぱりめちゃくちゃ好きだなぁと思います。浦井さんという人が好きです。浦井さんが毎回毎回「大好きだよー!!」と伝えてくれるので、こっちも負けじと大好きなんですよーーー!!!と返したくなる。愛に溢れた人は愛に囲まれるのだなぁと浦井さんを見ていると思う。

愛情はギブアンドテイクではないけど、やっぱり個人に愛情のバッテリーみたいなものはあって、浦井さんはめちゃくちゃ保有量が多い人だと思うから、それを周りの人に、ライブの時には私たちに沢山与えてくれて、私はそこで少ない充電を毎回毎回たっぷり200%ぐらいに充電してもらって、そうすると満ち足りた気持ちになれて、それを誰かやどこかに手渡せる余力が生まれるんだな、みたいなことを思う。だから、giveの循環の大元になれる浦井さんのことを、本当にすごいなぁと思うし、やっぱりその保有量に毎回新鮮にびっくりする。愛がでかい。少エネ省エネ人間の私は充電をいつも満タンにはできなくて、30%ぐらいの感じで毎日なんとか凌いでるけど、たぶん沢山分け与えられるような愛溢れる人間にはこの先もなれないだろうけど、それでも貰ったgiveをちゃんとありがたく受け取って、余裕がある時にはちゃんと周りに渡して回していけたらいいね、と浦井さんの場に行くと素直に思えたりする。与えられて、与えて、の循環に、できる時には入れたら良いな。

 

 

 

さて、そんなわけでVARIOUS、とってもとってもとっても、楽しかったです!!

Pieceを出した時は悲しみややり切れなさの中、それでも前を向いていこう、ちゃんと繋がっているよ、というような想いを伝えていたけれど、今回はカラフルな風船を未来に飛ばしていこう!楽しく明るく!🎈という気持ちを込めた……(ニュアンス)というようなことをどこかのインタビューで話していた気がするけれど、浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS〜もそのまんまCDのメッセージが表れたような場でした。今日はこの空間でとびきり楽しんで、笑顔になって、明るくなって、幸せになって、心の風船もたくさん飛ばして行ってね!という場が作られていて、オープニングで登場した瞬間から「今日は最高に楽しいところまで連れて行くよ〜!!」と言われたような気持ちになったし、実際めちゃくちゃ楽しかった。VARIOUSのCDと同じくいろんな浦井さんが見られて、聴けて、カラフルな遊園地みたいでとっても楽しかったです。メリーゴーランドも観覧車もお化け屋敷もジェットコースターもなんでもあった。色とりどりな浦井さんを沢山見られて幸せでした。

 

長々ゆっくり書いてたら、とうとうVARIOUSも最終日、最後の回がもうやってくる時間になってきてしまった。最後まで楽しく元気でHAPPYな場になりますように。今はもうこちらも晴れているので、安心した気分で祈っておきます!

それでは、浦井健治 Live Tour 2023 〜VARIOUS〜、最高に楽しくて幸せな時間をありがとうございました!!🎈🎈🎈