140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

「好き」はドンタコスだけのものではない

 

巷は推し活ブームやらオタクブームが…みたいな話をよく聞く今日この頃、濃度の高い「好き」を求められる世の中はしんどいよね、の意見もよくTwitterで見かける。「私も推しが欲しいよ〜」と話す友人の話を聞いて、特定の「好き」の対象がない人にとってはそれが結構な圧に感じられたりするんだろうな、と思ったりする。確かに「好き」の強要は気持ち悪いし、窮屈だし、さぞかし鬱陶しいだろう。過度に推奨されれば、それがないことに欠落感を覚える人もいるのかもしれない。ただ、当の私は割と強めの「好き」の対象が今はあるので、そちらの話はさしあたってしたいとは思わない。私がしなくても今は多分、世間の話したい誰かが沢山話してるだろう。

 

ただ、なんか、「好き」を意味する、もしくはその周辺の日本語があまりにも少なくないか、みたいなことは最近よく思う。例えば私が、高橋一生を好きだとか、浦井健治を好きだとか、加藤和樹を好きだとか(敬称略)、そんな「好き」の話をしてたら、仮に赤の他人でも(私のツイートを遡りさえすれば)「あぁ、そうなんでしょうねぇ」となると思う。毎日ではなくとも、日常の中に埋め込まれている割と強めの好きは、「好き」と言いやすいし、理解も得やすい。

ただ、なんかもっとライトな好きって無数にあるじゃないか、と思う。「好き」という言葉が、そのジャンルのオタク(詳しい人)の専売特許になっているみたいなところはやっぱりあって、例えば「紅茶が好きです」と言ったら、「へ〜何の茶葉が好きなんですか?どこのお店の紅茶が好きなんですか?好みの淹れ方とかあります?」みたいなレベルの「好き」が、一般に「好き」という概念として認知されてるというか。そこまででもないのなら「あ、でも好きと言っても毎朝リプトンのティーバッグで適当にミルクティー飲むぐらいの好きなんですけどね、アハハ」とか付け足したほうが(付け足さなくちゃいけないとまでは言わないけど)会話がスムーズに進むというか、煩わしさが減る感じというか。軽い感じの好きをちょっと、あらかじめ下げとくみたいな前置きが必要なのが、面倒だなと思ったりする。

それこそ最近だと(前から繰り返しあるのかもしれないけど)、「お金をかけてこそオタクの鑑とか、長年時間と金をかけてきた古株が偉いとか、そんなことはないよ、好きの表し方も時間も程度も、人それぞれで良いんだよ〜」という類のツイートもよく見かけて、オタクの中では「好きを争うとかダルい」「好きでマウント取るのダサい」「各々好き勝手に推しジャンルや推し人を好きでいたらいいでしょう」みたいな風潮も(昨今の流れがあるからこそなのか)あるよな、とも思う。ただ、それもある程度の強さの「好き」を持った何らかの集団の中の話であって、もっとライトな「好き」の話は、そこまで出てこないよな、と思う。でももっとライトな好きの話って沢山ないか?

 

多分私は今2つの話をしたくて、一つは「ライトな好きって言いにくいよな」の話で、もう一つは「ライトな好きに当てはまる言葉があんまりなくないか?」という話。

「ライトな好きって言いにくい」は、一つは今のオタク!推し!文化により、「好きは深ければ深いほど素晴らしい」みたいな「一見さんお断り」「にわかは語るな」的な空気感が少し一般化している(実際その空気が強いかはジャンルによりけりとして)のだろうな、という話。推しジャンルに関しての「好きの程度も表し方も人それぞれ」「人の好きを勝手に推し量るものではない」の話ではなく、よりライトな「好き」の方の話。軽く好きなものを「〇〇、好きなんですよね〜」って気軽に言いづらい根底には「深い=良い」「浅い=良くない」のイメージがあるんだろうか、と思う。そもそも軽いとか浅いとかって、日本語自体に悪い意味合いがあるし、"浅い"こと、"軽い"こと、自体があまり良しとされていないから、軽い好きも浅い好きも、何となくよろしくない感じがするんだろうか。でも、例えば0地点が「可もなく不可もなく、特に何も思わないし何も感じない、世界に存在してるんだな、へぇ、ふーん」みたいな感覚だとして、プラスの100地点がいわゆるオタクの「好き!!!!」の場所だとする(逆にマイナスに針が振れれば「好ましくない」とか「好きじゃない」とか「嫌い」とか)。で、今一般的に使われてる「好き」って割と100地点とか、80-100に使われることが多い気がするのだけど、それでも10地点の好きも30地点の好きも、立派な+に針が振れてる感覚だと思うんですよね。「とても好き!」と針がびゅーーーん!と振り切れるような好きでなくとも、「割と好きだな」とか「好ましいな」とかいう「好き」っていくらでもあると思うんですよ。でも、何となくそれを「好き」というと語弊が生じそうな場面が、そこそこにある。だから、それを「好き」と言うには前置きをおいたり、後付けを足したりしなくてはならないような気がしてしまう。で、私はそれが面倒なんだと思う。これは私個人が「この程度の「好き」だと好きって言いづらいな……🥺」とモジモジしてる話ではなく(いや何となく、これに対する求めてないリプがもしつくとしたら「そんなことは気にせず、あなたの好きを喋って良いと思いますよ😊」「私は別に軽い好きだろうと好きなように話すけどな〜w」とかだなと思って……そういうことではなく……)、こう、システムが面倒なんだと思う。面倒というか、足りてない。不便。

 

で、そこから思うのが、例えば1〜30ぐらいの「好き」の感覚に対する日本語ってあんまりなくないか?という二つ目の話。もちろん、「好き」という日本語は1〜100のあらゆる「好き」をカバーしてるていにはなっているんだけど、実際そう機能しているのかというと微妙なところではある。英語のloveとlikeが、和訳だと「愛してる」と「好き」になっているのをよく見かけるけど、多分何となく好きな度合い、スケールの違いなのかなと思ったりする。likeよりloveの方が強くて深くてでかい愛のイメージ(英語詳しくないので間違ってたらごめんなさい)。でも、そういう分類があってもloveがlikeより偉いとかの話でもないように、そういう、「"好き"なんだけど程度と種類とサイズ感とかいろいろ違うよね」みたいな、そういう区分けを良い感じにしてくれる言葉はないのか。1〜39ぐらいの好きと、40〜70ぐらいの好きと、71〜89ぐらいの好きと、90〜100ぐらいの好きと、全部単語があってくれてもいいぐらいじゃないか。あると便利だなと思う。そこに気持ちの価値の差はなくて、ただ程度は違うよね、という認識だけがある言葉。そういうフラットで排他的じゃない、ラフな「好き」の分類が欲しい。

例えば1つ目の範囲がプリッツ、2つ目の範囲がカール、3つ目の範囲がピザポテト、4つ目の範囲がドンタコスとかいう名前がついてたとして(ついてたとしてください)、「私さ、最近、星野源のことカールなんだよね〜」「あ、そうなんだ!実は私はピザポテト〜!」「え、好きな曲教えてよ〜」とかいう会話がしたい。意思疎通が楽になる。その時、プリッツはピザポテトより劣っていないし、ドンタコスが偉いわけでもなく、ただ「種類」「程度」を表した概念である、という共通認識がそこにあれば、なんかもう少し「好き」に関する話が楽にできるようになるよな、と思う。ランクアップもランクダウンもない。そもそもランクじゃないのだ。プリッツプリッツで美味しい。カールはカールで美味しい。それだけである。それが当たり前の前提になっている、そういう世界線に私は住みたい。「あんたの好きはドンタコスじゃなくてカールだよ」とか、誰かの「好き」を高く見積もることも低く見積もることもなく、「私はドンタコスだからプリッツみたいな生半可な気持ちで推してない」とか「好き」でマウントを取ることもなく、それぞれのプリッツもカールもピザポテトもドンタコスも、みんなそれぞれに尊重される、楽で、ほどよく干渉のない「好き」がある世界、住みやすそうだな、と思う。

別にだからと言って、誰かの「好き」の形を好きにならなくちゃならないわけでもないし、仲良くなる必要もないし、ただ、各々の「好き」をもっと気楽に適当に話せたら良い。実際、私がTwitterで見ていて楽しいなと思うアカウントは、「好き」の対象が一致している人というよりは、「好き」の在り方が素敵だなとか、見ていて楽しいなとか、そう思える人が多い。私は割と好みがあるけど、好きな(他人の)「好き」の種類も、結構人それぞれだと思う。自分と「好き」の程度(プリッツ/カール/ピザポテト/ドンタコス)や種類(どんな部分を好きなのか?例えば対象が役者なら顔なのか声なのか芝居なのか歌なのか)が一致している人が好きだ、という人もいるだろう。顔ファン顔ファンとして別に一つの在り方だよな、と思う一方、顔ファンを好まないという人がいるのも分かるな、とかはこの辺の話になるだろう。一致していなくても良いけど、好みの「好き」はある、という人もいるだろうし、別に他人の「好き」感情はどうでもいいという人もいるだろう。誰かの「好き」が自分の好みかそうじゃないか、みたいな部分は、本人に「あなたの「好き」の種類、私は好きじゃありません!」とか言わない限りは、それぞれの「好き」の在り方が自由であるのと同様に、自由であると思う。

 

話が少し逸れたけど、何にしても、もっといろんな程度や種類の「好き」を話しやすい土壌があると良いな、と思う。もちろんドンタコスの話はそりゃあ、していて楽しいし、話は尽きないけれど、気軽にプリッツやカールやピザポテトの話もしたいのだ。そして、ドンタコスやピザポテトがない人も、プリッツやカールの話を適当に話せたら良いな、と思う。冒頭に書いたような強い「好き」の対象を持てない人も、今の社会がドンタコスやピザポテト信仰の社会に傾いているだけなので、プリッツやカールも良いよね〜!の社会になれば、別に「推し」に対して大した必要性も感じなくなるだろう。大体の人は「なんかこれちょっと好きだな〜」ぐらいのものはあるだろうし、まぁ、なかったらなかったで別にいいよね、の流れが来るといい。「好き」なんて、そんなもんで良いと思う。誰かにとっては大切で、誰かにとってはどうでもよくて、「好き」という感情自体も、そのぐらいのものでいいと思う。

あと、「好き」のメモリが詳しさや細かさや深さで測られないといいな、とも思う。「別になんかぜんっぜん詳しく知らないし何が良いのかも分からないんだけど、心の奥にぐっさり刺さってあの曲が抜けないんだ」とか、「何が何だか分からないんだけど、あの人から目が離せないんだ今」とか、そういう訳の分からない、他人に伝達不可能の、どでかいドンタコスも愛されるとよいな、と思う。

 

人の数だけ、その対象の数だけ、「好き」の気持ちはあるだろうし、その好きの中身を語る言葉は人それぞれ編み出せるかもしれないし、「好き」を使わずにその気持ちを表したものもまた美しい。「好き」を使わずとも、それが溢れ出てるので言われずともわかる、みたいな人を見ているのも楽しい。だから、別にその気持ちを直接的に表す単語が全てではないけれど、基礎単語としての「好き」の区分けはもっとあってくれたら、「好き」もより豊かになるかもしれない。もう少し適当に、緩やかに、「好き」が好き勝手に楽しく語られる世界になると良い。

 

 

 

 

 

あとがき

でもこれ、直接対面してる人に使うとだいぶグロテスクなことも起きそうなので、あくまでもなんかモノとか趣味とか芸能人の方とか、そういうそれなりに距離のある人のみに使わないと危ないんだな、と今、その世界線に頭を運んでみて気付きました。まぁいつどこに使うにしても、言葉は気をつけて使わないと恐ろしいものですが。ただ、新たな言葉を生むことは概念を生むことで、それは人間の思考や感情を生むことにも繋がるんだな、と少しパンドラの箱を開けかけたような気持ちになりました。名前をつけることは、定義づけることで、それを存在させることなのだな。良いことをもたらそうと思ったのに意図せざる結果を生んでしまったかつてのどこかの偉人たちのことを少し思いました。

あと、実際この世界線に飛んだらTwitterのbioとかに「田中太郎さん🫶ドンタコス💓 ※カール以下の方はお断りです🥺 山下花子ちゃん🌸プリッツ 」みたいなこと書いてあったりしそうで、それはそれでホラーだなと思いました。あと「好きなんだ〜」って言ったら「え、プリッツ?それともカール?」とかどこからか選ばなくちゃいけない圧とかも生まれそうだ。ifの世界線って大体細かく考えてみるとすごい怖くなる。何事もむずかしいね!

 

一応最後に商品名適当にガンガン使いまくってすみませんの謝罪をいれておきます。すみません。当方は美味しいしょっぱいお菓子が好きです。プリッツもカールもピザポテトもドンタコスも好きです。お菓子くんたち、ご協力ありがとうございました!!!

まぁカール、もう買えないんですけどね(西日本だとまだあるのかな?)……好きだったな………