140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

言語化と共有と諸々

 

 

我が推し・高橋一生氏には度々口にする言葉シリーズがある。

その一つとして高橋さんを推している人であれば恐らく一度は聞いたことがあるだろう

この作品を観た後は、共有をしないで自分の中で大事に留めておいてもらえれば

というお言葉がある。

※時により言葉の細かいところは違うのであくまでニュアンスとして

 

ある時は映画の試写会や舞台挨拶で、ある時はドラマのインタビューで、彼は度々この言葉を観客(視聴者)の前で口にしていて、最近で言うと雪国のインタビューでも聞いたような気がする。

私も(記憶力はポンコツなのでどの作品の何の機会だったかは覚えていないけれど)、生でその言葉を彼から受け取ったことが何度かあって、その度に普段からTwitterでペラッペラ喋りたいことを喋り倒している身としては、何かこう「すみません……」という気持ちになったりもして、「そこの君、言語化欲求に身を任せてなんでもかんでもTwitterで喋ってるんじゃないよ」と釘を刺されたような気分になる(とはいえ懲りずに喋り続けるのだけれど)。

 

だだ、この一見風紀委員のお言葉のようにも聞こえる高橋さんのこの言葉は、作品を受け取る一人一人への優しさであり、最大限の敬意なんだろうな、とも思う。舞台にしてもドラマにしても映画にしても、公式アカウントが使用する(推奨する)公式タグが用意されていて、作品によっては「ぜひタグをつけて感想を呟いてくださいね〜!」と舞台挨拶の最後に促されたりもする。そのぐらいにSNS上の声というのは制作サイドにとって、考えている以上に大きいものなんだろうな、と度々思う(だからこそ、少しでも力になったら良いなぁと思う作品には、応援の意も込めてタグを使って呟いたりもする)。ただ、そんな場であっても高橋さんは「共有せずに、自分の中で大事にしておいてください」を繰り返し伝えくれている。

 

 

共有

この高橋さんの言う「共有」とは何だろうか、と彼が話すたびにいつも考える。具体的なアクションとしては、例えばTwitterであれば感想を誰かに共有すること(ツイートする)、誰かの呟きを見て共感すること(いいねを押す)、誰かの感想を見てそれを他の誰かに共有すること(RTする)などを指しているのだろうなと思う。自分の思考や感情を誰かと共有する、もしくは誰かのそれを知ることで(その人の感想を)共有する、または誰かのそれをまた違う誰かと共有する。そのすべてが頭にあるのかもしれないけれど、主に高橋さんが言っているのは一つ目で、「自分の中にあるものを、誰かに共有すること」の部分なのかな、と思う。自分の中で生まれたものを誰かに共有せずに、自分の中で留めておいてね、と。

 

それをなぜ「優しい」と感じるのかと言えば、その言葉は、何かの作品を受け取ったあと、自分の中で生まれたふわっとした何かを、言葉に変換することも誰かに見せることもせず、そのまんまの状態自分の中だけで大切にしておいても良いんだよ、ということでもあるのだろうな、と解釈しているからである。フェイクスピアで言うところの「高得点が勝ち」の世界の中に、あなたが今受け取ったほやほやの気持ちや、そこから生まれた言葉をわざわざ置きに行かなくてもいい、あなたの受け取ったものは、誰に評価される必要もない、あなただけの、貴重で尊いものだ、と言ってくれているんじゃないかな、と何となく勝手に思っている。ひとつの作品を見て、何かを受け取って、あなたの中に生まれたものは、他の誰にも見せる必要のない、あなただけの特別なものだ、と。

それは同時に、点数稼ぎの言葉を発する行為へ警鐘を鳴らす言葉でもあるのかもしれないけれど、それでもその根幹にあるのは、作品を受け取った人への最大限の敬意なんじゃないだろうか。

受け取り手にいくら「受け取り方は自由」と伝えたとしても、もしその感想を共有することがその場の前提になってしまっていては、「評価される」「公の場に表せる」「他人に理解可能な」感想にどうしても偏ってしまう。そのために「できたてほやほやの誰かの何か」が、加工され、修正され、整えられ、時には歪められて、「共有されるための何か」になる。高橋さんは多分、そのつまらなさや悲しさを憂いてもいるのだろうし、もっと評価されない感想を大事にしていいのだよ、とふんわり(遠回しに)伝えてくれているんじゃないだろうかな、と。

私は高橋さんの、そういう細やかさや相手の奥の部分に向ける優しさが好きで(彼がその行為を「優しさ」という言葉に変換することを好むかは置いておいて)、その真意の読み取りづらさも何だかんだ好きなんですが、度々繰り返すその言葉は、すごい高橋さんらしいな、と思う。

 

ただ、高橋さんのその受け手に対する敬意を受け取りつつも、私は何かを受け取った時の想いを残しておきたい人間でもあるので、結局のところ大体の場合は何かしら言葉にして残すし、一番手っ取り早い方法としてTwitterにあげたりブログを書いたりする。記憶力が弱いので、とにかく自分の中で生まれた何かを言葉にして残しておきたい。特に舞台であればその日に観たものはその日にしか出会えないものなので。言葉にすることで元のものが削がれてしまったり、元の形とは変わってしまったりすることもあるかもしれないけれど、やっぱりその時感じたものの一部を後になっても味わえるように、私は形に残したくなってしまう。

あとは単純に書きたい、外に出したいという欲が自分の中にそもそもある。何かを受け取った時に何かを発さないとバランスが狂うときがある。そして、その「出したい」という感覚は、言語化して自分のメモにだけにとどめておくだけでは満たされない時があって、書きたいという欲の隣に、自分の外の世界に置きたい、という欲があるのだろうな、と思う。必ずしもセットなわけではないけれど、多分それは、受け取る人がいて初めて芝居が完成する、みたいな話と近いところにあって、いやそれと同じところに置くのはおこがましいけれど、でもやっぱり世界のどこかに投げたいし、誰かに受け取って欲しい言葉というのはあるのだと思う。

 

ただ、人が読むことを前提とした文章を書くときに、無意識に削られてしまうものというのは確かにあって、それは考えものだなぁと思う時もある。この書き方で誤解を生まないだろうか、誰かの感想を潰すことにならないだろうか、とか無駄に考えすぎてしまったりする。私の中から生まれた感情や解釈や思考は私だけのものなので、それは誰に遠慮する必要もないのだけれど、それを外に出すにはやっぱりある程度の加工が必要で、やっぱり人の目を気にした瞬間、それが評価を求めるものでなかったとしても、失われてしまう「生のなにか」はあるんだなと思う。

言葉にもしたい、でも自分の中で生まれたほやほやの形のないものを大事にもしたい。すぐに言葉にしたくなってしまう人間なので、だからこそ高橋さんのその言葉を心に留めておきたいな、とも思う。受け取った瞬間のその貴重な感情や感覚、そこから浮かぶ思考や発見を、言葉に変換する必要も、外に出す必要もないのだと。

 

 

「私にとってはエクレア」の許容

その前提を意識的に置いておかないと、うっかり感想合戦みたいな感覚に飲み込まれてしまうような気がする。上にも書いたけれど、作品の宣伝として感想をSNSにあげることを求められるのが常の環境に身を置いていると、無意識に整った感想を生成するようになってしまうというか。

より深い感想、より正しい感想、より面白い感想。SNSは特に、"より〇〇な感想"合戦のような感覚をもたらしやすいのだとは思う。私は常々「ハーーーー好き!」「んーーよく分からんかった…」みたいなド浅い感想を出したい時にちゃんと出すことでその感覚を意図的に潰しているけれど、それでも「果たして本当にこの作品はこう受け取ることを意図していたのか……?私の狭い視野による妄想解釈では……?」と思ってしまったりもする。どんな風に受け取ろうと受け取り手の自由だ、と頭には入っていてもつい「正解の解釈」を探し出そうとしてしまうのは多分、現代文試験症候群みたいなものなんだと思う。もはや癖。A,B,C,Dどの感想がより正しいでしょう?みたいな思考回路が頭のどこかに染み付いている。今の時代、その「正しい」がSNSで言えばいいねの数、とか捉えられてしまいがちなのがより厄介なんだろう。固定的な正解がある分、現代文の試験の方がまだ健全かもしれない(学生時代、問題作成者との解釈違いにハ?となる時もあったけど)。

もちろん批評において正解はないけれど間違い(文脈を読み間違えた解釈)はある、というのはそれとして、でも、私は正解のある試験を受けているわけでも、批評家として作品を批評しているわけでもないので、結局のところその作品をどう受け取ろうと受け取った人の自由だとも思うし、なんというかシュークリームを投げてこられたけど、自分の中にチョコレートがあったからそれをエクレアとして受け取っちゃったみたいな食べ方だって別にいいじゃん?と基本的には思っている。だってチョコレートがあるんだもん。そしたらエクレアになっちゃうじゃないですか。

例えば作り手が「これは人類の普遍的な罪をテーマにした作品です」と言ってても、「えっ私はクソデカ感情に名前をつけようと奮闘して諦めて友情に収めた男の話かと思いました…」(すごい適当に架空の話を創り出してる)とかいくらでもあると思うんですよね。作り手の意図が全く分からない場合もあるし、伝わってきてもしっくりこない場合もあるし、自分のそれと一致しない場合もあるし。それで、「これはシュークリームじゃなくてエクレアじゃないか!」とか怒り出すのは論外として、正当な批評を求められる立場にいるわけでもなければ、何を何だと思ってどう食べたって自由だと個人的には思っている。

 

 

 

他者の感想の取り入れ方

というわけで、浅かろうが読み間違いだろうが知るか〜!精神で、基本的に浮かんだことを喋るようにはしてるのだけれど、複数回観た作品や喋りたくなる作品に関しては、色々こねくり回して深海まで潜って長文感想を生成する時もある。ただ、それが誰かの「こんな感想呟かない方がいいかな……」を生むこともあるのだな、とRT先を見にいって思ったこともある(「こんな風に全然考えてなかった、私の見方が浅かったのかな……」というような内容のツイを見かけてしまった)。

例え浅かろうが間違っていようが(実際その方がどんなことを思っていたのかはわからないけれど)、あなたの感想は唯一無二の尊いものなので、どうか私の妄想込み偏り感想を「正解」として読み込まないで…………と当時めちゃくちゃ恐れ多くなった記憶がある。たまに書くド長文感想、基本的に頭の中をそのままドバドバ放出しているだけなので、構成なんて考えてないし、上と下で言ってること違ったりもするし、それを自覚しつつも全然放置して出しちゃうようなゆるゆる長文感想なので、楽しく読んでくださる方がいるのは毎回とても嬉しいなぁと思うけれど、そんなに上に置かれてしまうとちょっと怖くなる。とはいえ懲りずに書きたくなったら毎度書いてしまうのだけれど、たまたま目にした人はその辺に置いてあるお菓子食べるぐらいの気分で読んで欲しいと常々思っている。

 

ただ、確かにボリュームのある言葉の塊というのはその量だけでそれなりのエネルギーを持つと思っていて、それを読むと若干脳を乗っ取られるというか、引っ張られてしまうのもまたわかる。私自身も引っ張られがちな人間である。自分で感想を一通り出し終えてからじゃないと人の感想は読めなかったりもする(ドラマは別)。だから、何かを観終わった後、読み終わった後、「他の人はどう思ったんだろーーー?!」の好奇心を一旦大人しくさせることを意図的にやるようにしている。これが純粋な好奇心からくる場合まだいいのだけれど、自分に中に湧いた思考や感覚について「これは正しいのか……?」みたいな正解確認として他人の感想を漁りたくなる気持ちがある場合には厄介なので、より気をつけて「ウン、一旦落ち着こうね!!」をしたりもする。

餌(他人の感想)を前に待て!するみたいなものなので、結構「ヌヌ…(食わせろ…)」とはなるのだけれど、自分の感覚が液体状態のままで他人の感想を入れてしまうと、知らぬ間に他の人の感想を自分の感想として認識してしまったりするので、液体のうちは他のものを入れないようにしている。仮にそれを「正解」だとして取り入れたわけではなかったとしても、単純に自分の感覚がやわやわな状態だと簡単に他人の感情と思考が入り混ざってしまうので、せっかくご飯食べたのに自分が美味しいと感じたのか不味いと感じたのか、甘いのか苦いのか酸っぱいのかわからない、みたいな状態になってしまう。それを好む人もいるのだろうけれど、私はそれは何となく、もったいない気がするので。せっかく何かを見て、自分の中に生まれたものがあるのなら混ぜずに大事にしたい。少しずれるけど、ネタバレを好まないのも基本的にはここからきていると思う。先に何かを知ってしまうことで、目の前の新鮮なものに意味をつけられてしまうのがいやだ。「これはめちゃくちゃ大切に育てられた鶏の卵と超高級な生クリームと純国産のトマトを使ったオムライスです」とか事前に知りたくないんですよね。誰かの口コミもシェフの説明も要らない。まずは自分で食べて味わいたいし、その料理に名前をつけるのも自分でやりたい。初めの一口は二度とやってこないので。(あくまで喩えの話なので料理の事前情報には特にこだわりはないです)

ただ、ある程度自分の中で固体化してしまえば、他人の感想を取り入れても混ざることはなくなるので、そこからはまた掛け算みたいなことができて楽しいなぁとも思う。自分の感想がAだとして、液体のまんまBの感想を読むとまるごとBになってしまう現象が起きてしまうことがあるけれど、自分の感想Aを固体化してからBを読むとCの解釈が新しく生まれたりする。それはすごく楽しい。めちゃくちゃ感覚的な話なんだけれど、個人的にはとても大事にしている。

ただ一方で、別に固体化する必要もないんだよなぁとも思う。別にやわやわの状態で終わらせてもいい。ナチュラルに液体固体言い出しましたが、固体化≒言語化かな、と書いていて思いました。自分の中でその作品がある程度腑に落ちた状態(固体)というのがあって、そこにいくまでの頭の中でいろんな要素がふわふわゆらゆらしている状態(液体)は、固まってないので他のものに影響されやすいんですよね。で、ある程度固まってくると、言語になる段階まで上がってくるし、"解釈"ぐらいの固さが出てくるというか。固まってもまた形を変えていくんですが、液体の時の混ざり方、変わり方とは質が違うというか。ただ、この段階になったとしても、あまりに見すぎていると中毒を起こした気分になったりもするので、あと自分の中からぽこんと生まれる何かを逃してしまう(先に頭に色々入れたことによって)ことも起きるので、タイミングと量は常々計りながら入れていく必要があるな、と思う。個人的には自分が作品を考えることに満足したあとがベストなんだろうな、と思います。ただ、誰の感想も取り入れず、自分の中に生まれたものも液体のまま放置する残し方でも良いんだよな、と。たぶん記憶としては薄れやすいけれど、身体のどこかにその記憶は埋もれているだろう、みたいな残し方。つい言葉にしたくなりがちだし、人の言葉も読みたくなりがちだけど、そんなことも思う。

 

 

共有、確かに危うい

上で書いたようなことは、最初に書いた共有と異なる、「他者の頭の中にあるものを共有する」の意味の共有だと思うんですが、こちらもこちらで「自分のできたてほやほやの感覚」を分からなくしてしまう危うさがある。誰かの感想を読むことで、それに乗っ取られてしまったり、自分の中にある感覚が見えなくなってしまったり、「これは間違っているのか…?」と無意識に打ち消してしまったり。確かにそんなことはいくらだって起きると思う。というか、一言検索をかければ無数の感想が手に入ってしまう今の時代、意識的にやらないようにしない限りは、自動運転的にやってしまいがちな気がする。

厄介なことに、「共有」はめちゃくちゃ楽しい。私は他人の感想を読む行為自体が好きだし、自分の感想を読んでもらえたら嬉しくもなる。もしSNSのない世界が今も続いていたら、誰かと一緒に観た映画、舞台については話せても、一人で見た作品、一人で読んだ本については、たまたま同じものに触れた人に出会わない限りは、完全に一人の世界に閉じたものになる。全てを共有したいとは全く思わないけれど、素敵な作品を知った時に、同じく受け取り手になった誰かとその世界や、そこで感じたものを共有できるのは、やっぱり楽しい。美味しいご飯を食べて「これ、美味しいね〜」と言い合えるだけでそれがちょっとした思い出になるみたいなもので、一人で大事にしまっておく記憶と同じぐらい、誰かと分け合い、交換し合った何かの記憶も、尊くて豊かなものだと思う。共有は楽しいし、自分の頭の世界を広げてくれる。

 

けれど一方で、「自分→他人」の共有は、言葉にならない場所にある曖昧な感覚や、倫理/論理的でない思考を削いでしまうことがあるし、「他人→自分」の共有は、自分の中の感覚を見えなくしてしまったり、他人の感想を自分のものと思いこんでしまったりする怖さがある。どちらにも共通しているのは、自分の思考や感覚が、自分で掴めなくなることだろうか。

そもそも作品に限ったことでもない。どこかにいる誰かの思考や感情や経験が、まるで目の前に置いてあるかのように感じられる、一度探せばいくらでも何かしらの膨大な情報が流れ込んでくるSNSの世界に何かしらの形で住んでいれば、他人の視点や思考や感情が自分のそれと無意識下で混ざり合うことなんていくらでも起きているのだろうな、と思う。プロの手によって校閲された文章からは、ある程度書き手の匂いみたいなものが薄くなる印象があるけれど、日常の中で「どこかの誰か」がポンと生成した言葉は、良くも悪くも生モノだなという感じがする。無機質なふりをしていても匂いが強い。悪意も善意も捩れも妬みも愛も興奮も好きも嫌いも全部どっかり乗っているような、無加工の言葉。仮に本人にとってそれが加工済みであったとしても、何かしらの枠組みをもとに他者に手を加えられていない表現には、その人が生々しくそのまんま乗っているような気がする。その生々しさは、フィルターを通していない分見た側に入ってきやすいのだろう。それを日常的にやっているのだから、そりゃあうっかりすると自分の思考も感情も迷子になるよな、と思う。

 

 

 

と、ここまでが舞台2020(ニーゼロニーゼロ)を観る前に何となく書き溜めていた文章。

高橋さんがたびたび口にする「共有」という言葉について、あまりによく出てくるものだから私もつい頭の中で考えてしまうことが多く、こんな文章をちまちま書いていたのだけれど、やはりニーゼロでもこの周辺の話をしているような気がした。

 

ここにニーゼロの感想を書くつもりはないので深くは触れないのだけれど、「共有」の部分に関して言えば、ニーゼロの初見時、高橋さんが「共有」に対して抱いている感覚(身体感覚に近いものを)まるごと浴びせられたような気分になった。わあこの人、理屈ではなく体感で「僕が思う"共有"の気持ち悪さってこういうことですよ」を浴びせてきたな、と思った。あぁ、この人がずっと言ってきたことって"これ"か、みたいな体感としての理解。と同時に、自分にない感覚をそのまま脳に送られるみたいな体験って、結構恐ろしいものだな、とも思った。脚本を書いたのは上田さんだし、それがそのまま高橋さんの思考というわけではもちろんないのだけど(話を聞く限り3人で作っている部分が多そうなので、混ざってはいるだろうけど)、肉体を持ってこちらに向かってくるのは高橋さんなので、こちらからすれば「高橋さん、すごいもん浴びせてきたなー」とは思ってしまう。いや、それを実際に感じさせる白井さんの演出がすごいんだろうと思う。実際浴びせてきたのは白井さんなんだろうとも。

いつだかたまたま読んだ作品の感想に「その人の思想や思考に全く共感できないのに、その圧倒的な力によって完全に納得させられてしまう。"そうだ"と思わされてしまう、"そう"なのだと思ってしまう。それがめちゃくちゃ怖かった」というようなことが書いてあって、そこまでの浸透力を持った作品や作中人物に、私は未だ会ったことがないかもしれないな、とすごく印象に残っていたのだけど、ニーゼロを観てしばらく時間が経ったあとにそれを思い出した。その方が書いていたほどのことが自分に起きたわけではないし、そこまで占拠された感覚はなかった(むしろ作品に流れる思想に対する違和感を残させてくれる余白を個人的には感じた)けれど、それに近い体感ではあったのだろうと思う。

 

ニーゼロは、あらゆるテーマを混ぜこぜにして、そこに客も入れ込んで洗濯機で容赦なくぐるぐるん回しているような作品だなと思う。なので、この作品は〇〇がテーマだ、とか語るのが特に合わない作品だなと思うんですが、やっぱり何度見ても「個と全」というワードは頭に浮かんでいた気がする。「自分とそれ以外」「全の一部としての自分」「自分以外(=世界)と対峙する存在としての自分」「個の集合体としての全」「あなた(たち)と私」「私たち」、言い方は色々あるけれど、観ている間、頭の中で色んな場所に飛ばされるんですよね。個としての私、全としての私、誰かにとっての「自分以外のすべて」の一部である私。

 

で、回を重ねるごとに、観ている間にはあまり高橋さんの「共有」の概念のことを思い出さなくなったのだけれど、流れてきた感想を少し読むたびに思うわけです、「あー、私という人間の個の境界が揺らいでいるな」と。それが悪いことかというと、上にも書いてきたように必ずしもそうとは思わないのだけれど、それでもあの瞬間、あのパルコ劇場でその瞬間だけそこに生まれる一回きりの80分間で"私"がいろんな立ち位置で受け取ってきたはずのものが、誰かの何かを読むことで変容してしまうことは確かで。そうやって取り入れることで何かまた変わることがあったとしても、それが面白い変化であったとしても、それでもその時は何かを入れたくない、と思ってしまって、結局は殆ど誰の感想も取り入れなかった。それが、個としての私を見失うことに思いの外簡単に繋がってしまうような気がした。

私はたまに、自分が考えていると思っていることは果たしてどこまで私のものなんだろうか、みたいなことを考えて気持ち悪くなったりするのだけど、ニーゼロを見た後は少しそれが過剰になってしまう感覚があった。なので、結構意図的に他の人の感想をシャットアウトしていたんですよね。まぁ、中の人が再三「自分の中で大事に」を伝えていて、しかも今回は内容が内容なので、結構やっていた方もそれなりにいたかもしれないけれど。ニーゼロ公演期間に作られていたネタバレ可感想コミュニティもたまにちらっと覗いてみては、面白いなーと思いつつも、しばらく眺めていると、なんだかその感想達がまるで、あのAIの顔の前を流れる匿名の無機質な文字に見えてしまう感覚に陥ったりして、結局あまり見られなかった。温度の通った人の声と、無機質な情報とを分けるものは、それをそうだと感じさせるものはなんなのだろうか、と考えたりもした。

 

 

…と、ここまで書いていて、自分は影響を受けやすい人間なのだなぁ、と気付く。

ニーゼロを見る前は「共有は確かにね、危ういですよね。言いたいことは重々承知しております。その敬意もめちゃくちゃありがたく頂戴します。それは本当に。でもね、とはいえね、喋りたいんですよ。そもそも共有自体が別に悪ではないでしょ?」と思っていた(要約)はずが、観終えた後はどこか「人の頭の中と自分の頭の中の境界線がなくなることって、あれ、やっぱりめちゃくちゃ気持ち悪くないか?」という感覚が強まっていた。例えば、自分の感想にいいねがつくことがたまにふと恐ろしくなる。仮に「分かる」と思った押したいいねだとして、それはどこまで「分かる」なのか。そもそもそれは本当に「分かる」なのか。「分かる」ってなんなのか。文章を介して私の思考が他人の頭に入り込んだのか。それとも元々そこにあったものと共鳴したのか。一つのいいねだったらそこから"人"を感じられるのに、それが10、20と増えていくにつれ"人"ではなく"数の塊"になっていく感覚は何なのか。その数がひとつの生き物みたいに私の言葉にくっついて謎のエネルギーを産む、私の言葉が私のものではなくなり、何か他の人のエネルギーを連れ添えた何かになっていくみたいな奇妙さは何なのか。それは恐らく前からうっすらと感じてはいた感覚で、けれど一塊の他者と対峙したGLとずっと対峙していたことで、その感覚により自覚的になってしまったのだと思う。

 

考えすぎだ、の一言で済ませてしまえばいいのかもしれないけれど、やっぱり「分かる」って結構、安易に使いすぎてはいけない感覚なんじゃないんだろうか、と思ったりする。だって、あまりに手軽に「分かる〜!」ができてしまう今の時代、私達は共感や同意のボタンの目の前に常に座らされているような(「あなたはどれが"わかる"?これ?これ?それともあれ?」と次々"わかる“のネタが流れてくる回転寿司のカウンターにいるみたいな)もので、それは、ものすごく簡単に手軽に、誰かの思考や感覚を、自分のものとしてセットしてしまえるような環境なんだと思う。まるで、自分の思考を既にあるメニューの中から選ぶみたいな。あれ、思考って選ぶものだったっけ? まぁ自分で作り出したはずの思考もどこかの誰かが既に考えたことだったりもして、GLの言うようにそれはそれでデジャヴみたいなところもあるのだけど。

そして同時に、常に誰かの"わかる"のネタが流れてくる椅子に座りながら、反対に自分の出した言葉が常に「分かる」「分からない」のカウンターに並べられるに状態にも置かれている。同意と共感のボタンがセットされたカウンターに座って「分かる」寿司と「分からない」寿司を見ながら、自分の無印寿司を流していく。それに「分かる」の札がつけられたりつけられなかったりして流れていく。なんか、そのスピード感のある「分かる」「分かる」の手軽さはやっぱりどこか気持ち悪いよな、ということをあらためて感じた。

※もちろん「いいね」=「わかる」ではないし、私もあらゆる意味合いであのハートマークを押す(同意、共感、ブックマークがわり、「へぇ〜」という興味、違う思考回路に対する「なるほどな」という認知と理解、かわいいな〜(好き)、お祝い、労い(「お疲れ様です」とか「心中お察しします」とか「私には想像もつかないけどとにかくごゆっくり休めますように」とか)...etc.)。だから「いいね」はただ何かしらの反応を意味するのだとは思うのだけれど、プラスかマイナスかでいえば、大体はそのツイートに対してプラスの意を込めて押しているだろうとは思う。

 

だんだん書きながら「この人の話は一体いつ終わるんだろう………」と自分で思ってきたのでそろそろ本題に戻る。多分たまたまこの文章をここまで読んでいる人もそろそろ「この人一体何の話をしていたんだっけ……?」と思っている頃かもしれない。私も思っている。とはいえ、そもそも思考の連なりをそのまま書いているだけなので起承転結もオチもないのだけれど。書きたいことを書き終わったら終わる。ので、さっさと次に行こう。

 

 

一番は

さて、もう一度作品の感想に限定した話に戻ってみる。作品の(とくに舞台作品)を観るときに、一番私が大事にしたいのはなんだろうか、と考えたら、それはやはり、作品の理解より、作品の背景の理解より、その作品が社会にとってどんな意味を持つのかより、登場人物の心情の理解より、彼らの発した台詞の理解より、まずは「私自身がその作品と出逢ったその一回きりで、何を思ったか?私の中で何が起きたか?」なのだと思う。

何故か、と理由を書こうと思えば後付けで色々書けるだろうけれど、理由なんてなくて何かが外部から入ってきて、それによって自分の中で渦巻いて動き回るその感覚自体が好き!というのが一番かもしれない。対象を理解したいという思いもあるけれど、自分の中で起こる化学反応の方にも同じぐらい興味がある。それを見た自分は何を考えるのか、何に心が動くのか?

観劇に関して言えば、舞台オタクというほど演劇に詳しいわけでもないし、ミュオタというほど詳しいわけでも(略)、ミュージカルのみをたくさん観たい聴きたい欲があるわけでもないし、全体的にあらゆる背景への理解がまだまだ基本浅い私は、多分やっぱり"浴びに行っている"感覚が未だ強いのだろうと思う。なーんかきっとこの作品の背景には色んなことがあって、関連する作品や時代の中での位置付けなんかがあったりして、すごい作品だったりするんだろうか、うーんなーーんかとにかく色々あるんだろうけどとりあえず浴びよ!行ってきます!みたいな気持ちで毎度観ている。作品によっては多少の予習はするけれど、基本的には予習怠惰人間ゆえに真っ新な状態で観ることが多いので、その作品を理解できているのかというと大体できてないんだろうなと思う。後々「今日は予習して行けばよかったな〜」と思うこともある。ただ正直、舞台に限らず、理解しに行くため作品を見るわけでもないし、考察するために見るわけでもないし、何かを知るために見るわけでもないよなとも思う。別にその都度作品からより多くを受け取りたいわけでもない。ただ作品を見ることそのものを楽しみに観に行っているし、それによって自分の中に何かしらの感情や思考が発生すること自体が好きなのだ。その量も質も、正直それが合ってるのか間違ってるのかも、よく考えたら割とどうでもいい気がする。理解できる部分が増えたら面白さも増えるだろうし、感じ取れるものが多ければより豊かな体験にはなるかもしれないけど、休みの日にそんな高尚すぎる予定を入れると疲れてしまうので、結局はなんか、この身一つで劇場に行って席に座って、もらって帰れるものだけもらって帰ればいっか、みたいなところに落ち着く。より知ろうとか、より受け取ろう、より考えようとかするとなんか私は頭でっかちになってしまう気もするし、休日に自分を窮屈にする義務はあまり持ち込みたくない。

とはいえ最近は観劇をし始めた頃と比べると、受け取れる情報量が大分増えたなとは思うけれど、よく考えたら別にその頃も今も、別に楽しみ方は変わっていないんだなと気付く。楽しみの種類と数が変わるだけ。いや、処理できる量は限られているので数もあまり変わっていないかもしれない。

 

自分の世界ではない物語の世界の中で何かを見ること、それにより何かしらそれまで自分の中になかったもの生まれること、自分の中にあると気付いてなかったものに気づくこと、それ自体が楽しい。一般的にはこの感覚は「楽しい」というよりは「面白い(interesting)」なのだろうけれど、でも、なんかやっぱり何だかんだ「楽しい」んだと思う。この世界にありながら、この世界にはない物語の世界の中で生きる人たちに出会って、考えて、想像して、そしてまた後から思い出したりして、とかそういうことがきっと好きなのだ。

だからこそ、その営みのひとつとして、文章にそれを残したくなる。何を考えたのか、何に心が動いたのか、誰に惹かれたのか、逆に、誰が嫌だったのか、どこに違和感が残ったのか、どこで憤りを感じたのか。物語の中だったら好き勝手に好きになれるし、嫌いになれるし、その中の正しさも美しさも、誰に遠慮することもなく考えられる。その自由の中で、制限なく思考と感覚をポップコーンみたいにパチパチ生み出せるのが心地良い。だから、そこでこそ生まれた思考や感情を、残ったものを、形にしたくなるのだろう。それは自分との会話であり、作品との会話でもあるのだと思う。私にとっては欠かせないものなんだろう。息を吸ったら吐きたくなるように、何かを見たら話したくなる。言語化が全てではないと思いながらも、結局は大体言葉にしたくなってしまう。多分性分なんだと思う。

 

 

「表現」としての共有

文章は自己表現のツールでもあるけれど、表現するものは「自己」だけにとどまらない。見たもの、感じたもの、聴こえたもの、あったもの、この世界に存在する何かを、存在した何かを、もう一度自分の言葉としてこの世界に表す行為(私はそれをまとめて「自己表現」と呼ぶことには違和感がある)。世界を一旦自分の中に入れて、自分を媒体として外に出す行為のひとつとして、文章はあると思う。それは人によっては絵を描くことであったり、歌うことであったり、踊ることであったり、何かを作ることであったりするんだろう。私の場合はそれが文章で、世界に対して何かを言葉で表し、現すことで満たされるものがある。

 

高橋さんは「共有」を好まないし推奨しない。それに一部同意はできるし、彼はそうだろうなと思う一方で、どうにも自分の中で腑に落ちない部分があるのは、そもそも根本的に、役者という仕事をしている高橋さんと、一般企業で週5日働く(私のような)人間とでは、生き方の下地みたいな感覚にかなりの違いがあるのが大きいような気がする。役者という職業に就いている高橋さんにとって、「表現」は毎日当たり前のようにそこにあるものだ。それこそ芝居を「呼吸のようなもの」というほどに、それをあって当たり前のもの、なくてはならないものと感じている高橋さんは、私たちから見れば恐らく過剰なほどに、きっと毎日「表現」をしている。声で、表情で、身体の動きで、毎日毎日毎日息を吸って吐くように表現をしている。それは誰かの感情や、思考や、過去や、記憶や、生そのものであったりするのだろう。

一方、表現を生業にしていない、私を含む多くの人は、基本的に「表現」を求められない。日常生活で必要とされるコミュニケーションは、そこに感情や思考が伴うものであってもあくまで他者との意思伝達のための手段であり、表現ではないと私は思う。だからひょっとすると私たちは、日常的に「表現」に飢えているんじゃないだろうかとたまに思ったりする。その人がそれを自覚的に求めていない場合それを「飢え」と表現して良いのか分からない。ただ、現代社会で生きている大体の人は、多すぎるインプットに対して、アウトプットが足りていないんじゃないか、みたいなことを時々考える。世界から受け取る情報はあまりに多いのに、生み出したり作ったり世界に何かを与える機会や時間は、自主的に求めない限りは私たちにはあまりない。日々いろいろな情報が頭に入り、誰かの色んな声が頭の中で周り、体内にぐるぐるぐるぐると世界から入り込んだ何かが静かに渦巻いている。無意識のうちに一方的に何かを取り込み、それを出すことのないまま、ただ毎日みんな自分のやることをやっている。けれど、何かを「やる」ことは必ずしも「出す」ことではないし、けれど出されずとも入るものは新たにどんどん入ってきて、入ったものは出て行くことなく蓄積されていく。そんな不健康さを、なんとなく自分にも、身近な周りの人にも、SNSでやたら攻撃的に毒を散らす人たちにも感じることがある。みんな何かを世界に出すこと、表すことが、どこか不足しているんじゃないか、みたいなことを、単なる体感の話だけど思ったりする。聞いて欲しい、見て欲しい、わかって欲しい、と何かを発信する心理は、SNS上のそれだと自己顕示欲やら承認欲求やらと捉えられがちだけど(もちろんそれもあるだろうけど)、シンプルに何かを世界に表したい、放出したい、ということでもあったりするんじゃないか。それが、高橋さんの言うところの「共有」に繋がっていたりするんじゃないだろうか。役者さんの表現は、それこそ「自己表現」ではなく、自分の身体を通して他者の生を表現することだろうから、自分自身の表現ではないだろうけど、それでも生身の肉体を通している以上、かなり自分に近い場所での表現ではあるのだろう。「私たちから見れば恐らく過剰なほどに」と書いたように、私たちからすれば、彼らの表現の量は、その放出するエネルギー量は、想像もつかないぐらいに大きいのだろうな、と思う。常人であれば1日で枯渇してしまうぐらいのエネルギーを、彼らはずっと放ち続けることができる、できるように求められる。特に生で、目の前で歌を歌う人や芝居をする人を見ると、その空間をその人で満たせるだけの途轍もないエネルギーを感じて、とんでもないな、と毎度新鮮に驚いてしまう。

何が言いたいかと言うと、そんな、過剰なぐらいの表現を日常的にこなしてしまう役者という生き方をする高橋さんと、むしろ表現の場に日常的にどこか飢えている私とでは、そもそも「共有」やら「表現」やらの話をする時に、前提にある感覚がまるで違うよな、と思ったのである。日常的に何かを世界に表して、空間を震わせ、作品を作っている人は、そりゃあ多分、日常で「共有」などしなくても、常々「共有」(広義)しているようなものなのだから、事足りるのかもしれない、と。他人の書いた他人の言葉を、他人の感情に乗せて喋っているので、自分の中身を共有しているかというと違うけれど、それでも自分の身体を通して思考や感情を発することは確かだし、そもそも、芝居自体が「共有」の要素があるものだしな、というか。だからそりゃ、「足りてる」よな、という。(ちなみに劇場空間での時間と空間の「共有」は高橋さんは良いもの(言葉)として扱うので、同じ言葉にたくさんの意味を込めることほどややこしいことはないですね、とこの文章を書いていても思います。本当ややこしい。)

だけど、私みたいな人間は、何かを通して自分の中に生じた何かを、外に表すことが日常のなかには組み込まれていないので、一概に「共有はおすすめしませんよ、あなたの中で大事にしてくださいね(ニッコリ」と言われてしまうと(別に言われているわけではないが)、ちょっとこう、口を塞がれたような気分になるのもそりゃそうだよなぁと。あんまり主語を大きくしてもあれなのでもう私に限定しますが、世界から入れたものを、何らかの形で出したくなるんですよ、私は。作品を見たら喋りたくもなるし、推しを見たらその記憶を残したくもなるし、私の見たもの聞いたもの感じたものを冷凍保存できるわけじゃないから、その形を少し変えてしまうとしても残したいし、それを外の世界に出したくもなる。だって、大袈裟かもしれないけど、表現って、その時自分がそこにいて、そこで見て、聴いて、そこで息をした、その時そこに生きていた証みたいなものだから。別に自分が生きた証を残したいだなんて壮大なことを考えているわけではなくても、それでもあの日あの時あの場所に自分はいたんだなとか、こんなことを感じてこんなことを考えていたんだなとか、あの空間で息をしていたんだなとか、外に残そうとせずとも自分の中には何らかの形で残るのかもしれないけど、それでも外に出すことで初めて生まれるものもあるから。私はやっぱり、誰かに、世界に「共有」することがやめられないし、好きなんだろうな、と思う。

 

 

拝啓 高橋さん

こんなに長々と書くつもりもなかったのに、気付いたらとんでもない長さになっていた。書き始めた頃から一年弱経っているので、もはやリレーみたいな気分で書き繋げている。もうすぐ高橋さんの誕生日なので、ちょうどいいし誕生日までにまとめよう、と今は書いています。

拝啓、高橋さん。高橋さんがやたらと「共有」という言葉を使うからって、言葉一つでこんな長々の長文で反論みたいなことしなくてもいいじゃないか、そもそも高橋さんが言った「共有」の意味を拡大しすぎてないか、みたいな反省は3ミリぐらいはあります。すみません。まぁ最後は私はなんだかんだで共有が好きなんですと終わっているけれど、これは別に反論ではなく、「共有」という概念を投げられたので、それをお題に色々とその周りのことを考えました、の話なのでよしとしましょう。私は基本的に討論が苦手なので、これは対話のつもりで書いた文章です。「共有」について、あなたはそう思うのですね、私はこう思うんですが、どうなんでしょうね。あなたの視点はどのようなものでしょう。私の視点はどのようなものでしょう。比べて、擦り合わせて、想像して、色々考えたら面白いかもしれませんね。ふふふ。の文章です。

 

いつだって自分の頭の中も、心の中も、分かっているようで分からないし、探ろうとしていつも潜っていけるほど細やかには生きられないし、それでも言葉にできるときもあるし、できないときも、したくないときもある。けれど、想いを言葉にするという行為は多分、自分の中のその"なにか"を掴もうとする、掴みたいと思う気持ちの表れでもあって、その過程で時にオリジナルのそれからは形が変わってしまったり、歪んでしまったりすることもあるかもしれないけれど、それでも、言葉にすることで自分の中にあったふわふわの"なにか"の輪郭が、少しはっきりする瞬間も沢山ある。だから私は、言葉の力を借りて、自分の中を潜って探して掬い取って、少しでも"なにか"の形を知ろうとしてしまうのだと思う。

自分のですらそうなのだから、他人の考えていることなんてもっと分からない。だから、聞いてみるしかないし、話してみるしかないし、それを元にその視点を想像してみるしかない。時々その分かり得なさに絶望するし、「分かりあう」だとか「分かちあう」だとか、そんなものは幻なんじゃないかと思うし、それでも聴くことに、読むことに、想像することにどこか希望を見ようとしてしまう。誰かのフィルターを通してみた世界を、誰かにとってちょうどいい道具(私にとっては言葉)を通じて、知ることができる。「共有」の純粋な形って、綺麗な部分って、そんなものなんじゃないだろうか、と思う。私は誰かの「共有」をありがたく思うし、私が「共有」できることもまたありがたく思う。綺麗事の綺麗な部分で、そう思う。(綺麗事 - とるにたらない話)

 

 

 

さて、いい加減にそろそろ終わります。高橋さんが「共有」を連呼するので、何となく書きたくなったその周辺のことを考えていたら、私の中の言語化近辺のもろもろと、自分の頭の中を世界に他人に放り投げることのもろもろと、他人が外に置いた頭の中を覗くことのもろもろを、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ謎にやたらと長い文章ができてしまった。しかも同じようなことを繰り返し繰り返し、じっくりコトコト飽きずに煮込んでいる。まあ浮かんだままに喋りたいように喋っているのでしょうがない。ただ、考えられてよかったな、と思う。普段ほわほわとさせている部分が、言葉にしたことで固まって形になって、「あ、私こんなこと考えてたんだ」と知れた部分が沢山あった。また上に書いたことの繰り返しになってしまう。でも、書いてて面白かった。思考の種をくれてありがとうございます。

高橋さんは、私に思考の種を投げてくることが多いなと思う(勝手に私が考えるだけなんだけど)。特に最近は、私にとって高橋さんという存在が、思考中心の推しになってきているなということはよく思う。研究対象に近い位置に来ている。この人は最近何を考えているのだろうな、この人の出る作品で私は何を考えるのだろう、この人は次どんなお芝居をするのだろうな、そしてどんな"人"になるのだろうな、そしてその中のどんな要素が中の人に足されていくのだろうな、と。ここ1年ぐらいは正直、高橋さんに「好き!!!」という感情はあまり湧かないのだけれど(今の話なので先のことは分からない)、それでも高橋さんが何か作品の中に存在するとき、それが間違いなく世界のどこかに存在する、その世界で息をして生きてきた、そして今生きている、"役"というよりは"人"だと信じさせてくれる、騙してくれる、錯覚させてくれる、その"人"として見させてくれる、その思考も感情もその元となる経験も記憶も全て身体に埋まっているような、その存在の仕方が好きだ。その瞬間そこに立ち上がるその"人"の人生に、それに何度も心動かされてきた。そして今も、それを楽しみにしている(ただその存在や作品を好きだと思えるのかはもちろん作品次第ではあるけど)。先のことなんて分からないけど、多分この先もしばらくは彼のことを観察し続けるんだろうし、興味は持ち続けるんだろうし、"今"の旬のお芝居を見たいと思うんだろうし、「この人なんかやっぱすげーーなーーー」と懲りずにそのすごさの中身も大して分からず何度も思うんだろう。そして、なんだかんだで私の現在地の大元はほとんど高橋さんなので、結局は実家みたいなもので、声を聞けば安心するし、元気そうにしていることがわかると「よかったな」と思う。だからどうか元気に、健やかに、できればお芝居の仕事を続けながら、この先も姿を見せてもらえる場所にいてくれると良いな、と願う。山小屋の主はどうか来世にしてもらえると助かります。

 

ちなみにいつものことながら、高橋さんはこちらを見ていないと思っているので、その前提でこういう文章を書くことができています。なので、拝啓の先にあるのはご本人ではなく、私の作り出した宛先の高橋さんという幻です。どうぞこれからも今まで通り、こちらは見ないでくださるとありがたいです。どうかこれからも覗き返さない深淵でいてください。でもお芝居は見せてください。

それでは、どうぞこれからも高橋さんが健やかに、お芝居ができることを祈っております。高橋さんがこれからも、お芝居をしていて幸せだと感じられる瞬間を味わえる作品に出会えることを祈っております。お誕生日おめでとうございます。42歳の1年間、幸せな時間が多く訪れますように。私も42歳の高橋さんのお芝居を楽しく見られますように。願わくば高橋さんを通じて私も素敵な作品に巡り会えますように。

 

お誕生日おめでとうございます!