140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

nostalgia

Kazuki Kato concert Tour 2022 ~nostalgia~

渋谷1日目の15時のnostalgiaに行ってきたゆる日記です(レポではないです)。

 

10月29日(土)、晴れ、渋谷。歌手の加藤和樹さんの現場に行くのはかれこれ3回目。早いな?まだまだ新入生は入学して数ヶ月、1学期の半ばぐらいの気持ちでいるのにもう10月。訳もわからずおじゃました野音からは気付けば半年経っているし、FCに入ってからはもう8ヶ月も経つのですか。早……………?

…などと時の流れの速さを感じつつ、秋感満載のnostalgiaに行ってまいりました。

 

先日深夜に気分で好きな季節アンケートを取ったりなんかしたんですが、私は四季の中で秋が一番好きで、まあ理由は色々あるのだけれど、nostalgia、秋の空気に浸らせてくれる音楽と空間で私にはとても居心地が良かったです。秋、無理のない感じがすごく好きなんですよね。過去を振り返ることも、少し現在地で止まってみることも、暗さの中を辿ることも、やんわり許容してくれる懐の広さが好きで、今ここではないどこかや、今ここにはない何かに想いを馳せることに、寄り添うまで近くはないけれど、それをただ「いいよ」と見てくれているような。変に気負ったり急いだりテンションを高めたりすることもなく、そのままそこに居ることを許容してくれる季節だなあと思います。自分の中の温度感と街の温度感が一致している感じが好き。

とまぁ私の秋語りは置いておいて、nostalgia、そんな私の好きな秋の空気が詰まっていて、聴いていてとても素になってしまった。逆に素になりすぎて、和樹さんのことを好きな自我がどっかに行ってしまって、和樹さんのことを好きな自我の保護者みたいな気持ちでしばらく席に座っていたりしたんですけど(何の話?)、最初はふーん顔で見てた保護者の私も「あら、あなた素敵な人が好きなのね」と納得して他人事顔で帰ったみたいなので良かったです(何の話?)。

 

それでは前置きはこのぐらいにして、nostalgiaの個人日記をゆるゆると書いていきます。なぜゆるゆるとと書くかというと、ゆるゆる書いていいんだと自分に思わせておかないと、最近1万字超え記事ばかり書きすぎたせいか自分で謎にブログのハードルを上げすぎていて、書き終わらないこと多々になっているからなんですけど、まぁそんなわけでゆるゆると好きだった話を適当に書きます。どんだけ予防線張るんだ。適当に生きような………

 

 

秋のアルバムをありがとうございます…

これは最初にお礼。そう、これは個人的な印象なんですけど、春や夏や冬の歌に比べて、秋の歌ってあるはあるけど何となく少ない気がするんですよね。桜開く春、出会いと別れの春、新たな道が開ける春、きらめく海が眩しい夏、青い空の夏、楽しい祭りな夜の夏、降り積もる雪の冬、温かい家が待つ冬、恋人たちのクリスマスの冬……春も夏も冬も定型文すらありそうなほど巷には沢山の曲が出回っているのに、秋の曲って少なくないか?そんなことない?いやあるじゃん?というこれは秋好き人間からの苦情なんですけど、そんなわけでNostalgia BOXは全て秋の音楽ということでいただきました。秋になったら聴きたくなる曲を増やしてもらえて嬉しい。それを生で聴ける機会をいただけて、私の中で秋の音楽と、それと結びつく幸せな記憶を貰えました。ありがとう。

 

ノスタルジア

今回のnostalgia、郷愁、懐古…その言葉の意味通り「今ここにはないもの」を想う歌が沢山あって、冒頭に書いたように私は秋のそういう時間を許容してくれる懐の大きさというか、秋自体が持つ哀しさや淋しさ、暗さにどこか安心する人間なので、すごく秋らしい選曲だなあ、と思った。

年齢的なものもあるかもしれないけれど、私は未だ人生で大事な人やものを失くしたような経験はあまりないので、喪失の歌はあくまでその心情を想像することしかできない。ただ、カバー曲を歌われている時にもよく思うけれど、和樹さんは自分の一部になっていたものを失った人の歌がすごく似合うというか、もうそこにはないものを目に映す姿が似合うし、その目の先にある景色が見えるような気がするんですよね。そこにあったもの、在った人、変わってしまった景色、いなくなってしまった人、失ってしまったもの、かつてあった過去、なくなってしまった現在、あったかもしれない未来。全ての場所と、全ての時間が在って、同時になくて、それを見せられるだけの層が和樹さんにはあるのだなぁ、と。その厚みが和樹さんにあるからこそ、こちらにもその視界が見えるのだろう。「分かる」とは思えないけれど、見えるような気がするし、何故か知っている、とも思う。その先に見ている対象は違うけれど、今ここにはない、もう見えない、もう戻れないどこかや何か誰かは、自分の中にもあるからかもしれない。過去あったものも、今あり得たかもしれないものも、未来ですらもう叶うことのないものも、全部今ここにはないもので、それに想いを馳せながら「もしも」を考えてしまうこともある。ifで思い浮かべてしまう過去も現在も未来も、考えたところで何をもたらしてくれるわけでもないけれど、それでもその時間を持つことは必要だったりするし、「もしも」の歌詞にあるように、時に希望になったりもする。

過去自分が辿ってきた場所を懐かしむことも、過去出逢った人たちと過ごした時間を思い返すことも、今や先を見る時間と同じぐらいに大切なんだろうな、と。好きだったもの、好きだった人、好きだった景色、好きだった時間。そこに留まり続けることはできないけれど、確かにそこに在ったものを確かめることは、自分自身を確かめることでもある。それは自分の足場をきちんと見て、きちんと踏むことであり、そこがあるからこそ今に立っていられるし、先を見ようと思えるのかもしれない。

だから、そういう一人の時間をもたらしてくれるような秋が、私はやっぱり好きなんだなぁとまた思ったりする。結局秋へのラブレターに落ち着いてしまった。秋にクソデカ感情を抱く人みたいになってきてる。でも秋は好きです。秋への好きを再確認させてくれてありがとう。

 

 

 

バンジージャンプことエールキャッチ会

この話をせずには閉じられない。この話を残さずには終われない。

これはいよいよ席で待ちのタイムだった時の死にそうなツイートなんですけど、本当に心の底からバンジージャンプのほうがいけると思ってた。さっきまでステージの上で見ていた輝かしい人が扉のすぐ向こうで待ってるって何?開けたら和樹さんがいるドアとバンジーのドアの列に分かれてたら、絶対バンジーの方がいけると思った。実際バンジーしたことないのでバンジーに舐めてんじゃねぇよって怒られそう。ごめんバンジー。でも全然バンジーの方がいけると確信していた。

接触イベント自体はお渡し会で一旦済ませてそちらで一旦召されてきてはいたんですけど、今回は何せ「エールキャッチ会」と名のつく通り(初めて聞いた時本当に「エール…キャッチ…何語…?」となった)エールを和樹さんにキャッチさせねばならないという使命を最初から託されている。あのエールキャッチ券を渡されるとは、すなわちその使命を果たさねばならぬという義務を渡されているわけです。前回はただマスクの下で動揺を隠しながら光り輝く生命体から円盤を受け取れば良いイベントだったけど、今回は光り輝く生命体に自ら声をかけなければならないわけで………え…?と本当に難易度が高くてCD現場で買ってからも危うくチキンは逃亡しかけた。「エールキャッチ券をお持ちでない方はご退出ください〜(ニュアンス)」のアナウンスとともに脱出したい衝動に駆られた。逃げたさがすごかった。いやもうごめんなさいこれ本当「めんどくせぇな!じゃあもうウダウダしてねぇで諦めて帰れや」って話なんですけど、違うんですよ、いや違くはないんですけど、あの、心理状態を説明しますと、近くでは拝見したいわけです………ご本人の視界には入りたくないけど私の視界には入って欲しい………認知(その瞬間のみですら)はされたくないけど、近くで見れるありがたい機会があるのであれば見てみたい……なのでできることならカオナシの扮装で「ア、ア……」とか言いながら一言メッセージだけ渡して立ち去りたいけどそんなことは許されない……………ので、まあ意を決して、先日も人生初の対面イベントに挑んだわけですが、結局お渡し会は発光体すぎて記憶が飛んだので、エールキャッチもまあ惨敗するだろうなとは思いました。でも惨敗を覚悟して挑まねばならない時も人生にはあるだろう?

 

そして当たって砕けろいざ本番、第一声は「相手の目を見て大きな声でしゃべりましょう!」の小学生の標語みたいなことを頭に浮かべながら、とは言いつつ結局声は小さいので大したボリュームではないんですけど、最初は頑張って目を見てそれなりに聞こえるボリュームで喋り出したんですけど、ほんっっっとに一目見たら無理だった………………。

前回眩しすぎて目が焼かれたので視界の記憶が残らず「顔、あった……?」と思いながら帰路についたんですけど、今回も「うわ、このおにいさん、おおきい」「まぶしい」「こまった」と思って以降結局あんまり視界の記憶がないのは、多分私が徐々に視線を下げてしまったからなのでしょう……。第一声は何とか目を見て伝えたものの、徐々にフェードアウトして声は小さくなるし、自分で何言ってるかもだんだんわからなくなってくる。「あっどうしようすごく見られている、え、時間ない急がなきゃ、え、ごめんなさい、何言った?どこまでいった?今円盤とDVDとか口走ったけどそれ一緒じゃん?ごめんなさい、アホ?…いや止まってはならぬそんなことより早く終わらせねば……………」とか頭の中でぐるぐるさせながら、だんだん焦ってくるし「アァとにかく早く立ち去らなきゃ………!」とか思いながらも、しどろもどろぎりぎりの日本語で言いたいことは伝えたのだけど、とにかくめちゃくちゃ焦った。

めちゃくちゃ焦ったのだけど、和樹さんは何というか、急かす雰囲気など1ミリもなく、とてもとても温かい目で(恐らく)(見れてないけど)見守ってくれていて、相槌も(うっすら)(多分)聞こえてきて、優しく言葉の続きを待っていてくれているのが分かって、その優しさが見ずとも上から降ってきて、本当になんか……大天使だった。大天使カズキエルだった………………………えーーんママ………と思ったけどあの優しさを降らしてくる術は大天使だ……………………私がエールを投げなくてはならないのに……優しさを頭上に降らせてくれてありがとうございました………………天使ってやっぱり美しいんだな………

…とまぁ間近で大天使の優しさを受け取らせていただいたわけなんですが、接触イベントの時の和樹さん、本当に纏う空気感が柔らかいのだな……と2回体験してみて感じました。和樹さん、場によってかなり居方が変わる印象があるのだけど、今回「ファンと直接関わる場にいる加藤和樹さん」のパターンを初めて拝見して「………?なんて眩い光………?春の陽光……?柔らかな羽………?………………あぁ、天使………(理解)」と思いました。この人原材料名の一番上に優しさがある人だ……とよく思うけれど、なんかそれを間近で体感して、優しさって肉眼で見えるんだ…と思ったし、発する何かがとんでもなく柔らかくて、まばゆくて………もう…だめでした。私の日本語は敗北しました。辿々しいにも程がある。伝わったんだろうか。でもまだひよっこなので望みはある。新入生がはじめての定期試験でズタボロになるのは無理もない。と思いたい。今後に期待したい。と言えるようになっただけでも、お渡し会ですら行くことを躊躇っていた自分を思い出せば大大大進歩なので偉い。今後もがんばります…

 

 

「どの瞬間も今が一番だと言える僕でいたい」

これは印象に残った和樹さんのお話シリーズ。vintageのこの歌詞がすごく好きだと話していて。私はこういう言葉を他者から聞く時に、なんとなく「今=自分の一番最新が一番好き=これまでの過去のいつよりも今この瞬間が一番好き」みたいな印象を受け取ることが多くて、どの瞬間においても「今この時=一番先端」が好き、みたいな意味合いで解釈していることが多かったのだけど、和樹さんのそれはもう少し広い、過去に優しい意味合いなんだなぁ、と話を聞きながら思っていた。例えば今、昔の自分の曲を聴いたときに「声高……?!どこから出してんの?!」とか若いなぁとか思ったりはするけど、それでもその時はその時で、その瞬間はその瞬間で自分のできる精一杯をやっていて、昔の自分にとってはそれがベストだったんだろうなと思う、みたいな話をされていて。何かいつだか他の話を聞いたり読んだりしたときにも似たようなことを思った気がしたけれど、和樹さんは過去の自分に向ける目がとても優しそうだな、と思う。ストイック、真面目、の方面の話であればもちろん自分には厳しい人ではあるのだろうけれど、過去の自分、例えば今より未熟で間違うことも多かった自分に対して、優しい目を向けることができる人なのだろうな、と。自分の中に住んでいる役を大切にするように、過去の自分のこともきっと大事に思っている、思えているのだろうなあとか。

だから、"どの瞬間も"と言った時に、和樹さんの場合は、最新の"今この瞬間"の連続で"どの瞬間も"、と言っている意味合いではなく、今この瞬間も、あの瞬間も、これからも、その時その時の目の前の時間や、そこで頑張っている自分のことを、その時の自分が一番だと言えたらいい、という柔らかくて広い意味合いになるのだなぁ、と思った。今この瞬間から見た時、あの時の自分も、今の自分も、"その時において一番"と思える。すごく抽象的なことをすごいニュアンスで書いてるんですけど、まあ何が言いたいかというと、過去の自分と仲が良さそうで素敵だな、だから尚のこと周りにも優しい目を向けられるのだろうな、各自分の置き方や向き合い方がきっと上手なんだろうな、と思った話でした。

 

 

 

vintage

もともと今回のアルバムNostalgia BOXの中で、vintageが個人的に一番好きではあったのだけど、生で聴くとまた違った印象になるなぁと。どこの歌詞が響くかも違ってきて面白かったし、より好きになりました、vintage。

vintage、ステージの上に立つ人の歌なので、歌の主に共感することはないけれど、同時にあちら側からこちら側に歌われる歌でもあるので、歌の向きはこちらに向いている。なので、ステージ上で歌われたらたまらんだろうな、と思っていたんですけど、やっぱりとても素敵だった。共感することはない、と書いたけれど「10年後僕は僕を信じ続けることが出来るのかな 舞台裏にまで届く拍手の音に応えられるように」の部分とかは、その光景や音をつい想像してしまったりはして。舞台裏まで届く拍手を和樹さんはいつも聴いているのだろうな。自分が去った後、和樹さんの歌を、姿を求める拍手の音をいつもどんな思いで聴いているのだろう。こちらからすれば拍手って感謝だし、愛だし、応援だし、一番簡単に贈れる、伝えられる、一番直接的なお礼であり、愛情表現みたいなものだと思うけれど、それを受け取る側のこと、それを裏でも聴いているステージの上の人のことも、あの歌詞を聴いていると想像してしまう。届いていると良いな、と思うし、届け続けられたら良い、と思う。

 

目の前で歌われた歌詞がびっくりするほど自分の中に浸透する瞬間って、本当に何も考えられなくなるぐらいにその歌詞と音楽で自分が埋まって泣きそうになるのだけど、今回生で聴いて一番歌詞が心に頭に入り込んできたのが「今目の前にいる君は どこへ向かう道の途中なのかな」の部分で。個人的に今ちょうど道を決めかねている状況にいたりするので、ぐるぐる考えて悩んで逡巡して戻って分からなくなったりする日々にある中、この歌詞が、目の前で和樹さんから歌われる言葉が、すごく刺さってしまった。隣で聞いてくれているような、見守ってくれているような、今この瞬間の道の途中にいる自分を見てくれているような感覚に勝手になってしまって、それだけですごく安堵してしまった。先を急かすわけでも促すわけでもなく、「これからどこに向かっていくのかな」「どこに向かう道にいるんだろうね」とゆったり微笑むような、同じ場所で道を見つめてくれるような言葉に、自分でもびっくりするほど安心してしまった。あぁそうだ、まだ途中なんだよな、ここで終わるわけではないし、これが続くわけでもないし、途中なんだよなあ、とふっと力が抜けた。

選んだ結果や、その先で得たものや、意味のありそうな時間ばかりが目立ってしまいがちだけれど、進んでないように見えるような時間も、立ち止まって同じような場所でぐるぐる考えているような時間も、目立つ何かと同じぐらいに自分の中に残るはずで、記憶には残らずとも自分を形作るものの一部になっていくはずで、無駄な時間、取るに足らないもの、と切り捨てなくていいんだよなあ、と思えた。vintageの歌詞に出てくるようなことをずっと考えながら聴き入ってしまった。「皺も染みも自分らしくヴィンテージのように」きっと生きていくのだろう目の前の和樹さんを見ながら、私もなんてことのない毎日を続けながら、自分なりの思考や感情を重ねて、言葉を刻んで、少しずつ生きていけたらいいな、と思った。年老いるまでにも沢山会いにいくつもりでいるけれど「お互いに年老いても素直でいれば また会えた時に今より笑顔でいられるさ」の歌詞は、素直な和樹さんが歌うからこそ説得力があって、私も素直さを捨てずに持っていきたいな、と素直に思った。素直でいることって、多分自分でいることだし、自分のことを分かっていることだと思うから(とはいえそれは簡単ではないけど)、それを小さなところで日々積み重ねていくことが、結果自分が自分たる証になっていくのだろうし、きっと目の前のこの人はそうやって生きていくのだろうな、と。だから、同時に、目の前に立つ和樹さんにまた次に会う時も、次の次に会う時も、私は私で自分の毎日を大事に重ねて、その時その時の私にとっての素直な自分で会いにいけたら良いなと思った。そしたらきっとまた、その時の和樹さんが笑顔にしてくれるのだろう。

ステージの上に立つ人とそれを見る人と、拍手を贈る人とそれを受け取る人と、立つ場所は違くても、見えている景色は違くても、そこに来るまでにはそれぞれの時間を持っていて、それを持ち寄って、そこで会う時には同じ時間を記憶に刻んでいく。それぞれ積み重ねられていく層の中に、少しずつ同じ層が挟まっている。あの日、あの時、あの場所で、ステージの上と下で共有した時間。束の間の時間だけれど、その共有は確かにあって、それが確かに、お互いに刻まれていくのだと思うと、なんだかそれはすごく素敵なことだ、と思った。

 

 

 

 

 

さて、今回は一度しか行っていないので、曲の記憶も結構ふんわりしている。でも幸せな時間だったことはばっちり覚えているし、その後のエールキャッチ会で一旦記憶を全て吹き飛ばされたことも覚えています。無事にその後少し取り戻しましたが。

そんなわけで、何があったか、何を喋っていたか、何を歌っていたかのレポ的なものは書けるほど記憶のストックがないなぁと思い、見たもの聴いたものというよりは感じたこと思ったことの大半の文章になりました。nostalgia日記。まぁでも、記録ではなく記憶を残したいなとはよく思っていて、記憶を残すってそういうことか、とも思うので、私の書きたいことは達成したかもしれない(本当は記録も残したいんだけど)

 

nostalgia、秋の終わりに素敵な時間をありがとうございました。10月は野音の円盤に、新しいアルバムに、nostalgiaに素敵なプレゼントを沢山いただけて幸せでした。良き秋をありがとうございました〜!!!🍁🍂