140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

恋せぬふたり小休憩 (脳内整理)

恋せぬふたり、を見たあとのまとまらない思考の記録をだらだらと残しておく その1です。ちょうど2週間の小休憩タイムが発生したので、今までの4話を見ていて頭の中をぐるぐるしていたものを書き出しておく。

(※ドラマ感想ではありません。脳内にあるものをつらつら書き出して整理しているものなので読みやすさは皆無です)

 

 

 

 

人を分けるためのカテゴリは表では表せないよな、とよく思う。

表のひとつのマスに人を入れ込もうとした瞬間、カテゴリは人を押さえつけ窮屈にする道具になってしまう。あとフローチャートでもないなともよく思う。二者択一の質問でひとつの答えに辿り着くものではない。不変のものでもない。もちろんそのカテゴリが何かによって、人によって、不変の場合もあるけれど。

 

なぜこんなにカテゴリカテゴリぐるぐるしているかといえば、恋せぬふたり、「アロマンティック」「アセクシャル」のセクシャリティを持つ二人が描かれたドラマで、セクシャリティというのは人の性的指向性自認を分けて整理したカテゴリなので(片仮名苦手なので並べすぎると目が疲れてくる)

ドラマの中で二人の共通点や異なる部分を見ながら考えてしまう。例えば何をもって分けられて、何をもって同じセクシャリティとするのか。もちろん定義はあるだろうけれど、実際には一人一人の中で違ったりするのだろうなと思う。その中で当事者や非当事者の間で生じる誤解にはどんなものがありうるんだろうかとか。「アロマンティック」「アセクシャル」という言葉を初めて聞いた人はそれにどんな属性を無意識に付け加えるんだろうか、とか、ぐるぐるぐるぐる。

 

今更ながら一旦「カテゴリ とは」で調べてみたら、「カテゴリは、事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のことである。カテゴリ - Wikipedia

と出てきたので、本来の意味としては物事の特徴をはっきりさせて、特徴ごとに区分けしたもの、だと思うんですよね。でも、その対象が人間の場合、どう考えてもそんな簡単に区分けできるものではない。事柄である人間の性質がはっきり区分できるような分かりやすいものではないから。けれど、簡単に区分けしてしまいがちな人がいる。というよりしてしまう方が楽だし分かりやすいし簡単だから、社会の側も、特にそこに引っかからない人も、つい無意識に簡単に分けられると思ってしまう。私もきっと、知らず知らずのうちにやっている。

 

 

でも、例えば星座占いで考えると、数億人いる人類が12種類に分類できるわけはなくて、6×6の12種類のマスに人類を入れ込もうとしたら皆反発すると思うんですよね。「あなたは山羊座なので、こうでこうでこうでこうです(確定事項)」って言われたら、たったの12区分でおれを語るんじゃねぇ!ってなる、みたいな。まぁ、現代社会は星座占いが生きる上で死活問題になるほどの影響力を持った社会ではないので、実際にはそんなキレ散らかす人はいないんですが、例えばそれがものすごく就職や結婚や人間関係に影響します(それを判断材料にします)とか言われたら、多分反発する人がものすごく出てくる。そして、実際にある無遠慮なカテゴライズの暴力を受けている人というのは普段からそういう思いをしている。

 

あの、なんて言うんだろう、小さい子が遊ぶ、ゲームセンターにあるカラフルなボールが沢山しきつめられてる遊び場があると思うんですけど(名前がわからない)、対・人間のカテゴリイメージってあのカラフルなボールみたいなものだと私は思っていて。あの遊び場のボールは色が数色に限られているけれど、カテゴリの場合はそれがもっともっと沢山ある。で、それを各々サンタさんみたいにでっかい袋を持っていて、それぞれ色んなボールを色んな組み合わせで自分の袋にたっぷり入れている。私は勝手にいつも、そういうイメージで「カテゴリ」というものを捉えている。

 

星座の話に戻ると、例えば天秤座の人だったら「バランス感覚が優れている」「センスがいい」「八方美人」「対人関係能力が高い」「ドライ」「広く浅く」「見栄っ張り」(割とよく書かれている特徴)のカラーボールがあるとして、同じ星座だったとしてもその内のどのボールを自分の袋に入れているかは人によって違うんですよね。同じカテゴリ(同じ星座)内にいたとしてもその組み合わせによってその人の特徴は異なっている。

それを、誰かが「天秤座ってことはあなた、八方美人でしょう!」みたいな決めつけでものを言ったときに、実はその人は天秤座の「センスが良い」色のボールしか入ってなかった場合、言われた側は「何の話?」ってなる…みたいなことって割と起こると思うんですよね(星座の話に限ったことじゃなくて)。

くわえて、その人が袋に入れているボールは「天秤座関連のボール」以外にも沢山あるので、当たり前だけれど、ひとつのカテゴリが一致しているからといって、"同じ種類の人間"とはならないんですよね。続けて星座の例えを出すなら、月星座魚座の太陽星座天秤座と、月星座獅子座の太陽星座天秤座じゃその中身は実質全然違う、みたいな話(すごい占星術みたいな話ばっかりしてるけど、人を分類する枠組みの例として一番ライトに出しやすいんだろうな)。

獅子座は皆熱血の体育会系です!天秤座は皆社交的なのでパーティー開きます!山羊座は皆堅実的なので貯金2000万あります!みたいなことがあるはずないように、同じカテゴリ内でも持っている特徴は人それぞれ(まあ星座のようにそのカテゴリの特徴が絶対的なものでないものを例に考えるのは適切ではないのだろうけども)。本当に当たり前なんだけど、よく考えれば当たり前のはずなんだけど、でも意外と認識されずらいところがあるよな、と思う。

 

 

さて、今回のドラマに話を戻すと、

羽と咲子で言うなら、「アロマンティック(人に恋愛感情を抱かない)」「アセクシャル(人に性的感情を抱かない)」という色のボールを共通で二人は持っている。ただ、実際個々の袋の中にはもっともっと沢山のボールが入っていて、例えば羽の袋には「同性異性問わず身体接触を好まない」色とか「恋愛感情を向けられることに嫌悪感を覚える」色のボールも入っているけれど、咲子はそれを持っていない。

仮に2つ同じボールを持っていたとしても、それは各々持っているボールの2/100だったりするわけで、当たり前だけれど他の部分はまるで違うんですよね。だからもちろんアロマアセクの人でも、羽や咲子とは違って同居を好まない人もいるだろうし、異性と暮らすのが嫌な人もいるだろうし、それとは別の理由で「家族」を求めない人もいるだろうし、あの二人にたまたま共通しているだけの性質が「アロマンティック」「アセクシャル」の人の性質というわけではない。アロマンティックアセクシャルセクシャリティを持つ人に共通しているのは、あくまでも「他者に恋愛感情を抱かない」「他者に性的感情を抱かない」の部分。

 

それが、網目のカテゴリのイメージで浮かべてしまうと、同じマスに入ってるのだからそこに属する人は(全体的に)似た性質なのでは?となってしまうのが網目やチャートイメージのカテゴリの厄介なところだなぁと思う。実際は「同じ特徴を一つ持っている」だけなのに、同じマスに入れるイメージによって、「あなたは〜だけど××じゃないなら〇〇のカテゴリには当てはまらないわ!」みたいなカテゴリ内部の人同士での疎外みたいなことも起きかねないし、当事者の側も自ら自分を疎外しかねない。

例えば羽さんが「僕はアロマンティックアセクシャルです。僕こそがアロマンティックアセクシャルの模範例なので、人から恋愛感情を向けられて嫌悪感がないのであればあなたはアロマンティックアセクシャルではありません」とか自分と違う他者をカテゴリからばっしーーんと弾き出す人間だったとしたら(ドラマを見ていて分かるように羽さんは決してそんな人ではないけれど)、咲子は簡単に疎外されてしまう。そうでなくても、羽さんが分かりやすくその辺りの説明をしてくれる人でなかったとしたら、咲子は「人からの好意や、誰かから愛情を向けられて一緒に楽しく時間を過ごすこと自体は別に嫌じゃないし、幸せを感じられることもある私はアロマンティックアセクシャルではないのか……?」と、身近な例である羽を見てそう判断してしまった可能性もある。

 

本来カテゴリは人の数だけあるぐらいのもので、ただ、無数にあるひとつひとつの要素を掛け算してそのひとつひとつに名前をつけていたら、本当に無限大にカテゴリが生まれてしまって表が足りなくなる(収まらなくなる)し、それだと最初の理解の足場となるカテゴリとして機能しなくなってしまう。大枠としてのカテゴリは必要で、でも本来人はそこに収まることはできない。

 

だからいつも私はなんとなく、あの遊び場のカラーボールをいつも想像するようにしている。特徴をどんどん区分けして分解して、無数のカラーボールが生み出されて置いてあるカラフルなボールの海。この世界には色々な要素があって、そして各々その色んな色のボールを、それぞれの組み合わせで持っている。そのボールの組み合わせに名前がついていることもあれば、ついていないこともある。

目の前にとある特徴を持っている、と分かる人がいたら、その中の一つを持っているのだな、とだけ認識する。この人は〇〇というボールを持っているんだな、と。こちらの憶測で、他のボールの要素と勝手に繋げてしまわないように、限られた枠の中にその人を押し込めてしまわないように。カテゴリが分解していくべきはあくまでも特徴そのものであって、人を分けて分断してしまっては誰も幸せにならない。各要素の組み合わせでカテゴリを作ることに限界があるのであれば、その要素を理解して、その都度組み立ていくことは、やっぱりこちらの仕事で、それは個々でやり続けていかなくちゃならない。

 

 

 

カテゴリは刃にも鎧にも薬にもなる

「カテゴリ」や「カテゴライズ」という言葉自体に嫌悪感を持つ人は結構いて、それは多分、「あなたって〇〇なんでしょ」とかいう暴力的な決めつけカテゴライズや、さっきの上で書いた架空の弾き出し羽さんみたいに、事細かに特徴を並べてそれ以外は違います!みたいなことをする人に出会った、もしくはそういう例を見てきた人なのかな、と思ったりする。他にも理由は様々だと思うけれど、何かしらそれで嫌な思いをした人なんだろうなと。一部分を知って全てを名付けられると思ってしまう人というのはまぁまぁいるので。

 

 

私自身は、カテゴリは他者理解にも自己理解にも便利な道具だと思っているので、先人たちが編み出してくれたそれらの枠組みをありがたく思っている。

あなたはあなたなんだから色々あるんだろうけどそんなあなたでいい」は全受容の言葉であると同時に理解や思考の放棄でもあって、それで何かしらの生きづらさを抱えてる人が救われるかというと、もちろん全然救われることもあると思うのだけど、「まぁ、そうだよね」という諦めの気持ちもそこには含まれていたりすることもあると思う。(でも、どうやったって理解できないことや受け入れられないことというのが人によってはあるし、たとえ身内であっても理解をしなくちゃいけないわけでもないよな、と何食べ映画でシロさんのお母さんを見て思ったりもした。難しい。)

私は私のままでいい」も同様で、自分の解像度が低いままでの自己全受容は人によっては、多分すごく脆い。それがもう超最強な無根拠の自信になっている!みたいな人もいるだろうけれど(それはそれでめちゃくちゃうらやましい)。

だから、自分や他者の分からなさを知りたいと思ったときに、まずは理解の一歩目としてその枠組みを上手く使うのは、ひとつの良い手段なんじゃないかなといつも思う。

 

言葉から自由になるには言葉を知る必要があって、言葉を持たない人が自由かというとそうではない、むしろ不自由である、自由になるには言葉を知る必要がある、みたいな話があると思うのだけど、カテゴリもそれに近いものだと思っている。

自分や他人を知ろうと思ったときに、既製の言葉や概念を通してでしか得られないものというのはどうしてもあって、その既に出来上がってる枠組みを利用することで辿り着ける視点というのは、何も持っていなかった時のそれとは全く違うもので。

その視点が、それ以前の視点より優れているとか上だとかいうことではなくて、もちろん自分の地上の視点も大切だし、そここそが原点なのだけど、せっかく先人たちが徒歩5分の位置にスカイツリーを建ててるんなら絶対登ったほうが見晴らしがいいでしょう、みたいな感覚だと思う。自分で近所をぐるぐるして、自前で作った一軒家の中で得られるものもあるけど、先人たちの積み重ねてきたタワーを登ればその地点からまた違う場所に橋をかけたりすることもできる。高い視点でしか分からない自分の街の良さとか、見下ろした景色全体の中での普段の自分の位置付けとか、見えなかったものが見えてきたりもする。あと、普通に自分の手持ちの何かだけで物事を考えると自家中毒を起こしかねないので、適切に何らかの専門知の力を借りることは割と大事だなぁとか。算数の問い1で自力でうんうん唸るより、頭の良い人が作った公式使ってその先の問いを考えられたら違う道も広がるかもじゃん?みたいな話かもしれない。あるもんは使っとくに限る。話が広がりすぎましたが。

 

私にとってはカテゴリはそういうものなので、それを持って人を傷付けたり、誰かを弾き出したり、優越感に浸ったりするのは論外として、自分や他者を理解する一歩目には適したアイテムだなと思っている。それ自体良いものでも悪いものでもなく、使い手によって用途が定められてしまう(悪用しようと思えばできてしまう)ので、良くも悪くも便利なアイテム。

ただ、少し知った段階だと無意識にカテゴリにあてはめて決めつけてしまいかねないので、あくまでも抽象的なアイテムなんだなというのは常に意識しておかなくてはならないなと思う。膨大な個々の人間達を、抽象的な枠組みの中に収めてすべて説明できるわけではない。出逢った目の前の人には目の前の人だけの、唯一無二のカラーボールの組み合わせがあるので、カテゴリの中にその人を入れ込むのではなくて、それを横に置いて考えてみる、ぐらいの使い方。何にしても、気をつけながら使う必要のあるものではある。そう、なので、今回のドラマは特に、受け取る側はその面を気をつけなくちゃならないよなぁ、と思う。咲子も羽も千鶴も個々の人間で、一例で、彼らの持つ特徴=名前のついた抽象的なカテゴリ(今回で言うとセクシャリティ)そのものではないし、そしてカテゴリの要素は、彼らの中のほんの一部でしかない。

けれど、咲子のように「ずっと分からなかったもやもや」に名前がつくことで生きづらさの中身が見えて少し楽になったり、羽のように知識や概念の枠組みが自分を守ってくれたり(羽さんは知識や理論を盾に社会や無遠慮な人と静かに戦ってきたんだろう人の空気を持っている)、カテゴリによって人が救われる部分はかなりあるだろうな、と思う。

 

 

「アロマンティック」と「アセクシャル

ドラマでは「アロマンティックアセクシャル」がワンセットになってしまっているところがあるので、アロマンティック単体(アロマンティックセクシャル=性的感情は抱くが恋愛感情は抱かない)、アセクシャル単体(ロマンティックアセクシャル=恋愛感情は抱くが性的感情は抱かない)の人の存在が見えにくくなってしまっているのではないかなとも思ったりもして。

ただ、この辺は割と人によって、説明しているサイトによっても言葉の指している対象が違ったりするのでいつもややこしいなぁと思う。他者に対して性的欲求も恋愛感情も抱かないセクシュアリティを「アセクシャル」、他者に対して性的欲求を抱かないセクシュアリティを「ノンセクシャル」(日本独自の表現らしい)と説明する場合もある。そこは当事者の方でも使い方が違ったりするようなので、「これが正解です!」というのはないらしい。ややこしいけれど、次々と自分達を説明するための、理解するための言葉を各々が生み出していった結果なんだろうな、と思う。時代(時期)によっても国によっても、認識される概念が違うので、使われる言葉が変わってきたりする。個人的にはアロマンティック、ロマンティック、アセクシャル、セクシャルを掛け合わせた4つの表現が入りやすいなと思ってそれで理解しています。

アセクシュアル(エイセクシュアル)とは?【恋愛はしない?】 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」

用語一覧 - 特定非営利活動法人にじいろ学校

 

で、話を戻して、恋せぬ2人に出てくる咲子と羽は「アロマンティック」と「アセクシャル」(狭義の方)のセクシャリティを持つ2人の話で、2人ともがその両方のセクシャリティにあてはまるため、片方だけのセクシャリティの存在が見えづらくなる部分がありそうだな、という懸念があるな、という話です。とはいえ、このテーマに切り込んでいく最初のドラマとしてはそこはしょうがないような気もする。

あと、「恋せぬふたり」というドラマタイトルの通り、このドラマで描きたいメインテーマは「恋愛をしない、求めない人もこの世界にはいる」という部分なのかな思っているので、まずはそこから、なのも分かるし、そのためにそこに焦点を絞っているのだろうなとも思う。そうすることで、このドラマが恋愛感情を持たない人(アロマンティック)だけでなく、恋愛を重要視していない人、恋愛することを選ばない人、恋愛よりも大事にしたいことがある人、などあらゆる理由で恋愛を人生の主軸に置かない人のドラマにもなっているように思う。

 

ただ、個人的にはアロマンティック・アセクシャルの概念を初めて知った時の、「そうか恋愛感情と性的感情は分離できるものか……というか分離しているものをくっついて当たり前にしているだけか……それを自然と受け入れている人が多いというだけか……」の目から鱗感というか、この世界の無理矢理くっつけているものの多さの一部に気づいた時の衝撃というか、そういうガツンと感がこのセクシャリティの存在を知った時にものすごく大きかったので、そこの部分も描かれていたらなぁと思ってしまう部分もあって。この概念を知ることで当たり前にくっついている「恋愛感情」と「性的感情」を剥がすことになるので、そこもまた違う作品で何かやってくれたらなと思ったりはします。

そこの部分以外でも剥がせる(分離できる)ものーー例えば「結婚」と「恋愛」(ここの部分を前半部分でがっつりやってたのが逃げ恥)、「家族」と「結婚」(これは今後の進み方次第で恋せぬでも扱われるのかな)、「恋愛」と「パートナー」(恋です!の獅子王とイズミちゃんはここを剥がしていた)、ーーの可能性を扱ったドラマがこれきっかけに少しずつ増えていったらいいなと。恋愛→性→結婚(家族)→性(生殖)の一直線ワンセットが当たり前にくっついている今の社会に、他でもあり得た、あり得る関係性の可能性をドラマでガンガン投げてみてほしい。まあこの辺、どこを分離させてどこをくっつけるかによって綺麗事だけだとどうにもならない話ではあるので、そのあたりの可能性も含めて考えるきっかけになる作品がもっと生まれたら良いなとか思うけど……うーーん難しいんだろうなぁ。小説や映画なら多分結構あるのだろうけど、開かれた場のエンタメであるドラマでやるのは、難しいんだろうな……。でも見てみたいなぁと無責任に思う。

 

と、考えてみてやっぱり、今回アロマンティック、アセクシャルの存在を中心に持ってきたドラマを最初に作った恋せぬふたり、ものすごく大変だったのだろうし、でもそれだけの意味のあるドラマなんじゃないだろうか、と思う。「何年か後には「当然のことを何を仰々しく言ってるんだ」「古い」なんて言われるくらい世界が変わっていることを心より願っています。よるドラ『恋せぬふたり』キ―ビジュアル完成&脚本・吉田恵里香のコメントが到着! | お知らせ | NHKドラマと脚本の吉田さんがおっしゃっていて、私はこれを読んですごく安心したんですよね。あぁこの人は多分、このドラマを叩き台にしてくれても良いからと、険しい山に最初の細い道を作ろうとしている人なんだなぁと。

そして、あくまでもこれは誰かのスタート地点のために書かれたお話なんだなとも思った。非当事者の側で今まで何も知らなかった人にとっても、当事者の側で「自分の話を描かれてこなかった」人にとっても、最初の道となる作品というか。このドラマは、アロマンティック、アセクシャルというセクシャリティの存在や、"恋愛をしない人もいる"、"この社会は恋愛にものすごく価値を置いている"、"ということを知る最初のきっかけになる作品で、入門書みたいな立ち位置なのかなと。だからこそ、数年経って、吉田さんの言うように、「当然のことを何を仰々しく言ってるんだ」「古い」なんて言われる日が来るのかもしれないし、そういう日がくるための道を作っている作品なんだろうな、と思う。引き合いに出すのもあれだけど、次のクールでもまた恋愛を不要とする女性を「こじらせ女子」と称する恋愛ドラマが始まりそう(その単語まだ使う?いい加減飽きない???)なので、まあなかなか道は長そうだなと少しげんなりはするのだけど、それでも民放でも恋です!(私が去年ゴリ押ししていた大好きなドラマです)のような超最高なラブコメが放送されたりもするので、気長にこれからも観察し続けたいなと思います。恋せぬふたりを見た若者が「この時代だとまだこんな描き方からやってたんだ〜」と驚く時代がさっさと来ますように。でもなんだかんだラブコメは好きなので、恋です!のような多種多様な人たちの関係性や愛を描いたラブコメがこれからも生まれますように。

 

そんなところで、とくにまとまりもしていないけど小休憩中に考えた色々編を閉じます。また何か書くかもしれません。