140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

GHOST

ミュージカルGHOST、観てきました!

 

…いや、観てきました、というより3月毎週観に行ってきました!のが正しいですね。3月はクリエに通ってました。

GHOST、観る度に自分の中で印象がくるくる変わっていったのがすごく面白くて。でも、放っておくとその記憶もだんだん薄れてしまいそうなので、またまたとりあえず、記録を残しておきたいなと思います。

 

ということで以下、3月GHOST備忘録です。

 

 

そもそも『GHOST』という作品自体、私は見たことがなくて、ストーリーもざっくり(主人公が幽霊になる、恋愛もの、親友が裏切るらしい)程度にしか知らなかったのですが、今回もとりあえず、初回は事前情報は入れずに向かいました。複数回観に行くことが初回観劇時に確定していたので、まあとりあえず最初は感覚で掴めばよいかな、と。

 

1.ふわふわの1回目

さて、まずは初回の話。

My初回は3月6日(土)ソワレ、桜井さんの初日の回を観に行きました。

これは多分Twitterにも似たようなことを書いたんですが、この日、初めてGHOSTを観た時、率直な感想として一番強く残ったのが「音の圧が、思ったよりも強め……!!」ということ。

冒頭、GHOSTの文字が浮かび上がり、静かに曲が始まったかと思ったら、いきなりドーン!!と大きい音がくるのでまずちょっと心臓がびっくりする。その後もオダ・メイの登場曲等々、結構楽曲のパンチが強い。ざっくりと「切ないラブストーリー」というイメージだけ持って観にいったので、思っていたよりも明るく勢いよくパーン!ドーン!と進んでいく曲や場面が多くて、純粋にずっとびっくりしてしまっていた。地下鉄の彼のところも、2回目以降は良い意味で異質なあの場面がすごく印象に残るな…と思っていたのだけど、初回は割とずっとあの足のカーン!の音のボリューム感に慣れなくてただびくびくしてた。

行きの電車でぐっすり寝ていってしまったからなのか、時間帯的に(ソワレ)副交感神経優位で大きい音への耐性がなかったのか、はたまた予想していたものと違くて脳が驚いてしまったのか……何が原因なのかは分からないけど、とにかく初回は私の受け入れ体制が整っていなかったようで、大きい音が鳴るたびに目をまんまるくしてた。我ながら小動物みたいだった(もはや感想じゃない)。

 

そんなこともあって、初回は「何か、少し置いてかれているな……」という気持ちで観ている時間が多かったなと思います。客席からも自分が浮いているような感覚があって、舞台の上で進む時間軸にもついていけていないような気がした。疎外されているわけでもないのになぜか勝手に疎外感を感じてしまう謎状態。セルフ蚊帳の外。

これまでに複数回観た作品も、初回は第三者の視点、あくまでも他人事として観ている感覚が強いなと思うことが多かったけれど、なんかそこですらないというか。多分第三者視点って「観客の自分」としての視点なんだと思うんですが、「観客の自分」自体が場から浮いてしまっていたので、自分の置き場が分からなかった。ので、特に前半はずっとふわふわした状態で観てました。

後半は少し場に慣れてきたけど、やっぱり舞台上の誰かでも、客席の一部でもなくすごく遠いところから観ているような感覚があって。それでも最後、サムが階段を登っていってしまうあの場面、何故か分からないけど泣いていて、それが自分ですごく不思議だった。誰に感情移入することもなかったけれど、ずっとするするとすれ違い続けていた二人が、最後の最後、サムが消えてしまう前に触れ合うことができて、お互いの気持ちを確認し合うことができて、私はたぶんあの瞬間安心したのかもしれないな、と後から思った。

 

帰り道、ストーリーは追えてはいたし面白かった気はするんだけど、何か、自分が何を感じていたのかあんまり分からない、観たはずなのに観たような感じがしない、本当に観てきたかな私……?と不思議な気分で電車に揺られていた。

帰りの電車(約一時間)で観てきた作品の余韻にどっぷり浸るのが舞台帰りの恒例行事なんですが、その日は浸れる余韻が遥か彼方。その後に見たカテコの幸せな記憶はめちゃくちゃ残っているのに、肝心の作品自体の記憶がものすごく淡い。音楽も頭の中で浮かべられない。な、なぜ………と思いつつも、カテコの挨拶を思い出しながら「とりあえず、無事に観られて良かったなぁ」「幸せだなあ」なんてマスクの下でにこにこして、作品の余韻はあきらめて、観られた幸せに浸ることにして帰宅した。

 

…と、いう極めてふわふわした一回目。自分に合わないとか面白くないとかいうわけではなく、ただひたすら場に自分が馴染めない……というのが初めてだったので、何だか不思議だった。自分が観てきたはずなのに感想がほとんど湧いてこないというおかしな感覚。

ただ、色々要因はあるだろうけど、やっぱり初回だったからというのは大きいだろうな、と思っていたので、家に着いてからはとにかく「早くもう一回観てみたい……!」という気持ちでいっぱいになった。

 

 

 

2.「入れてもらえた」気がした2回目

「もう一回観てみたい!」から1日。つまり翌日、2回目を観に行きました。今度は咲妃さんモリー

 

前日は下手前方席だったんですが、この日は中央後方席。座った瞬間、多分とても観やすいだろうなぁという感じがしました。加えてこの日はマチネ、初回と違ってほわわんとした状態ではなく、頭も身体も冴えている昼の活動モードだった(意図的にそうなるようにしていたところもある)ので、「これは昨日みたいな感じにはならないんじゃないかな……!」と何となくほっとしたし、ワクワクした。やっぱり輪の中に入って観てみたかったから。

 

2回目、幕が上がり、GHOSTの文字が見えた時に思ったのが、後方中央席で見るとこのオープニング、映画の始まりのようでワクワク感が増すのだなということ。始まる前の高揚感も、始まりの音が流れ出した時の「始まった………!」感も、引きで見たほうがより感じられるような気がした。

最初静かに始まった音楽が、だんだんこちらに近付いてくるように大きくなる。そして最高潮に達した瞬間、今まで映画のスクリーンのように閉じていた透明な扉が少しずつ開いてゆく。扉の向こうのGHOSTの世界が、こちら側にだんだん開かれる。そうだ、映画じゃなくて舞台なんだ、とはっとする。今からここで始まる物語は、画面の中の届かない世界ではなくて、私の目の前で進んでいくんだ。そう思ったら、なんだか初めて舞台を観に行った時のような気持ちになった。始まった瞬間から物語の中に引き込まれていくような高まる感覚。

この瞬間、わくわくしたと同時に前日よりも「馴染んだ」ような感覚が湧いてきたのが面白かった。それが場に対してなのか、作品自体に対してなのかは分からなかったけれど、「これはきっと、昨日みたいに置いてかれずに一緒に楽しめるのでは……?」という予感がして、冒頭から少し嬉しくなってしまった。

 

そして予感は当たり、その日はその後のストーリーも音楽も、同じスピード感で一緒に楽しむことができた。そう、思い返せば初回は音楽すらあまり頭に入ってこなくて、周りに合わせて手拍子はするも私の中身は完全に置いてけぼりだったので、身体の動きと同じぐらいに頭も心も音楽を楽しめている状態がとても嬉しかった。リズミカルな曲に心ごと乗れていて楽しかった。客席の中にも、GHOSTの世界の中にもちゃんと入れてもらえたような気がして。

 

2回目は、客席の視点、物語や登場人物達を外から見ている視点がしっかり持てたな、と思う。それも、完全第三者ではなくて、あの場所で生きている彼らの近くで見られたような気がした。多分、上でも書いたように、始まったあの瞬間、GHOSTの世界に引き入れてもらえたように感じたあの瞬間が大きかったんじゃないかなと思う。最初からGHOSTの世界の扉の中に入れてもらえて、彼らと同じ時間を過ごすことができた。すごく感覚的な話だけれど、それでもあの世界にちゃんと「入れてもらえた」ような気がしたのだ。

あとはGHOST、そもそも話の展開は割と忙しいので、初回は身体的にびっくりしたのもあったのだろうけど、話のスピード感についていけてなかったのもあったのだろうなと思う。話の流れを把握した状態で観た2回目で、ようやくすっとそのスピードに一緒に乗せてもらえた感じがあって、初回よりもずっと楽しめたし、ストーリーも追いやすかった。初回と2回目の印象がまるで違くて、それがとにかく面白かったな、と思う。

 

 

3.サムから見たGHOST

続く3回目は1週間後、マチネ。この日もGHOSTの世界にするっと入っていけたので、終始楽しめました。2回目にも思ったけどやはりGHOST、マチネ向けなのでは……?という結論に一旦至ったのが3回目(あくまでも私個人の話ですが)。

スピード感も速く勢いも割と強め、音楽も華やかで、何というか彩度が高めのミュージカルだなと思うのです。話の内容的に登場人物の感情の起伏が激しいし、場面も音楽もくるくると全然違う方面へ変わっていく。なので、ちゃんと観るこちら側もある種の臨戦態勢というか、がっつりスイッチをONにして観にいかないと、うっかりするとついていけなくなる。寝起きでジェットコースター乗ってふらふら……みたいな状態(初回の私ですね)になるな、と。きっちり早起きして、チケット買って、並んで、ワクワクして、いざジェットコースターに乗ったる!という気分で挑まないと、頂上に近付いていく過程も、びゅんびゅん顔に当たる風も、目の前の変わる景色も、楽しめないじゃないですか、ジェットコースター。そういう意味で、観る前にちょっとだけ心構えが必要な作品なのかな、と思ったりしました。

(あ、とはいえジェットコースターのような作品、という意味ではないです。振り回される、どこに行くか分からない!というニュアンスではなく、あくまでも振り幅が大きくてスピード感が早い、かつ見える景色が鮮やか、というような意味合い。)

 

さて、本題に入ります。

2回目を観て大体のストーリーや登場人物達の動きはもう頭に入っていたので、全体を観る視点にはもう満足していたのか、3回目は自然とサム寄りの目線で見ていたなと思います。不思議なのは、別に「今回は誰視点で観てみよう!」とか考えていないのに、知らない間に、回によって自分の視点が移動していることで、それに毎回観終わってから気付く。この日は無意識にサム目線で話を追っていた。

 

そもそもGHOST、基本的に主人公であるサム目線で話が展開していくんですよね。最初の3人のわちゃわちゃシーンや、銀行で活き活きと働くサムとカール、愛を言葉にして欲しいモリーと、愛は言葉にせずとも伝わるとかわすサム、二人のすれ違い。最初こそ第三者視点で彼らのことを見ているけれど、サムがウィリーに撃たれ命を落とした瞬間から、あの世界はサムの視界になる。

突然暴漢に撃たれ、追いかけたつもりがそこに倒れている自分の身体。泣き叫ぶモリーに声すらかけてあげられず、ついさっきまで自分と同じ世界に在ったものに触れることもできなくなる。ほんの少し前まで、自分と同じ世界にあったはずの人やモノが、自分をすり抜けてゆく。目の前の自分に見える世界は何ひとつ変わらないのに、自分だけが世界にとって異質な存在となる。

GHOSTの世界は、生きている人間/死んでいるゴースト、私達が見ている今の世界/私達には見えない死後の世界、の二つに分かれていて、当たり前だけれど死んだことのない私達は前者の存在であり、前者の世界に生きている。後者の存在も、後者の世界も私達は見ることができない。ゴースト達がこの世界に触れられないように、私たちも彼らの世界に触れることはできない。

前者の世界を【こちら】として後者の世界を【あちら】とするならば、私たちと同じ【こちら】側にいたはずのサムはあの瞬間、突然【あちら】の存在になってしまう。それまではサムにも観客にも一つしか見えていなかった世界が、サムが死んだあの瞬間、二つに分かれるんですよね。生きる者の世界と死んだ者の世界。同じ空間に、二つの世界が重なる。そして、観客である私たちも、サムと共に【あちら】の世界に入り込んでしまったような感覚になる。サムの死後、突然現れるゴースト達。亡くなった後上へと上っていく光。モリーに聞こえない自分の声。ものをすり抜ける自分の手。

二つの世界は同じ場所にあるけれど、その片方にしか存在することはできない。サムは、ゴースト達の姿や声を認識できるようになった一方、今まで関わっていた【こちら】の世界に一切関われなくなる。それは一体どんな感覚なんだろうかと、サムを通して想像してしまった。今この瞬間生きている私たちから、最も遠い場所にあるような気がしてしまう「死」が、ある日突然訪れた時の困惑、今まで当たり前のように自分が存在していた世界に、触れることも関わることもできなくなる恐怖は、どんなものなのだろう。

 

サムが「この人たちは誰だ?」と問うあの場面、彼の周りをぐるりと囲うゴーストはひどく奇妙に映る。それぞれ違う格好をしているけれど、彼らはどこか同じような空気を纏っている。それは恐らく、彼らの共通点である「生きていない」状態が醸し出す空気だ。それは彼らにとっては当たり前だけど、あの時点でのサムや私達にとっては、まったく現実味のないもので。

けれど、自分をすり抜けてゆく人間ではなく、目の前の今まで見たことのない、得体の知れないその存在達だけが、自分のことを認識する。そして自分の質問に「彼らはゴーストだ」「「俺たちと同じ」と目の前の"ゴースト"は答える。俺たち、つまり、サムはもうそちら側の存在なのだ、と突きつける。

それでも、ゴースト達は優しい。サムに過去の自分達を重ねているのかもしれない。自分の状況が受け入れられない、信じられない、死ぬには早すぎる。そう戸惑うサムにただ「手放せ」と言う。もう戻れない、手放すしかない、と。サムの立場に立ってみれば、死んだ後すぐに手放せだなんて無理な話だ、と思ってしまうけど、それすら彼らもきっと通ってきた道なのだろうな、と思う。彼らの言葉が「忘れろ」でも「諦めろ」でもなく、「手放そう」なのが何とも温かい。忘れなくていいし、待っていて良い。でも生にしがみつくな、ということなのかもしれない。 

 

サムは死んでしまったけれど、一人にはならなかった。

死んですぐ、彼を迎えてくれる人がいて、死を受け入れることを見守ってくれる人がいた。だから、その後の彼はゴースト達とのやりとりを何だかんだ楽しんでいるし、死んでゴーストとなった自分の存在に戸惑いながらも、ゴーストとしての振る舞い方をちゃんと身に付けていく。

自分の死を悲しむモリーに対して辛そうな表情は見せるけれど、自分の死それ自体にはどこか吹っ切れているようにも見える。オダメイを巻き込み始めてからのサムは、もはや活き活きしていて、生きている頃のサムと何ら変わりない。何とも順応性が高いサム。でも、実際死んでいく側はそんなものなのかもしれないな、と思ったりする。最初は受け入れ難くて現実味がなくても、そのうち実感が湧いてきて気付いたらすんなり受け入れられているような、そんなものなのだろうか。分からないけれど。

でもだからこそ、GHOSTには明るい音楽が意外と馴染むのかもしれない。ゴースト達は皆明るくて賑やかでフレンドリーだ。遺してきてしまった人のことを心配して待ってはいるけれど、生きる私たちの世界と重なるもう一つの世界で、彼らは彼らの場所を築いている。サムもそんな彼らの世界で、自然とゴーストとしての自分を受け入れていったのかもしれない。

 

最後、ゴースト達に囲まれ、自分の守りたい人を守ることができたサムは、どこかすっきりした顔で階段の下を振り返る。

モリーに「また」と笑顔で告げる彼を見て、「あぁ、手放せたんだな」と思った。最後、モリーに触れることができて、生きている間は伝えられなかった愛をちゃんと言葉にして伝えることができて、ちゃんと自分の生を手放すことが彼はできたんだな、と。やり残したことはまだ沢山あったのだろうけれど、一番やりたいことを最後にしっかりやって、あらためて自分の生を終えられた。きっと、サムは納得してあの階段を登れたんだろう。

そう思ったら嬉しくて、でも最後はずっと近くで見てきたサムがもういなくなってしまうのが悲しくて、観客の自分として涙が出た。サムの視点でずっとGHOSTの世界に居たからこそ、彼が消えてしまうのが悲しかった。あんなに明るくて愛情深くてかわいらしい人、好きにならずにはいられないじゃないか。ずるい人だなぁ、と思った。どこか中の人と重なるサムをすこし恨めしく思いながら、それでも清々しそうに笑う彼を見て安心した。

 

 

 

1回目はどこでもない遠くから、2回目は客席に座る自分として、3回目はGHOSTの世界で生きるサムの視点で。

意図せず全く違う視点から見たGHOSTは、毎回違う印象を私の中に残していって、まるで毎回違う作品を観ているような感覚になった。見る視点によって、ここまで変わるものかと面白かった。湧いてくる感情も、登場人物の印象も、観た後に後から滲んでくる感覚も、毎回異なっていて。

一つの作品を何度も観たときに、回を重ねるたびに、一部分しか見えていなかった地図が広がり、深まっていくようだなと思うことはこれまでもあったけれど、今回は見ている地図自体の数が増えていったみたいだった。別の地図がひとつ、ふたつと増えていって、それぞれで違う世界を覗いているようで。

そしてこの後、4回目のGHOSTでそれがまたひとつ増えて、それらが重なった結果、これまでで一番涙腺が崩壊することになるのだけど、長くなりそうなのでそれはまた次の記事に書くことにする。

 

 

ひとまず1回目、2回目、3回目のGHOSTの記録でした。

遅ればせながらGHOST東京楽、おめでとうございます。日比谷で何度もGHOSTの世界を味わえたたこと、とっても幸せに思います。最後まで無事に駆け抜けられますように。

 

ありがとうございました!

(GHOST②につづく(予定))