140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

2021観劇ふりかえり(上半期)

今年もそろそろ終わりそうな雰囲気がしてきましたね。

基本このブログはアドレナリン大放出状態、ほぼほぼ勢いで書き残すものが多いので、こんな緩やかなテンションで書き始めることはあまりないのですが、今回は2021年の観劇の思い出を書き残しておこうかなと思い、ブログを開いてみました。

 

今年はなんとなく去年よりも色々な作品を観に行けたかなぁ(体感)と思っていて、もちろん数が多ければ良いとかいうものでもないと思うけれど、色々な作品に出会えて楽しかった観劇2年生の年だったなぁと思います。

それで、ふとこの間、「余裕のある年はその年の観劇記録をまとめておいたら10年後ぐらいとかに見返したら結構楽しいのでは…………?」と思いついたので、ゆるっと今年観た舞台の記憶をまとめてみたいと思います。観た作品名の記録と、感想というよりはその作品とその近辺の記憶になります。まとめずポツリポツリと書いてみる。

 

それでは2021年、始まりに遡ってみます!

 

 

1月

1.INSPIRE 陰陽師

2021年一発目。

懐かしい。新年早々光と音が刺さるように降ってくる新年早々の日生劇場。実はこの時、日生劇場に入るのが天保ぶりで、足を踏み入れた瞬間から涙腺が危なかった。「うわ、このエスカレーター、この階段、懐かしい………あれ以来だ……あれ以来か…………」と何を見てもあの時期の記憶が蘇ってきた。

本編は休憩なしのノンストップで進んで行って、観終わった後は「とにかく光と音のアトラクションだったな……」と思った記憶がある。新年早々浴びた浴びた〜!!!っていう感覚があって楽しかった。割とトンチキ(小声)なんだけど、視界が贅沢なショー感が強いのであんまり気にならなかった。新年一発目、ドーンバーン!光!(雑)って感じで豪華で楽しかった。生の大沢さん、声が本当に本当に良くて、聴いているだけでこれは厄祓いされそうだった。お声はもちろんだけど、存在としてものすごく清い晴明がそこにいたので、同じ空間にいるだけで祓われて浄化されるんじゃないかな……今年は安泰だ…と神社に参拝しに来た気分になった。グッズの青い水琴鈴は未だに鍵についている。音が綺麗。

 

2月

2.屋根の上のヴァイオリン弾き

割と何となくで取ったチケットだったんだけど、振り返ると二連続で日生劇場。恋しかったのかな………

陰陽師からここまでで1ヶ月くらいあいていて、舞台にもミュージカルにも少し飢えてたのか始まった瞬間「やっと観れる………」とオアシスにでも辿り着いたような気分で着席した記憶がある。全然何も知らない作品なのに、曲が始まった瞬間嬉しくて泣きかけた。

ストーリーとしては明るいだけのお話ではないのだけど、音楽が朗らかで村人達が明るくて、観ていて楽しかった。輪になってぐるぐる踊ったり歌ったりしている絵が浮かぶ(記憶が定かかはわからない)。「しきたり」という言葉が何度も繰り返されるお話だった。それは村人達の中では村の中の掟、というような意味合いを持つのだけど、すごく普遍的なもので、今現代を生きる私達にもあらゆる「しきたり」があるのだろうな、と思った。時代によって、地域によって、そのコミュニティの中では「当たり前」とされるしきたりに私達は常に縛られている。各々少しずつ違うしきたりで、自分を縛り、同様に他者を縛り、時に自分を守っていたりするんだろうな。そんなことを思いながら帰った覚えがある。

 

3月

3.GHOST

2021年初浦井さんのお芝居&ミュージカル。

GHOSTは映画も観たことがなかったので、カップルの彼氏の方が突然死んでしまい幽霊になる話、ぐらいの知識で観に向かった。で、その印象でいくと結構切ない感じでお話が進んでいくのかなと何となく思っていたら、実際観に行った時に思っていた5倍ぐらいテンションが高くて初回めちゃくちゃびっくりしたのを覚えている。あと思っていた10倍カールがクソでびっくりした。初回はとにかく「えっっテンションたかいね……明るいね………」って目をチカチカさせながら見てた。でも回数を重ねるうちにそのハイテンションさにも慣れていって、オダメイタイムとかどんどん癖になっていって、後半はモリーに感情移入しすぎてすんごい号泣してた。見る度に印象がかなり変わっていったのが自分の中では結構面白かった。

あと、初めて「これはこの人の目線で話が進んでいく作りなんだな」とか考えた作品かもしれない。GHOSTってサムから見た世界として描かれているので、前半は人間だけの世界、後半はゴーストと人間のどちらも見えるゴースト側の世界、そこを移動していくサムの視点で話が進む。観客が見ている世界は基本的には常にサムから見た世界。だから、意外と結構モリーに感情移入しにくい作りになってるんだな……と思うのだけど(観客はサム目線で話を追っていて、死んだ後も何だかんだ元気なサムの姿をずっと見続けているので)、何度も見ていると「モリーはあのサムが殺された瞬間からもうずっと一人なんだな………」「モリーは喧嘩別れしたまま、あれを最後にサムの姿を見れなくなってしまったんだな………」とかちゃんと想像力が働いてくるので、自然とモリー視点でも見られるようになってくる。死後、なんだかんだで優しいゴースト達や、なんだかんだで協力的なオダメイに囲まれ賑やかに過ごしてるサムと違って、モリーって本当に孤独なんですよね。家でも一人、出かけても一人、唯一訪ねてくるカールはクソだし、(モリーからしたら)怪しい霊媒師の話で少し希望が持てて、でも誰にも信じてもらえなくて、裏切られたと思って、結局ぬか喜びしてしまった自分に更に落ち込む。でも、だからこそ、最後のモリー視点(サムが見えない)からの、サムの声が聞こえる、サムの姿が見える………のシーンで完全に涙腺が飛ぶんですよね。ずっと一人きりだったモリーがようやくサムに会える。でもサム、ようやく見えたと思ったらすぐ笑顔で階段上ってっちゃうし、モリーしんどすぎんか………サム、そんな清々しい顔して……お前はずっと見てたかもしれないがモリーは今初めて見えてるんよ……期待と絶望を繰り返してようやくようやく会えたんだよ……だからもうちょっといて……?(ウッウッ)…………という具合で、3月後半はかなりモリーに心が寄ってましたね。サム、罪な男ですね………(そして5ヶ月後に更にえぐいレベルの罪な男が現れます)。

あとこれは超どうでもいい余談なんですが、ラストシーン、もちろん観客から見た姿はサムそのものなんだけど、モリーが実際キスしたのは、オダメイ……オダメイなのか………?とか非常に余計なことを考えてしまって一人オロオロしました。余談でした。

 

4.ウェイトレス

個人的に2021年なんでチケットを1枚しか取らなかったんだ大賞ダントツの第1位。

音楽もストーリーも本当に好みだった。3月末、東京公演あと数回というところで観に行ったので追いようがなかったんですが、本当に観るタイミングを間違えた……と思った。あと1回、欲を言うならあと2回は観たかった。これ以来、なるべく気になる作品は前半か中盤で組めるように心掛けてたぐらいには反省した。観たかった欲が1ヶ月ぐらい収まらなくて、英語版のサントラを4月にひたすら聴いていた。

途中「あ〜うんうん女として生きていくって面倒だよな〜荷物多いよな〜」って思うんだけど、行ったり来たりしながらも「まあまあじゃなく本当の幸せ」の方に進もうとする、進んでいく主人公を数時間見ているうちに、気付けば何となく力がむくむくと湧いてくるようなミュージカル。笑いどころも多くて元気が貰えるし、何より音楽がとても良くて聴いているだけでワクワクしてくる。観ていて押し付けがましくない形で背中を押してくれて、しかもその押してくれる方向も「あなたの向かいたい方に行ったらいいんだよ〜ほら!行っておいで!」って感じで、何も定められてなくて、でもなんかちょっと進んでみたくなる背中の押し方。頑張れ!とか勇気を出して!とか他人事なメッセージじゃなくて、「私たち、頑張ったら意外と何とかなるんじゃない?」「色々あるけどさぁ、逞しく楽しく生きていきたいね?」みたいな、共闘というか、同じ目線から「私達やってやろうじゃないの!」って鼓舞してくれるような。登場人物との心理的な距離関係が、向かい合ってるわけでも、後ろから応援されるわけでも、彼らの姿を遠くから見ているわけでもなくて、隣に立って、各々の方向を見つめてる、みたいな位置関係にある感じ。それがすごく好きだった。

 

4月

なんと観劇数ゼロ。確かフェイクスピアの予定が急に出て、「3月も結構散財したのに突然の5〜7月の推しの舞台はやばいな…?お金ないぞ……?!」と焦り気味に舞台を抑えめにした時期。とはいえ、朗読劇にコンサートに、推し活には元気に励んでいた。でもだからこそ、推しには会っているはずなのに「あれ、何かが足りない……?枯渇している……飢えている……?」と栄養不足状態に陥り、すっかり推しとは別に、舞台やミュージカル自体が自分の生活に必要不可欠になっていることに気付いた月。推しきっかけで知らぬ間に浸かっていた舞台沼が、もう推しとは別枠で自分にとって大事な活力源になっているんだなぁと思った。替えが効かないぐらいに好きなものが気付いたら増えている、という嬉しさもあったけど、「やばいな、これはもう当分抜け出せんぞ………」という危機感(?)も抱いたりした。

4月の余談: ちなみにこの月にあった坂元さんの朗読劇は、最前の下手、高橋さんのほぼド正面という、私のこれまでの席運では考えられないほどの超ウルトラスーパースペシャルサプライズ良席で、身の丈に合わない席に開演前ぷるぷるしていた。客席は暗くておそらく舞台上からはそこまで見えないとわかっていても、台本の先にある景色として邪魔になりたくなくて、めちゃくちゃカチンコチンになっていたら終わった後やばい肩凝りになった。加えてかなりの静寂で極力音を立ててはならん……という緊張状態にあったからか、かなりの長時間歯を食いしばっていたらしく、終演後顎と歯と頭も痛くなった。さらに帰り道割とえぐい靴擦れをして大分出血していたのにもかかわらず、次の日の朝血濡れた靴下を見るまで気付かず、痛覚も麻痺していたらしかった。結論、推しを目の前で長時間拝むと色々身体に影響が出るのだなということがわかった。

 

5月

5.フェイクスピア

まさか2020年に高橋さんの舞台を観て、その翌年にもまた観られるとは思っていなかった。生の高橋さんのお芝居を2年連続で見られるとは。しかも発表が急。そして初、野田地図。野田さんという方自体は存じ上げていたけれど、調べるとなんだか中々に難しい作品が多そうな雰囲気で、果たして理解できるのかな……と5月に始まる前はそわそわしていた。とはいえ基本的に非常に面倒くさがりなので、野田さんの作品にどんなものがあるのかとか予習をすることも結局なく、高橋さんが「天才」と評する野田さんという人が一体どんな人なのかも想像できず、「まあ難しいことは知らんとにかく観たらいいんじゃ!!!」の精神で芸劇プレイハウスに向かった。芸劇もこの時がお初。

特に決めているわけではないけれど、複数回観た作品は何となくブログに感想を残すことが多い。ただ、フェイクスピアは何度観ても何かを書ける気がしなくて、というか安易に書いてはいけないような気がして、結局書かなかった。とはいえ、観て気付いたことを喋りたくなる作品ではあるので、観るたびにふせったーでその回に感じ取ったこと、気付いたことを書き連ねていた。ただ、それも後半になってからで、前半戦はひたすら観て受け取る、また観て違うものを受け取る、を繰り返していて、誰かの考察を読むのも自分の中で感じたものを整理するのも少し控えていたような覚えがある。変に形にしないでぼやけたまんま、見たまんまの自分の状態を大事にしていたかったのだと思う。6月も後半になってきたら、今度はその何度も観て溜めてそのままにしておいた色々が自分の中で化学反応を起こし出して、途端に言葉に出して喋りたくなる期間に入った。色んなものが脳内でぱちんぱちん、と繋がっていって、とにかくそのうわぁぁあ…!を外に出したくてひたすらふせったーを使いまくっていた。観て、考えて、また観たくなって、の繰り返し。けれど何度も観たい、と思う反面、何度も観たいなどと思ってもいいのだろうか、とぐるぐるしながらずっと通っていた。それでも、この時期私がフェイクスピアからものすごく力を貰ったことは確かで、やっぱり何度観ても観られて良かった、と思ってしまった。

と、やっぱりあらためて振り返っても話本体について書いておらず、あの時期の私を振り返っただけになっているなと気付く。でも、今のところはそれで良い気がする。

 

6.レ・ミゼラブル

人生初レミゼ

本当は3回ぐらい観てみたかったけれど、結局1回観たきりで終わってしまった。でも、1回でも観られて良かったなと思う。その1回の席が程よい前方席だったのも良かったと思う。かなりがっつり食らったし、ものすごくレミゼの世界に呑み込まれた。何故だか分からず泣いている瞬間が何度もあった。

レミゼは映画版も見たことはなかったのだけど、登場人物の名前だけはジャンバルジャン、エポニーヌ、コゼット、マリウス、ぐらいは知っていたので、カタカナの名前苦手症候群を持っている私でもギリギリ何とかなった。ストーリーもざっくりとではあるけれど一応知っていたのも良かったかもしれない。思っていたよりもかなり歌が多かったので、多分何も知らなかったら完全に置いて行かれた気がする。いや、多少知ってるぐらいだってたので実際はちょいちょい「えっ今のどういうこと…?」とはなっていたし、歌多くてストーリー展開分かりづらいな?とかちょっと思ったりはしたのだけど、とにかく舞台上からのエネルギーがすごすぎて、そういう諸々がどっかにすぐ追いやられてしまう感じがあった。役のエネルギー、歌のエネルギー、帝国劇場という場のエネルギー、そしてレミゼという作品が持つエネルギー、全部がびっくりするぐらいぶわっと迫ってきて、本当に終始圧倒されっぱなしだった。舞台の上から降ってくる諸々の力強さがとんでもなくて、終わった後はふらふらになった。長年沢山の作品を受け止めてきた劇場で、長年受け継がれてきた作品を観るというのはこういうことなんだな、と歴史を持つ作品の力を体感した。初帝劇がレミゼで良かった。

観られて良かった、と思うし、また観てみたい、これからも観続けてみたいな、と思う。

 

6月 

7.首切り王子と愚かな女

予想以上にものすごく好みだった首切り王子。

元々ファンタジーが大好きなので、内容自体もハマればかなりハマるだろうな、と思っていた。加えてその時点で未だお芝居を見たことなくて見てみたかった芳雄さんと、ドラマなどで素敵だな〜と思っていた伊藤沙莉ちゃんがメインとくれば、これはもう見るしかねぇ……!とさくっと観ることを決定した作品。なので、元々かなり期待値は高かったのだけど、それをズバーンと超えて大好きだ………となったので、1度の予定だったのが2度観ることになった。何ならフェイクスピアと時期が被っていなければもう一度観に行っていたと思う。とっても好きな作品だった。

何が好きだったのか、とあらためて考えると意外と分からないのだけど、この作品の中の人たちは、本当に一人一人がものすごく「生きてる」感じがして、観ているだけで舞台の上から生のエネルギーが勢いよく客席まで迫ってくるというか、良い意味で、毎回何かに殴られた感じがしていた。生きる意味とか生きるに値する何かとか、そうやって言葉にすると抽象的で大きすぎて、どこかぼやけたものに思えるけど、本当は今生きている瞬間にとても近い、地続きなことで、彼らの姿はファンタジーの遠い世界の中にあるようで、ものすごく近い場所にあるんだなとか、そういうことを考えていた気がする。「首切り王子と愚かな女」のタイトル自体はトルとヴィリを指しているけれど、あの中の全ての登場人物達が主人公に見えた。脇役はいないと言っても結局は脇役にされてしまうお話も沢山あるけれど、あの世界の中の人達は本当に一人一人がちゃんと生きていて、あれは彼ら一人一人の話で、同時に私達の話でもあるんだなと思えた。生きること、死ぬこと、人間が人間を治めるということ、その力が人の生死を決められるということ、生きるに値すると思える光に出会えること、それを失うこと、愛され望まれることと、愛されず望まれないこと、すべてが遠い異国のファンタジーの話のようで、すぐ側にある話だった。

トルの美しい歌と、ヴィリが最後に見た真っ赤な空が、観終わった後も残り続けるのが印象的だった。

 

 

 

 

と、いうことで!

2021年上半期はどうやら7作品観ていたようです。大体平均月1作品ぐらいなのかな。とはいえ、推しの舞台は何度観ているか恐ろしくて数えていないので、あくまでも作品数カウント。

観劇二年生、舞台を観る回数を重ねるごとに、少しずつ自分の瞬間的状況把握能力みたいなものが上がっていくのが楽しかったし、面白かったです。でも、わからないときも「う〜〜ん全然分からないな〜〜アハハ」って楽しめる感覚はこれからも持っていたいなと思う。自分のキャパを超えるものを観た時に、「う〜〜ん!全然!分からない!!!」と大の字になれる謙虚さというか図太さをおばあちゃんになっても持っていたいし、誰かの解釈も、数分前の自分の解釈だって、今この瞬間の私の頭と心には関係ないのだ〜!と思える自由を忘れたくないし、どんな名作ものっとふぉーみーな時は素直に「なーんかここがどうもしっくりこないんだよなぁ…」とモヤモヤぶつぶつできる素直さを大事にしたいし、酷評されてる作品でも「私はなんか好きだなこれ…」と自分の好きを逃さない細やかさをちゃんと備えていたい。観劇に限ったことじゃなく、年齢の数字が増えようと、経験した物事が増えようと、慣れてふんぞりかえって何でも我が物顔になってしまうのはなんだかつまらないし、ずっと同じ場所に留まって見たり考えたりしてたら、新しいものを楽しめなくなってしまうのは退屈だし。とはいえ、自分の変わらない好きなものは大事にしつつ、自分の今の旬な心も尊重しつつ、どんどん知らないところを耕していきたいですね。

と、何だか年末の今年の総まとめみたいになってるけどまだ上半期しか書いてない。そしてまだ今は11月。さて、下半期をまた書くのかどうかは分かりませんが、上半期分、書いてみたら楽しかったので、また書けるといいなぁと思います。12月の自分の気分よ向け。

 

それでは、上半期振り返り、終わりです!

王家の紋章2021

8月27日マチネ&ソワレにmyラスト王家を終えてきました。

楽しい楽しい王家月間が終わってしまった。それは本当に淋しいなぁと思うけど、それ以上に自分の最後の東京公演を見届けられたこと、そしてこれを書いている今日8月28日、東京楽の日までこの作品が辿りついたことが本当に嬉しい。浦井さんもおっしゃっていたけれど、この状況下で辿り着けたこと、本当に「奇跡」だと思います。その奇跡が起こったこと、奇跡を見られたこと、とても幸せです。

どうかどうか、博多公演も最後まで、皆さん元気な状態で走り抜けて欲しいなと思います。ミュージカル王家の紋章を観て、元気を沢山いただいた一観客として、心から願っています。

 

 

さて、今回複数回王家の紋章を観ることができて、それはそれは毎回楽しかったんですが、私自身、「ダブルキャスト×複数」の作品にこんなに通ったのは初めてだったので、いやもう、めっちゃくちゃ面白かった。入れ替わるキャストで生まれる全体の変化、それぞれの組み合わせで起きる化学反応、見ていてこんなに面白いんだなとびっくりしてしまった。当たり前だけど、その役を生きる役者さん次第で役の印象も、作品の印象も本当にまるっと変わるんだなぁと。

 

原作未読民なので、役への解釈の正解は私には分からないんですが、ちょっとした仕草、姿勢、口調、声色、そしてそれらがあの時間の中でどう変化していくのか、その中にその役者さんがその役をどう捉えられているかが表れていて、見ていてとても興味深かった。片方を見るだけでは分からなかったことが、両方見ると分かったりする。両方のキャストを見て、相対的に捉えて初めて片方の解釈に気づいたりして。「あ、あの役者さんはこういう風にこの役を、場面を捉えていたのか」と、もう片方の役者さんのお芝居を見て気付く、みたいなことが沢山ありました。

ちなみに私も漫画はよく読むので、原作民として実写化されたものを見ると「ぐっ、解釈違い………」とかなったりもするんですが、今回は解釈ゼロ真っ新ベースで見ることができたので、全部「わ〜〜この辺とか全然捉え方役者さんによって違うんだろうな〜〜面白〜〜い」と呑気に楽しんでました。とはいえ、原作民の皆様は更に別の楽しみ方が沢山あるんだろうし、それはそれでめちゃくちゃ楽しそうだな……読んで臨んでもみたかったな……と感想ツイを見ながら思ったりしました(中々に長いから手を伸ばせないでいるのだけど、読んでみたいな、原作………)。

めちゃくちゃ解釈解釈言っちゃった。でも本当にそれぞれ役の解釈の違い、その表し方、表れ方の違いが面白かったので。

 

ということで!

既に王家の紋章の感想は2回ほど書いたんですが、今回はWキャストの皆さんのことを沢山喋りたくてまた書き始めました。本当に沢山喋りたい。覚えてるうちに「あのね、ここのね、あの人がね!!!」って本当は誰かにひたすらマシンガントークしたいぐらいの勢いなんですが、残念ながら相手もいないのでここに沢山書き置いておきます。

さて、以下、あくまでも私が見て受け取ったそれぞれのキャストの方々への私の解釈なので、一観客の妄想かなぐらいの感じで読んでいただければと思います。

 

1. キャロル

誰から書こうか迷いましたが、まずはキャロルについて。

お二人とも可愛さの種類が違うけど、可愛い少女漫画らしいヒロインだな〜〜と思いました。キャロル、求心力のある女の子(古代エジプトでナイルの娘と崇められる設定もあり)なので、圧倒的なヒロイン力(みんなの視線を集めちゃう、みんなが好きになっちゃう!に説得力を持たせられる)が必要そうな役柄だなあと思うんですが、お二人とも違う意味で強く可愛いキャロルとして存在していたので、ばっちり惹きつけられました。

 

神田キャロル

天真爛漫、好奇心旺盛、目が常に自分の興味対象へ向けてキラキラしている、負けん気が強く物怖じしない、無鉄砲で逞しい強さを持つキャロル。少女漫画の主人公にめちゃくちゃよくいるタイプ!!!メンフィスへのビンタも全力でくらわしてそう。「えっっ心臓タフだね…?!」ってちょくちょく驚くけど、何があっても力技で乗り切りそうなので安心して見ていられる。キャロルって多分頭は良いキャラクターなんだと思うんですが、神田キャロルは確かに無鉄砲だけど地頭が良い感じがする。性格としては危なっかしいしヒヤヒヤするけど、地頭は良くて頭の回転も速そうなので、記憶力が良い(とっさに現代の知識をフル稼働して役立てる)のも頷ける。

神田キャロルの魅力は何と言っても圧倒的キラキラ感だなぁと思います。登場曲「憧れに生きる」でばっちりこちらの心を掴んで、王家の紋章の世界に連れていってくれる感じ。神田さんの声って、話す声にしても歌声にしてもすごく主人公向きの声だなぁと今回初めて生で聴いて思いました。上で求心力と書いたけどまさにそれで、喋り始めた瞬間「あっこのお話はこの人が中心に立つんだな」とパッと分かる感じがする。華があるし、キラキラしてるし、くるくる変わる表情も可愛いし、お目目もめちゃくちゃ大きくて輝いていて、少女漫画ヒロイン力満点のキャロルでした。

 

木下キャロル

可憐、聡明、気品がある、芯が強い、美しく可愛い、まさに蓮の花なキャロル。確かにこんな女の子が突然ぱっと現れたら「ナイルの女神」「伝説の娘」と崇め讃えたくなってしまう。慈悲の心や優しさがベースにある感じがするので、民を愛し愛される王妃になりそう。

見れば見るほど「木下キャロルの笑顔を奪うやつは俺が許さん……!!」と心がウナスと化すし、木下キャロルが笑っていればエジプトに平和が訪れる気がしてしまう。キャロル強火担を大量に作り出しそうな可憐さがある。本当に可憐。可憐って言葉がこんなに似合う女の子がいるだろうかっていうぐらいに可憐。ただ、可憐だけに収まるわけではなく、中心に強い芯を持っている女の子なんだなという感じが時折ふっと表れる。

神田キャロルが喜怒哀楽でいうと「怒」「楽」が印象に残るキャロル(楽しい時は細かいこと全部忘れて超楽しんでるし、前半はメンフィスに対して何この男?!のプンスコ感がとっても強くて好き)だなと思うんですが、木下キャロルは「喜」「哀」、特に「哀」が強く印象に残るような気がします。

それが強く出るのが、例えばヒッタイトとの戦争で、「私のために戦争が起こる」と歌う場面、普通にいくと「私のために争わないで〜〜」の典型なのでちょっと心が「おぅ………」と引きそうなんだけど、木下キャロルのその言葉はすごく切実で真剣で、悲痛な叫びとして伝わってくる。あと、メンフィスが蠍に刺された後、葛藤している場面も、瀕死状態なんだから歌ってないで早く助けてあげなよ……って場所で歌わせるなぁと思うんですが、木下キャロルは本当に、目の前のメンフィスを救いたい、けれどそのために歴史を歪めて良いのか、歴史を学ぶ者して持つ聡明さと、目の前の人を救いたいという自分自身の思いとの間で、片方を選ぶことに心から苦しんでいるように見えるから、つい聴き入ってしまう。

木下キャロル、苦しさが切実なんですよね。特に、セチが戦争で命落とす場面の木下キャロルは本当に苦しそうで。自分のために、自分のせいで、セチが死んでしまったと悲しみ、悔やみ、苦しそうに涙を溢す。悲しみを嘆くというよりは悲しみを逃さず抱え込んで、連れ添えて強くなっていく人なんだなという感じがする。だからこそ、捕らわれた後メンフィスと再会した時の安堵した表情に、その後メンフィスを守るためにメンフィスを突き飛ばして自ら捕まりに行く覚悟に、最後の決闘の場面での決意にぐっときてしまう。木下キャロルは元々気が強い女の子というよりは、強さが必要とされる状況の中で彼女の中にあった強さが引き出される、恐怖や悲しみの中でもそれに呑まれない強さが自ずと表れる、という種類の強さだなと思いました。

たまたまなんですが回数的に木下キャロルをかなり多くみたので愛が重いですね、めちゃくちゃ書いちゃった。大好きです、木下キャロル。

 

キャロル×メンフィス

はい、既にキャロルだけで予想以上に大ボリュームになってますが、メンフィスに対するキャロルも割と違っていて面白かったので書きます。

メンフィスが蠍に刺され助かった後、ナフテラとミヌーエ将軍から話を聞かされたキャロルが「いつも危険と隣り合わせ それが分からず 恐れ嫌っていた」と歌う場面があると思うんですが、前半部分で「嫌い」が強いのが神田キャロルで、「恐れ」が強いのが木下キャロルという感じが個人的にはしました。

神田キャロルは上にも書きましたが、基本メンフィスに対して強気なのがめちゃくちゃ好きです。The 恐れを知らないヒロイン。古代のファラオだか何だか知らないけど私は現代のアメリカ人、自由意思こそ全て!奴隷?そういうのは断じて許しません!という、その時代の「当たり前」に負けない意志の強さが好き。メンフィスのファラオパワーに負けないアメリカ人キャロルパワーを持ってる感じ。初めて綺麗な衣装を着させられメンフィスの前に連れてこられた時も戸惑いより「何か連れてこられたし服着せられたし、何なの…?!」みたいな怒りの方が強そうだし、プイプイ合戦が本当にコミカルで、「何よこんな男!ふん!」って声が聞こえてくる。からの、一転してメンフィスを好きになってからは、可愛くてパワフルに大きな愛を放つ女の子という感じで、愛情表現もストレートそう。私がメンフィスだったらその前とのギャップに完全にやられてるなと思います。個人的ベスト神田キャロル×メンフィスシーンは、最後の結婚式です。幸せいっぱいの笑顔が可愛くて国民とともに祝福したくなる。ちなみに神田キャロルと結婚したらメンフィスは絶対尻に敷かれると思う。エピローグを見たい。

対して木下キャロルは、メンフィスに対して怒っているというよりは「信じられない」「何でそんな酷いことをするの」「分からない」という感覚で、理解しがたい価値観を持ち、加えて圧倒的な力を振るう男であり王であるメンフィスに対する、分からなさと怖さがベースにある感じがする。ただ、怖いからと言ってそれに大人しく従いたくはない、私には私の意思がある、思い通りになると思わないで、と自分の意思を譲らないの芯の強さがある。何をしてくるか分からない、かつ強い力を持つメンフィスへの恐れとそれに負けたくはないという意志の強さが共存している感じがしました。そんな木下キャロルがメンフィスと恋に落ちてからは、ひたむきに真っ直ぐにメンフィスを愛していてとにかく可愛い。ただ、後半の木下キャロルはすごく「この人を守らなきゃ」と思ってしまいそうな強さと格好良さと危うさを持っているので、お母さんはちょっと心配です。個人的ベストシーンはメンフィスとヒッタイトで再会する場面。8/21マチネの、浦井メンフィス×木下キャロルが5連続続いたラスト回(だったと後から知ってなるほど…となった)、あの時のキャロルが本当に素晴らしかったです。メンフィスと再会して安堵の涙を流し、メンフィスへ愛を告げる木下キャロルが本当に真っ直ぐで美しくて、それを受け取り支える浦井メンフィスが頼もしくてちゃんと愛を知る男の顔になっていて、本当にめっっっちゃくちゃ良かった………良かったです………ありがとう…ありがとう………

  

 

 

2.メンフィス

はい、お次はファラオ、我らがメンフィス様。

これは私の推し事情もあり、浦井メンフィスを中心に見ていてめちゃくちゃ観察に偏りがあるので、あえて印象をざっくり書きます(浦井メンフィスに関しては言いたいことが山ほどあるので別で書きたいな)。

浦井メンフィス

今回が3回目の浦井メンフィス。私が生で見たのは今回が初めてですが、初見時に感じたのがまず圧倒的にファラオであるということ。冒頭、奥から出てきた時点でもう何か、王がそこにいる、と分かる。人は普段背中を意識しないけれど、そこにこそその人が表れる、だなんて聞いたことがありますが、まさに背中から王を感じるメンフィス。後ろを振り返った時、背中に乗っかっている王としての貫禄がすごい。

浦井さんのメンフィスは、すごく二面性があるなと思います。「少年王」が「少年」と「王」に分かれるのが浦井メンフィスという感じがする。王になるべくして生まれ、王になる者として育てられた男。王としての威厳、姿勢、矜持を常に持っていて、王としての自覚も強い。平伏し、媚び、諂って、恐怖さえ滲ませられてきたんだろうなと分かる王。でも一方でどこか子供っぽく、気性が荒く、どこか人間らしい面も併せ持つ。そのメンフィス自身が持つ性質と、王として生きてきたゆえに培われた王としての性質がマーブル模様のように混ざり合っているメンフィス。

浦井メンフィス、とにかく王としての威厳というかパワーが全身から帝劇中に放たれているので、ただ座席に座るだけでファラオパワーを全身に浴びさせられる仕様だな…と思うんですが、特に序盤の即位の儀の場面、階段の上に立つメンフィスを1階席から見上げるとつい両手を上げて崇めたくなってしまう。わぁファラオだ、ファラオがいる……と思って上を見上げてしばらくミタムン王女並みにうっとりした顔で「メンフィス様…」と見つめてしまう現象が起きます。あの最初からメンフィスを見上げさせる構図ずるい。「ファラオは太陽〜〜」の歌で、あっ本当だ、太陽がいる…私太陽を見上げている……という気持ちになる。最初から心掴んでくる圧倒的ファラオ。そんな訳でそんなメンフィスのゴリゴリのファラオ感を味わえる曲として、私は浦井メンフィスの「ファラオとして」がもう本当に好きです。メンフィスの雄々しさ、荒々しさ、王としての強いプライドがもう最初の「ファラオとなる〜」の一言目からブワッと客席まで届いて迫ってきて鳥肌が立ってしまう。何というかあの曲、メンフィスに絡めとられるんですよね何かを、何なんでしょうあれは…。あと終始尊大なご様子なのも非常に好きです。

 

海宝メンフィス

海宝メンフィスは本当に「少年王」だな、と思いました。若く、爽やかで、未来への期待に満ちていて、それでいて淡々と冷酷で絶対的な王として振る舞う。海宝さんのメンフィスは、少年と王とがくっついているんだなぁと思います。ファラオとして育てられた若い少年が王になったらこういう存在が生まれるのだろうという説得力がある。少年であり、同時に王である人。メンフィス本人のアイデンティティと王という立場が地続きで、自分でありながら王である、王であることと自分であることが一体化している、そういう存在の仕方をするメンフィス。ここの違いが個人的にはすごく面白かったです。

台詞ひとつとってもまるで印象が違うのが面白くて、例えば墓荒らしの罪人達を殺した後、キャロルになぜ何の申し開きもさせずに殺したのかと責められる場面でメンフィスが「定められた処罰だ」と答えると思うんですが、ここの海宝メンフィス、まるで「?ポストは赤いだろう」みたいな、何を当たり前のことを、という表情で淡々で答えるんですよね。浦井メンフィスはこう、なぜ目玉焼きにソースをかけないのかと咎められて「なぜだと?目玉焼きには醤油だろう…?!」ぐらいの(例えがわけわからないのはスルーしてください!)、それが当たり前だとは思いつつもキャロルに対する若干の弁解感が含まれているときがあるんですが、海宝メンフィスは本当に何を言っているのか分からない顔をする。あとは拷問していてなかなか吐かない男に、舌を切り腕を切り落とせと命じる場面、浦井メンフィスは痺れを切らして、もう良い知らん!!という感じで感情が昂ると残虐さが増す印象があるんですが、海宝メンフィスは「吐かないのならその男の舌に用はない、不要なのだから切り落としてしまえばいい」と言っているように聞こえるんですよね。淡々と当たり前に惨いことをする。そういう意味で、すごくリアルに古代エジプトのファラオがそこにいる感じがしてすごいなぁと。若さゆえの真っ直ぐさと共存する無慈悲な残虐性が逆にめちゃくちゃ怖い。絶対話が通じないファラオ。

さて、今回海宝さん初めましてだったんですが、帝劇2階センターブロックに座っていたらもう歌声が全く勢いを落とさずに真っ直ぐスパーーーーン!!!!!!って飛んできてすっかり聞き惚れてしまった。お歌が本当に素晴らしい。その声の真っ直ぐさ、強さと、海宝メンフィスの曇りなき目で王としての未来を見つめる真っ直ぐさ、迷いのなさとが結びついていて。ちなみに個人的に海宝メンフィスの推し曲は「今日の私に」です。若い王が、これからの王として生きる自分の日々に、自分の治める国の未来に希望をもって高らかに歌い上げるこの曲、少年王として生きる海宝メンフィスにぴったりの曲だなぁと思ってうっとり聴いていました。

 

メンフィス×女

いや、これは本当に書きたかった。

女、というのは主にキャロルとアイシスとミタムンのことになるんですが、浦井メンフィスと海宝メンフィス、本当に女への意識も扱い方もまるで違う。

これに関してはだいぶTwitterでもわーわー言ってたんですが、浦井メンフィス、ほんっとうに女慣れがすんごいんですよ…。その気のない女(ミタムン王女)の腰を引き寄せてはこの国で一生を過ごされるか、とか甘い声で適当に口説くし、その気のない女(アイシス)に思わせぶりな視線送るし手の甲にキスするしもう終いには薬指に指輪はめるし……なんて、なんて罪深い男……

そんなわけでそのあたり海宝メンフィスはどうなんだろう、とすごく気になっていたんですが、いや こちらはこちらでもう、完全にキャロルが初恋だった……初恋というか、そもそも初めて興味を持った女がキャロルだったという感じ。

なので、例えばキャロルにビンタされたとき、浦井メンフィスは、「なぜ百戦錬磨のこの私になびかぬ…?ファラオだぞ…?私に誘われて喜ばぬ女などいるのか…?!」という困惑からのThe「おもしれー女」というキャロルへの興味、つまり少女漫画でいうところのむちゃくちゃモテるし女に苦労したことはないし女遊びもしてるけど実は誰にも恋したことないタイプのあれなんですが、海宝メンフィスはただ単純に、「今まで自分に逆らってきた人間などいないのに、この娘は逆らった上に、私を叩いただと…?どういうことだ…??なんだこの生物(女)は…?」という性別に関係なく純粋な困惑、絶対的な王である自分に初めて歯向かってきた人間への興味からスタートしているような感じ。ミタムン王女に例のプロポーズ紛いの言葉をかけるときも、浦井メンフィスは別に興味ないけどとりあえずこうしておけば女は喜ぶ、というのを知っていてあれをやっていて、海宝メンフィスは女に対して、というよりは自分を敬い従う人間の一人としてミタムンにも同様に接している感じ。まあ一応友好国からきた王女だし、妃になるのかもしれないし、適当に声かけておくか、こう言っとけばまあ間違いないかぐらいのノリ。

 

メンフィスとアイシスについては、 

というようなことを先日考えていたんですが、さらに加えると、海宝メンフィスはアイシスを普通に姉として慕っていたのだけど、キャロルに初めて恋心を抱いたことで姉上への態度が変化した、みたいな思春期の男の子みがあった。海宝メンフィス、姉の自分への恋愛感情に気付いてなさそう、というよりその意味を理解していなさそうな色恋への鈍感さがある。だからこそ、キャロルを好きになり恋をして夢中になった後の他の女はどうでも良い!が強い感じ。なぜなら初恋だから!それゆえアイシスにひたすら冷たいし、姉上の想いなど知りません、私は今キャロルを心から愛しているのです(真っ直ぐ!)という感じがする。

一方の浦井メンフィスは、それが恋愛感情かはさておき女をときめかせたり自分の虜にさせることに慣れがあって、恐らく姉の自分への好意にも気付いている。で、それを「あーまた姉上が何か言ってるなぁ」ぐらいの軽さで捉えていそうで、他の女同様にこうしておけば姉上も喜ぶだろう、みたいなことを前半はアイシスにしている感じ。ただ、キャロルを好きになってからは、もちろんアイシスは眼中にないから冷たくはするんだけど、姉が自分に抱いている感情の意味を知ったからこそ冷たくしているのかもしれないなとも思ったり。

初めて女に興味を持ち、眩しいぐらいに初恋に夢中、真っ直ぐにキャロルに恋をしているのが海宝メンフィス、特に女には困ってこなかったけど、キャロルに出会って初めて人を愛する感情を知って恋愛感情の重みを知ったのが浦井メンフィス、という感じだなと思いながら興味深く見てました。可愛さの種類に違いはあれどちらもかわいいことに違いはない。愛おしそうにキャロルを見つめるメンフィスは両メンフィスともとてもかわいかったですね…

 

 

3.イズミル

イズミル王子。私はイズミル王子のビジュアルが本当に好きです。一番好きです。露出度高めの周りの衣装の中で唯一白い布にぐるぐるに覆われた男イズミル。あの銀髪も最高に好きだし、片側だけ垂らされた後ろ髪も、布の使用量めちゃくちゃ多そうな衣装も全部、異国の不穏な王子の色気がたっぷりで大好きです。

 

大貫イズミル

さて、大貫イズミル。基本がクールかつ大人な感じがします。

大貫イズミルは行動原理がミタムンを殺された&ヒッタイトを舐めてくれるなよという静かな怒りにあるように見える。見目麗しくどこか芸術品のような美しさを持っているお方なのですが、ベースが冷酷そうなのでキャロルを鞭で打つ時とか容赦なさそう。「殺しはせぬ」が「殺したら人質の意味を為さないからな、ギリギリまでは痛めつけても殺しはせぬ」に変換されて聞こえてくる、怖い。品がある美しさを纏いつつも淡々と恐ろしいことをしそうなイズミル

大貫イズミル、恋愛感情を結構内にしまい込むタイプな感じがして、後半キャロルに惚れてはいるんだろうけどクールというか愛情表現がめちゃくちゃ下手くそなので愛情は伝わりづらそうなんですよね。でもマモミルも含めた3イズミルの中では一番キャロルが手に入ったら一途に愛しそうだし大事にしそうではあるなあと思います。色々ソツなくこなすけど恋愛は不器用そうな感じがしてギャップがかわいい。側近とか従者とかの男とばっかり普段話してる感じがする。

大貫イズミルは何と言っても決闘シーンの殺陣が大好きです。あの白いぐるぐる巻き(言い方)の衣装であの高さまでジャンプする身体能力に驚き見惚れてしまいつつ、大貫イズミルの靴下と絶対領域(?)が見えてしまった瞬間、「ハッ隠されたイズミルの肌を見てしまった……?!」とちょっと見てはいけないものを見てしまった気がしてしまう。大貫イズミル、戦いながらとても楽しそうに舞うので、この人は多分戦場で輝く王子なんだろうなぁと思う。戦で対戦相手として出会ったら、戦いながらもその美しさに魅入ってしまいそう。指先一つの動きまで美しくて、歩いていても、キャロルを鞭で打っていても、メンフィスと戦っていても、美しい異国の王子がそこにいる。個人的にメンフィスと対峙した時に「冷vs熱」という感じになるバランスの良さが好きです。

 

平方イズミル

妹愛が根底にあるイズミルだなぁと思います、平方イズミル妹を殺されたと知った時にまず、怒りより悲しみが強く滲む人。大事な妹を亡くした悲しみ、惨たらしい方法で殺された恨みでこの人は動いてるんだなと、すっと彼の心情が自然に入ってくる感じがある。

ただ、だからこそ自分がキャロルを好きになってしまった時の葛藤が大きいところがとても好きです。妹のための復讐を成し遂げなければならないのに恋心に惑わされる自分、憎きメンフィスが愛する女を愛してしまった自分、キャロルを愛おしいと思うたびに揺れている心情がぐっと伝わってくる。セチ含めエジプト軍が大勢死んだ時、ハッハッハと勝ち誇ったように笑うんだけれど、その後悲しむキャロルを見て表情を変える辺り、本来優しい人なんだろうなと思う。妹もだけど、大事な人の苦しんでる姿に弱いタイプ。人間らしくて推せる。あと、平方イズミルはキャロルに落ちた後は本当にキャロルを愛おしそうに見つめるので、愛情がわかりやすいですね。けれど決して自分に振り向いてはくれないキャロルに向けるあの苦しそうな目がとても好き。そんなキャロルを最後自分の手で傷つけてしまった時の表情も刺さります。

平方イズミル、初見時ちょっと色気がダダ漏れでびっくりしてしまいました。「うわっ……これはちょっと…異国に連れ去られるわ…むしろ自ら着いていくわ……」となってしまうイズミルがそこに居た。魅力がイミルのときから炸裂している、しかもイミルな平方イズミルは何とも甘美で妖しげな色気を放たれてるので非常に危険性が高い。なんか危険物質でも入ってる…?ちなみに後半は、妹の無念を晴らしたい、でもこの女が愛おしくてたまらぬという葛藤、この女を私のものにしたい、でもこの女の目線の先に私は入ることができぬ…という切なさ、悔しさから、更に違う種類の色気が増し増しになる。怖い。底なし沼の匂いがするイズミルでした。前方席で出会っていたらあぶなかった。

 

 

4.ウナスルカ

はい、ちょっとここはセットで語らせてください。個人的にキャラクターとしてはダントツで好きかもしれない不穏ルカ、見れば見るほど微笑ましく見守っていたくなる愛おしいキャラNo.1ウナス。

岡宮ルカ

私のファーストルカは岡宮ルカだったので、ちょっと初恋みがあります。とても好き。ルカというキャラクター、あの世界の中で一番自由に動き回り、不穏の種をそこら中に撒いていっては楽しそうに去っていくのがめちゃくちゃ好きなんですが、岡宮ルカは腹の底が本当に読めない感じがすごく良い。あんなに可愛い顔をして、さっくり墓荒らしの冤罪をなすりつけ、さらりとエジプトに入り込み、エジプト内を俊敏に動き回り内情を探る。そう、岡宮ルカ、本当に俊敏で気づいたらスタタ…っていなくなるし、気付いたらもう違う場所にいるんですよね。

エジプトに潜り込んでいるときも、一人でその心のうちの企みを語る時も、イズミル王子の元にいる時も、岡宮ルカは基本ポーカーフェイスで、心の外側に一枚膜が張られている感じがします。観客すらその本心を見せてもらえない。何考えてるか分からなくて怖いのだけど、明らかに有能で頭が回りそうなので、確かに私がミヌーエ将軍だったら雇いたくなってしまうかもしれない。エジプト兵の前でもヒッタイト兵の前でもイズミル王子の前でもそこまで態度の変わらない、二重スパイ能力のめちゃくちゃ高そうな人だなと思います。そんなポーカーフェイス岡宮ルカが冷たく吐き捨てるようにメンフィスに言い放つ「許しを請え」が大好きですね。

 

前山ルカ&ウナス

前山ウナスは前半に一度見たきり、私の乏しい記憶力ではもうあまり思い出せないのが難点……前山さんは私の脳内ではすっかりルカになってしまう。記憶をナイルから取り戻したい。…ので、すみません前山ルカの話をします。

前山ルカの好きなポイントは、何と言ってもスパイ活動を心の底から楽しんでいるところですね。将軍様〜!ってミヌーエ将軍に話しかけるところの前山ルカの猫の被り具合がすごすぎて、この人顔の使い分けがめちゃくちゃ器用そうだなと思うし、何ならその使い分けすら楽しんでそうな節がある。不敵な笑みがとにかく似合う前山ルカ。エジプトを陥れるために動き回る姿が非常に楽しそうで、キャロルが攫われた後に焦るメンフィスとエジプト勢を見た時のあの何とも満足げな顔がたまらない。ヒッタイトが優勢になっていくことへの「ふっ思い通り……」もあるんだろうけど、前山ルカはそもそも場を撹乱させるのが好きそう。自分が裏で色々仕掛けたことで表がごたごたしていくその様を斜め上から眺めるのが好きそうな愉快犯。悪くてとても好きです。

 

大隅ウナス

大隅ウナス、全観客を母の心にする特殊能力を持っている。とにかく可愛い、とにかく微笑ましい、とにかく応援したくなる。テーベで「ウナスがいれば大丈夫よ!」とキャロルに言われた時の大隅ウナスの可愛さはもう無形文化遺産に残すべきだと思う。嬉しくて誇らしくてたまらない様子で胸に手をあて、ナフテラに「聞きました???」とでも確認するように視線を合わせにいくウナス。この時のナフテラの「まぁ、この子ったら…」な母感もとても好きです。

その後のテーベダンスタイムでも完全にキャロルのファンなので、その後、キャロルがヒッタイトに連れ去られるのを見ていることしかできなかったウナスは本当に落差が激しくてかわいそう。頑張って抵抗しているけど布野郎達に追いやられてしまうウナス…あなたは頑張ったわ……!と心の中のウナス母が泣いてしまう。そんなわけで大隅ウナス、とても愛おしかったです。キャロルが戻ってきて良かったね……大事にするんだよ!!(母より)

 

 

5.アイシス

最後に、アイシス姉上。見れば見るほどアイシスアイシス……ってなってしまうアイシス。新妻さんが「(弟がひどい仕打ちをしてくるけど)お客様だけは私の味方だと思っていました」と東京楽カテコ挨拶でおっしゃっていたけれど本当にそう。見れば見るほどアイシス様の味方になってしまう。あんの弟め……今のアイシスの嬉しそうな乙女みたいな顔を見たか……貴様はなぜそういうことをする………とどんどんアイシス様強火担になっていくマジック。二回目の想い儚きへの拍手の大きさがそれを表していると思います、アイシス様。もちろんあそこの素晴らしい歌とお芝居自体への拍手ではあると思うんですが、私はそれに重ねてうわ〜〜〜んアイシスアイシス……私はあなたの味方です…!!泣かないで……!!!という気持ちもゴリゴリに込めて全力で拍手してた。

さて、アイシス姉上のお二方、ほんっとうに二人とも大好きなんですが、一番印象を言語化するのが難しいなと思う。アイシスって基本的に想いを秘めているキャラクターなので、それをどこまで隠すか、どう隠すのか、隠しているそれがどこでどんな風に滲んできてしまうのか、その秘めた想いがどんなものなのか、とかそういうところに違いが生まれてくると思うんですが、お二人ともすごく細やかにアイシスを作られているので、本当に言葉にするのが難しい。いや別に、言語化しなくちゃならないわけじゃないんですけどね。言葉にならない感覚をそのまま取っておくのもそれはそれで好きなんだけれど。でも、やっぱり素晴らしいものを見てきたら私は何かしらどうしても記憶に残しておきたくなってしまう。そうすると絵は描けない私は文章に頼らざるをえないので、もうこれはあれです、意地です。素晴らしいアイシス姉上の素晴らしさを頑張って書き残したい。

 

朝夏アイシス

美の権化、朝夏アイシス。すらりと伸びた長い手足、小さいお顔、美しいお顔立ち。分からない、こんなに美しい姉上がいたら普通は好きにならない?メンフィス。最初のご登場から、黒マントに身を包んでいるからほぼほぼ見えないにもかかわらず、頭身バランスに驚いてしまう朝夏アイシス。一体唯一見えているそのお顔が何個その黒マント部分に並ぶんだろうか。vsミタムンのときのお衣装のスリットから覗く足が長すぎて美しすぎて、完全に美しく恐ろしい魔女だった。私がミタムンならとりあえず手錠外してあんな恐ろしい美アイシスに喧嘩売らないで裏口から逃げる(話が変わってしまう)。

さて、美しさの話をいったん置いておけないぐらいには美しい朝夏アイシス様ですが、とりあえず置いておきます。

朝夏アイシスは、美しいけど可愛らしい人だな、という印象が個人的には強いです。メンフィスがファラオに即位するときの心から嬉しそうな表情、持っていた貢物の飾りをメンフィスに取られ更にはそれをキャロルに渡された時の「え…ちょっと?メンフィス、え…?」という驚きと信じられない、という表情、「妃となるやも知れぬ身の上」と歌うミタムンに「何を言ってるのこの小娘は」というように愉快そうに嘲笑う表情、キャロルに求婚するメンフィスを、それに賛同する周りを見て絶望する表情。朝夏アイシスは表情豊かなので、美しく恐ろしい一方で憎めない愛らしさがあるような気がします。メンフィスを見つめる朝夏アイシスの目は完全に恋する乙女のそれだし、邪魔者を排除するときは心の底から楽しそうなお顔をする。

朝夏アイシスは、メンフィスの想いの先が自分には向かないことに気づいているけど気づきたくない、気づいている自分に全力で蓋をして見えなくしているのかなという感じがします。メンフィスが自分に優しい素振りを見せるときには「ほーらやっぱり、メンフィスは私が大好きなんでしょう♡」という自信ありげな笑顔を浮かべるし、邪魔な女が現れた時も動揺はしつつも余裕のある姉の顔を保とうとする。結局メンフィスは最後には私の元に戻ってくる、最終的には私を選んでくれる、こんな女は取るに足らないわ、と必死に信じ込もうとしている。けれど、メンフィスに軽くあしらわれた時には一瞬傷ついた表情をする、「なんで」という顔。それがすごく切ない。

基本想いを隠し秘めているアイシスの素直な心情が見えるのが、彼女が歌で気持ちを表すときだと思うんですが、「想い儚き」の朝夏アイシスは、表のアイシスよりもどこか大人びていて哀しいんですよね。表情豊かでどこか少女らしさも感じさせる朝夏アイシスが、歌う時は陰りを帯びる。それは多分、蓋をしている本来の「気づいてしまっている自分」を歌う歌だからなのかな、と思います。ずっと想ってきたメンフィスに想いは届かないと本当は分かっている朝夏アイシスが哀しい。見ていて哀しいけれど、本心を歌う「想い儚き」の朝夏アイシスは一番自然体で、美しいなと思います。

 

新妻アイシス

キャロルから転生した新妻アイシス様。私は新妻キャロルはDVDで拝見しただけだけれど、あのキュートなキャロルの面影はどこにもなく、すっかり恐ろしいアイシス様になっておられた。

まず新妻アイシスは、姉プラス姑という感じがあるなと思います。メンフィスに近づいたが最後、確実にあの蛇の毒にやられてしまう。一途にメンフィスに愛を捧げる姉でもあり、隙のない最強のメンフィスの保護者でもある。子供の頃からずっと見守り、愛してきたこの愛しい私のメンフィスを狙うものがあるならば絶対に許さない、生きて返しはせぬ、という長年じっくり煮込まれた強く重い拗らせた愛が新妻アイシス様からは見える。

新妻アイシス、時折現れるメンフィスを狙う女のことは、本当に取るに足らない存在、害虫か何かだと思っていそうな感じがある。なぜなら邪魔者が現れたら自分が消せば良いことだから、そして消せる自信があるから。だから、ミタムンに対してもキャロルに対しても、朝夏アイシスほどに分かりやすく苛ついたりはしないんですよね。ただ淡々とまた邪魔臭い女が来たな、面倒だが消すか…と思っていそう。アイシスの背後で黒い炎がメラァって揺れるのが見える。余談ですが、私はvsミタムン時の、新妻アイシスの「よいのかぁ?」が怖くて怖くて大好きです。新妻アイシス絶対喧嘩をふっかけてはいけない恐ろしさがある。

新妻アイシスは基本的には落ち着いていて、彼女の感情が大きく動くのはメンフィスが関わるときのみ、という感じがします。メンフィスが即位したときには母のような誇らしげな表情を浮かべ、メンフィスに指輪を貰ったときにはプロポーズを受けた乙女のような可愛らしさを見せ、メンフィスがキャロルに叩かれたときには愛する弟に危害が与えられたことに心から動揺する。彼女の心はすべてメンフィスのためだけに動く。特にメンフィスが蠍に刺され命が危うくなったときの新妻アイシスが象徴的かなと思うんですが、メンフィスの命が脅かされること、そういう運命にあるメンフィスを嘆くアイシスはすごく弱々しいのだけど、その後の「死の翼よ触れるべし」では立て直してメンフィスを狙った輩をしっかり呪うんですよね。隙のない新妻アイシスの唯一の隙であるメンフィス。

さて、上で「基本想いを隠し秘めているアイシスの素直な心情が見えるのが、彼女が歌で気持ちを表すとき」と書きましたが、新妻アイシスの「想い儚き」はもう、一転してメンフィスをただ一途に想う女の子なんですよね。もちろん母であり姉であるアイシスも見えるのだけど、根底にあるのが女の子。あんなに落ち着いていて、邪魔者にもさして動揺せず、腹の底が読めない恐ろしく闇の深い新妻アイシスが、メンフィスへの想いを歌う時はただの女の子に見える。新妻アイシスは何となく、メンフィスの気持ちが自分に向かないことはもうどこかで分かっていて諦めていて、それでも私以外の女と結ばれるメンフィスを見たくない、そんなのは許さない、という一心でメンフィスの周りの女達を排除しているように見えるんですよね。でも、諦めているからこそ、心の奥底では子供のように悲しんでいる。なんで私じゃないんだろう、なんで私の想いを受け取ってくれないんだろう、というアイシスの女の子としての純粋な悲しさ、報われなさ。なので「私じゃない、私なら、いいのに」の根っこが朝夏アイシスよりも幼い部分に埋れている感じがして、小さいアイシスを抱きしめたくなってしまう。新妻アイシスのその外と内のアンバランスさがとても愛おしいです。

 

というわけで、この朝夏アイシスと新妻アイシスの違いに終始唸ってしまう話を頑張って書いてみました。ちょっと半分以上私のアイシス愛をこじらせた妄想な気もするけど、妄想として受け取ってください。どちらのアイシスもしんどい、でもどちらのアイシスも愛おしい。メンフィス、お前が抱きしめないなら私が抱きしめる!!!!!という気持ちになります。私はアイシス様が好きです!!!こじらせすぎてお二人の歌の話完全に入れ忘れてたけど、本当に想い儚きの歌、お二人とも大好きでした。切なくて悲しくてままならなくて、でもそれがぶわっと肌に伝わってくる歌が本当に素晴らしくて、毎回全力で拍手してました。聴けて良かった。

 

 

 

 

 

 *

と、いうわけで王家の紋章Wキャスト大感謝祭、無事書き終えました………!!!!

いや、全Wキャストのみなさんについて書きたいと思っていたので、まあまあな文量になるだろうとは思っていましたが、想定していた倍以上のボリュームになってしまった。書きたいことが多すぎた。ちょっと確実にペース配分を間違えて途中で力尽きそうになりましたが、書き終えられてよかった。好きなことを沢山お話しできて嬉しい限りです。さて、このめちゃくちゃな量のブログをここまで読んでくださっている方がいらっしゃるかはわかりませんが、もし今のこの文章にたどり着いてくださった方がいたらお礼申し上げます。私ひとりでは抱えきれない膨大な感想(と妄想)を一緒に受け止めてくださってありがとうございます!!!

 

本当は東京楽の昨日に完成させられたら良かったのだけど、ペース配分ミスにより1日経ってしまいました。ということで、あらためて東京公演完走のお礼と祝福を。

王家の紋章2021、本当にエンターテイメントとして素晴らしい作品を観られたなと思います。1幕も2幕も飽きさせることなくずっと楽しませてくれて、観客の心をしっかり古代エジプトまで連れて行ってくれる、観ているその間だけは、他のことは忘れてその世界に夢中にさせてくれる、この時期には本当にありがたい作品でした。

ミュージカル王家の紋章の東京公演を観られたこと、そして東京楽までたどり着く姿を見届けられたこと、本当に幸せです。また、冒頭にも書きましたが、私はこの作品でWキャストの醍醐味をたっぷり体感することができたので、お芝居や歌、身体表現、纏う空気感などその方の持つ全てで、担う役をそれぞれ違った形で表現されていた魅力たっぷりのWキャストの皆さんにもあらためて感謝を。どの役柄もどの組み合わせも、本当に全部全部素晴らしくて、毎回新しい発見の連続で、とても楽しく観させていただきました。幸せな体験をありがとうございました。

ただ願うことさえも少し躊躇ってしまう今の状況ですが、王家の紋章2021 を楽しませていただいた一観客として、最後までキャスト・スタッフの皆さんが元気に走り抜けて、笑顔で大千秋楽を迎えられることを心より願っています。どうか、博多座でも沢山の方が王家の紋章を楽しめますように。 

 

ありがとうございました!

 

王家の紋章②

何だか続きを書きたくなってしまったので結局翌日に書くことにしました。

8月7日マチネ、My初日の王家の紋章の感想続きになります!引き続きゆるい感想です。

王家の紋章① - 140字の外

(これの続き)

 

①ではメンフィスとキャロルの話で終わってしまったので、その他の印象に残ったことをつらつらと。

 

アイシスの衣装、キュートさの混ざるアイシス

登場人物の衣装の中でもダントツでアイシスの衣装が好き。全部でいくつあるんだろう?ちょっと数えてはいられなかったので分からないですが、とにかく全部好きでした。色味もデザインもめちゃくちゃ好み。アイシス姉さん、ミステリアスな色気があるキャラクターなので、濃い青、黒、暗めの赤…などが最高に合いますよね。全体的に悪役カラーだなとは思うんですが、羽織るマントが男性陣とは違って軽くひらりと揺れる素材なので、そこに女性らしさ、繊細な美しさもある。

さて、アイシス、DVDで見た時は「恐ろしいお姉様だ………静かに美しく怖い弟大好きお姉様だ……メンフィスに近寄ったら間違いなく殺られる……」という印象だったんですけど、朝夏さんが演じられるとそこに微量の可愛らしさが混ざるな、と思いました。もちろん狂気は狂気としてあるんですけど、メンフィスに対する愛が重々しくどろどろ……というよりは(その感じもあるけれど)、少し「恋する乙女」感が垣間見える感じ。

メンフィスを見つめる瞳に、大切な弟を想う姉心と、ずっと愛おしく見守ってきた一途な重い愛と、そこに加えて「メンフィス……好き……!(きゅん)」みたいな可愛らしい恋心みたいなものがどこか混ざっているような。朝夏さん、格好いいけどキュートな方だなぁという印象があるんですが、その朝夏さんの可愛らしさが、スプーン1杯分ぐらいアイシスに溶け込んでいる感じ。DVDで観たときにはあんまりアイシスに可愛い!という印象は抱かなかったけれど、今回ちょっと「あれ、アイシス、かわいい…………そっか、恋する乙女(激重)なんだもんね…………」みたいな気持ちになりました。新妻さんがアイシスについて書かれていたブログを読んだのもあって、割と今回アイシスの視点に立って見ている瞬間が多くありました。新妻アイシスも楽しみです。

 

 

・大貫イズミル、クール&大人感

大貫さん、イズミルスタイルがめちゃくちゃ似合うな………というのが最初の印象。

またDVDの話になっちゃうんですけど、私が観たのはマモミルの回になるので、どこかミステリアスかつ甘い印象があったんですよね。常にムスク香らせてそうな感じ。柔らかくミステリアスで甘い、謎めいた異国の王子みたいな印象を宮野さんのイズミルからは受けたんですが、大貫さんのイズミルはクール感が強めな感じがしました。知的で冷静、クールで大人、みたいな。夜にバルコニーで一人煙管吸ってそうな(※イメージです)イズミル。大人の色気を纏うタイプのイズミルだなぁと。ただクール(冷た)そうなので、キャロルを鞭で打つ時とか容赦なさそうだな〜〜と思ってしまった(逆にキャロルに一度惚れたらすごく大事にしそう。浮気しなそう。違う世界線で結ばれてほしい)。我こそファラオ!太陽!熱!!直情!!なメンフィスとは対照的で面白かったです。

後、これは大貫さん知られてる方は当たり前のあれなのかなと思いますが、めちゃくちゃ殺陣が美しかったです。格好良い!というよりは(格好良いけど)、はぁ、美しい……という感じ。イズミルのあの布の使用量めちゃくちゃ多そうな衣装、私はすごく好き(というかイズミルのビジュアル全体的に好き)なんですが、あの動きづらそうな衣装で華麗に動き回るの、超人………と思いました。殺陣に限らず、歩いているだけで様になるというか、動いている姿が基本美しいので、イズミル美しいな〜〜とついつい思って目で追ってしまった。異国の聡明な美しき王子感があって良かったです。

(お歌は結構高音が出づらそうな感じがありましたが、緊張されてたんだろうか。イズミルソロパート多いのご本人ちょっと重かったりするのかな、がんばれ……と思いながらみてました。話されてる時のお声はとっても良いお声なので、もう少し歌パート安心して聴けたらありがたいかな……でも王家の歌全体的にめちゃ難しそうだもんな……大変なんだろうな……という気持ち)

そんなわけで、クールで知的そうな大貫イズミル、また印象が違って面白いなぁと思いました。聡明そうで武力より知力っぽいのに、めちゃくちゃ動ける王子様なの、ギャップが最高だった。自国にめちゃくちゃファン多そう。

 

 

イムホテップ様、かわいいの天才

登場して早々かわいすぎてびっくりしてしまった。あんなにかわいい宰相がいたら愛おしすぎて国は平和になるんじゃないだろうか。かわいいは世界を救う。

なんか宝物(?)沢山ありますよ〜してる時のイムホテップ様、ぴょんぴょんしてませんでした……?(幻覚…?) 完全にメンフィス様大好きおじいさんでかわいい。愛しのメンフィス様にハグ……しようと思ったけどくぅっ!(やめる)みたいなくだりも最高にかわいかったです。宰相という立場なのでそりゃあ頭の良い人なんだろうし、長く生きてきて国を見つめてきた視野の広い人なんだろうし、まあとにかくきっととってもすごい人なんだろうけど、どうしても「かっ、かわいい……」が勝ってしまう。天才的なかわいさ。宰相イムホテップ様のかわいいYouTube〜!とかあったら全人類ついにこにこしちゃって癒されて平和になると思う。3秒で好きになっちゃう。

山口祐一郎さんご本人も、きっとめちゃくちゃすごい方であることはわかる(私は舞台沼もミュ沼も浸かりたてなので、まだ多分そのすごさのほんの一部分しか知らないので「きっと」) のに、同時にめちゃくちゃ可愛らしいお方だな……という印象があるんですが、それがそのままイムホテップ様の、上に書いたような「いや、きっとこの人めちゃくちゃすごいおじいさんなんだよ、すごい人なんだよ………分かるんだけど、はちゃめちゃにかわいいのインパクトが圧倒的優勝………」な印象にそのまま繋がっているような。めちゃくちゃすごいのにめちゃくちゃかわいい人って最強ですよね………………………(パタン)

 

 

ブラコンとシスコンで動く世界

王家の紋章って基本ブラコンとシスコンが話の流れの中心軸みたいなところあるな、と今回見ながら思いました。弟メンフィスを溺愛するアイシスが、その弟の墓を踏み荒らされた怒りでキャロルを古代エジプトに連れ去ることで物語が始まり、妹ミタムンを殺された怒りでイズミルがキャロルを連れ去り戦争が起こる。ミュージカル版ではライアンは物語の本筋にはあまり関わってこないけど(原作だともう少し絡んできたりするのかな)、そこの兄→妹愛も中々に強い。

ただ、ブラコンシスコンといっても基本的に片側の愛が激重なので、ライアンにしてもアイシスにしても愛が一方通行。メンフィスはアイシスを姉として慕ってはいるのだろうけど、それ以上は本当に一切ないんだな……というのが分かりやすいし(新妻さんのプログラム内の話を思い出す)、キャロルは割ところっと「私は古代エジプトで生きていくんだわ……!」とか言い出すし、最初こそ「ライアン兄さん…(涙目)」って思い出す感じはあるけど、二度目にエジプト戻ってきて以降はすっかりメンフィスメンフィスだし。愛が重めの二人がとことん片想いなのが何とも切ないね………

超余談なんですが、私には兄がいるんですがまったくもってブラコンの要素を持ち合わせていないので、「ワ〜〜異性兄弟(姉弟、兄妹)のファンタジーや〜〜」となりながら見てました。もちろん時代も国も違うし、現代日本でもお兄ちゃん大好き!弟大好き!な女性もいるんでしょうけどな……(弟好きは結構私の周りは多い気がする)、私には全く分からない感覚だったな………

 

 

さて、最後に大量に初回の脳内をどどどっと箇条書きします。

アイシス様美の塊、美しい、ずっと眺めていたい

・ライアン兄さんってそういえばなんで黒髪長髪?

・俺様キャラには靡かないはずが不覚にもメンフィスにうっかりきゅんときてしまって「クッ…負けた………」ってなった

・キャロル白い衣装かわいいな〜〜白いからよく似合うね〜〜

・ルカの声が良い(良い)

イズミルの髪色めちゃくちゃ好き……衣装も好き…とにかくビジュが良い……

・メンフィスの!太もも!サービスタイム!!!!!!(黙りましょう)

・イムホテップ様の従者に転職したい

・2階席から見ると青の世界に取り込まれる感じがあってすごく幻想的、綺麗

・くるむルカめちゃ美脚

・ミタムン王女の亡霊が合間合間に出てくるのが好き

・歌、本当にすんごい難しそう。数回観ても口ずさめる自信がない(でも難しいメロディって聴いてる分には音を追うのがすごく楽しいので耳福でした)

・衣装が本当に豪華できらっきらで、オペラグラスで登場人物達の衣装をじっくり見てみたくもなるし、使わずにずらりと並んだときの全体像を眺めたくもなる。日頃とても見られないような色鮮やかで煌びやかな衣装、見ているだけで楽しいですね…

・カテコの最後、下手に寄ったあとの浦メンフィス、はるかキャロルと二人でお辞儀するかと思いきや、去り際の大貫イズミルの手をガッて掴んで(大貫さんちょっとびっくりしててかわいかった)、3人でお辞儀してて尊かった。最後一人になった時に投げキッスかましてくるの、あの見た目でやると脳が混乱を極めるね!!!こちらからしたらメンフィス様の投げキッスですよ!!!!ありがとうございます全身で受け取りました!!

 

 

はい、以上my初日ハイライトでした!本当はもっともっと沢山あるんだけど記憶の大部分をナイルに置いてきてしまったのでまたどこかで。

見どころが沢山あって中々目も脳も追いつかなかったけれど、ストーリーは予習済みだったので割と入りやすかったなぁと思います。

ミュージカル王家の紋章、浦井さんも海宝さんも「ファラオスイッチ」を入れないと中々メンフィスはできない!と言っていましたが、観るこちら側も少女漫画脳にセッティングしてから入ると楽しみやすいかな、と思いました。少女漫画読む時と同じ、現実は遠くに放り投げてその世界観をインストールして読む!観る!

心の中のキャロルスイッチをONにしてナイルの川にうきうき沈みにいく。それが難しい場合はイムホテップスイッチ(若人達は皆愛おしいな……視点)をONにして穏やかな心でざぶんと沈む。もしくはアイシススイッチをONにしてメンフィス強火担(メンフィス好き……メンフィス愛おしい……メンフィス……)になってどっぷり沈む。うん、沢山楽しみ方がありそうですね………

 

はい、そんなわけで初日の感想第二弾でした。

初回、まだひとつの組み合わせでしか観ていないのに、思いの外自分の中に喋りたいことが沢山あったようで書いてみたらまあまあな量になり、書きながらびっくりしました。もっと観たらどんどん出てきてしまいそう………

次は違うキャストの方々で色々見比べた後に、また沢山垂れ流したいと思います。

ありがとうございました!

王家の紋章①

 

王家の紋章my初日、8月7日マチネ。

今週末は時間がたっぷりあるので久しぶりに初日の感想を残しておきたいな、と思いブログを開いてみました。1回目の感想ってフレッシュなので、自分で後から見返した時に面白いんですよね。何度か観ることが分かっている作品なので、とりあえず初回の感想を記しておく。

とはいえ1回しか観ていないのであんまり大したことは多分書けないんですが!ゆるゆると初回に思ったことを書き綴ります。

 

 

さて、私にとっての初生王家、キャストの皆さんはこちら。

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前回公演のDVD(新妻キャロルver.)は昨年買って見ていたので、ストーリー自体はだいぶ把握していたんですが、大分キャストがガラリと変わっていたので中々印象が変わるな〜〜と思いました。初演、再演を生で観ていた方はよりそれが強いんだろうな。私は「お〜やっぱり変わるな〜〜」ぐらいの気持ちで観ていました。

 

というわけで以下、印象に残ったキャストの皆さん、もしくはキャラクター本体、の諸々をざっくり箇条書きしていきたいと思います!

 

 

浦井メンフィス、生で観ると無条件でメンフィスの女になる仕様だった

はい、まずは浦井メンフィスについて。

去年DVDで観た時、うらいさんのメンフィスももちろん観たわけなんですが、正直その時は「うわ〜〜お顔が華やかだからカラーメイクめちゃくちゃ映えるな〜〜」とか「マントさばきかっこよ〜〜〜マントの間入りこんで巻かれた〜〜〜い」とか「こんなにぶっ飛んだ衣装(古代エジプト人なら普通なのかもしれないけど、現代日本人の目から見ると短パンにきらっきらのマントにブーツという中々斬新な格好)で、俺様通り越して話通じなさそうすぎて怖い(これまた当時のエジプト人の価値観からしたら普通なんだろうけど以下略ですね)キャラなのに、総合的に格好良い人物として成立させるのすごいな〜〜」とか(長い)、そんなことを思っていて、

「メンフィス!キャッッッ」って感じにはならなかったんですよね。そもそも俺様キャラがそこまで刺さってこなかったタイプなのと、やっぱり画面の中で見ちゃうとちょっと気分的には引きで見てしまうので、ツッコミどころを突っ込む脳内係が盛んに「えっメンフィスそこは怒らなかったのにそこは怒るんだ?」「いや意外とちょろいな……?めちゃすぐ恋に落ちるじゃん……初恋少年やんメンフィス……(それは実際そう)」とか騒ぎ出してしまう。なので純粋に「メンフィスかっこいい〜〜!!!」とはならず。なので、メンフィスそのもの、というよりは浦井さんが演じているメンフィスという概念というか、浦井さんとメンフィスの中間の場所でひゃ〜〜〜〜ってなっていたような感覚でした。

 

ところがどっこい、今回生で、帝国劇場で、メンフィス様に謁見したところ

開始数秒、あっという間にメンフィスの女にされました

先程メンフィス様にちょろいとか言ってましたがすみません。私の方が10000倍ちょろかったです。

あれ、おかしいな…?2階席だったはずなのに…………?おかしいな……………?と思ったんですけどあれですね、あのメンフィスとかいう人、帝劇全体をあのキラキラマントで包んでまるごと自分のの女にする魔法を使ってるんじゃないですか……………?使ってますよね………?怖いですね……………???

 

はい、そんなわけで生で観るメンフィスにしっかりやられてきました。

これはTwitterにもちょろっと書いたけれど、とにかく圧倒的ファラオ感がすごい。歩き方、声、話し方、目線、姿勢、こうやって言語化できる範囲外の部分もその全てが「有無を言わせない古代エジプトの王ファラオ」としての存在の説得力となって客席に飛んでくる。2階席で観ていて、裸眼で舞台観ていてもぶわっと迫ってくるようなオーラがあったし、オペラグラスを覗いても細かい表情や仕草から、あぁこの人は王になるべくして生まれ、王になる者として育てられ、彼自身もそれを自明のこととして生きてきて、そして今実際に王として在ろうとしているのだなと伝わってくる。「少年王」の「王」の部分ですね。若かろうが王になったばかりであろうが、もうメンフィスは存在が圧倒的に王なんですよね。

ちなみに個人的に「少年」の部分を感じたのは、序盤でアイシスに向かって「姉上!」って嬉しそうに言うところ(弟みがあって可愛い)と、キャロルとぷいっ!ってしあってるところですね。男子中学生か!!!!かわいいな!!!ってなりました。恋心を自覚してからどう振舞っていいかに辿り着くまでに時間がかかるのが最高に男子中学生みがあって、あの圧たっぷりの見た目とのギャップも相まってかわいいですね。あとは浦井さんご本人の若々しさというかフレッシュさというか真っ直ぐさというかかわいらしさというか(長い)、そういうファラオとしてのメンフィスの方には表れてこない部分のご本人の資質が、「少年」の面にはばっちり上手く作用していて素敵だなあと思いました。流石は奇跡の40歳(©️井上芳雄さん)ですね。

 

 

はるかキャロル、可憐

キャロルの木下晴香さん、生で見たのは今回が初めてでした。最初のイメージがジャスミンなので、強い、格好良い、毅然としている、みたいな印象が強かったんですが、今回のキャロル、めちゃくちゃ可憐………!かわいい。

ご本人の年齢もあるんだろうけど、本当に古代の異国に迷い込んでしまった頼りなげな、でも芯は強い少女感がある。

冷静に考えて、いくらエジプトに興味があるとはいえ、若い女の身で古代エジプトに突然飛ばされたらすごい怖いじゃないですか。そのキャロルの不安や混乱や絶望感が、木下さんを通すと程よくリアルに伝わってくる感じがある。どこか初々しく、無邪気で危なっかしい幼さ(若さ)や、華奢で色白で、少し傷付けたら壊れてしまいそうな(これは特にメンフィスから見た場合にはそうなんじゃないかな)身体性が、キャロルに良い塩梅でリアリティを与えているなぁと思いました。あぁ、これだけ存在として、生物として、立場的に「弱い」存在なのだから、そりゃ古代のエジプトもメンフィスも怖いよなぁと。キャロルに対して感情移入とまではいかないけど、近い視点の位置に入りやすくなる感じ。うーん、まだ上手く言語化できないけど。するっとあの古代エジプトの世界にキャロルの視点で入りやすくなるなと。

ただキャロルというキャラクター、細いけど太い、弱いけど強い、怖がる割に無鉄砲、みたいな二面性が常にあるなと思うんですが、その「強い」方の面も、はるかキャロルはちゃんと備えていて、その匙加減が結構私は好きだなぁと思いました。強さが見える部分では木下さんの芯の強そうな感じがふっと表れていて、あっやっぱりあのジャスミンの人と同一人物なんだなと思い出しました。逆にそれまで忘れてたからすごい。

で、その根の強さが、最初に「弱さ」が見えているからこそ映えるというか。キャロルの強さってなんて言うか、メスゴリラ的な強さじゃないんですよね(もう少しましな例えはなかったんか)。いかにも強強!って感じじゃなくて、最初は怯えてるし、華奢だし、白いし、感情的だし、すぐ泣いちゃうし、きゃっきゃしてる表情豊か女の子って感じがするのに、火事場で見せる底力がとんでもないなこの人……実は一番最強なタイプじゃん……みたいな強さ。そのキャロルの強弱の二面性みたいな部分において、はるかキャロルのその匙加減が私は結構好みだなぁと思いました。

 

 

 

メンフィスのキャロルの体格差

ちょうどメンフィス、キャロルと続いたのでこの話をします。

浦井メンフィスとはるかキャロル、体格差が天才だった。キャロルがヒール履いてるからそこまでの身長差はないんだけれども、あまり身長差がないからこその体格差が目立つといいますか。

あの重いマントをばっさばっさと振り回すメンフィスの太く色黒な腕と、キャロルの少し力を入れたら折れてしまいそうな白い腕。鍛えられた厚みのあるメンフィスの胸板と、誰でもすっと抱えられ、持ち上げられてしまいそうなキャロルの細い腰周り。

それはそのまま古代エジプトでのあの二人の立場の強さ(弱さ)を表しているようで。絶対的な王であるメンフィスと、メンフィスの命令一つでどうにでもなってしまうキャロル。その後関係性が変わっていくことで、その強弱の立場も揺らいでいくわけですが、とはいえ根本的には変わらないと思うんですよね。未来の異国から飛ばされてきたキャロルは、メンフィスに見捨てられてしまえば恐らくあっという間に命を落としてしまう。まあキャロルもそれに怯えて言うこと聞くようなキャラクターじゃないし、そういう物語でもないんですけど、それでもあの二人の強↔︎弱の対比性みたいなものが、男↔︎女、王↔︎奴隷(→王↔︎王妃)、古代エジプト↔︎現代アメリカ、「王とその他(殺してもいい存在)」の価値観↔︎「全て皆人間(生きる権利が守られるべき)」の価値観……etc.のその他の対比のベースになっているような気がするので、やっぱりそこの対比は重要なのかなと思うんですよね。なので、お二人の身体性がめちゃくちゃ説得力あって良かったな〜〜と。

うん、と、長々書いたけど単純に体格差にきゅんときたという話です。最高でした。

 

 

 

 

えっと、ちょっとこれは書きながら思ってたんですけど完全にペース配分を間違えましたね……

各キャストの方々についてさらっとこういう印象だった〜〜〜!!!楽しかった〜!!!っていうのを、さらっと!並べていくつもりだったんですけど、いかんせん書きたいままに書きまくっているのでメンフィスとキャロルの話だけでこんな長さになり、ちょっと本日の体力が尽きてしまいました………

せめてイズミルアイシスのことは書きたかったんですけど一旦切りがいいので①はこれで閉じようかなと思います。

 

 

 

 

さて私にとっては初回である今日、王家の紋章を2階席からたっぷり楽しませていただきました。

正直この時期に行っていいものか悩んだし、今も悩んではいるけれど、色々考えた末行くと決めて観てきたものに関しては、たっぷり味わえる限り味わい尽くしたいし、それについて沢山話したい、書きたい。せっかく観られた幸せをちゃんと噛み締めつつ、心の中で大事にしたい。

ので、たぶんこの先もいくつか続けて書けたらいいなぁと思います。

 

2021年の王家の紋章、改めて幕が開けたことをとても嬉しく思います。無事に最後まで走り抜けられますように。一観客として心より願っております。

ひとまず、

ありがとうございました!

浦井健治 20th Aniversary Concert

2021年4月20日

行ってきました、浦井健治 20th Aniversary Concert。

家を出た時1枚だったチケットは、帰りにはなぜか2枚になっておりました(昼公演後即追チケした)。

 

な〜〜〜んかもう、昼も夜も幸せしかない空間が地上に誕生していた。あんなに幸せな空間がこの世の中にありますか?あの空間の愛の密度すごくありませんでした?あの空間幸せと愛しか存在しなくなかったですか?…みたいな宗教じみた感想しか出てこないぐらいには最高の時間でした。まるでディズニーランドみたいに夢の空間なのに、現実に戻ってきても「はぁ、明日からはまた……」みたいな魔法が解けた感が何にもない。夢から醒めない。むしろたったの数時間でびっくりするほど生きる活力をいただいてきたので、明日以降も何とかなる気がしちゃう、根拠のない自信が湧いている(根拠のない自信って意外と簡単に湧かないのにすごい)。夜公演が終わって、帰りの電車のホームに並んでこれを書いてる今も、多分私の目はまだきらっきらしていると思う。

 

全然レポを残そうだなんて思っていなかったのに、あの空間でいただいてきた幸福感と愛情と感動と満足感とその他諸々すべてを、私の手の中にはどうにも抱えきれないので、今もう高速でスマホをタップして書き出しています。そんなわけで、今回は記録というよりは私の手には余りすぎちゃう興奮をここに垂れ流したい。理性が0.5%ぐらいしか復活していない状態なのでほぼ勢いで書く。

 

 

 

さて、まずは昼公演。個人的に刺さったところを片っ端から羅列していきます。いや、正直なところ全部もれなく刺さってるのだけど、とりあえず思い出せるところを。

 

突然の王次はやめてくれ

登場曲の次、二曲目。つまりフゥー!って格好よく登場してきて、まず歌って、次の曲。まだこちらはソワソワ状態の時。いや、今回アルバムの曲とか、もしくは私の知らない過去のミュージカル作品の曲とか歌うのかなぁ、わくわく…ってのんびり(全然のんびりではないけど)構えてたら、え。聞き覚えのある前奏。待ってくれ。私は知っている。昨年末ようやく届いて久しぶりに聴いたら懲りずにもう一度ノックアウトされたあの曲。待ってくれ。待ってくれ。待ってくれ(4回目)。正確には王次で沼落ちしたわけではないけれど、天保初見時私を確実に沼の淵にひきづっていってお座りさせた王次の登場曲。ご本人「東京国際フォーラムで歌っていいんですかねぇ!(笑)」とかニコニコしてたけど全然よくない、全然よくない!!!待って!!!って思いながら聴いてました。突然の王次は私の心臓に悪いのでやめてほしい(嘘です。最高でした。ありがとうございました)。

私の個人的動揺はさておき、この曲を2曲目に持ってきてくださるの、私のようなド新参にとってはすごいありがたいことだなぁと思いました。過去作品、追えるものは追っているけれど、当時それを劇場で観ていらした皆さんの気持ちには当たり前だけれど及べないというか、その当時その作品の時間の中で共有されていたものや、そこから今の時間までに流れていた浦井さんや皆さんの時間は、やっぱり私にはどうしても想像することしかできないものなので。もし最初からどばばーっと過去作品曲連続だったとしたら、ちょっとさみしくなったりもしたのかもしれないな、と。とはいえ、実際には全然ならなかったんですけどね。でももしかしたら、私がそうならないでいられたのは、序盤で過去お芝居の中で聴いて知っている曲を聴かせてもらえていたからなのかなぁ、と少し考えたりしました。

というわけで、それはそれはもうとっても心臓に悪かったけど、2曲目に聴けて嬉しかったです。ありがとうございました。

 

 

・笑う男

前日に再演が発表された笑う男から2曲。私が昨年浦井さんの沼に滑り落ちてから彼の過去作品を知る中で、(もちろん全部見てみたかったの一言には尽きるんですが)一番見てみたかったな…いや、見てみたいな……!と思っていた浦井さんが、笑う男のグウィンプレンでした。なので、流れた瞬間アァこれは……!となった。めちゃくちゃ嬉しかった。浦井健治さんという役者さんを最初に知ったのがきじるしの王次なので、初めの役の印象が「女にモテる、喧嘩も強い、顔が良い」みたいな「何でも持ってる人」だったんですよね。だから、醜く、何も持っていないところから始まる浦井さんを見てみたかった。来年の2月が本当に楽しみです。

あと、やっぱり1回目の昼公演は前情報が皆無なので、突然曲が始まって「うわぁこの曲……!」ってなる感覚は強かったなぁと思います。曲が始まる前のワクワク、ソワソワ、始まった瞬間は思わず立ち上がりたくなっちゃう。全曲毎回違うように心の中でワーワーしてたけど笑う男からの2曲は個人的にとっても高まりました。

 

 

めちゃくちゃ踊ってた芳雄おにいさん

こう書くとNHKのおにいさんみたいですね。そんなことは置いておいて。舞台沼にも最近沈んだばかりの私は、井上芳雄さんを生で拝見するのは初めてでした。ただ、推しの弟(政次の弟という意味で)兼推しのお兄さん(浦井さんのリアルお兄さんという意味で)である芳雄さんは、推しを通して間接的に見聞きすることが多かったので、何だか初めて見た感じがしないのが不思議だった。あぁ、噂は聞いておりましたがあなたが……!みたいな(勝手に親近感抱いてごめんなさい)。

それはさておき、いやもう、芳雄さんが登場されてから、本当に一瞬で浦井さんがワンコモードに切り替わったのが本当に面白かった。完全なる"ボケ王子"ポジション。もう見るからにゆるゆる〜〜って力が抜けていて、芳雄おにいさんにワンワン懐いてるわんちゃんのようでした。言い間違うたび沢山突っ込まれててかわいかった。ちゃんと毎回聞き逃さない芳雄さんすごい。

それも上回る面白さだったのが世界の王でとにかくめちゃくちゃにノリッノリで踊りまくる芳雄さん。終わった後本当にゼェゼェ言っててめちゃくちゃ笑いました。歌う前、「これは俺たちの年齢で歌う曲じゃないよね…」みたいなこと言ってたけど、歌い踊る勢いとテンションは完全に若者のそれだったので何も問題もなかった(一方ダンスの種類は年齢感たっぷり出しててギャップが天才だなと思いました)。

そして、浦井さんが一旦はけてから語られた浦井さんの話、一曲歌った「歌うたいのバラッド」。本人がいないところで語られる本人の話というものが私はすごく好きなんですが、すごく大事そうにというか、幸せそうに浦井さんのことを語る姿を見て、本当に大切に思っているんだろうだなぁと思いました。同じデビュー20周年だから同期と言えば同期だけれど、やっぱり弟のように思ってしまう。前は「自分は役者だから(芳雄さんのように)コンサートなんてできない」と言っていたのが今やこんなにやるようになって……ととても嬉しそうに話していたのが印象に残りました。昔から変わらない奇跡の40歳、と語る一方で、変わってきた部分もちゃんと知っていて、ずっと見守ってきている。私は二人が出逢ってから今ここの地点にくるまでの時間を知ることはできないし、上でも書いたようにあくまでも想像の域を越えられないのだけれど、それでもあの時間、あのたったの数分間を見ただけでも二人がとっても素敵な関係を築いてきたんだろうなということは十分に分かって、なんだか泣きそうになった。「歌うたいのバラッド」ももう、完全に愛情が溢れていて、あと純粋に歌が本当に良くてまた泣きました。あっという間のソロタイムだった。

 

 

 

 

さて、次は夜公演のお話を。

 

昼公演が終わった後、「あれ、なぜ私こんなにも楽しい宴の夜チケットを持っていないんだ………………?」と勢いで夜のチケットを追いました。気付いたら本能に従って俊敏な動きでチケットを確保していた。だって浦井さんが夜もあるよーきてねー!って無垢な顔で言うんですもん……夜買ってないなんて言えないじゃないですか……わかった買うよ……と何だかめちゃくちゃ沼なホストに貢いでいる気持ちになりました。嘘です。いや、本当は次の日仕事だし体力のことを考えて一応昼だけにしてたんですけど……うん、無理でした。昼行ったらどうしてもあの楽園にもう一度行きたくなってしまった。そんなわけで、続いては夜の楽園の話をします。

 

 

二度目の王次

何度もすみません、もう一回王次の話します。

何か1回目は「これを東京国際フォーラムで歌っちゃって良いんですかねぇ」とかニコニコしてたのに、2回目は何かほぼゴリゴリに王次だった。1回目は浦井健治:王次=5:5ぐらいだった気がするのに、2回目はは1:9ぐらいで王次だった。あれはもう現代の服を着た王次。全王次の女が倒れる王次。ご本人を好きになってあらためて浴びる王次の「女ァ!」は駄目ですね。破壊力しかなかったです。ただ、2回目もちゃんとコンサートver.で「女!」「男!」と女も男も落としに行っているところは王次じゃなくて浦井健治さんだなぁと思いました。

 

 

 

・天才的にかわいい弟・平方元基くん

平方さんも今回で私は初見でした!

で、今回初めて拝見しまして、なんかもう、浦井さんへの愛情を全身に纏って終始汗だくで動いていて、なんかもう、可愛くて仕方がなかったです。あんなにかわいい純粋で愛しかない兄想いの弟がいますか……………?すみません、平方さんもまた私よりはもう全っ然歳上なのであれなんですけど、あの素晴らしい弟みを見ていたらもうなんか、「平方さん……」って感じじゃなく「げ、元基くん…………(泣)」という叔母心(なぜか叔母)が沸いてしまってどうしようもなかったので、ここからは僭越ながら元基くんと呼ばせてください。すみません、心は叔母です。

登場前からゼェゼェ言わしたると予告され、登場時には若干の待機タイムが発生、緊張しながらもようやく登場したと思ったら端から端まで走り回される元基くん。最初から大変そうでめちゃくちゃかわいかった。何かもう登場して早々、「あぁ、もうめちゃくちゃ浦井さんのことが大好きなんだなぁ………」というのがわかるぐらい、浦井さんに向ける言葉にも空気にも愛情が満ち満ちていて、またまた夜の部も愛に溢れているなぁと思いました。浦井さんも犬猫なら完全に犬だけど、元基くんもめちゃくちゃ犬(芳雄さんはどちらかというと猫っぽいですね)。「健ちゃん健ちゃん!!!健ちゃんのことを大好きな皆さん!!!こんにちは!!」って感じでずっと愛情を全身で振りまいてる。

途中、健ちゃんの後ろをずっと追いかけていて、でもその背中が大きすぎて、どんどん前に行ってしまって、それがプレッシャーになってしまっていた時期があった、「浦井健治にはなれなかったね」と言われてしまったこともあった、というお話をされていて。何て素直で真っ直ぐな人なんだろうかと思った。(こんな人によくもまぁそんなひどい言葉を投げつけられるものだな…と思ったけど。)

浦井さんも本当に心が素直で真っ直ぐで、いつでも言葉にも嘘がない人だなぁと思うけど、そんな浦井さんを愛する平方元基さんという人がそれに近い気質を持っている愛情深い人で、この兄弟関係もまたとっても素敵だなぁ、とじんわりしてしまった。なんて真っ直ぐで愛に溢れた兄弟。

で、その話を聴いた浦井さんが、「元基は芝居も歌もすごく上手くなったよね、前から良かったけど」というような返しをしていて、本当に二人とも、ずっとお互いを見てきたんだろうなぁ、と思いました。たびたび「ねぇ、ほんと可愛くないですか?!」と嬉しそうに元基くんのかわいさについて客席に同意を求める浦井さんや、昔出待ちのファンの方に「僕のかわいい弟です!」と浦井さんが紹介してくれた、そんなことしてくれた人、他にいなかったですよ!と語る元基くんを見ながら、何かもう、本当にお互いに大好きで仕方がないんだろうなと。大好きな健ちゃんお兄さんのデビュー20周年コンサートに出られてすごく嬉しそうな元基くんと、可愛くて仕方のない後輩が自分のコンサートに来てくれてめちゃくちゃ楽しそうに愛おしそうに遊んでいる浦井さんと。何だか宇宙一ハートフルな空間でした。

あと元基くん、浦井さんがはけてからのソロタイムで思ったんですけど、カメラの使い方めちゃくちゃ上手くないですか?????ステージの端から端まで行き来してくれて、その度近くのカメラでサービスしてくれて、アイドルみがすごい、ファンサがすごい、これは円盤化したらすごい楽しいやつだ…………と思いました。センターにいる時のあの下からのアングルもすごい良い。カメラ使いがプロだった。

ちなみにマネージャーさんが選曲したという「MajiでKoiする5秒前」の、「もっと知りたい彼のこと ライバルに差をつけて」の部分、「彼」の部分で浦井さんのはけた方向を指して、「ライバル」の部分で客席側を指しているのを見て、「えっっ…つまりは浦井健治のことを好きなライバル同士ってこと……?(トゥンク)」と勝手にときめきました。もう大好きじゃん。加えてどこかで「健ちゃんのことこれからも愛していこうぜ〜!!!」みたいなことを言っていて、何だかもはや仲間意識が芽生えてしまった。ファンか、ファンなのか……?かわいいな……?!と思いました。元基くん、浦井健治の愛しの後輩兼ファンというとっても尊い存在でした。この会場、当たり前だけど浦井さんのことを愛してる人間にしか存在していなくて、本当に幸せな空間だなぁと思いました。

 

 

明日があるさ

Pieceのボーナストラックに入っていた「明日があるさ」。2回目特に、この曲が終盤で歌われることの意味みたいなものを感じてしまって、個人的にすごく沁みました。いくら今この瞬間が楽しくて、幸せで、愛おしくても私たちには明日がやってきて、日常がやってくるんですよね。明日からもそれぞれの日常を生きていく。明日があるさという曲の中の「明日」は、すごくキラキラしているわけでもなくて、だからといって悲観的なわけでもない。色々あるし、色んな人がいるし、でも、明日がある。だから俺たち、何とかやっていけるんじゃない?ぐらいの温度の、「明日」。過剰な意味を持たせていない、すごく日常的な「明日」だと思うのです。それを最後の方に歌ってくれるのは、この日聴きにきている私たちそれぞれの、何てことのない「明日」を応援してくれているようで、すごく日常を生きるための力が貰えました。

 

 

 

 

これでひとまず、昼公演・夜公演それぞれのことを書いてみたわけなんですが、どうしよう、全然書き終えられた気がしません。もっと山ほど愛おしいポイントがあったのに。全然足りてない。

でも多分、全部書き切ろうと思ったら永遠に終わらない気がするので、一旦最後に、昼夜問わずにずっと感じていたことを書き連ねようと思います。

 

 

・客席の向こうと自分は鏡、の話

この話、正確な言葉は覚えていないのですが、ステージの上に立つ身としてこれは宿命だ、というようなことを話されていて。天職だ、という言葉も使っていた気がします。

お客さんが笑顔なら自分も笑顔になれるし、自分が笑顔ならお客さんも笑顔になれる。多分、浦井さんは本当に、特にそういう人なんだろうと思うんですよね。これは沼に落ちる前から思っていたことなんですが、浦井さんって本当に太陽みたいな人みたいだなぁと、ことあるごとに感じます。温かくて、優しくて、柔らかい日差しのような人でもあるし、熱くて、真っ直ぐで、何かの暗さや淀みみたいなものを吹き飛ばしてしまえるような力強い光を持った人でもある。だから、今回浦井さんの話や歌を聴いているだけでなんだかむくむくと力が湧いてきたし、ほんっとうに心底幸せで、身体も心も温かくなった。

満たされた、という感覚が一番強いかもしれない。じゃあ何で満たされたのかな、と思ったけど、それはたぶん浦井さんのパワーであり、光であり、愛であり、というより彼から放たれる諸々の全てなんですけど、こう書くとまたちょっと宗教チックになってしまうけど、でも本当にそうで。会場全体にたぶん、あらゆるものを放っているんですよね、浦井さん。だからそこに座っているだけで本当に満たされる。で、そんな客席の私たちが幸せそうな様子を見て、「素晴らしい景色」「本当に幸せ」「奇跡だ」と幸せそうに言ってくれる。それで、また幸せそうに客席を眺める浦井さんの表情を客席から眺めながら、こちらも幸せになるわけです。幸せな相乗効果エンドレス。

何だかひたすらさんさんと輝く太陽光を浴びるように、ただただ幸せを貰っている気分でいたけれど、もし舞台の上と下が鏡の関係性なら、こちらが楽しそうに、幸せそうにしていることが、ただそれだけで彼のパワーになりうるのかもしれないな、と何だか素直にそう思えて嬉しくなってしまった。素直な人を見ているとつい素直になってしまう。でも多分、本当に浦井さんはそういう人なんだろうなと思うので。私はこれからも、たっぷりと幸せな気持ちに浸って客席から幸せを放ちたいなと思いました。

 

 

夢の世界じゃなかった

これは冒頭にも書いたことに重なるのだけれど、浦井さんのコンサート、夢の世界じゃなかった……!という話です。いや、幸せで温かくて楽しくてワクワクして、まるで夢のようではあるんですけど、でも覚めないんです。これを書いている今はもう、コンサートの翌日になるんですが、まだちゃんと補充されたパワーが残っている。

会場を出ても、電車に乗っても、家についても、現実に戻って冷めるとか、落差で沈むとかそういうことがなくて、ただ、ちゃんと心の中に日常を生きる確かな活力が残る。

明日も頑張ろうだなんてあんまり普段思わないのに、頑張れるような気がしてしまうし、何とかなるんじゃないかな、と思えてしまう。それは確実に、あの空間で受け取ってきた楽しさや、人の熱量、音楽の力のおかげだし、あらゆる方向に愛が飛び交うあの空間にいたことで、自分の中の何かに対する「愛おしい」という気持ちがたっぷり充電されたからだろうと思うのです。

もちろん幸せすぎるぐらいに幸せで、とっても非日常な空間だったけれど、その非日常の力をちゃんと日常に連れて帰ってこれる、というのは、本当にすごい。すごいし、何度も言ってしまうけれど、とっても嬉しくて幸せです。

昼も夜もたっぷりの愛情を受け取って、音楽とお芝居の力をあらためて感じて、本当に幸せな一日だったし、そこから帰ってきた今もちゃんとその力は残っている。それが、大袈裟じゃなく、明日を生きてみるかと思える活力にちゃんとなっている。

 

そんな贅沢な空間に昼と夜、思う存分浸らせてもらえて本当に本当に幸せな一日だったな、と思います。ありがとうございましたじゃ全然足りないぐらいに感謝が溢れている。

そんなわけで、どうやってこの感謝の気持ちと幸せと興奮ともろもろの想いを自分の中に置いておけばよいのかわからず、とりあえず勢いだけで書き連ねました。

 

本当に、幸せな時間をありがとうございました!

GHOST

ミュージカルGHOST、観てきました!

 

…いや、観てきました、というより3月毎週観に行ってきました!のが正しいですね。3月はクリエに通ってました。

GHOST、観る度に自分の中で印象がくるくる変わっていったのがすごく面白くて。でも、放っておくとその記憶もだんだん薄れてしまいそうなので、またまたとりあえず、記録を残しておきたいなと思います。

 

ということで以下、3月GHOST備忘録です。

 

 

そもそも『GHOST』という作品自体、私は見たことがなくて、ストーリーもざっくり(主人公が幽霊になる、恋愛もの、親友が裏切るらしい)程度にしか知らなかったのですが、今回もとりあえず、初回は事前情報は入れずに向かいました。複数回観に行くことが初回観劇時に確定していたので、まあとりあえず最初は感覚で掴めばよいかな、と。

 

1.ふわふわの1回目

さて、まずは初回の話。

My初回は3月6日(土)ソワレ、桜井さんの初日の回を観に行きました。

これは多分Twitterにも似たようなことを書いたんですが、この日、初めてGHOSTを観た時、率直な感想として一番強く残ったのが「音の圧が、思ったよりも強め……!!」ということ。

冒頭、GHOSTの文字が浮かび上がり、静かに曲が始まったかと思ったら、いきなりドーン!!と大きい音がくるのでまずちょっと心臓がびっくりする。その後もオダ・メイの登場曲等々、結構楽曲のパンチが強い。ざっくりと「切ないラブストーリー」というイメージだけ持って観にいったので、思っていたよりも明るく勢いよくパーン!ドーン!と進んでいく曲や場面が多くて、純粋にずっとびっくりしてしまっていた。地下鉄の彼のところも、2回目以降は良い意味で異質なあの場面がすごく印象に残るな…と思っていたのだけど、初回は割とずっとあの足のカーン!の音のボリューム感に慣れなくてただびくびくしてた。

行きの電車でぐっすり寝ていってしまったからなのか、時間帯的に(ソワレ)副交感神経優位で大きい音への耐性がなかったのか、はたまた予想していたものと違くて脳が驚いてしまったのか……何が原因なのかは分からないけど、とにかく初回は私の受け入れ体制が整っていなかったようで、大きい音が鳴るたびに目をまんまるくしてた。我ながら小動物みたいだった(もはや感想じゃない)。

 

そんなこともあって、初回は「何か、少し置いてかれているな……」という気持ちで観ている時間が多かったなと思います。客席からも自分が浮いているような感覚があって、舞台の上で進む時間軸にもついていけていないような気がした。疎外されているわけでもないのになぜか勝手に疎外感を感じてしまう謎状態。セルフ蚊帳の外。

これまでに複数回観た作品も、初回は第三者の視点、あくまでも他人事として観ている感覚が強いなと思うことが多かったけれど、なんかそこですらないというか。多分第三者視点って「観客の自分」としての視点なんだと思うんですが、「観客の自分」自体が場から浮いてしまっていたので、自分の置き場が分からなかった。ので、特に前半はずっとふわふわした状態で観てました。

後半は少し場に慣れてきたけど、やっぱり舞台上の誰かでも、客席の一部でもなくすごく遠いところから観ているような感覚があって。それでも最後、サムが階段を登っていってしまうあの場面、何故か分からないけど泣いていて、それが自分ですごく不思議だった。誰に感情移入することもなかったけれど、ずっとするするとすれ違い続けていた二人が、最後の最後、サムが消えてしまう前に触れ合うことができて、お互いの気持ちを確認し合うことができて、私はたぶんあの瞬間安心したのかもしれないな、と後から思った。

 

帰り道、ストーリーは追えてはいたし面白かった気はするんだけど、何か、自分が何を感じていたのかあんまり分からない、観たはずなのに観たような感じがしない、本当に観てきたかな私……?と不思議な気分で電車に揺られていた。

帰りの電車(約一時間)で観てきた作品の余韻にどっぷり浸るのが舞台帰りの恒例行事なんですが、その日は浸れる余韻が遥か彼方。その後に見たカテコの幸せな記憶はめちゃくちゃ残っているのに、肝心の作品自体の記憶がものすごく淡い。音楽も頭の中で浮かべられない。な、なぜ………と思いつつも、カテコの挨拶を思い出しながら「とりあえず、無事に観られて良かったなぁ」「幸せだなあ」なんてマスクの下でにこにこして、作品の余韻はあきらめて、観られた幸せに浸ることにして帰宅した。

 

…と、いう極めてふわふわした一回目。自分に合わないとか面白くないとかいうわけではなく、ただひたすら場に自分が馴染めない……というのが初めてだったので、何だか不思議だった。自分が観てきたはずなのに感想がほとんど湧いてこないというおかしな感覚。

ただ、色々要因はあるだろうけど、やっぱり初回だったからというのは大きいだろうな、と思っていたので、家に着いてからはとにかく「早くもう一回観てみたい……!」という気持ちでいっぱいになった。

 

 

 

2.「入れてもらえた」気がした2回目

「もう一回観てみたい!」から1日。つまり翌日、2回目を観に行きました。今度は咲妃さんモリー

 

前日は下手前方席だったんですが、この日は中央後方席。座った瞬間、多分とても観やすいだろうなぁという感じがしました。加えてこの日はマチネ、初回と違ってほわわんとした状態ではなく、頭も身体も冴えている昼の活動モードだった(意図的にそうなるようにしていたところもある)ので、「これは昨日みたいな感じにはならないんじゃないかな……!」と何となくほっとしたし、ワクワクした。やっぱり輪の中に入って観てみたかったから。

 

2回目、幕が上がり、GHOSTの文字が見えた時に思ったのが、後方中央席で見るとこのオープニング、映画の始まりのようでワクワク感が増すのだなということ。始まる前の高揚感も、始まりの音が流れ出した時の「始まった………!」感も、引きで見たほうがより感じられるような気がした。

最初静かに始まった音楽が、だんだんこちらに近付いてくるように大きくなる。そして最高潮に達した瞬間、今まで映画のスクリーンのように閉じていた透明な扉が少しずつ開いてゆく。扉の向こうのGHOSTの世界が、こちら側にだんだん開かれる。そうだ、映画じゃなくて舞台なんだ、とはっとする。今からここで始まる物語は、画面の中の届かない世界ではなくて、私の目の前で進んでいくんだ。そう思ったら、なんだか初めて舞台を観に行った時のような気持ちになった。始まった瞬間から物語の中に引き込まれていくような高まる感覚。

この瞬間、わくわくしたと同時に前日よりも「馴染んだ」ような感覚が湧いてきたのが面白かった。それが場に対してなのか、作品自体に対してなのかは分からなかったけれど、「これはきっと、昨日みたいに置いてかれずに一緒に楽しめるのでは……?」という予感がして、冒頭から少し嬉しくなってしまった。

 

そして予感は当たり、その日はその後のストーリーも音楽も、同じスピード感で一緒に楽しむことができた。そう、思い返せば初回は音楽すらあまり頭に入ってこなくて、周りに合わせて手拍子はするも私の中身は完全に置いてけぼりだったので、身体の動きと同じぐらいに頭も心も音楽を楽しめている状態がとても嬉しかった。リズミカルな曲に心ごと乗れていて楽しかった。客席の中にも、GHOSTの世界の中にもちゃんと入れてもらえたような気がして。

 

2回目は、客席の視点、物語や登場人物達を外から見ている視点がしっかり持てたな、と思う。それも、完全第三者ではなくて、あの場所で生きている彼らの近くで見られたような気がした。多分、上でも書いたように、始まったあの瞬間、GHOSTの世界に引き入れてもらえたように感じたあの瞬間が大きかったんじゃないかなと思う。最初からGHOSTの世界の扉の中に入れてもらえて、彼らと同じ時間を過ごすことができた。すごく感覚的な話だけれど、それでもあの世界にちゃんと「入れてもらえた」ような気がしたのだ。

あとはGHOST、そもそも話の展開は割と忙しいので、初回は身体的にびっくりしたのもあったのだろうけど、話のスピード感についていけてなかったのもあったのだろうなと思う。話の流れを把握した状態で観た2回目で、ようやくすっとそのスピードに一緒に乗せてもらえた感じがあって、初回よりもずっと楽しめたし、ストーリーも追いやすかった。初回と2回目の印象がまるで違くて、それがとにかく面白かったな、と思う。

 

 

3.サムから見たGHOST

続く3回目は1週間後、マチネ。この日もGHOSTの世界にするっと入っていけたので、終始楽しめました。2回目にも思ったけどやはりGHOST、マチネ向けなのでは……?という結論に一旦至ったのが3回目(あくまでも私個人の話ですが)。

スピード感も速く勢いも割と強め、音楽も華やかで、何というか彩度が高めのミュージカルだなと思うのです。話の内容的に登場人物の感情の起伏が激しいし、場面も音楽もくるくると全然違う方面へ変わっていく。なので、ちゃんと観るこちら側もある種の臨戦態勢というか、がっつりスイッチをONにして観にいかないと、うっかりするとついていけなくなる。寝起きでジェットコースター乗ってふらふら……みたいな状態(初回の私ですね)になるな、と。きっちり早起きして、チケット買って、並んで、ワクワクして、いざジェットコースターに乗ったる!という気分で挑まないと、頂上に近付いていく過程も、びゅんびゅん顔に当たる風も、目の前の変わる景色も、楽しめないじゃないですか、ジェットコースター。そういう意味で、観る前にちょっとだけ心構えが必要な作品なのかな、と思ったりしました。

(あ、とはいえジェットコースターのような作品、という意味ではないです。振り回される、どこに行くか分からない!というニュアンスではなく、あくまでも振り幅が大きくてスピード感が早い、かつ見える景色が鮮やか、というような意味合い。)

 

さて、本題に入ります。

2回目を観て大体のストーリーや登場人物達の動きはもう頭に入っていたので、全体を観る視点にはもう満足していたのか、3回目は自然とサム寄りの目線で見ていたなと思います。不思議なのは、別に「今回は誰視点で観てみよう!」とか考えていないのに、知らない間に、回によって自分の視点が移動していることで、それに毎回観終わってから気付く。この日は無意識にサム目線で話を追っていた。

 

そもそもGHOST、基本的に主人公であるサム目線で話が展開していくんですよね。最初の3人のわちゃわちゃシーンや、銀行で活き活きと働くサムとカール、愛を言葉にして欲しいモリーと、愛は言葉にせずとも伝わるとかわすサム、二人のすれ違い。最初こそ第三者視点で彼らのことを見ているけれど、サムがウィリーに撃たれ命を落とした瞬間から、あの世界はサムの視界になる。

突然暴漢に撃たれ、追いかけたつもりがそこに倒れている自分の身体。泣き叫ぶモリーに声すらかけてあげられず、ついさっきまで自分と同じ世界に在ったものに触れることもできなくなる。ほんの少し前まで、自分と同じ世界にあったはずの人やモノが、自分をすり抜けてゆく。目の前の自分に見える世界は何ひとつ変わらないのに、自分だけが世界にとって異質な存在となる。

GHOSTの世界は、生きている人間/死んでいるゴースト、私達が見ている今の世界/私達には見えない死後の世界、の二つに分かれていて、当たり前だけれど死んだことのない私達は前者の存在であり、前者の世界に生きている。後者の存在も、後者の世界も私達は見ることができない。ゴースト達がこの世界に触れられないように、私たちも彼らの世界に触れることはできない。

前者の世界を【こちら】として後者の世界を【あちら】とするならば、私たちと同じ【こちら】側にいたはずのサムはあの瞬間、突然【あちら】の存在になってしまう。それまではサムにも観客にも一つしか見えていなかった世界が、サムが死んだあの瞬間、二つに分かれるんですよね。生きる者の世界と死んだ者の世界。同じ空間に、二つの世界が重なる。そして、観客である私たちも、サムと共に【あちら】の世界に入り込んでしまったような感覚になる。サムの死後、突然現れるゴースト達。亡くなった後上へと上っていく光。モリーに聞こえない自分の声。ものをすり抜ける自分の手。

二つの世界は同じ場所にあるけれど、その片方にしか存在することはできない。サムは、ゴースト達の姿や声を認識できるようになった一方、今まで関わっていた【こちら】の世界に一切関われなくなる。それは一体どんな感覚なんだろうかと、サムを通して想像してしまった。今この瞬間生きている私たちから、最も遠い場所にあるような気がしてしまう「死」が、ある日突然訪れた時の困惑、今まで当たり前のように自分が存在していた世界に、触れることも関わることもできなくなる恐怖は、どんなものなのだろう。

 

サムが「この人たちは誰だ?」と問うあの場面、彼の周りをぐるりと囲うゴーストはひどく奇妙に映る。それぞれ違う格好をしているけれど、彼らはどこか同じような空気を纏っている。それは恐らく、彼らの共通点である「生きていない」状態が醸し出す空気だ。それは彼らにとっては当たり前だけど、あの時点でのサムや私達にとっては、まったく現実味のないもので。

けれど、自分をすり抜けてゆく人間ではなく、目の前の今まで見たことのない、得体の知れないその存在達だけが、自分のことを認識する。そして自分の質問に「彼らはゴーストだ」「「俺たちと同じ」と目の前の"ゴースト"は答える。俺たち、つまり、サムはもうそちら側の存在なのだ、と突きつける。

それでも、ゴースト達は優しい。サムに過去の自分達を重ねているのかもしれない。自分の状況が受け入れられない、信じられない、死ぬには早すぎる。そう戸惑うサムにただ「手放せ」と言う。もう戻れない、手放すしかない、と。サムの立場に立ってみれば、死んだ後すぐに手放せだなんて無理な話だ、と思ってしまうけど、それすら彼らもきっと通ってきた道なのだろうな、と思う。彼らの言葉が「忘れろ」でも「諦めろ」でもなく、「手放そう」なのが何とも温かい。忘れなくていいし、待っていて良い。でも生にしがみつくな、ということなのかもしれない。 

 

サムは死んでしまったけれど、一人にはならなかった。

死んですぐ、彼を迎えてくれる人がいて、死を受け入れることを見守ってくれる人がいた。だから、その後の彼はゴースト達とのやりとりを何だかんだ楽しんでいるし、死んでゴーストとなった自分の存在に戸惑いながらも、ゴーストとしての振る舞い方をちゃんと身に付けていく。

自分の死を悲しむモリーに対して辛そうな表情は見せるけれど、自分の死それ自体にはどこか吹っ切れているようにも見える。オダメイを巻き込み始めてからのサムは、もはや活き活きしていて、生きている頃のサムと何ら変わりない。何とも順応性が高いサム。でも、実際死んでいく側はそんなものなのかもしれないな、と思ったりする。最初は受け入れ難くて現実味がなくても、そのうち実感が湧いてきて気付いたらすんなり受け入れられているような、そんなものなのだろうか。分からないけれど。

でもだからこそ、GHOSTには明るい音楽が意外と馴染むのかもしれない。ゴースト達は皆明るくて賑やかでフレンドリーだ。遺してきてしまった人のことを心配して待ってはいるけれど、生きる私たちの世界と重なるもう一つの世界で、彼らは彼らの場所を築いている。サムもそんな彼らの世界で、自然とゴーストとしての自分を受け入れていったのかもしれない。

 

最後、ゴースト達に囲まれ、自分の守りたい人を守ることができたサムは、どこかすっきりした顔で階段の下を振り返る。

モリーに「また」と笑顔で告げる彼を見て、「あぁ、手放せたんだな」と思った。最後、モリーに触れることができて、生きている間は伝えられなかった愛をちゃんと言葉にして伝えることができて、ちゃんと自分の生を手放すことが彼はできたんだな、と。やり残したことはまだ沢山あったのだろうけれど、一番やりたいことを最後にしっかりやって、あらためて自分の生を終えられた。きっと、サムは納得してあの階段を登れたんだろう。

そう思ったら嬉しくて、でも最後はずっと近くで見てきたサムがもういなくなってしまうのが悲しくて、観客の自分として涙が出た。サムの視点でずっとGHOSTの世界に居たからこそ、彼が消えてしまうのが悲しかった。あんなに明るくて愛情深くてかわいらしい人、好きにならずにはいられないじゃないか。ずるい人だなぁ、と思った。どこか中の人と重なるサムをすこし恨めしく思いながら、それでも清々しそうに笑う彼を見て安心した。

 

 

 

1回目はどこでもない遠くから、2回目は客席に座る自分として、3回目はGHOSTの世界で生きるサムの視点で。

意図せず全く違う視点から見たGHOSTは、毎回違う印象を私の中に残していって、まるで毎回違う作品を観ているような感覚になった。見る視点によって、ここまで変わるものかと面白かった。湧いてくる感情も、登場人物の印象も、観た後に後から滲んでくる感覚も、毎回異なっていて。

一つの作品を何度も観たときに、回を重ねるたびに、一部分しか見えていなかった地図が広がり、深まっていくようだなと思うことはこれまでもあったけれど、今回は見ている地図自体の数が増えていったみたいだった。別の地図がひとつ、ふたつと増えていって、それぞれで違う世界を覗いているようで。

そしてこの後、4回目のGHOSTでそれがまたひとつ増えて、それらが重なった結果、これまでで一番涙腺が崩壊することになるのだけど、長くなりそうなのでそれはまた次の記事に書くことにする。

 

 

ひとまず1回目、2回目、3回目のGHOSTの記録でした。

遅ればせながらGHOST東京楽、おめでとうございます。日比谷で何度もGHOSTの世界を味わえたたこと、とっても幸せに思います。最後まで無事に駆け抜けられますように。

 

ありがとうございました!

(GHOST②につづく(予定))

天保十二年のシェイクスピア③

2020年2月28日。

私が天保十二年のシェイクスピアを最後に観に行く予定だった日。

 

* 

2月8日、開幕したその日から楽しみで、早く観に行きたくて仕方なかった。推しが数年ぶりにやるという舞台を自分が観に行けることも、いつも画面の中で見ている推しのお芝居が生で見られることも、そもそも初めて舞台というものを観に行けることも、全部嬉しくてたまらなかった。すべてが未知で、自分がそこで何を感じて何を思うのか、全く想像がつかなくて、だからこそ、私はあの時期、ひょっとすると人生で一番かもしれない「楽しみ」をずっと大事に大事に抱きかかえていた気がする。

 

そして初めて観に行ったあの日、その「楽しみ」を遥かに超えるぐらいの「楽しい」で身体中が埋め尽くされて、私は帰りの電車も、家についてからもずっと楽しくて仕方がなかった。何かを見て、こんなに楽しいことがあるんだと驚いて、そんな風に自分が感じられたことが嬉しくて、そしてやっぱり楽しくて、身体の中の全細胞がはしゃぎ回っていたと思う。

私にとっての初日、2月13日。当たり前のように、自分が観た舞台がそのまま終わりまで続いていって、終わってしまうことを惜しく思いながらも幕が閉じていくんだろうと思っていたし、自分が最後に観に行く日にはきっと「あぁ、これで最後か」なんて淋しくなりながらも、自分にとっての最終日を堪能するんだろうなと思い込んでいた。

思い込んでいた、と書いたけれど思い込んでいたとも思っていなかった。初めて舞台に観に行く身でも、舞台の幕は開いて、閉じるものだと勝手に思っていた。そういうものだろう、というもはや意識の外にある根拠のない安心感、信頼感。今考えるとなんとも能天気なものだけれど、日常の中にいる人間なんてそんなものだろうとも思う。その頃の私はまだ非日常が始まる予感なんて微塵も感じていなかった。

2月後半、だんだん雲行きが怪しくなってくるまで、私はただあの作品の面白さに、それを観れる嬉しさに浸っていた。

 

2月27日、もうその日が最後になるかもしれない、という空気が薄らとあった。

観たい、観れると期待したい、でも観れないかもしれない、でも勝手にこちらが諦めてしまうのは失礼だろう、何より私が最後の観劇を諦めたくない、でも状況を考えれば中止する可能性の方が大きいかもしれない、でも、それでも観たい、ちゃんとこれが最後だと思って観たい、千秋楽まで走り抜けて欲しい、せめて、せめてあと2日。

あの日、発表されるまで、頭の中ではずっと、もう一度観たいと願う感情と現実的な可能性の低さを(考えたくなくても)考えてしまう思考を行ったり来たり、留まることなくずっと往復していた。諦めてしまうには楽しすぎたんだと思う。観れないかもしれないな、だなんて冷静に状況を眺めることも、その可能性を自分の中ではっきりと認識するような覚悟を持つこともできなかった。

 

中止が発表されたときは、ただただ悲しかった。普段、大体良くも悪くも事前に予防線を張ってしまうため、がっつり落ち込む、がっつり悲しむということがあまりないので、「悲しいってこんなに悲しいんだな」と、ひどく単純なことを思った。喜怒哀楽の真ん中二つでいったら、私は普段怒を感じる割合の方がずっと多かったんだなと気づいた。

悲しいは、こんなに悲しいのか。自分が観れると信じ込んでいた「あと一回」がもう来ないこと、天保十二年のシェイクスピアが終わらないまま終わってしまうことが、ただ悲しくて仕方なかった。

 

ただ、それでも2月28日、公式HPにあげられた高橋さんのあの挨拶を読んで、私はものすごく救われたことを覚えている。

「僕たちがやらせて頂いている「お芝居」というものは、木場さん演じる〈隊長〉が前口上で仰っている通り「趣向」です。「娯楽」といってしまえばそうなのかもしれません。いつの時代も、僕の知り得る限り、多くの場合において、有事の際、芸術やお芝居などはトカゲの尻尾切りのように世の中から捨て置かれてしまうような存在だと思っています。しかし、僕の思いとしては、この「娯楽」というものが人の心というものを豊かにする重要なものなのではないか、と思っています。
娯楽というものが世の中からなくなってしまったら、きっと皆さんの心は、お芝居をさせていただいている僕らも含め、「豊かな心」がどんどん失われていってしまうと思います

公演中止という判断をせざるを得ない状況にまでなってしまいましたが、僕の考えといたしましては、次また皆さまと「お芝居」の場所で会えること、それはまた〈隊長〉の言っていた通り「想像」をする場所で会う、ということなんです。

僕はこの公演を通して、〈三世次〉という役を通して、もしかしたら世間では本当に悪い奴だと糾弾されてしまうような人も、どうしようもない事情でそうなってしまったのかもしれないと考えられる「想像力」を、改めてこの作品から頂きました。そんな力を共有できたら、豊かな心づくりをし合えたら嬉しいなという思いでもお芝居をして参りました。お芝居の場所はそういった想像力を共有する場所だと思っています。

今日の発表は、非常に残念ではありますが、またこういった場所で、皆さまと想像力を共有できるようになるための措置であると僕は願っています。

日生劇場 絢爛豪華 祝祭音楽劇『天保十二年のシェイクスピア』

 

2019年、個人的に中々しんどいことが山積みだったあの年、私は2月の天保十二年のシェイクスピアを目指して何とか生き延びていた。天保を待つ間もしんどい現実から逃れさせてくれるのはいつだって物語の中の世界で、小説、ドラマ、映画、漫画、それら物語の世界に浸るたびに生き返るような心地がした。そして待ち侘びた2020年2月、天保十二年のシェイクスピアを初めて観たあの日、本当に生きながらえて良かった、と心の底から思った。あの頃、娯楽は私にとっての救いで、ご褒美で、生きる糧だった。

 

だからこそあの時、そしてその後もしばらく、人が生きる上では不要だ、それがなくとも社会は回るのだと言わんばかりに、あらゆる娯楽が日常から排除されていくのを見て、とても「仕方ない」とは思いきれなかった。仕方ない、仕方ないと頭の中で重ねるたびに「どうして」が浮かんできてしまう。

その度、高橋さんの言葉を頭の中で繰り返していた。

 

娯楽が私たちの心を豊かにする

娯楽がなくなったら、私たちの豊かな心は失われていってしまう

お芝居の場所は、想像力という力を共有できる場所、皆で豊かな心づくりをし合えたら、と高橋さんが思いを込める場所で

今のこの時間は「またこういった場所で、皆さまと想像力を共有できるようになるための措置」

 

その言葉の中にあるものを、その言葉の中にある言葉以上のものを、何度も自分の中で繰り返した。

高橋さんのあの挨拶を読んだとき、皮肉にもこれまでで一番、「あぁ、本当にこの人を好きになって良かったなあ」と思った。この人を応援できて、この人を見ていられて、この人を好きでいられて、本当に幸せだと心から思った。役者さんとしても、人間としても、この人の姿を今見ていられることがどれだけ幸せなことか。彼の言葉を読みながら、ものすごく悲しくて、でもものすごく幸せだと同時に思った。ごちゃ混ぜで訳わからない感情で何度も読み返した。

それぐらい、あの言葉に救われた。

 

 

なぜこんな話を書いたかといえば、私が「推しが増えた話」をするには、やっぱり天保十二年のシェイクスピアと、そしてそれが中止になってしまったあの日と、その後日常が一気にがらりと変わったあの数ヶ月間の話が不可欠だなあ、と思ってしまったから。

できるならあんなことが起こらず、あんな期間も存在しない世界線で生きたかったけれど、「今ここ」の「高橋さんと浦井さんを推している私」に辿り着くまでの間には、やっぱり2020年の非日常な日常が存在してしまう。そうでなければ辿り着けなかった、なんてことは思わないし思いたくないけれど、実際その期間と、私が浦井さんに惹かれていった期間はぴったり重なっているので、どうにも離しようがない。私はこの世界線に生きていて、この世界線で彼を好きになってしまったので、その経緯を思い返そうとすれば、勝手にそれらはついてきてしまう。だから一緒に語るしかないな、と少し腹を括って、あの日のことから書いてみることにした。

 

思い出したくない、とは思わないけれど、あの時期を思い出すのは今でも結構しんどい。実際のところ、四度も観ることのできた私は幸運に違いないのだけれど、人間の(というか私の)心はそんなに器用にはできておらず、相対的に自分の辛さを捉えることなんてできなかった。観られただけ幸せだ、と言い聞かせても悲しいものは悲しかったし、もう一度観たかったものは観たかった。何より、最後まで走り切った天保十二年のシェイクスピア千穐楽を祝いたかった。初めての舞台の、初めての千穐楽を見届けてみたかった。おめでとうございます、と心から言いたかった。今でもそう思ってしまう。

 

それでもあの時、高橋さんの言葉で私は救われた。天保十二年のシェイクスピアが終わらずに終わってしまった現実は正直、その後もしばらく受け入れられなかったけど、自分の中で「悲しい」「嫌だ」「観たかった」「なんで」「見届けたかった」「どうして今?」と洪水のように迫ってくる行き場のないごちゃごちゃの感情を、そのまま流しておいていいんだと思えた。なくならないし、収まらないし、終えられないけど、それでもいいやと。

 

2月28日、最後に観るはずだったあの日、「あと一回観られる」と思っていた天保十二年のシェイクスピアにも、「あと一回来られる」と思っていた日生劇場にも、どうしてももう一度会っておきたくて、日比谷に向かった。もう一度、と思ったまま終わってしまってはどうにも区切りがつかないような気がして。

 

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2月、日生劇場に通っていたあの頃、何度もこの角度から写真を撮ったけれど、この写真は他のものとは全く違う何かを放っているな、と今でもカメラロールを見返しながら思う。最後だ、と思いながら、最後なんだよな、と言い聞かせながら撮った一枚。私のTwitterのヘッダーはあれからずっとこの写真だけれど、きっと自分の中である種の願掛けのようなものなんだろうと思う。あの日、この写真を撮った気持ちを忘れたくないし、叶うならばもう一度この景色を見たい。

あれから、藤田さんや宮川さん、そして浦井さんの口からも「いつかもう一度」を待っていてもいいのかもしれない、と思えるような言葉を聞けた。けれど、あの頃はまだ何も分からなかったから、願っていいのかも分からず願っていた。もうここに来ても観られないんだなぁ。もう彼らには会えないんだなぁ。そう思いながら、そう言い聞かせて無理矢理実感を湧かせながら、それでも願わずにはいられなかった。どうかもう一度、と。

 

そうしてしばらく日生劇場を眺めて、写真を撮って、また眺めて、「流石に帰るか」と地下鉄に続く階段の入り口へ向かった。階段を下ろうとしたら、少し遠くにトラックと、黒い服を着た人達が十数人。何だろう、と思って、近くを通り過ぎてみようか、ともう一つ向こうの階段まで歩いてみることした。黒い服の人たちの横を通りすぎながら、ちらりと彼らの姿を見てみたら、「黒い服」はどうやら見覚えのあるTシャツだった。背中には「天保十二年のシェイクスピア」の白い文字。

あ、と気付いて、足早に立ち去った。何となく、見てはいけないものを見たような気分になってしまったから。無観客で行われた事実上の千秋楽の日、劇場にいないはずの「観客」が、終わった後の舞台裏を勝手に覗いてしまうのは、何だか悪いことをしているようで。実際そんなことはなかったのかもしれないけど、分からないけど、何となく早く立ち去らねば、と思ってしまった。でも、スタスタと階段に向かって歩いていきながら、何となく名残惜しくなって、つい後ろを振り向いてしまった。まだそこに残る黒い服の人達、あらため天保十二年のシェイクスピアのスタッフの方々。

この人達が、この舞台を見えないところで支えてくれていたんだなぁ。私はこの人達のお陰で、あんなに素晴らしい舞台を観ることができたんだなぁ。普段は見ることのできない、普段はお礼を伝える宛先も分からない人達が目の前にいると思ったら、たまらなく嬉しかった。ありがたかった。とはいえ、お仕事中のスタッフの方々に「ありがとうございました!!とんでもなく素晴らしかったです!!!!とっても好きです!!!!」と直接伝えるわけにもいかないので、とにかく「ありがとうございました」と遠くから目だけで念を送っておいた。どうか1ミリでも届きますように、と念じながら心の中で一礼した。そしてまた暫く見つめてから、階段へと向かった。それが何となく、あの2月の天保十二年のシェイクスピア期間の、最後の記憶として残っている。たぶん、ずっと忘れないんだろうなと思う。

 

あれから10ヶ月近く経つ。もうすぐ、手元に天保十二年のシェイクスピアが届く。あの日観られなかった、幻の2月28日公演の映像。

私にとって天保十二年のシェイクスピアの終わりは、今も続く非日常の始まりで、なんとなくあの時以降、それ以前、という感覚がある。そしてあの時から今までずっと、予想することもできなかった非日常を私は生き続けている。すっかり日常になってしまった非日常に慣れながら、毎日を過ごしている。

天保十二年のシェイクスピアの幕が閉じてから、3月が明けて、それから春も過ぎて、夏が来て、秋が来て、それももう終わって、またあの頃と同じ冬が来る。とはいえ「あっという間だった」という感覚は今年はあまりなく、ただ変な時間感覚だったなと思う。長かったはずなのに、中身がぼんやりしている。過ごした時間の中身が濃密だと、時間の流れが長く感じることはよくあって、その場合は中身がくっきりしていることが多い。1週間前が遠く感じる時は大体、解像度が高くて、彩度の高い記憶が詰まっている。けれど、今年はそうではない。なんとなく長くて、間延びしていて、中身がぼやけていて、悪いことばかりかといえばそんなことはなかったけれど、何とも言いがたいぼんやりした空虚さみたいなものが根底にずっとあったような気がする。

そんな中、あの2月の記憶は少し異様なぐらい、ものすごく鮮明で、くっきりしている。狂おしいほどに楽しくて、興奮して、面白くて仕方がなかった、煌びやかで、色鮮やかで、幸せな記憶。普段の感情のメモリが30、40ぐらいを往復しているとすれば、あの頃の私のメモリは高頻度で150ぐらいに振り切れていた。観に行ったその日はもちろん、電車の中で、家の中で、友人といる時でさえも、天保十二年のシェイクスピアを脳内で思い返しては幸福感と高揚感に浸っていた。こう書くと完全に危ないやつだけれど、たぶん実際危ないやつだったのだと思う。とにかく幸せで楽しくてしかたがなかった。

そして、そんな幸せな記憶に、時間に、私はその後の数ヶ月間ものすごく助けられた。自粛期間中、なんとなく鬱々としてしまったとき、特に理由もなく全てが面倒臭くなったとき、新しい生活に疲れ切って気力が皆無になったとき。今年は心の免疫が何となく下がっていたような気がして、人の悪意とか圧とか場の空気の不穏さとか、そういう日常にぽつぽつ転がっている攻撃力の高い要素からのダメージを、ストレートに受けてしまってぐさっと刺されてしまうことが多かった。防御壁がうまく出てきてくれないのでその度に削られていた。

そんな削られがちな日々の中で、天保十二年のシェイクスピアは私にとってのとっておきの特効薬だった。日常的に思い出すのではなくて、ここぞというときに思い出す記憶の特効薬。彬良さんがあげてくれた天保十二年のシェイクスピアの音楽は、聴けばあの2月に連れて行ってくれる魔法の乗り物だったし、プログラムを読めば脳内で一人上映会も開催できた。部屋には王次のキーホルダーが特等席に飾ってあるし、三世次は今日も私の鍵にぶらさがってキーホルダーの役割をきちんと遂行している。あの日、一度天保十二年のシェイクスピアが終わってしまってからも、私の中にはずっと天保十二年のシェイクスピアがあった。

楽しくて幸せで仕方なかった記憶をひとつ持っているというのは、ものすごく強いなと思った。たとえば、とても信頼している、側にいると心強い友人がいたとして、その人を「ふふ、私にはこんな素敵な友人がいるんだぞ」とその人を誇らしく思う気持ちに近いかもしれない。「へへへ、私にはこんなに楽しくて幸せで満たされた記憶があるんだぞ」と自慢げに思える記憶。誰に、とかではなくて、自分の中で心から自信を持って途轍もなく幸せだったと言える記憶を持っていることは、ひとつのお守りみたいなものなんだなと思った。何か気分が落ちたとき、沈んで戻って来れないとき、気持ちに区切りをつけたいとき、私は必殺技のように天シェの記憶を思い返していた。不思議なのは、いつ思い返しても「あの頃は幸せだったなあ」と過去の自分を羨む気分にはなることはなくて、「そうだ、私めちゃくちゃ幸せだったんだよな…その幸せな記憶が、私の中にちゃんと残ってるんだなあ」と、今ここの自分に力が戻ってくること。「そうだ、私にはこれがあるんじゃん」と思えて、なんだかむくむくと元気が湧いてくる。過去の幸せな記憶が、今ここに生きている自分の心の強度を高めてくれる。なんか、それってすごいことだなぁと思った。

 

 

天保十二年のシェイクスピア①」、「天保十二年のシェイクスピア②」と、天保十二年のシェイクスピアの感想を書いた。感想というよりはほとんど日記だったけれど、一応感想のつもりで書いた。今回の「天保十二年のシェイクスピア③」は、まるまる、天保十二年のシェイクスピアへの感謝の気持ちを、やたら長い言葉に変換して形にしたものになっている。天保十二年のシェイクスピアという存在そのものに対しての感謝。いや、たぶん「感謝」という言葉だと確実に足りていないし、何となくきれいすぎる気がする。もちろん感謝の気持ちはものすんごくあるけれど、それは一部で、私が天保十二年のシェイクスピアに抱いている感情はもう少し範囲が広くて、たぶんもう少し色々複雑で拗れている。とはいえこの10ヶ月天保十二年のシェイクスピアに抱いてきた愛は激重なので、私の知る限り当てはまる日本語が思いつかない。元々ない語彙力をさらに放棄して言うなら、あれです、ビッグラブ。本当にビッグラブ。それに尽きる。

 

そんな訳で、もともとは「推しが増えた話③」のつもりで書き始めたけれど、書くうちにすっかり「天保十二年のシェイクスピア③」になってしまった。とはいえ天保十二年のシェイクスピアはそもそもこの話の原点なので、「天保十二年のシェイクスピア③」であり「推しが増えた話③」でもあるのだと思う。

 

もう12月になり、あと2週間でようやく天保十二年のシェイクスピアBlu-rayが手元に届く。あの2月、私が観てきたものをもう一度観ることができる。あの日、私が日生劇場をただ見に向かった2月28日、そこで行われた天保十二年のシェイクスピアの千秋楽を、10ヶ月経てようやく観ることができる。

その前に、これを書けて良かったな、と思う。私が2020年2月に観た天保十二年のシェイクスピアを、自分の中で一度納めておきたかった。私の中の2020年と天保十二年のシェイクスピアについて、ちゃんと今年のうちに文字にできてよかった。もう一度観る前に、ちゃんと振り返ることができてよかった。本当にたくさんたくさん、お世話になったから。

天保十二年のシェイクスピア、ありがとうございました。

 

さて、

ひとまず「ありがとうございました」だけれど、そんな訳で再来週とうとう、私の天保十二年のシェイクスピアが家にやってくる。手元に届いてくれるBlu-rayのおかげで、私はこれからも天保十二年のシェイクスピアを何度も観ることができる。これからもずっと、ありがとうございますを更新し続けることができる。めちゃくちゃ幸せだ。

 

それでは、あと2週間、天保十二年のシェイクスピアへの愛をぐつぐつ煮込みながらBlu-rayを待とうと思います。我が家に天保十二年のシェイクスピアがやってくる幸せを噛み締めながら。

 

良い年末になりそうだなあ。