140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

天保十二年のシェイクスピア①

140字からははみ出すけれど、とはいえブログに書くほどの大したことは書けないなあ、と思いつつ。

どこかに記録しておかないといつの間にかすっぽり頭からぬけてしまいそうだから、やっぱり自分用に保存しておこうかと思い立って書いてみる。

 

 

初めての舞台、初めてのミュージカル、初めての推し、高橋一生という人の、生のお芝居。

 

劇場に足を運ぶのも初めてだったし、舞台のチケットを取るのも初めてで、

日比谷も初上陸だし、舞台慣れしていそうなマダムだらけ(イメージ)(とはいえ実際そう見えた)の日生劇場に足を踏み入れるのも、なんだかひどく場違いなような気がして、少し緊張してしまった。

 

とはいえ、初めて、はやはりワクワクする。

出たことのない改札を抜けて、あぁこれが帝国ホテルか、これが宝塚劇場か、へぇ日比谷公園ってこれか、なんてキョロキョロしながら周りを少し散策して、やはりお姉様方で溢れる日生劇場に入るのも、ドキドキしながらも楽しかった。

初回は手持ちのお金が少なくて、何も買わずにそのまま中に向かったのだけれど、席についてからもソワソワした。

「あぁ、本当に来れたんだ」

と、座ってからようやく実感が追いついた。

 

 

結局、私は4回も観に行くことになったわけだけれど、全部の回が新鮮で、面白くて、それぞれちゃんと、頭の中の違う引き出しに分けられて残っている。

正直、学生の私には大分痛い出費だったけど、でもすべての回、本当に毎回毎回観終わった後、来て良かったなあ、と胸が満たされた。

ので、痛くても買って良かった。行けてよかった、本当に。

 

買わない後悔よりは買った後悔!(ロマド舞台挨拶のタナダさんが浮かぶ)と、思い切ってどんどんチケットを買ってくれたいつだかの私に感謝したい。

お金はなくなったけど後悔は一ミリもしてないので、大正解。

 

 

 

さて、まず。

 

初回、私にとっての初日、2月13日ソワレ。

あの日はもう、とにかくずっとずっと楽しくて仕方がなかった。

観ている最中も、幕間にトイレに並んでいる時も、終わって外に出た後も、Twitterで呟きながらも

 

「すんごい楽しい、どうしよう」

 

ばかりが頭を占めていた。楽しすぎてずっとアワアワしていた。

 

(帰りの電車でも多分ずっと目をキラッキラさせてた。帰り最寄駅で寄ったトイレの鏡に映った自分の目が、いつもの5割増しぐらい開いていて、世界(自分の見える視界)に対する興味が最大になると人はこういう目になるのか、とびっくりした。目が生きてた。)

 

なんで楽しいのに「どうしよう」とか、「アワアワ」とかだったのかと今考えてみると、多分あの日は「楽しい」に浸食されすぎて、完全に理性が飛んでいたから、だと思う。

完全に場に呑まれてたし、「面白い」とか「生の高橋さんだ」とか、そういうものが予想以上に全く出てこなかった。

 

そんな状態でも、一応何となくのストーリーは追えていたけど、あんまり何かの作品を見ているという気分にはならなくて、ただ、「天保十二年のシェイクスピア」という世界がリアルタイムで繰り広げられているあの場に、自分が今居るのだという感覚だけあったなと思う、あの日は。

 

舞台上で楽しそうに今、この瞬間に自分の目の前で芝居している人たちを初めて見て、それを観て同じく楽しそうにしている周りの観客達を見て

そこに踊りたくなるような音楽(もしもシェイクスピアが〜)、口ずさみたくなるような音楽(賭場の場の〜)、メロディがたまらなく好みの音楽(焔はごうごう〜)なんかが鳴っていて、もう、そりゃあ楽しくて仕方ないわけだわ……

 

そんな楽しくて仕方ない場に自分がいて、自分もびっくりするほど楽しくて、内側で膨れあがる楽しさに際限がなくて、コントロール不可能で、もしかすると私はちょっと怖かったのかもしれない。

多分そこからくる、「どうしよう、すんごい楽しい……」だった。

 

人間楽しすぎると「どうしよう」と思うんだな、という発見。

理性も思考も冷静さもすべてぶっ飛んで「楽しい」しかなくなると、自分のストッパーの皆無さに少し恐ろしくなるけど、もはやそれすらも楽しかった。際限ない楽しさが自分の中から湧いてくるのが、不思議で恐ろしいけどそれも楽しかった。

から、あれはなんだかすごかった。何だったんだろう。2回目以降にはない異様な楽しさ。とにかくとにかく楽しかった。

 

何をずっと楽しい話をしてるんだと思うけど、まだしちゃう。だってあの日、本当に「楽しい」しかなかったから。

 

多分初回、私は自分が目の前で見てるものをあまり対象化できてなかったんだろうなと思う。

【自分→舞台】という感覚にならなくて、

 

【舞台 その上にいる登場人物 観客 その一部として存在してる自分】

の居る空間で視点があっちにいったりこっちにいったり、主観も客観もごちゃ混ぜになって、境目のない中でふわふわ浮遊しながら、かといってあの場と一体化してたかとか、そういうわけでもなくて、目はずっと舞台に釘付けになっていて、確実に「観て」はいて。

…なんてまあ抽象的な表現しかできないような感覚にあの日の私はなっていて、とにかくあれは初日にしかない感覚で、楽しさの究極だったと思う。

 

 

家に着く頃、ようやく幸せだなあと実感が湧いた。

初めての舞台が、ミュージカルが、初めて見る高橋一生の舞台が、天保十二年のシェイクスピアで、なんて幸せだろうと思った。それを今日、自分がこの上なく楽しく観れたことが、なんて有難いことだろうかと。

 

そんな楽しさいっぱい、幸せいっぱいが初日、13日だった。

 

 

そんなこんなで初回が一番、感覚で見てたなと思う。

 

何となくの人間関係とか、話の流れとかは掴めていたけど、パンフレットも天保水滸伝も読んでいなかったから、

笹川とか助五郎とか花平とか紋太とか、派閥の名前が特に入ってこなさすぎて混乱したけど、出てくる人と場の雰囲気で全部何とかしようとしていた(力技)。突然でてきた関八州親分州のおじさん達が誰だか分からなすぎたけど「偉い人なんだろうな」ぐらいで見てた(雑)。

 

それでも置いていかれることはなくて、何となくはついていけたから、ちゃんと教養持ち合わせてない(シェイクスピアの元ネタも多少しか知らない)初見の人でも楽しめるように作られてるんだなぁ有難ぇ、なんて次の日に寝ぼけた頭でぼんやり思って、後日パンフレットを読んで平伏。

 

「大衆性と文学性の両方のミックス」。

大衆代表です、こんにちはと思った。

多分今の私はほとんど大衆性の面白さしか受け取れていないのだろうなと思うけど、それでも天保十二年のシェイクスピアの中に根っこに流れている何か、一部ぐらいは感じ取れていた気がする。だからこそ多分、シェイクスピア作品を観てみたくなったし、読みたくなった。何か私ごときが手を出しづらいなと思っていたけど、読んでもいいかもしれないなと思えた。

 

大衆性を下に見る訳でもなく、シェイクスピア作品や文学を上に上げる訳でもなくて、かといって後者を斜めに見るわけでもない、シェイクスピアへの敬意はそのままに、シェイクスピアを何というかこっちの側まで持ってきて程よく高尚さを崩してくれて、その両方の楽しさを教えてくれるこの作品を、私はこの歳で見られて良かったなと思う。私にとっては大分高かった敷居を下まで持ってきてくれてありがとうございます、井上ひさしさん。

なんてことをパンフレットを家で読みながら思った訳なんだけど、とまあそれは2回目の観劇の後の話だけど。

 

 

なんの話だっけ。まあ、とにかく1回目は頭を何にも動かさずに観ていて、

だけどそれでも本当に十分に、十二分に楽しめた。

私の場合は、特に初回に限っては、だからこそ楽しめたみたいなところもあったけど。なーんにも考えずあの場に身を委ねてたら楽しくて仕方がなかった。それで良かったなと思う。

 

はぁ、今思い出しても、あの1回目の楽しさは尋常じゃなかった。「楽しい」しか出てこなかったかわりに、身体中が「楽しい」で埋め尽くされてた。

 

 

そんな初回、私の中で三世次はあくまでもあの物語全体の中のひとりで、「なんか私は凄いものを見ているぞ…」とゾクリとはしたけれど、あくまであの世界の中に馴染んだ一人の人だった。もちろん主役だし、演じているのは高橋一生その人だし、印象に残らないわけはなかったのだけど、でも初日は「三世次が三世次でしかなかった」とぐらいにしか、後からも思い出せなかった。たぶん情報量が多すぎたんだと思う。(お疲れ様でした)

そんな私が三世次にどっぷり浸かり始めるのは2回目以降なのだけど、これは、うん、また次に書こう……。

 

 

あとね。

1回目は、……あの、正直に申し上げますと、どちらかというと、あの、(ごめんみよたん)

「ええぇぇ、あ、待って、王次、格好いい…………」

に持ってかれました。

 

王次の圧倒的陽パワーに完全にやられた。うぇぇん眩しい、眩しいよ王次………!

下手ブロックだったんですね、通路から数列横の。王次が通った時になんかもう、格好良い風が吹いたんですよ。あれは生まれつき格好良い人が吹かせる風だった………

それであの登場の仕方、からのあの歌。歌い方が王次、あれは何かもう、女侍らせてる男だよ……完敗。浦井王次、天才。

 

あの女ァ!って感じ。分かりますか。「おんなぁ」じゃないの「女ァ!」なの、王次が言うと許される、「はーい!!!女です!!!!」って飛んで来たくなるあの感じ(王次の「女」呼びの似合うこと似合うこと……)。

あの真っ直ぐで馬鹿で生来のナチュラルな色気がデロンデロンに漏れてる感じ、駄目ですね、負けました。普段ややこしくて捻れてむわっと滲み出てくる色気を纏っている(それもそれで完敗なんですけど)推しを拝んでいるせいか、ナチュラルどストレートな色気に耐性がなかった。

 

例えがあれで申し訳ないんですけど、基本少女漫画でいう黒髪キャラばっかり好きになってきた人間なので、白髪(金/茶)キャラのナチュラルボーンキラキライケメンに、スっと惹かれないがゆえに、……そう、耐性が全くないんです。(三世次は圧倒的黒髪ですね…茶色だけど)

 

そんなわけで初日はすっかり王次の虜に。

さらっさらの髪を揺らして大股で歩く王次、叔父と母を睨む王次、お冬を罵倒する王次、お光といちゃこらする王次、王次、王次〜〜〜!!!!!

(いつの間にか私も老婆たちに薬振りかけられた……?と思うほどの王次マジック。すごい。)

 

 

で、まあ一旦落ち着いて、

ただ、それだけ惹かれた王次に関しても、初回は「格好良いぃ……!」だけだったなあと思う。 

 

王次が死んでも「え、王次もう退場か……早いなあ」ぐらいにしか思わなかった。

目の前で進んでいく話を追うことに必死で、王次に限らず登場人物達に寄り添えるほど気持ちは近くならなかった、ので悲しくはならなかった。

 

ただただ彼らをじーっと見てる観客だった。あの世界にいながらあの世界にはいなかったような。

ふわふわとした楽しさの中にずっといながらも、観ている感覚としては一番冷静だったのかもしれないな、とか思ったり。あの場で生きてる誰の目線にもならなくて、ただ一観客として

あの人達が、生きて、死んでいくのをただ見つめてた。

次々と死んでいく人達を見ながら、ただ「あっけないなぁ」と思った。

 

そしたら終わる頃にはほとんど皆いなくなってて、あ、話には聞いていたけど本当に皆死んでいくんだな……なんてぼんやり思いながらあっという間に冒頭と同じ曲が流れ始めて、またぶわっと楽しさが身体に戻ってきて、あっという間に終わった。

 

 

そんな初日。

今思い返すと、「楽しい、どうしよう……!!!」の中にも色々あったみたいだけど、消化不良になるぐらいには色々が多すぎて、私の脳は「楽しい」しか残さなかったらしい。

劇場を出た頃には「どうしよう、楽しかった…!!!!」しかなかったし、帰り道もずっとそうだったから、「とにかくとんでもなく楽しかった」というのが、初日の感想としては一番しっくりくる。

 

天保十二年のシェイクスピアの感想というよりは、私の人生初の舞台と、その場が天保十二年のシェイクスピアであったこと、それによって私に起きた化学反応をただ書き連ねただけになってしまったな。

けど、残しておかないと1ヶ月も経てば記憶がするすると逃げていきそうで、書いて残しておきたかったから、よしとする。備忘録。

 

 

文字に起こしても逃げていくことばっかりだけど、書かないといつの間にか殆ど頭から飛んでいってしまうので、とりあえず駄文でも残しておこう〜と書いてみたら予想以上に長くなってしまった!おーわり!

 

はあ、初回、楽しかったなあ。