140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

天保十二年のシェイクスピア②

2020,2.23〜2.29

 

ええ、楽しい!楽しい……!どうしよう!!!

で終わった2月13日からわずか4日後、第二戦に挑みました、2月17日。

 

この日は最前右端周辺席。

突如公式さんが2月の前半で出してくれたお席、ありがたく購入しました。本当にありがたい。

首が絶対痛くなるだろうな〜と思ったらやっぱり観終わった後首がカチコチになりました、贅沢な悩みですね。

 

さて、まず、そりゃそうなんだけど、

圧倒的に席が近い

開演前、席についてカーテン(幕)のシワが裸眼でくっきり見えることに驚く(前回開演前にカーテンのシワを参考にオペラグラスの倍率を調整していたから)。

 

そうしてアワアワ、その近さに恐れ慄いて

「ひょっとしてこの近さで私はこないだみたものを観るの……?これから……?本当に………?」 

とか当たり前のことを思っていたらあっという間に隊長さんが出てきて、うっわあ隊長さんが近い、すぐそこに居る…!と驚き……うんうん、お身体労って下さいね…!と念を送ったりして、そうこうしていたらあっという間に、幕があがり「も〜し〜も〜」タイムが始まるわけです。本当あっという間。

 

多分皆さんそうだと思うんですけど、「もしもシェイクスピアがいなかったら」の前奏、私とてつもなく好きで、

あのジェットコースターの上りのような感覚、頂上が既に見えていて、自分がそこへぐんぐん近づいていることに自覚的な緊張感。高揚感。徐々に徐々に、始まりの予感が近づいてきてゾワゾワとワクワクが止まらなくなる。

加えて一回観ているからこそ、これから目の前で始まる物語を既に知ってしまっているからこそ、

「始まる、うわあ始まる、どうしよう……!私また見れるんだ、嬉しい…!!!!!!」

で一杯になる。

で、それらが最高潮に達したところで、パーン!と弾ける。照明がパッと明るくなり、登場人物達が一斉に見える。うわぁ本当に始まってしまった。どうしよう、嬉しい。

 

始まったらもう、本当に、更に近い。

ついこの間遠くで見ていたものが、目の前にあるんですもん……

特に色とりどりの女郎さん達がキラキラ踊る姿に見惚れてしまった。皆それぞれに表情豊かで楽しそうで、艶かしくて。うわあ本当にこの世界でこの人たち、今生きてるんだ、実在してるんだと思ったらもう目が離せなかった。

初回はある程度の距離があったから心的な距離もそこそこ遠くて、舞台の上の人達が「今、ここに、実在してる」感はなかったんですよね、あくまで一枚画面越しに見ているような、少しだけ他人事な感覚があった。それでも十分「生」の鮮度の高さみたいなものはバッシバシ感じてたけど、でも、最前って本当に間に人がいないので、目の前で彼/彼女達が動いていて、そこで生きてる。

目の前にかわるがわる現れる人を、ひたすらジーっと目で追ってた。初めて人間見た赤ちゃんみたいな目で追いかけてた。そのうち目の前だけじゃ気がすまなくなって、首を極限まで曲げて、下手のほうまでとにかく興味津々にじぃ……っと見てた。

キョロキョロしすぎると周りの方に迷惑かなぁと思いながら、たまに首を動かしてあとは目玉を駆使してたんですけど、客席が暗くて良かったと思う(顔面が絶対駄目な感じになってたから役者さんたちに見えなくて良かった。見えてたらごめんなさい)。常に目があと10個ぐらい欲しかった(特に賭場の場面)。せっかく全部が近くで見えるのに、全部を見れないのが惜しい。

 

で、すっかり目の前の人たちを追うのに必死になっていたら、あっという間に十兵衛と三姉妹が出てくる。

(「なんか、2回目の方が圧倒的に時間の流れが速くない?」とここで気付く。)

間近で見る文里姉さんたちの格好良さと色気にうっとり。お光は可憐すぎてほの字。

 

あとこの場面以降、この辺りで笑いが起こるだろうと自分が知っている感覚がなんだか面白かった。目の前で見ているからその(舞台上の)時間軸の中に自分が存在している感覚が(むしろ前回よりも)強いのに、どこかで笑う準備をしている自分がいる。

どう進むかわかっていても、お文とお里の掛け合い(「…と!姉さんは思っているだろうけど〜」のところ。そうそうこれこれ〜!とニヤニヤにこにこしてしまった)とか本当に好きで、私は多分あれ、これから何回みても笑ってしまうのだと思う。そんなことを考えているうちに、お光が追い出される。そして2回目はお光ファンになってたのですっかり「あぁ、お光……行かないで…!」な十兵衛パパ状態。

 

 

そして、三世次。 

2回目だから分かってしまう。いきなこしまきが始まる、つまり、あぁ、三世次がやってくる…………踊る女の人と男の人たちをまたまた凝視しながら、「うわ、くる、くるくるぞ三世次が……どうしよ…!」と心の中で慌て出す。

 

そしてとうとう、後ろからす、と現れる三世次、

 

に、

 

「あ、三世次が、居る」

とだけ思ったんです。

 

自分でも不思議なんですけど、出てきた瞬間心が静まるんですよね、なぜか。

初日もそうだったけど、あれだけ生橋だどうしようどうしよう思ってたのに、いざ出てくるとスンって収まる。

三世次でしかない、三世次がそこに生きてる、三世次がそこで喋ってる……

 

心が静まる一方でゾクリと鳥肌が立つ。 

間近で見る三世次、遠くで見るよりもずっと異様だったから。

そこまでの場面で、他の人達を間近で見てきたからこそ、奥から足を引き摺りながらぬるりと出て来る三世次の、纏う空気の場違い感、馴染まなさ、

「ここにいる人じゃない」感。

 

無宿人、という言葉は一度目の観劇で「?」となって調べていたので、二度目、この時になるほどと思った。 

戸籍のない、つまりは社会=人々の暮らし働く生活の場において「人」として登録されず、認識されていない人。社会の中に居る、生きる場所が用意されていない三世次。 

間近で見ると異様さが際立って見えるからこそ、その異様さを作り上げた三世次の過去、生きてきた環境を思うと悲しくなってしまう。それでも、自分もこの世界にいたら三世次を見て悲鳴をあげてしまうのかもしれない。平和な生活の場に馴染めない三世次、戦の場でも求められない三世次。三世次、三世次………ううぅう…(発作)

 

………と、三世次へと心が向く一方で、しばらく経つと

(この距離で見ると高橋一生の造形って本当に美しいな………いや画面越しには何度も見ていたつもりだったけど何この横顔のライン、喉仏、………美……いやちっか……)

とオタク心も冷静に発動し始めました。すいません…邪な思いはやはり抑えられなかった……全然醜くみえない、美しい、美しい……くぅ。

 

かといってやはり

「うっわ〜〜過去最上級に近い高橋一生だ〜!!!!わっほ〜〜い!!」とはならないんですよね。

あくまでも私の脳は、目の前の彼を三世次としか認識できない。しかし距離が尋常じゃなく近い、そしてその見た目は高橋一生でしかないのでその造りの美しさに心は静かに暴れるわけです。こればかりはどうしようもねぇ。

極めて静かに「なんて綺麗な造形……鼻筋、顎、喉仏……骨格が天才……」とか話を追いながら、頭の中2割ぐらいで推しの造形美に感動してました。脳ってこんなに使い分け可能なんだとびっくり。でもちゃんと8割は舞台上で動き進んでいくお話に向いている。意外と頭は器用にできているらしい。

 

 

さて、ここからまた時系列を追って最前列の感動を書くと日が暮れて明けてまた暮れてを永遠に繰り返しそうなのでここからは二度目の公演で印象に残ったことを。箇条書き。

 

ひとつめ、

三世次の背中が良い

右前方の席からずっと眺めていたので、上手側に三世次が来て、誰かと話をしだすと私は基本的に三世次の後ろ姿を見ることになるので、背中を眺めている時間が結構多かったんですね。

脚を引き摺り、非対称なバランスで、ぎらんとした目つきで歩く第一形態の赤三世次の背中。不気味で怖いんだけどどこか頼りなくて寂しい。

ただ、三世次の背中を見つめながら思ったんですけど、話が進むにつれ最初ほどの違和感、周囲との馴染まなさはなくなっていくんですよね。もちろん浮いてはいる(そもそも屋根の上にいたり下に降りてたり人の場の外にいることが多いから)んだけど、どこか収まっていく感じがある。それはたぶん計略の内とはいえど三世次が清滝の人との関わりを持っていくからだろうなと。形はちゃんと清滝の人になっていく。

で、老婆のお告げどおり次々に人を操り、着々と清滝を自分のものにしていく三世次。不気味で、頼りなげで孤独に見えた三世次の背中が、少し地に足ついた感じになる。多分、三世次が生きる「場所」を手に入れていくからなんだろうな。でもそれが、地位であったり役職や肩書であったりはしても、それでもなお三世次の「居場所」にはならないのが悲しい。まあ三世次がそうしてるんだけどさ。でもさ、誰か一人ぐらい三世次を愛してくれたらさあ……とか思ってしまう観劇二回目の三世次モンペ。

 

あと私は、最終形態の三世次の背中がたまらなく好きです。

衣装も好き。豪華で金の入った煌びやかな着物、三世次がのし上がった象徴のあの着物。(加えてあの髪型も好きです。)

分厚い頼もしい(く見える)背中。邪魔な人たちを全て排除して老婆のお告げどおり高みに辿り着き、そしておさちも手に入れた(と思っている)少しの自信が見える三世次の背中。それが三世次の錯覚だとしても、偽物だとしても、あの瞬間の三世次の背中には、上まで登りつめた自信が滲んでいるような気がして。

綺麗な着物も、身分も、清滝という場所も手に入れた三世次。それでも三世次が一番求めていたものは手に入らない。お光と同じパターン…いや、おさちの場合は手に入れたと思っていたんだよね三世次は。でも手に入っていなかった。あんなに綺麗な着物を着て代官になっても手に入らないおさち………(おさちの心情を考えれば当たり前に当たり前なんなだけどさ…手に入ったと思えてしまうそこに関しては純粋で馬鹿で可愛い三世次……)

うぅ、三世次〜〜〜!!!

 

 

ふたつめ

やっぱり王次は格好いい

一度目の観劇でノックアウトされた王次。

当たり前ですが近くで見るとなお、ええ、非常に格好良かったです。圧倒的に陽な人。王次さん。入ってきた瞬間華があるから場の空気を全部持っていくし、王次がいると知らないうちに目で追ってしまう。良い意味で周りを脇役にさせてしまう人。王次が居ると視線が持ってかれてしまうのよ。折角近いから色々なところをくまなく見よう…!と思っていてもついつい王次を見てしまう。ずるい。

 

以下、王次②ダイジェスト(割としょうもないです)

・担がれる王次(御御足が丸見え…!)間近で見るとなお可愛い。すごいはしゃいでるのよ王次。親戚のお兄さんに遊んで担いでもらってる男の子みたいに楽しそうなの王次。

・罵倒する王次(お冬からしたら最悪だし意味わかんないけど)、非常に好き。めちゃくちゃ詰め寄る王次。私はMなんか……?と思うぐらいここの場面の王次、結構好きです。

・問題ソングのときの王次、曲調どおりにおどけながら動き歌う合間に、失望と恨みとが混ざった表情、「女」であった目の前の母親を軽蔑した冷たい目を、お文に向けているのが肉眼で見えて鳥肌が立った。だから、その前だか後だか(記憶力)に入る「母は女神などではなく女だったことに絶望した王次〜(超ニュアンス)」の説明の説得力がすごい。

信頼していた母にも叔父にも裏切られた、失望の後の強い嫌悪感がフッと強く顔に出るの。いや出してるのか。あれは「お前らがやったことに気付いてるからな俺は」という王次の意思表示なのかな。

…というのをあの一瞬の表情で想像させてしまう役者さんてすごい……浦井さんすごい……(語彙力)

 

 

みっつめ

佐吉の母の「死にましたっ」で笑えない2回目以降

2回目以降、笑うポイントが分かっている上でも笑ってしまう、みたいなことを上で書いたんですが、唯一1回目しか笑えなかったのが浮舟太夫とおっかさんとの会話。笑えないどころか、浮舟が訪ねてきた時点でもうなんか泣きそうだった……

前回書けなかったけど、一回目見たときに佐吉が可愛くて良い子で一途で、すっかり大好きになってしまったんですね。天シェの世界の中で一番愛くるしいじゃないですか、佐吉。そんな訳で我が息子みたいな気持ちで二回目は見てたので、何かもう最初のトカトントンで時を止めたかった。「浮舟……っ太夫〜〜〜!!!!!」してる佐吉が可愛くて微笑ましくて愛おしくて、浮舟が嫁いでくることを夢見てトカトントンしてるあそこで時間をストップさせたかった。

 

加えて、初回見たときはお冬と浮舟をやっている方が同じだと知らなかったんですが、2回目は既に認識した状態で観ていたので、私の中ではお冬と浮舟、悲恋に終わってしまうあの二人もどこか「二人で一人」として見てしまっていて。

なので、せめて想いが通じ合っている相手がいる浮舟ぐらいは幸せになって欲しいよ…(無理だと知ってるけどさ……)という気持ちで浮舟が出てくるのを見ていてたので、おっかさん、やめて……仮に浮舟が本当に美しくなくてもやめてくれ……その人息子さんの最愛の人だから、本当やめたげて……と悲しくなってしまって全く笑えなかった。

その後を知ってしまっているから、あの瞬間の笑いが絶望に変わるその後を知ってしまっているから、ぜんっぜん笑えなくてむしろめちゃくちゃ険しい顔をしてました。その後は言うまでもないですね……うぅう、くっそうシェイクスピアめ、井上ひさし(さん)め………(ここで既に佐吉と浮舟のモンペにもなっている)

全体を通してシリアスとユーモア、明るさと暗さ、真面目さと不真面目さ、諸々のバランスが絶妙だなと思うんですが、初回一番その急降下(降下ではないのかもしれないけど)が激しくて心が抉られたのが、佐吉と浮舟の最期の場面でした。さっきまで笑ってた自分が突然置いていかれるあの墓場。それは多分私の中の話だけでなくて、周りの観客の方々の空気も多分そうで、あそこで客席全体の空気感もサーっと急激に温度が下がっていった感覚があった。何かが冷えて落ちていって、今までと空気が変わる。笑えなくなる。個人的にはあそこが一番天シェの中でしんどい。でも好きです。

 

 

よっつめ

・終わった後の疲労感が前回の比じゃない

たっのしい〜!キラキラ〜!なんて楽しい時間なんだ〜!!!!天シェ最高生まれてきてよかった〜!!生きてて良かった〜!!!!!

と少しは疲れながらも圧倒的にそれを上回る楽しさに浸りながらハイテンションで電車に乗り込んだ初回。

 

比べて二回目は、……どえらい疲労感でした!

肩に象でも乗っかってるんじゃねぇのというぐらいの身体重さ、ずっしり、どっしり、ぐったり。なんか薬でも打たれたんじゃねぇのというぐらいの頭のふらふら、クラクラ、ふわふわ。

頭の浮遊感と首から下の倦怠感のちぐはぐさがまた結構くる。身体感覚が空中分解してた。クッタクタのへろへろでした。

 

でもそれもそのはず、

観ている最中にも感じていたけど、最前列、本当に浴びるパワーの量が全然違う。舞台の上の人たちが生きるパワーが全部直に降ってくる。

あの人達本当にね、生きてるの。天保十二年の清滝でね、皆生き生きと生きてるの。踊って歌って舞台を動き回る彼らのエネルギー、本当に凄まじい。

舞台ってこういうことか、生のお芝居とはこういうことか、すっげぇ…………と目を限界まで見開きながら目の前で動く彼らを見つめて、何度も思った。

目の前だと細かい動きや表情まで見えるから、一人ひとり本当にそこで生きているのが分かる。初回は遠かったのと、やっぱりストーリーを追うために、話を動かしていくメインの人達を目で追ってしまうから、他の人達は何となくぼんやりと、全体的にふわっと見る程度しかできなかったけど、この日は幕が閉じる頃にはそこそこな数の人の顔を把握できるぐらいには、そこに生きる「一人ひとり」として見ることができた。(だから賭場の場面なんて本当に、目が足りなくて足りなくて困った。ほんと目が10個欲しい。)

と、いうわけでこの日は、あの舞台の上に乗っていた「一人ひとり」を見ようとした、というか見てしまったわけなのですが、誰を見てもどこを見てもエネルギーが本当にすんごい。パワフルってpowerがfullって書くんだもんなこれは確かに舞台上の人達のパワーでこの劇場埋め尽くされてるわ、超powerfulだわ……なんてことを阿呆な頭に浮かべながら、ただ圧倒されてました。

 

で、そんなpowerfulなエネルギーを浴びてたら、なんかこう、エネルギー貰えて元気になるのかな!とか思ってたんですけど違うんですね。

目の前ほどの近さだと、自分のエネルギー量と舞台上の人達のエネルギー量の圧倒的な差にパッコーーーンってやられるんですね。エネルギー放出量で押し合って秒で負けて以後、ずっとドドドドと絶え間なく彼らのエネルギーを浴び続けるわけですね、多分。生のエネルギーが濁流のようにドドドドこちらに流れ込んでくる、圧倒的に「生きてる」人たちを前に、私はただただその濁流を無抵抗に受け止めるだけ。

 

そりゃ、終わった後には放心状態になるなと。

帰り道、フラフラ歩きながら「舞台は生モノ」の「生モノ」は、加工されていないがゆえの身体への影響がすさまじいというような意味もあるのかしらなんてことをぼんやりした頭で考えた。加工されていないものの影響力の大きさ。添加物のない生モノってすごい。

映画も本もドラマも、心や頭への影響は大きいけど身体にまでくることはあまりない。けど舞台は、頭に、顔に、肩に、胸に、腕に、脚に、身体全体にその世界を丸ごと浴びてきているから、観る前と観た後で身体感覚がまるで違うような気がした。

疲労感」と上に書いたけどそれだけには収まらない、身体中の細胞が動いて興奮して走り回って、形すら変わってしまったんじゃないかと思うような、熱を保った、密度の高い倦怠感。初回の怖いぐらいの楽しさや高揚感も初めてだったけど、2回目のこの独特の重さも私にとっては初めての感覚だった。気持ちいい疲れ、とは言えないけど、疲労感の中に満足感が埋まっているような、不思議な重みがあった。あれは何だったんだろうな。すごいな。

 

 

………日が暮れて明けてしまうから箇条書きし始めたはずなのに、全然意味をなしていなかった。何この長さ、何この文量。

 

でも、2回目を思い出しながら書いていたら、「あ、そういえばこんなことも思った」「こんなことも浮かんだ」って芋づる式にずるずる頭の中から2回目のあの席で見たもの、考えたこと、感じたことを思い出してしまって、ついつい終わらなくなってしまった。

だって、せっかく今なら覚えていられるから。思い出せるうちに思い出せることを、書いて残しておきたかった。消えないうちにどこかに保管してしまっておきたかった。

 

それは多分、幻のように突然消えてしまった、2月28日の公演(私が最後に観に行くはずだった)、29日の東京千秋楽、そして3月の大阪公演の存在があるからだと思う。

「2020年の天保十二年のシェイクスピア」を、これから観れる人はもういなくなってしまった。だから「2020年の天保十二年のシェイクスピア」はもう、既に観ることができた私たち観客の頭と心の中にしか、ない。

だとすれば、私の頭と、心と、身体に残っている、染み込んでいる天保十二年のシェイクスピアの記憶がどれほど貴重なものか。どれほど有難いものか。

なくならないうちに、減らないうちに、少しでも多く残しておきたかった。

 

それがどんなに拙くても、質が低くても、何も残らないよりは全然いいじゃないか、と思った。きっと、鮮明な記録も鋭い考察も、舞台に慣れ観劇に慣れた、私よりもずっと聡明で博識な人達が残してくれる。

だったらあの日、あの時間に天保十二年のシェイクスピアの世界に紛れもなく居た私の記憶を、私は私なりに残せばいいじゃない、と。

思い出すこともまた、ひとつの「想像力」じゃないだろうか。そして誰かの思い出した記憶を辿ることもまた、きっとひとつの「想像力」だ。

 

私の拙い文章を読んで、いつかの公演を思い出す人もいるかもしれないし、観れなかった天保十二年のシェイクスピアを思い浮かべてくれる人もいるかもしれない。そもそも誰も読まないかもしれないけど、それはそれで全然いい。これは殆ど私の、私による、私のための記録だから。

ただ、これがもし誰かをこの作品に、この作品の記憶に繋げることになったなら、誰かが天保十二年のシェイクスピアのあの世界を想像するきっかけになったのなら、それはこの上なく嬉しい。今、天保十二年のシェイクスピアが大好きで仕方のない私にとって、たまらなく嬉しいことだ。

 

そんな身勝手な欲を持ちながら、私は多分また続きを書くんだろうなと思います。

天保十二年のシェイクスピア③、に続きたい。

 

あと、今とてつもなく誰かの天シェのお話を読みたい。2月の日生劇場、いつかのどこかの席に座っていた誰かから見た天保十二年のシェイクスピアはどんなお話だったんだろう。その人にとって三世次は、王次は、お光はどう映っていたんだろう。

まだショックでしんどくて悲しい人も、きっと沢山いらっしゃるのだろうけれど、もっと後でもいい、皆さんの天シェを読みたい。誰かから見た天シェの世界を、読んで想像してみたい。

中止が決まってから、感想ツイの数が少なくなってしまってるのが、しょうがないのだけどやっぱりさみしいなぁと思うのです。

なのでまずは自分が書いてみた。

 

3月、公演はなくなってしまったけれど、#天保十二年のシェイクスピアのタグに、沢山の感想が並ぶTwitterをまた見たい。

 

見られるといいなあ、と願いながら、②を閉じます。