140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

リチャード二世

正直、私なんぞのキャパじゃ足りなくて、読み取れるものも感じ取れるものも、きっと後10年あったらもっと多かっただろうに、もっと沢山受け取れただろうに、と観るたびに毎回少し悔しく思っていて。

それで、何かしら書くにしても、私に書けることがあるだろうか、私なんぞが何か書いてよいものだろうか、うーん多分くだらないことしか書けないな……となんか勝手に恐れ多い気持ちになってしまい、今回は書かないで自分の中にとどめておこう……とか考えていたのですが、

いや、よく考えれば今更じゃん、と。

 

そもそも天保十二年のシェイクスピアを観た時点で、私のキャパなんてとっくに足りていないわけです。そりゃあ二十数年しか生きてきてない、しかもわりと平々凡々に生きてきた上に特に文学や演劇についての知識もなければ、観劇経験も乏しい小娘が、いきなりシェイクスピア作品を摂取してキャパオーバーしないはずがないでしょうよ……

 

それでも、そもそもシェイクスピアなんて作品名ですら有名どころぐらいしか知らず、舞台すら観たことがなかった私が2月、初めて天保十二年のシェイクスピアを観たとき、

何か書きたくて、とりあえず何か残したくて、自分の中にあるよく分からないけどものすごい勢いで湧いてくる興奮を、どこかに表したくて仕方がなくて、その衝動のままにただ書き連ねていた。理解なんて全然できていないだろうけどとにかく書きたかった。誰に向けて書くわけでもなく、とにかく舞台を観て浴びてきて、自分の中に生まれた色々を外に出したかった。ただその一心で書いていた。

 

だったら別に、今回だって同じことじゃないか、と。

なんか分からないけど、やっぱりまだ舞台を観るという行為自体に慣れていない私は、どこか無意識のうちに遠慮しているらしく、「すいません、ちょっとお邪魔させてもらってます……」みたいな心持ちが多分、結構ある。だからこそ観た後も、少しだけ遠慮してしまう。「私なんぞが、なんか言って良いんだろうか………」みたいな。「私なんぞがこの作品を語るなんて恐れ多い……」みたいな。

……いや、謙虚か(自分で言うな)。

 

それでも多分、

何かしらの作品に出会う時期って、やっぱりタイミングがあって、偶然か必然か、私がリチャード二世を観るタイミングは今だったわけで。だとしたら、書きたいことがあるのなら、私は今回観て感じ取ったこと、考えたこと、その他諸々、それらを全て素直に書いておけばいい。

それがたとえ、ごんぎつねを読んで「ご、ごんがかわいそうだと思いました!!」「でもあの、兵十もかわいそうだと思いました!!」みたいなひどく単純なかわいらしい感想でも、それが素直に出てきたのであれば、私はそれを残しておきたい。分かったふりして「ごんと兵十、どちらのことも考えると、私には言えることはありません……(しくしく)」みたいな大人ぶった言葉は要らないし、それだときっと、後から読み返してもつまらないと思うから。

そんなわけで、とにかくそのままを保存しておこう、と思い至ったので、今回考えたことをつらつらつらつら順番に書いていきます。

 

 

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1. 登場人物がとにかく多い、名前がカタカナで覚えられない(しかも複数持ち)、関係性が複雑すぎる

いきなり文句ですか?いえ、私の記憶力の問題です………

初回一番苦しんだところ。終始人がわらわらいるのでとにかく情報量が半端ない。事前にざっくりとしたあらすじや登場人物、それぞれの関係性を掴んでから挑んだ方がいいんだろうな…とも思ったけれど、あまり入れすぎると思考が働きすぎて頭で観てしまいそうで、それも嫌で、初回はプログラムをさらっと読んだぐらいで臨みました。とりあえず浴びたかった。案の定、頭はごっちゃごちゃになりました。けどそれで良かったなぁとも思う。

で、とりあえず飛び込んでみた結果どうなったかというと、とにかくカタカナの名前が頭に全然入ってこないから、偉いおじさん達が一体誰の話をしているのか全く分からない。事前にプログラムは15分ぐらい読んだけれど、「えっと誰が誰の叔父で弟で兄で息子で従兄弟で……………ん………?」と、ざっと把握しようとはしてみたものの、複雑すぎて諦めた。とはいえ、そもそもカタカナの名前がすっと頭に入らない性質で、観る前は顔も分からないので、仮に事前に字面で覚えきれたとしても目の前で見た瞬間に、すべて飛んでしまったような気もする。

加えて初回は2階席、オペラグラスなしで、遠距離から、あの量の視覚情報を処理するのは難しかったので、結局は諦めて聴覚からの情報(声)で登場人物達を掴むことに専念。耳に少し感覚を集中させて観ていたら、思いの外入ってくるものだなぁというのが印象的だった。それぞれの登場人物の空気感をざっくり「この声の人はこの感じの人」と理解するのに、声で観るのは意外と向いていた。

 

ちなみに、2回目以降はストーリーの流れを把握できていたので、登場人物とその名前、それぞれの関係性もするんと入るようになった。ので、それはもう格段に面白くなりました。「あぁ、ここでこの人がこういう表情をしていたのは、こう振る舞っていたのは、そういうことか、なるほど…」の嵐(一度目は対立関係が殆ど把握できていなかったので、敵味方の構図が掴めたらすごい入りやすくなった)。

じゃあ最初から頭に入れ込んで観たら良かったのでは……?とも思ったけど、なんだかんだ私は「よく分からない、ついていくので精一杯、よくわからないけど、なんかすっごい……!」みたいなド感覚で観られる、初回限りの混乱と脳の異常な忙しさと興奮も好きなんだろうな、と思いました。分からなくて「えっえっこの人誰、えっさっきのどういうこと…??」ってアワアワするのすら楽しい。もちろん、一度しか見れないのなら前情報をある程度詰めていかないと、一部分しか楽しめず勿体ない、ということもあるのだろうけれど、何度か観に行ける機会があるのなら、これからも初回はほぼ何も知らない状態で挑んで浴びてみたい。そしてアワアワしたい。

 

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2.ボリングブルックが読めない

ボリングブルックが一番何を考えてるのか分からない、掴めない……と初回思ったし、結局何度見ても掴みきれなかった。読めない人。

正義感が強く情もある、けれど一方さらりと冷淡な顔を見せる、温度の高さと低さをどちらも常に同時に持ち合わせている器用な人だなぁ、と思った。ヘンリー・ボリングブルック。

時折見せる情や優しさと、淡々と人を切り捨てるときの冷酷さ。ガッと火がつく激しさと冷静な理性。あらゆるバランス感覚が優れていそうで、王の資質とやらがあるとすれば、それを持つ人なんだろうと見ていて自ずと思わせられる。

王や諸卿に囲まれモーグレーと言い争うときの怒りの激しさ、母国からの追放が決まったときの激昂し泣き叫ぶ姿。温度がガッと中間の温度なしに100度まで上がる人。かと思えば、人を淡々と裁く時、目の前で裁かれているのをただ見ている時、どこか平坦な冷酷さが透けて見えてゾッとする。0度まではいかない、30度ぐらいの、ものすごく低いわけではない、けれどある程度まで冷めて、そこから動くことのない低温加減が逆に恐ろしい。

あと、ボリングブルック、あんまり湿度を感じない人だな、と。ドライとかではないけれど、湿っぽさがない。彼の嘆きも怒りも勇ましさも、王座に近づくにつれ纏ってゆく威厳も、強くて熱くて揺るぎなくて、そしてどこかカラッとしている。

 

激しく怒り叫び不正を真っ直ぐに訴える、若さが滲む序盤と、徐々に仲間を増やし力をつけ王への道を着実に敷いていく中盤、そして王座に就き、威厳ある姿で国の頂点に立つ終盤。

前半のボリングブルックはまだ分かりやすいけれど、追放されたのち、自らの爵位と財産を取り戻すために国へ帰ってくる、袋片手に坂を登ってくるあの場面以降のボリングブルックは、基本的に真意が読めない。王座を奪うつもりではなく、「自分のものを取り戻す」ために国へ戻ったと言うボリングブルック。兵力も兵士からの人望も、国民の支持まで得ているにもかかわらず、爵位と財産のみを取り返すことができれば良い(しかも追放を取り消すことすら要求しない)と、彼は本当に思っていたのか。彼はあの場であの言葉以外に本当に何も要求するつもりはなかったのか。言外に求めるものはなかったのか。リチャードが自ら王を降りると言い出す前、王座に就く気は本当になかったのか。

あの場でリチャードが弱気になっていることを悟り、「それならば」と彼の気が変わったのだろうか。王が譲るというなら貰ってやろうと、途中で切り換えたのか。だとしたら、途中までは「私は私のものを取り戻しにきただけだ」と言っていた彼の忠義(どこまで本当かはおいておいて)は、どこで王座への野心へと変化したのだろう。

ボリングブルック、本当にわからない。

リチャードが自分の姿を映した鏡を割り、鏡が砕け散る場面、リチャードの後ろで何とも言えない表情を浮かべていた彼は、哀れにも変わり果てたかつての王を見て何を思っていたんだろう。最後、自分のためにと殺され、自らが座っていた王座の前で横たわり、冷たくなったリチャードを見て何を考えたんだろう。

何もかも分からないけれど、特にボリングブルックがリチャードに対し何を思っていたのか、彼をどう見ていたのか、私は終始分からなかった。

 

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3.ヨーク公、とても好き

湿度の話でいうと、ヨーク公は湿度が感じられる人だなという印象だった。

先王エドワードの弟、現王リチャード二世の叔父として、色々思うところはあれど王に忠実であることを指針に生きてきた人。その立ち位置ゆえに、迷いと後悔と葛藤と憂いと、感情にメモリがあるとすれば常に線と線の間で置きどころを定めず揺れているような人。

揺れながらも満足できる地点は見つからず、定まらず、それでも自分の信念に基づいて自らの置きどころを探り続けようとする。私はヨーク叔父上が一番好きです。リチャードに振り回されボリングブルックに振り回され、妻には罵られ手を払われk(以下自重)、恐らくあまり賢くはない息子にも度々手を焼いてきただろうヨークさん。自分の人生を散々周囲の引力の強そうな人達に引っ張られ動かされ、常に予想外の方向に引き摺られてきた心労の絶えなさそうな人だけれど、自分がどう在るかの最終の舵は他人に渡さず自ら握っている。どう動くか、動いていきたいかを選べる位置にはいないけれど、自分の心をどこに置くかはちゃんと自分で決める人。それがひたすら格好良い。

最終的に中立の立場を取らざるを得なくなり、ボリングブルックの側に立った後も、リチャードに対しての敬意を持ち続けるところに彼の信念とリチャードに対する誠意を感じる。哀れな姿に成り果てた王を見て、蔑むのではなく心から悲しい表情を浮かべる。「あなたのお側にいたくはない」と一度は切り捨てたリチャード、その容姿しか父である先王の器を受け継いでいないリチャードに対し、ヨーク公は愚かだとは思いながらも、それでも彼が王なのだから、と敬意を捨てることはしなかったんだろう。その後「リチャード二世」と「ボリングブルック」が、「リチャード」と「ヘンリー四世」に変わってしまった後も、彼はちゃんと中立の立場を保つ。その真面目さと、揺らぎの中にある不動の揺らがなさ。迷い、葛藤、あらゆる揺らぎを煮詰めた末に自ら定めた強固な着地点を持つ彼の、他のどの登場人物にもない種類の強さが私は好きだ。

 

 

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3.リチャード二世

リチャード二世、狡いよなぁ、と思う。

天秤をより軽くしてしまうような軽薄なおじさん達で周りを固め、政治の手腕も戦の手腕もなく(というよりは国のことを考えていないのか。自分が「王」であることは考えていても、自分が国を治めている立場にあることに基本無自覚そう)、最後には力なく王位を譲る。基本的に弱く、情けない人。

けれど、どうにも憎めない。特別何が好きとかここは良い!とかがあるわけではなくて(浮かぶとしたら愛妻家なところぐらいだけどそういうことではない)、ただなんか、憎めない。リチャードが得意げに誇らしげに、または悲しげ淋しげに話していると、「ばかだなぁ」と思いながらも、どこかでもっとこの人の言葉を聞いてたいと思ってしまう自分がいる。何なんだろう。リチャード二世、確かに愚かな王様ではあるんだけど、ものすごく姑息で性格悪いとか、ものすごい馬鹿で誰が見ても最悪の王とか、そういう極端さがなくて、何だかこう、絶妙に駄目なんですよね。自分が王の器ではないことも、従兄弟であるボリングブルックが自分より余程それに近いことも、彼は気付いている。何も感じず考えず悟らないほど愚かではなくて、気付いているからこそああなってしまう。その弱さも身勝手さも加減がすごくリアルで、人間らしい。

とはいえ自分があの国の民だったら、貴族だったら、そんなことは言ってられないのだろうけれど、それでもあの諸卿の一人として自分が生きていたとしたら、彼が死んでしまったあの場面、やっぱりひどく悲しかったと思う。

最後、彼が殺されてしまったとき、遺体が引き摺られヘンリーの前に置かれたときの、なんとも言い難い喪失感。彼が消えることを望みながらも彼を消した人を憎む。彼が死んでしまったことを悲しむ。何とも勝手な言い分だけれど、あのヘンリーの言葉はものすごく分かる。リチャード二世、いなくなってしまったその瞬間、周囲の人、すべての人の心にぽっかり穴を空けていく人だと思う。それぐらい此方の心にいつの間にか棲みついている人。

観終わって、あぁ、何とも狡い人だなぁと思った。帰りの電車、プログラムを読んでいたら後に続く『ヘンリー四世』で、ヘンリー四世は罪悪感に苛まれる、とあったけれど、そりゃそうなるだろうな、と。リチャード二世から「王」という彼にとっては唯一のアイデンティティを奪ったこと、そして空っぽとなった彼の命を殺めたこと。ヘンリーはリチャードを二度殺したようなものだ。一度は王として、もう一度は人として。それだけでも罪の意識は深く残るだろうに、脳裏に棲みついたリチャード二世はきっとしつこく現れ続ける。リチャードは、人の中に勝手に染み込んで、残り続ける人だ。あの後もずっと、彼の顔が浮かぶ度、ヘンリーは苦しむことになるのだろうな、と彼のその後を哀れに思った。

 

 

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ふう。

また、思いの外だいぶ長くなってしまった。そろそろ終わりにしようと思うけれど、そうだ、あと一つだけ。シェイクスピアについて。

 

天保十二年のシェイクスピアを観る前、私はシェイクスピアのことを「何かよく分からん難しい、私には理解できなさそうなことを私には理解できなさそうな周りくどい言葉で登場人物達に語らせる人」だと思ってたんですよね(ひどいな)。なんというか、自分からは高くて遠いところにある話をしている人だと捉えていた。

でも、たまたま私の初舞台になった天保十二年のシェイクスピアが、「楽しい」もあったけどそれと同じぐらいものすごく「面白く」感じられて、あそこに散りばめられていたシェイクスピア作品一つ一つを知ってみたくなった。

それで、今回初めてシェイクスピア作品、リチャード二世を観てみて思ったのが、「あっシェイクスピア、どちらかというとこちら側の人間だ………」ということで。

いや、こちら側もあちら側も何もないんですけど、シェイクスピアと私が近いとか似ているとかそういうことではなくて。かつて「ロミジュリ書いたおじさん」程度にしか彼を知らなかった私は何となく、「哲学的で高尚な人間らしさを超越した理解するのが難しいなにか」みたいなものが彼の作品では描かれていると思い込んでいたんですよね。だけどまるで真逆だった。天保を見て薄々気付いてはいたけれど、この人、人間の愚かさ醜さ浅ましさをごちゃ混ぜにしてグツグツ煮込むのが大好きな人だ………と。

もし現代にシェイクスピアが生きていたら、たぶん巷で売れている自己啓発本とか片っ端から破いて切り裂くんじゃないだろうか。「アンガーマネジメント」とか「誰にでも好かれる笑顔の作り方」とかそういうのクソほどに嫌いそう(口が悪い)。私、イギリスを追放されたときのボリングブルックの台詞とか、王妃と侍女二人の踊りと歌もお話も何もかも結局悲しさを強調させるだけ…の会話とか、すごく好きで。目の前の辛さが楽しいことを思い浮かべることで和らぐことはないし、むしろ辛さが増すばかり。目の前の苦境を良き逆境と捉え前向きに考えることで苦境が変わるわけではないし、むしろより苦しくなるばかり。

氷を手に持っても目の前の熱さは変わらない。美味しい食べ物を想像しても目の前の飢えはしのげない。どう考えても状況が悲惨なのに、安く明るい薄っぺらい言葉で無理に飾り立てても、虚しくなるだけ。

現代社会、変に明るい言葉で個人を鼓舞させるところがあるじゃないですか(一時期よりはその傾向も弱まっているのかもしれないけど)。「あなた次第でいくらでも変えられる」「努力で人生は変わる」「悩む時間があるならポジティブに転換させよう」みたいな類の。私はそういう言葉に若干のアレルギーがありまして、見ると「うへぇ……」となってしまう。社会状況や個人の環境の悪さを個人の努力と奮闘によって何とかさせようとする、しかもそれを煌びやかな言葉で隠そうとする狡さみたいなものを感じてしまうのと、人の心をぎゅいんと無理矢理合理的な方向に捻じ曲げる不自然さに気持ち悪くなってしまう。もちろんそういう(自分の心持ちから変えられる)側面はあるのだろうけど、過度に出され過ぎるとどうも距離を置きたくなってしまう。

 

なので、シェイクスピアの「悲しいは悲しいし不安は不安だし理不尽は理不尽だし無理なもんは無理!!!!!!!!!!!!!!!!」(急にちゃっちくしてごめんなさい)みたいなスタンスが、私はすごく好きだなぁと思ったんですよね。人間の、ときに非合理的で醜くて汚い、弱くて脆い、そういう自然な姿を描いているのだけど、それをゆるすとかそれが正しいとかそういう風に置くわけではなくて、「こういうところ、あるよね、人間」ぐらいの場所に置いておく。その許容と認識の間ぐらいの緩さが、心地良いなと思った。

 

……………と、またもや盛大に横道に逸れましたが、そんなわけで、シェイクスピアを少し身近に感じたり、もっと知りたいな、観に行きたいなぁと思ったり。少しだけシェイクスピアと仲良くなれた気がしたリチャード二世でした。

(あと一つだけと言ってからがめちゃくちゃ長かった。)

 

最初こそ混乱しまくったけれど、観る度にどんどん見えるものが増えて面白くなっていって、

リチャード二世、とっても良い体験だったなあ。

もうここから追い始めることはできないのが残念だけど、12年の最後、ギリギリ滑り込めて本当に良かったな、と思います。

 

ありがとうございました!