140字の外

140字に収まらないもの置き場です。始まりは天保十二年のシェイクスピア。

浦井メンフィスの詰め合わせ

先日、王家の紋章2021感想ダブルキャスト編を書きました。

王家の紋章2021 - 140字の外

体感的にはむちゃくちゃ長くなってしまったので、「ん、これ最後まで読む人いるんか…………?」と思いながら、まぁ一人でも私の妄想感想を受けとめてくれる方がいれば十分幸せ……という気持ちで書いていたのですが、思った以上に沢山の方が読んでくださったようで、とっても嬉しかったです。ここで言ってもあれなんですが、読んでくださった方、ありがとうございました。

 

さて、ということで前回は作品自体やスタッフ、キャストの皆様へのお礼も込めて公式タグをつけたかったので、プラス多くの方の目に触れてもなるべく問題のないよう、心の中では公式感想として書いていたのですが(というわりには大分自由に書いてましたが)、

今回はもう!ただただ!2021年帝劇を支配した浦井メンフィスの「ここが!!たまらん!!!!!!!むり!好き!!!!」という私の悶えポイントをひたすら書いていく、私の性癖大公開祭りを一人開催します。2021年の浦井メンフィスの記憶を上書きしたくなくて、一時的にまた2017版王家DVDを封印しているので、記憶がまだ新鮮なうちに浦井メンフィスへの愛を叫ぼうと思います。

ちなみにすごいどうでもいいんですが、私はふだん浦井さんのことを浦井さんとお呼びしているので、浦井メンフィス呼称最大手「けんフィス」がなかなか上手く言えません(多分数回しか言ったことない)。「そっかうらいさんって、けんじさんって言うんだった……(照)」という突然の少女心が入ってきてしまうので、今まで浦井メンフィス、もしくは勝手にうらメンフィスとかいう造語を生み出しTwitterではしのいできましたが、今回はもう、浦井メンフィスのことしか書かないので、以下出てくるメンフィス=浦井メンフィスだと思って読んでいただければと思います。

それでは、春のパン祭りならぬ秋の浦井メンフィス祭り、スタートです!!!!!

 

 

さて、私はメンフィスを生で見たのは今回が初めてになるので、はじめてのメンフィス様謁見の衝撃はこちらにも書きましたが

王家の紋章① - 140字の外

 

my初日、なんか予想以上にメンフィスの女にされて帰ってきました。というか1幕が終わった時点で既に「メンフィス様……(うっとり)」と即位式後のミタムン状態。落とされるの早くない?

二階席なのになんか……何なのこれは……?ファラオパワーなの……?!?と驚きながらずっと凝視していました。メンフィス本体はDVD見た時にはそこまでぶっ刺さってなかったはず、だってそもそも私は本来俺様キャラはそこまで刺さらないので耐性はあるはずなのに、えっなぜ、なぜこんなことに……?と震えていた王家前半戦。

 

そんなわけで、そこまで刺さるはずじゃなかった私を秒で落としてきたメンフィス、何か恐ろしい魔力を放っているに違いない。帝劇にいる全ての女を自分のものにしていくスタイル浦井メンフィス。そんな彼の一体どこがそんなにやばいのか、ひたすら考えて(騒いで)いきたいと思います。

 

 

さて、まずは浦井メンフィス2021、個人的ハイライトを箇条書きでお届けします。

※尚、私は今回が初謁見のため、初演再演と比較してここが良い!というよりは、2021年帝劇に存在していた浦井メンフィスを見て悶えた点を書き散らしていきます。過去版でもやってたのかは分からないけど、とにかく今回見てきたメンフィスのここがやべぇ!選手権になります。はい、スタート!!

 

体格が天才💮

キャロルを見下ろす高い背丈、マント越しでも分かるがっしりした肩と背中、逞しく太い腕、キャロルの首など簡単に締めてしまいそうな男らしい大きな手、そしてみなの視線を奪ってゆく魅惑の太腿………(太字にすな)。そう、どこを取っても天才。強き絶対的な王として説得力のある身体性、そしてキャロルやアイシスとの体格差……たまらなくよい。天才。キャロルの頬に手を添えた時の手の大きさに飽きずに毎回「アッ手がおおきい…好き………」となる。

キャロルの後ろで絡む姉弟

みんなに囲まれるキャロルを後ろでアイシスと二人で見てるあの場面、アイシスとの絡みがもう…もう……。基本アイシスをたらし込んでるメンフィスには「こら!!!また!!」ってなるんだけど、あそこはアイシス姉上も大分仕掛けてくるのでなんかもうどっちもあかん。メンフィスの髪を手で掬うアイシス、そしてその手を捕まえて触り返すメンフィス、双方非常にけしからん。何ですかあの色気垂れ流し姉弟は、風紀委員に怒られますよ!!しかもここのメンフィス、基本ノールックで弄んでいる(視線はキャロル)ところが手練れ感しかない。大して意識を向けずに、何なら他の女に意識を向けながら横にいる女を弄べる男、浦井メンフィス………恐ろしい男………

戦闘モードの目のギラつき

イズミルと戦ってる時のメンフィスの表情、目がギラッとした戦闘モードになるんですよね。私はこれから戦に向かう臨戦モードの触ったら火傷しそうな雄々しい浦井さんが大好きなんですが、絶賛決闘中!な浦井さんもやはり最高に好きだなと思いました。体温50度ぐらいありそう。たまに見せるアドレナリン大放出してそうなちょっとハイな表情が最高に好きです。叶うことならあの決闘シーンのメンフィスの表情だけ撮り続けた映像を脳内に保存しておきたいです。あそこ見る場所多すぎてそればっかり追ってられないのが悔しい。

ジェントルマンメンフィス@階段

婚儀の場面で上から階段で降りてくる時、ずっとキャロルの足元を気にして見てあげながら降りてる優メンフィス。もちろんキャロルが大好きで心配性な、転ばないように見守る優しい男に大成長したメンフィスとしても取れるんだけど、ちょっと中の人を勝手に感じてしまって好きです。

・男も落としにいく人たらしファラオ

「ファラオとして」の人で作られた椅子に座るメンフィス、椅子の人のお顔を撫でたりぽんってしたりするじゃないですか、しかもすっごい自然に。あそこにうらいメンフィスの人たらし感が詰まってる。あと、ウナスにもよくボディタッチ(言い方)しますよね、蠍に刺されたときとかヒッタイトに潜り込んだ後とか。メンフィス、何の気もなしにああいうことを男女問わずさらっとするので、その度ファンが多分爆増しているに違いない。Twitterでも書いたけど絶対兵士達の中でファラオファンクラブあると思う。あの人間椅子のところの何ていうんですかね……人の上に何の躊躇いもなく座るすんごい偉そうな感じと自分の臣下をかわいがってる感じが混ざった絶妙な人たらし少年王感がめちゃくちゃすきです。すきです。

首を傾けて避けるメンフィス

戦闘中に、相手の剣を避けるときにヒュッと首を高速で傾けるメンフィスが好きです。後ついでに言うと、カテコの去り際にお手振りするバージョンと首を左側にちょっとひょいって傾けて去っていくバージョン(その後もまた出てくる場合にやるやつ)があったと思うですけど、その首傾けも好きです。首傾けってなんだ。あれに名前をつけたい。何か次第にはまってしまうあれ。

拷問中にキャロルが来た時の慌てぶり

地下牢から出てきて、拷問の場を見たキャロルに「やめて!」って言われたあの瞬間のメンフィスの、「キャロル!」の声に少しだけ焦りが混ざる感じが非常に好きです。いや、これ回によるかもしれないんですが、海宝メンフィスの「キャロル!」は純粋に(なぜお前がここに?)という感じがするんですが、浦井メンフィスの「キャロル!」はちょっと(うわまずい、キャロルに見られた)(何でよりによって今きた…?!)感が若干入っているというか。そのあとすぐ片手あげて拷問やめさせるあたりも含め、キャロルにそういう暴力的、残虐な自分の姿を見せたくない(前に一回怒られてるので)という心理が少し生まれているのかなぁとか勝手に想像してちょっときゅんとしてしまう。かわいい。いや勝手にときめいといて違ったらごめんねメンフィス。

花嫁キャロルにぞっこんなメンフィス様

婚儀の場面で歌われる「抱き続けて」、最初の歌い出しはキャロルから始まると思うんですが、ここのメンフィス様、幸せそうに自分の隣で歌うキャロルのことをほんっっとにめちゃくちゃ愛おしそうに見つめてるんですよね。本当にキャロル以外見えてない感じ。微笑んでるとかじゃなくて歯見せてにこにこしてましたからね……かわいいよ……大好きなんだね………

闇属性メンフィス

「ただ願うのは」でイズミルが一人で歌っているあの場面、下手からぬっ…と現れるメンフィスが最高に怖くて好きです。あそこのメンフィス、現れた瞬間から地の底から出てきたんか…というぐらい静かに殺気立っていて、歌い始めた瞬間ぐわっとメンフィスの低い声が迫ってくる感じがある。私がイズミルなら怖くてダッシュで逃げます(※イズミルには聞こえていません)。メンフィスって怒る時は基本100℃までガッと感情が昂るような怒り方をする人だと思うんですが、あそこのメンフィスは低温で怒っている感じがする。何というかものすごい速度で進んでいく闇を相手に向けて放って広げて、あっという間に相手の周りを取り囲んでしまうような、すごい闇属性の強い恐ろしさがあるんですよね(急にファンタジー厨二表現になってしまった)。

キャロルを取り戻す、キャロルを危険な目に合わせる奴は断じて許さない、地の果てまで追いかけてやる……という念で相手を殺せそうな真っ黒な恐ろしさのあるメンフィス。あの瞬間それを向けられてるのはイズミルなのだけれど、歌はこっちに向かって迫ってくるので毎回ヒェェ…!ってなる。メンフィスの権力的な強さや残虐性、高圧的な態度、の方面ではない、静かな恐ろしさが垣間見える場面。

 

・1幕最後の美しさ

これはメンフィスというよりは演出的な話が大きいと思いますが、めちゃくちゃ印象に残っている部分なのでがっつり書きます。

キャロルが現代へと戻り、メンフィスが上で手を伸ばすあの1幕のラストシーン、本当に絵画のように美しいんですよね………あの風景を一生目に保存しておきたい。再演はDVDでしか観ていないですが、再再演の今回「うわ、絶対これはこっちの方が好きだ…………」と一番感じた部分かもしれない。現代に戻り気を失っているキャロル、それを見つけ支えるライアン兄さん、どこかへ消えてしまったキャロルへと手を伸ばすメンフィス、そしてそれを囲む周りのすべてが、本当にバランス良く配置されているというか、均整の取れた一枚の絵のように美しいんですよね。毎度見入ってしまう。一度しか見ていないので記憶が曖昧ですが、海宝メンフィスはあそこで手を伸ばしていなかったような気がするので、あそこで手を伸ばすのは浦井メンフィスオリジナルなんだろうか。

あの高い位置から空へと手を伸ばすメンフィス、表情自体は髪に隠れてあまりよく見えないことに加え、マントに身を包み、長く伸びた手だけが見えるメンフィスのシルエットに絵画のような完璧な美しさがあって、あの瞬間すごい遠い存在に感じるんですよね。それこそ、「絵の中の人」みたいな距離を感じてしまう。その前までは立体感を持ってそこに存在していたメンフィスが、あそこで急に遠い人になってしまう。でも本当はそれが本来のメンフィスとキャロルの距離感なんですよね。古代のエジプトのファラオ、本来なら交わるはずのない遠い昔の、異国の王。キャロルが現代へ戻った瞬間、メンフィスは元の、歴史書の中にしか存在しない遠い古代の王に戻ってしまう。それは観客にとっても同じで、メンフィスが遠い「絵画の中の人」のような存在になってしまう、視覚的にそれを感じさせられる、あの美しい1幕ラストが私は大好きです。

 

 

さて、箇条書きでここまでひたすら個人的メンフィスぶっ刺さりポイントを挙げてきました。ちょっとまだまだ挙げ足りませんがキリがない気がしてきたので、以下メンフィス推しポイントベスト3を考えていきたいと思います。

ここの場面が好き!というよりは浦井メンフィス様のこういうところがたまらんよなぁの個人的総まとめランキングです。つまるところ浦井メンフィスのここがすんごい!です(拝借)。

 

 

第3位

圧倒的ファラオ

まずはこれ。先日の感想ブログにも書いたんですが、最初の即位式のあの瞬間から、両手を上げて拝みたくなるほどのファラオパワーがある。メンフィスの圧倒的威光を最初から見せつけられるあの場面。見れば見るほどメンフィスの虜になるというかファラオパワーに呑まれるというか、完全に心がエジプトの民かつミタムン王女になります。

そう、結局ここまで書く間に、1回再演DVDを見直してしまったのですが、2017版の方がより「少年王」の「少年」感が強めかなという気がしていて、今回のメンフィスは「王」部分が強く出ていて、ファラオとしての貫禄がより強く感じられるメンフィスだったのかなと思いました。立っているだけで、座っているだけで、歩いているだけで、とにかくファラオ。序盤のメンフィスソロの「今日のわたしに」では歌い始める前の自分の国や民、これからの王としての日々に想いを馳せるような表情がすごく印象に残るし、「ファラオとして」では、地上における神=王としての確固たる自信を持つ、威厳に満ちた王がそこにいた。この二曲、どちらも王としてのメンフィスの顔が見えてとても好きです。後半は基本キャロルキャロルしてるので(それも可愛いですが)、前半のファラオみの強いメンフィスはやはり格好良いというか、有無を言わさず周りを従わせる力を持っている人なんだなと、見ていて自ずと「見上げている」感覚になるなと思いました。どこにいても何をしていても常に人の上に存在するファラオでした。

 

 

第2位

女の扱いがプロ

はい、これはもう、何度も何度も騒いできたことになりますが、2021年浦井メンフィス、女の扱いに慣れすぎていてもはや少女漫画でいう俺様キャラ<<<モテ女たらしキャラなのではないかと思えてくるほどに、女慣れがすごい。常に女を周りに侍らせ、もう女に慣れに慣れ切って退屈して女を落とすゲームとか始める男キャラいるじゃないですか、少女漫画に。で、本当は恋に落ちたことは一度ないのだけど、自分に靡かない主人公にころっと落ちて実はそれが初恋だったと。まさに物語序盤に「ふぅん、おもしれー女」とか言う男ですね(少女漫画語りが長い)。とはいえキャラの明確な区分けなんてできないので、2021版浦井メンフィスはその俺様+女慣れの究極みたいなのが混ざり合った感じなのかなと思います。

もちろんメンフィス、元々台詞として「よしよし可愛いやつ、今宵は私の相手をせよ」みたいなこと言うぐらいなので、女=自分の意のままになる存在と思っている人ではあると思うんですが、それはどちらかというと大国エジプトのファラオである自分に逆らう者はいない、という認識のイメージがあるので、対・女、というより男女問わずな感じがしていたんですよね。ところがどっこい、パワーアップ女たらし浦井メンフィス2021は、女=どうすれば喜び、どうすれば自分に落ちるか知っている生物と認識している感が強いんですよね。もちろん王である自分に基本逆らう訳がないので、思い通りになるのは当たり前なんだろうけど、その上でどう自分に惚れさせるかも熟知していそうな手練れ感と言いますか…………書いててあらためて思ったけど本当にけしからん生物じゃん……そりゃミタムンも秒殺だわ…………。

例えばですが、2017版DVDを見ると、ミタムンにこの国で生涯を過ごされるか?と声をかける時にミタムンの両手に自分の両手を添えるんですね。ちょっと純愛っぽい(けど実際のところは一ミリもその気はないのでそれはそれで罪深い気はしますが)。それがパワーアップ女たらしメンフィス2021の手にかかると、片手で腰を引き寄せ片手では顎を掬い、そして耳元で例の台詞を囁く、完全なるホールド状態。しかも距離が近い近い。何か完全に「女はこれをやると自分に落ちる」のパターンを熟知している男に見えるんですよね……。

キャロルに対しても、プイプイ合戦とかで子どもらしさも見えるんですが、最初の方は特に若干余裕があるように見える。何の余裕かというと「過去数々の女を落としてきた自信」からくる余裕というか、例えばキャロルにビンタされた時に「……??」と何が起きたか分からない顔をした後、THE「おもしれー女」の顔をするんですよね。海宝メンフィスがキャロルのことを最初新種の虫か何かだと思っていそう(完全なる好奇心、新たな生物を見つけた!という興味)なのに対して、浦井メンフィスは新しい綺麗な宝石(=女)を見つけた、みたいな感じ。女(≧生物)としての興味と綺麗で珍しい女への所有欲が最初の段階では強いような気がする。どちらもスタートは人ではなくモノとしての興味であることには変わりないのだけど(地上における神ファラオであるメンフィスは基本的に自分以外の人間=自分の思い通りになるモノだと思っていると思うので)、その興味の中身が結構違うよなぁと思います。で、キャロルを「自分を敬わず従わない初めての生物」と捉えているところは海宝メンフィスと浦井メンフィスどちらにも共通する部分だと思うんですが、そこに浦井メンフィスは「自分に落ちない初めての女」感が加わるんですよね。なので、あの「おもしれー女」顔がめちゃくちゃしっくりくる。

そして極め付けは、2021年罪深きメンフィスランキング1位を掻っ攫ったイシオリでアイシスに指輪をはめるメンフィス。

以前も貼りましたが、ここの時点でのメンフィスは自分の妃に誰が来ようがどうでも良いけど、姉上はやたら自分を好いてくるな…というぐらいの感じだと思うんですよね。別に姉として慕ってはいるが恋愛感情はないし妃になってもならなくてもいいけど、神々に倣った方が良いのであればまあそれでもいっか、ぐらいの。それで、まぁ姉上は自分に好意があるようだし、とりあえず他の女達と同様飾り物でもあげといたら喜ぶか……みたいな感じで、すごい何ともないような顔して小慣れた手つきで指輪をはめる。うん、悪い男!!!!!!!!!!!本当に悪い男です。「ねぇちょっとアイシス様の顔を見て??すごい嬉しそうな女の子の顔をしてるアイシス様を見て????」と軽く殴りたくなりますが、多分本当に「ほら嬉しいでしょ?姉上」みたいなノリで渡してるんですよねメンフィス。悪意も好意もゼロ、完全なる思いつき。悪い男です。姉上はそのあとずっと大事にするのにその指輪………

ただ、前半それだけ余裕顔で女をたらしこんでいたメンフィスが、キャロルを好きになってからはめちゃくちゃ振り回されるのが最高に良いですよね。最初こそ「おもしれー女…」の顔してたけど、どんどん余裕がなくなってプイプイ合戦したり、思わず抱きしめちゃって平静を装ったり(ここの台詞の言い方分かりやすく変わってる!ってなりました。我に帰るタイミングが早くて、男としての自分の言葉を王としての言葉に瞬時に変えてて「お〜〜メンフィス頑張ってる!」ってなった。でもイムホテップ様とミヌーエ将軍にはどうせバレバレなところがいい)と、ファラオとしての顔でも、女慣れしたメンフィスとしての顔でもなく、初めて恋しちゃった少年王の顔が出てくるのがもう、最高に良いですよね(2回目)。今まで万能だった自分の権力を持ってしても思い通りにはならない女に振り回されて余裕を保ってられなくなるメンフィス、非常に好きです。ということで、だんだんそのまま第一位に繋がりそうになってきたので次に行きたいと思います。

 

 

第1位

弱りメンフィス

今回私がメンフィスにやられた最大にして予想外の敗因。まずは当時のツイートを振り返ってみます。

一体この日(8/21)に何が起きたんだ……というぐらいにやられている。

それもそのはず、8/21マチネといえば、前回も書きましたが浦井メンフィス×木下キャロル5連続の最終日、あの二人がめちゃくちゃ良かった回なんですよね。そう、あの日の二人はすごかった。愛がそこにあった。そう、そして、あの日の弱りメンフィスの破壊力は異常だったんです………もう致し方ない……。キャロルが古代に戻ってきてからのメンフィスの、もうこの娘なしにはとても生きていけない感が本当に強かったあの日。これまで数多の女を手玉に取ってきただろう浦井メンフィスが、エジプトにおいて絶対的な強さを持つ存在であるメンフィスが、ただ一人の女に夢中になり、その存在を失ったら途端に壊れてしまいそうな脆さを見せるわけです。もうね、前半がオラってればオラってるほど後半の弱りメンフィスが刺さるんですよ…………………。あんなに余裕そうに女を掌でコロコロ転がし弄んでいたメンフィス、何の気もなしにミタムンの腰を引き寄せ耳元で甘い声で囁き、慣れた手つきでアイシスの手を触り流し目を向け終いには指輪まではめていたあの女たらしメンフィスが、余裕など一ミリもない状態で奪われたキャロルを求めている………まるでお前と私は比翼の鳥、連理の枝とでも言いそうな様子で(そんな台詞はありません)すっかりキャロルなしでは生きていけなくなっているメンフィス………うッッ(発作)

(………だめですね、1番刺さったところは1番理性をなくしているところなので、しょうもない言葉と気持ち悪さしか出てこない。でもそのしょうもないことを書きたいんだ私は……書くんだ………)

さて、そんな弱りメンフィスを1番堪能できる歌としては、やはり「揺れる心」ですよね。1度目のこの曲のバックではセチが素晴らしい踊りを見せてくれるので本当に本当にちゃんと見たいといつも思っているのですが、手前にいる(大好物の)弱りメンフィスが私にとってはそれはもうめちゃくちゃ高い壁になるんですよね……………何で人間の目は二つしかないんだろうとこの場面は毎回心の底から思っていた。歌詞とリンクする踊りをセチが踊っているので、間違いなくどちらも見ながら追っていくのが正解だとは分かるんです。頭では。そしてここの場面、セチの踊りはメンフィスの想いの表れとも取れるけれど、そこ一方セチのキャロルへの想いはセチのだけのものだなぁとも思うんですよね。あの踊りはセチの想いそのものであり、メンフィスのものとして受け取ってしまうのはセチに悪い気がしてしまう。ので、セチのダンスをセチのものとしても受け取りたい。………と頭では考えて、考えているんですけど!弱りメンフィスに非常に弱い私の心に従うかのように私の目はメンフィスの表情をつい多めに追ってしまうんですよね……そして残るセチへの罪悪感……ごめんセチ、私の心が弱りメンフィスに弱すぎるせいで……………ごめんねセチ…………(誰)

 

この歌の「私はただの抜け殻」という歌詞そのまま、キャロルを奪われた後のメンフィスはキャロルのことしか頭になくて、やっと見つけたキャロルに突き飛ばされ2回目の揺れる心を歌うメンフィスなんてもう本当に抜け殻なんですよね。1回目の揺れる心を歌っている時は「普段は強くて偉大な格好いいファラオなのに、キャロルのこととなるともう、もう、僕は…………」ぐらいなんですが、リプライズになるともう「キャロル、キャロル……(ぐすん)えっなんで助けに来たのに……腕の中にいないの……何で助けられなかったの……僕もうむり……」ぐらいの弱り具合に見える(キャラ盛大に崩壊させてごめんなさいメンフィス様)。

あれだけ強くて自信満々で女たらしで怖いもの知らず(そりゃあ地上における神になる者として育てられてきたらそうなる)だったメンフィスがあんなにも動揺して、もしキャロルを失ったらという不安に囚われる。幼い頃から命を狙われ続けてきたメンフィス、自分の命を奪われる恐怖は常に感じながら生きてきたかもしれないけれど、誰かを失うかもしれない恐怖を感じたのは初めてだったんじゃないのかなあと思うんですよね。絶対的な強さを持っていたメンフィスが、キャロルに出逢ったことで弱くなり、脆くなる。自国において逆らう者などおらず、意のままに振る舞い、全てを思い通りに動かすことができていたメンフィスが、自らの心すら思い通りに動かせず、途方もない不安に苛まれる。ただその一方で、今まで自分のためや国のためだけに独善的に振る舞い、戦っていたメンフィスは、誰かのために戦うこと、無事を祈ること、誰かを守りたい、生きていて欲しいと願う感情を知る。

そして、それは今まで自分が姉に向けられていた感情であると、メンフィスはそこで初めて気付くんじゃないかなあと。二幕でメンフィスが静かにアイシスに向けているあの苦しげな視線は、キャロルを想う気持ちを知ったからこそ生まれるものだと思うんですよね。姉が自分に向けていた視線の意味を、告げられていた想いの意味をそこでようやく知る。けれど、キャロルを愛している自分はそれに応えることはできないし、想い人に応えてもらえないことがどういうことなのかも理解できる。何の気もなしに指輪を与えていたクソたらしメンフィスはもうそこにはいないんですよね……メンフィスお前、成長したな………(母心)という気持ちになります。

話を戻しまして、「揺れる心」という名前の通り、あの歌のメンフィスはすごく感情豊かで、苦しい、悔しい、不安、愛おしい、心配、怖い、逢いたい、淋しい、恐らくキャロルと出逢って初めてメンフィスの中に生まれただろう感情や想いが歌の中に詰まっていて、それが歌に乗って客席までぶわっと伝わってくる。キャロルと出逢う前のメンフィスソングも雄々しくて偉そうで強強なメンフィス様を味わえるので大好きなんですが、一番聴き入ってしまうのはやはり揺れる心かなと思います。浦井さんの歌、本当に台詞がそのまま歌になっているというか、いやもはやそれ以上で、その人の発した言葉がたまたま歌という形をしていたんだなと思えてくるというか、そしてその形だからこそより一層気持ちがそこに鮮明に乗るんだなというか、まあすみません上手く言い表せないんですが、とにかく本当にそのまんま感情がこちらの心まで飛んで入ってくるのがすごいなぁ、とあらためて思った歌でした、揺れる心。何度でも聴きたくなってしまう。

 

と、いうことで前半のオラメンフィス様には平伏し媚び諂いたくなるのだけど、後半の弱りメンフィスの方が訳もわからずめちゃくちゃ癖に刺さるという、想定外の落ち方をしました、2021年浦井メンフィス。ちなみに(まだ話すんかい)、前半のオラメンフィスには「ハァ……メンフィス様……」ってな感じで平伏し両手を掲げたくなるんですけど、といいつつもどこかで「うん、少年王だね、幼くてかわいいね………」みたいな母心と「この、ハイパー女たらし………」みたいな気持ちが共存しながらも結局「メンフィス様……」ってなるんですね。でも、後半の弱りメンフィスには理由なしに「えっっっ………ちょっと……好き……………えっ…………」みたいになるので未だに結局何がこんなにも刺さるのか解明されていません。端的に言えばギャップなんでしょうけど、それが全てかというと全然足りてないけどもう分かりません。弱りメンフィスは私の理性を持っていくので………なんか、ギュウウゥンってなるんだよ……心臓を鷲掴んでくるんだよ……しか言えません…こんなに書いたのに……。

 

 

さて、なんとか第一位の発表まで辿りつきました。

書き始めた頃にはまだ秋も始まったばかりだったのに、今はもうすっかり冬になってしまった。王家の紋章が無事全ての公演を完走し終わってから早1ヶ月と少し。案の定書き始めたら長くなりすぎて、しめるのが面倒くさくなって(あるある)、こんな時期まできてしまった。あまりに時間が経ってしまったので永久途中下書き保存版にしようかと思ったんですが、久しぶりに開いて見たらやっぱり閉じたくなったので、最後まで書いてみています。

前回の感想ブログを書いたときには東京公演の千秋楽だったので、あの頃は本当に最後まで完走できるのかドキドキだったんですよね。簡単に願うことすらためらってしまうというか、軽々しく「無事完走できますように!」とか言えないような、本当に割と大変な時期だったので。それでも、東京で観る予定だった公演をありがたいことに全て観られた私は、どうか博多で観る予定の方々が同じように、楽しみにしていた王家の紋章を楽しんで観られますように、と願ってしまったし、楽しい楽しいミュージカル王家の紋章を作りあげてくださったキャスト・スタッフの皆さんがどうか無事に、最後まで駆け抜けられますようにと祈ってしまった。東京から王家が去った9月は寂しくて寂しくて本当にロスがすごかったけれど、ゆるやかに自分の日常に戻りながらも、博多の地ではまた王家が始まって、進んで行っているんだなぁとキャストの方々のオフショや博多で観られた方のレポを合間合間に楽しんだりして、沢山余韻に浸れた1ヶ月だったなぁと思う。

そして9月末、王家の紋章は見事全公演を完走した。本当に、すごいなと思った。東京で最後に王家を観た時、私は博多には行けないので、最後のカテコでは出発する船を見送るみたいな気持ちで拍手をしていた。どうか無事に博多まで辿り着きますように。どうか博多でも多くの人達が王家の紋章を楽しめますように。そしてこの王家カンパニーの方々が博多に届けられるまでも、博多に到着したあとも、元気に過ごせますように。王家後半期間、いつの間にかすっかりカンパニー箱推し状態になっていたので、あの日は本当に遠くに赴く子どもを送り出すオカンみたいな気持ちになっていた。初めての感覚だったかもしれない。どうか気をつけて……!という気持ちでいっぱいだった。

あの時期に、あれだけの人を抱えて最後まで走り抜けられたのは、本当に奇跡なんだろうなと思う。それはもちろん徹底した対策をキャストやスタッフの方々が行ってくれたからこそだろうし、あとはやっぱり運も大きいのだろうなと思う。人の手の届くところ、届かないところ、いろんな力が重なって、王家の紋章2021が最後の公演まで辿り着いて、博多カーテンコールの映像を観た時、本当に嬉しくて仕方がなかった。カテコの音楽を聴いて自分の王家月間がぶわっと蘇って「あぁ、楽しかったなぁ」「幸せだったなぁ」「王家カンパニー、大好きだなぁ」とあらためて思って、そんな大好きな人達が作り上げた王家の紋章2021が最後まで走り切ったのだなと思ったら本当に嬉しくて、でも、今度こそ終わってしまうんだなぁと思ったら淋しくて、もう感情過多で涙腺が飛んでいっていた。終わってしまう淋しさと、ちゃんと「終われた」んだという安心感。それは好きだと思って何度も観た作品には毎回思うことではあるけれど、あの時期は本当にその有り難さが身に染みていて、本当に、心の底からほっとした。淋しいけど、何というか、淋しがれることにもほっとした。淋しく思えて良かった、と思った。

 

そして、2021年の浦井メンフィスを見られたこと、本当に幸せだなぁと思います。私は常々、過去作の浦井さんの断片を見るたびに、「なぜあと数年早く好きになっておかなかったんだ…………」と思うのですが、それでも、2021年の浦井メンフィスに間に合って良かった。進化してパワーアップした2021年のメンフィスを目撃できて良かった。推しとの出逢いはタイミング、私のタイミングが2021のメンフィスに交わるときで良かったなぁ、と思います。まさか作品とは別にメンフィスについて、こんな長々とブログを書くことになるとは8月の頭にはまるで思ってなかった。こんなことになれて良かったです。万事良好。間に合ってくれてありがとう。私の2021年の夏は浦井メンフィスに謁見できた最高の夏になりました。

 

そんなわけで、拝啓 浦井メンフィス様。あらためまして、今年の夏は私に沢山の幸せをくれてありがとうございました。

The Roots2022

The Roots2022、行ってきました………!!

うわーーーーんもう本当に最高だった。戻りたい戻りたい戻りたい!!!私を紀尾井ホールに戻してください。

 

いやー本当に本当に本当に最高だった。ご本人たちも楽しそうにされてたけれども、本当に客も、いや客というと主語が大きいですね、私もめちゃくちゃ楽しかったです。拍手で「楽しいですありがとうございます!最高です!!」をガンガンに飛ばしましたが伝わってましたでしょうか。伝わっていたら嬉しいです、楽しかったので。本当に最高に幸せな時間でした。

さて、私は本来東京公演1日目、7/2の昼公演のみ参戦予定だったんですが、チケットが1枚また1枚と増え、気付いたら東京公演に全通しておりました。あれ節約の誓いはどこへ?とここ数ヶ月何回思ってるんだろう?まあいっか、悔いはありません(一片の悔いなし) (言いたいだけ)。2日間Roots詰め最高でした、ありがとうございます!

 

ということで、お礼も込めてこれを書き始めたわけですが、いかんせん4つ分の公演の記憶が頭の中にぎゅうぎゅう詰めになっているので、何を書いたらいいのやら。二日連続マチソワマチソワコンサートしたのは初めてなので流石に脳がパンパンです。all大好物豪華100種類ビュッフェに行ってたらふく食べてきたけど、お店出る間際に「5つだけ好きなの教えてください!」って言われてもエッ答えられませんが?!ってなると思うんですけどそんな感じです(どんな感じ)。文章にするには量が限られてくるので、めちゃくちゃ好きなものの中から更に好きなものを厳選せねばならない。しかも困ったことに2日間の過剰摂取により脳は余裕で容量オーバーなので4つの記憶がごちゃごちゃだし、そもそも一つ一つが良すぎるので記憶が飛びます。えぇ、本当に何から書いたらいいんだろう………

こういう時はそう、秘技・思いついた順から勢いで書いていく、です(嘘ですね、秘技でもなんでもなく大体これだよ………)。これの長所は迷いなく狂いながら書けるので楽しいところで、短所は理性が働かないのでミスると量が大変な量になるところです。記憶が薄れきる前に何とか形にしたいので書き終えられるぐらいの配分で書くよ!!!Let's go!

 

 

そんな訳で前置きが長くなりましたが、The Roots東京公演、7/2,7/3の話をしていきたいと思います。

 

さて、まずはお二人についてお話ししてもいいですかね。

加藤和樹さん、朝夏まなとさん(以下和樹さん、まぁ様と呼ばせていただきます )に招かれまして(?)やってきましたコンサートThe Roots2022ですが、何とまあ空間の居心地の良いこと良いこと………。コンサートやライブの空間はその場の主(主催者)によって空気感が決まると思うのですが、るーつ、空間の安心感がすごい。一応今回、お二人のことは存じ上げている人間として私は向かったのですが、仮にどちらもそんなに知らなかったとしても、安心してそこに居られるような気がした。なんというか、この人達絶対良い人だ……という安心感がすごい。空間が優しい。ピースフル。たぶん居心地の良さを空間に拡散させる空気清浄機ある。加えてお二人とも端っこや上の方の席まで意識を向けてくださるところとか(手を振ってくれたり目線をくれたりと)、お二人とも本当にステージに立って観客を楽しませるプロフェッショナルなんだなぁと度々思ったし、それよりも前の部分で、お二人も目の前の「人」をよく見ている方なんだろうな、という感じがしました。すごく観客として大事にしてもらえた感覚になるというか。幸せな空間でした。

と、いうわけでそんな素敵なお二人が終始素敵だったThe Roots2022について、以下バシバシ書いていきたいと思います。

 

(…………いや本当に最初から再生して、いちいち一時停止しては「ここの、ここがね!大変良かったですよね!!!」って一曲ずつやりたいところなんですが、恐らく全曲に触れていたら多分書き終わるのが秋ぐらいになってしまうので、やっぱり自分が特に好きだったなぁとか、印象に残っているなぁという部分の話をしたいと思います。時系列も守ろうとすると、多分順を追って全部書きたくなる真面目衝動に駆られてしまうので、適当に思いついた順に書きたいことを書きます。)

(何から書こう……)

 

 

お二人のデュエット編

夏色

これはめちゃくちゃ書きたかった。えっすごくすごく好きだった。

和樹さんもまぁ様もすごく、お二人とも格好良く美しく作り物のように見目麗しい一方で、小学生男児と女児のような健やかさがあるなとパンフレットを眺めながらも思ったんですが、その健やかさ、わんぱくさが存分に発揮されていた夏色。夏休みに太陽の下ではしゃぐお兄さんとお姉さんがそこにいた

この辺りはツイートもしたけど再放送。まぁ様が楽しそうに歌ってる右横でよだれダラダラ垂らしてる和樹さんめちゃくちゃふざけた兄さんで笑ってしまった。二人で線香花火してるのも自転車二人乗りしてるのも、ノリノリ夏のおにいさんおねえさんの感じでめちゃくちゃ好きでした。

夏色、曲調自体はめちゃくちゃ「夏が来たゼ楽しもうゼYeah!!」みたいな明るく楽しいノリノリ夏ソングのイメージがあって、実際夏楽しもうぜ!の曲でもあると思うんですが、歌詞としては、その夏楽しもうぜYeah!に乗れていない人に寄り添ってあげる曲でもあるんですよね。その人に「夏なのに辛気臭ぇ面してんな!」とは言わずに、ただそこに寄り添いすぎることもしないで、夏の楽しさをお知らせして、決して無理強いはしないけれど、「ほらどう?行ってみない?」と引っ張っていってあげる曲というか。今回の夏色、和樹さんもまぁ様も、すごく健やかに夏の日差しの下にいる陽気なお兄さんとお姉さんで「ほらほら夏楽しいよーー!!」「晴れてるよーー!!」「ほらチャリ後ろ乗ってけ!夏に連れてってやるよ!」という感じですごく好きでした。完全に陽。夏の太陽が似合うお兄さんお姉さんがいた。ただ、見守る優しさもたっぷり備えていそうなお二人なので、前面にそれは出さないけれど、そっと見守りつつも楽しい夏に誘う愉快な夏の案内人のようで、両面を持ったまさにこの曲みたいだな〜と思いました。すごく好きでした、夏色。

 

 

ジャニーズ編

本編では硝子の少年(KinKi Kids)、アンコールではマチソワ替わりで夢物語(タッキー&翼)、Venus(タッキー&翼)、とジャニーズソングをキメッキメに歌い踊っていたお二人。最終日ソワレは和樹さんの熱い要望により(?)(ありがとうございます)、スペシャルアンコール(マチソワ両方ver.)を浴びれて最高に楽しかったです。

私はそこまでジャニーズは通ってきてない人間なので「えっ観客踊れる人多ない?!www振り分かるの?!分からないよ?!!」と思いながらキメッキメに踊る二人をマスク下で爆笑しつつ(お二人ともあまりにバチクソperfectに決めてくるのでだんだんおかしくなってきてしまう)、オペラグラスで覗きながら楽しませていただきました。

アンコールのためにリハを一回増やしたというお二人。部屋にポスターを飾っていた少年、下敷きに切り抜きを入れていた少女、かつてそんなタキツバ大好き少年少女だった二人のタキツバ愛溢れるアンコール、めちゃくちゃ愛とプロ精神に満ちていて最高でした。好きなものを中途半端にしてたまるかというオタク精神と、やるとなったなら完璧に魅せてくるプロフェッショナルの技が合わさるとこんなにも素晴らしいものが見られるのですね。キラキラアイドルアンコール、双方イケ散らかしてて最高でした。ご馳走様でした。ネクタイに白シャツは学生っぽくて文化祭の後夜祭みたいだな〜と思ったし、肩にしゃらしゃら(あれ何て名前だっけ)かけてるのも愉快で最高でした。しゃらしゃらつけてグラサンかけてる和樹さん、海辺にいるホストみたいだったな……(余談)(海辺にいるホストって何?)

 

お決まりコント

さて、ここで記念にラストでタキツバを歌うためのお決まりの匂わせコント(後半もはやコントに見えてきた)のくだりをお送りします。

※以下ニュアンス記録

ま「部屋にポスターを飾ったり、下敷きに切り抜きを挟んだり……加藤さんはポスター貼ったりしてましたか?」

か「あぁ……貼ってましたね」

ま「おお〜…ちなみに誰の?」

か「それはちょっと……言えないですね」

ま「言えないんですか??」

か「ちょっとね、まだ今は………男性アイドルとだけ言っておきます」

ま「ほぅ、男性アイドル………」

か「朝夏さんはちなみにポスターを貼ったりは?」

ま「私はポスターは貼ってなかったですが、下敷きには入れてましたね」

か「………ちなみに誰の?」

ま「……それはちょっと……言えないですね」

毎回繰り返されるこのくだり、もはや後半戦は始まった瞬間にニヤニヤしてしまう。

日によって、

ま「部屋にポスターを飾ったり、下書きに切り抜きを挟んだり……」

か「下書き?」

ま「下敷きですね!!」

とか(かわいい)

か「姉が部屋にポスター貼ってましたね。女性はよく貼りますよね」

ま「………あれ?男性ですよね?」

か「はい……姉が貼ってたから、じゃあ俺もいいかなって………」

とか(かわいい)

ジャニーズトークにちなんで

ま「今回で加藤さんは大分ジャニオタだということが分かってきたわけですが、………ジャニーズに応募しようとかは思わなかったんですか?」

か「いやそういうんじゃないんですよ!わかります?そういうんじゃないんですよ。見ていたいんですよ、ただのファンなので………」

とか(オタクだ………………)

あと、アンコール前のまぁ様のイケボ台詞集

今夜は眠れなくなるぜ…?

みんな……目に焼き付けていってくれよな?

が格好良くてメロメロでした。紛うことなき超人気アイドルたった。低音ボイス最高。アンコールのまぁ様のイケ散らかし具合、天才でした。歌い踊る姿ももちろんなんですが、曲中にサングラス外すのも胸元にかけるのもめちゃくちゃイケメンのそれでした。おなごをときめかせ慣れている人のそれ。完敗。

ちなみにもし次のThe Rootsがあるとしたらお二人でジャニーズコーナーをやるそうで?(完全にまぁ様巻き込まれてただけだったけど)(ま「えっ私もやるんですか?」か「そうだよ!俺一人じゃできないもん」)めちゃくちゃ楽しみになりました。と言いつつジャニーズ全然詳しくないんですけど(人並み程度)、お二人がやるならいくらでも見たいじゃないですか。ところで次のThe Rootsいつになりますか?予定空けときますね!!!!!!!!

 

単発!これが最高でした編

坊やになりたいと生まれて初めて思った2022年夏

言うまでもなくまぁ様のプレイバックPart2の話です。本当にめちゃくちゃ格好良くて、4回とも事前に和樹さんに「心掴まれますよ」「撃ち抜かれますよ」「覚悟しておいてくださいね」とか忠告されたはずなのに、懲りずに毎回「か、か、かっこいい〜〜〜(倒)」となってしまった。ずっとオペラグラスで覗いてました。はちゃめちゃに格好良いまあ様から放たれる「坊や、一体何を教わってきたの」の破壊力たるや。

あれは全坊やが「ごめんなさい、僕は本当に何も分かっていなかったです………………僕は坊やです………」と平伏す「坊や」だった。全坊やというより全人類ですね、全人類まぁ様の前では坊やになります。生まれて初めて坊やになりたいと思ったし、気付いたらなっていた。初めての感情でした。プレイバックPart2を歌うまぁ様の前では人類皆坊やです

原曲では大人の女性の歌という印象があったんですけど(それこそ「坊や」で)、まぁ様が歌うことにより、年上の女性の「坊やったら何も分かってないのね」感に加え、男性としての格好良さを自分が熟知している人の「あーら、この子まだ何も分かってない(フフッ」の先輩感が加わると言いますか。あの曲を歌うまあ様に男性みがあるかというとそういう訳ではないんですが、それでも滲み出てしまう蓄積されたとんでもない格好良さはやはりあるので。坊やの先輩なんですよまぁ様は。坊やのずっと先を行く人なんです。坊やが見習うべき人なんです。そりゃ坊やは完敗なんですよ、坊や、まずはまぁ様に学んでこい、という気持ちになるプレイバックPart2でした。

 

 

One more time one more chance

これはもう本当にあまりにも…………最高でした。毎度まぁ様が終わるたびにすごい勢いで下手から拍手しながらダッシュで「パチパチパチパチ(ダダダダダダダ)」と出てこられてたんだけど、多分もう全観客あの気持ちだったでしょう……客席から走り出して拍手しに行きたいぐらいに最高でした。

これ以上何を失えば 心は許されるの」の歌い出しからもう心を掴まれてしまう。少しでも触れたら壊れてしまいそうなあの第一声から、あぁ、この人はどうしようもなく傷付いているんだな、と分かってしまう。過去の景色を今に見てしまう人。足りなくて、戻りたくて、戻らなくて、もう二度と帰ってこないものに手を伸ばしている人。交差点も桜木町も踏切も新聞も見えてしまうからすごい。和樹さんの歌う歌にはその人が見つめる景色が見えるのだな……と度々思うけれど、だからこそこの曲はまぁ様が仰っていたように、まさに「ぴったり」の曲なのだなあ、と。もうここにはないものを見てしまう歌。聴き手にもそれが見えてしまう。一つの曲のMVを見ているような、いやそれよりもっと長くてずっと密度の濃い、一つの物語を見ているような。たったの数分でその歌を聴き手に分からせてしまうからすごい。もう戻らないものを目に映す姿がなんて似合うんだろうか。聴いている側にもその目の先の景色を見せてしまうし、その歌の世界の色に会場ごと染めていた。毎回時間を忘れて聴き入ってしまったし、2日間ですっかり和樹さんの歌うこの曲の虜になってしまった。贅沢なことに2日間で4回も聴いてしまったので、もう今すでに若干ロスになっています。私ももうそこにはない和樹さんのOne more time one more chanceを求めて紀尾井ホールを見つめてしまいそうですね。どこに行ったら聴けるの…………。

(まぁ様、大変素敵な選曲ありがとうございました………!)

 

 

 

エリザメドレー編

さて、お次。こちらは絶対に喋りたかったやつ。加藤和樹の夢叶えたろかSPこと、二人でエリザベートメドレー。言うまでもなく最高でした!!!!!!!

本当に全曲、お二人とも一瞬でスッと纏う空気を変えてくるので、「………?衣装………変わったのでは…………?だって……違う人じゃん………………?????」と思ってしまうぐらいに別人だった。二人でエリザベートってできるんですね…………ふふふふ、エリザベート2022一足お先に観ちゃった…………


闇が広がる

正直この曲は歌われるんじゃないかな、と思ってはおりまして(だって全客が観たいに違いない)、ただ「あれ、でもどっちがどっちを歌うんだろう………?ええぇ、どっちも見たいな…………?え、2回やって…………?」と始まる前から心の中で駄々を捏ねておりましたら何と叶えてくださいました。世界すごい。駄々って捏ねたら叶うんだ!!!(勘違い)

かずトート×まぁルドルフから始まり、JtR方式でまぁトート様×かずルドルフにスイッチするThe Roots限定闇広。こんなに最高なことあります?始まった瞬間もゾクッとしたけれど、初日、その入れ替わりの瞬間を初めて見た時思わずしばらく息が止まってしまった。いや私だけじゃないはず、初見の人多分皆ヒュッてなるはずあれは。「?!??!?!?!(そんなことある?!?!)」ってなって数秒呼吸が止まる。多分心臓も止まってる。そして蘇生するまでにだいぶかかる。

それまで不安で瞳を揺らしていたまぁルドルフが、かずトートさんの肩に手を置いた瞬間、かずトートさんが強制的にかずルドルフになるんですよ?そんなことありますか…?!でもその後の最強まぁトート様を見ていればまぁトート様の強制ルドルフ化の技にも大納得してしまう。多分まぁ様全人類をルドルフにできる能力を持っている(なんか上でも似たようなこと言ってたな)。「トートのスイッチはすぐ入る」と話されておりましたが、一瞬で強強のトート様になってしまうまぁ様、すごかったです。

かずトートさんはJMFで拝見してから生で観てみたかったのでワアァァァありがとうございます…………の気持ちで見てました。座り込むまぁルドルフに近づき肩に手を添えるかずトート、不敵な笑みを浮かべまぁルドルフの顔の前に手を翳すかずトート、そのかずトートを不安げな表情で見上げるまぁルドルフ。本当に最高でした。見目麗しいお二人が作り上げるエリザベートの世界、もうここまでで、まず絵が大変美しいんですね。もちろん歌含めたお芝居も素晴らしく、もう大満足なんですよ。大満足なのに、……ここから更にそんな……入れ替わるだなんて……そんなまさか……ありがとうございます……ありがとうございます…………。その前までフッと終始余裕そうに妖しい笑みを浮かべていたかずトートが、突如まぁトート様に肩に手を添えられた瞬間、膝から崩れ落ち怯え戸惑うかずルドルフになるなんて………その前まで不安に呑まれていたまぁルドルフが、1ミリも隙のない完全体強強まぁトート様になって大逆転勝利を収めるなんて……………そんなことが………そんなことがあっていいんですか……………?あれ、本当にありました?(幻覚じゃないですよね?) 4回も見たはずなのに自分の記憶を疑ってしまう。あんな最高の形勢逆転劇、滅多に見れないですよ…………どうしようだんだん三点リーダーに文章蝕まれてきたので終わりにしますね………本当に最高でした……ありがとうござきました…………

 

夜のボート

闇が広がるのラスト「皇帝ルドルフは立ち上がる」でバンッと締まった後、夜のボートの前奏が流れ出してからのお二人の移り変わりがすごかったんですよね、本当に。なので、エリザベートメドレー全部最高だったんですが、この二つを選びました。

それまで絶対的な強さを放ち、完全に場を支配していたトートから、スッと人外の覇気のようなものが消え、静かな強さを持った女性へと変化していく。それまで戸惑い怯えながらも目の前の不安に立ち向かっていた若いルドルフから、途端に青さが消え、年齢や抱える苦悩から滲む重みが増す。まぁ様を見ていて、「わあ、人間になった……」と思ったし、和樹さんを見て「うわ、すごい急に老けた…………」と思ったんですよね。いつかのトークで和樹さんがまぁ様シシィについて「背中でもうだめだ…と分かる」「背中で語られる」と話されていたように、夜のボートのまぁ様シシィ、ものすごく分厚いシールドを強く張っているので、もうどうしようもないんだな……というのが明らかなんですよね。静かだけれどものすごく意志の強い拒絶。どれだけ言葉を尽くそうとももう届かないと分かる。曲が始まった瞬間から最後フランツを置いて去っていくまで、一度も彼に目線を向けない彼女が見ている行き先は、とうに定まっていて、もう決して変えられないのだろうな、と思う。その目が静かに見つめる先にフランツはもういないし、その声は聞こえていても、彼女の心の内に入ることはないのだろうな、と。

そして、上のトーク時に「悲しくてすごく猫背になってしまう」とも話されていたんですが、和樹フランツさん、本当にめちゃくちゃ猫背なんですよね。その周辺だけ重力10倍ぐらいあるんじゃないだろうか、と思うぐらいに肩に背負う空気が重い。どれだけ見つめても、もう彼女が振り返ることはない、どれだけ伝えても、もう彼女の心に自分の気持ちが届くことはない。それを恐らく頭では分かっていて尚、彼女を見つめ、追いかけ、語りかけてしまう。けれど彼女はもう戻らないし、自分との間にできた深い溝はもう埋まらないし、これから向かう先が交わることは二度とないのだと、恐らく伝えるたびに痛感するのだろうな、と、始まった瞬間からやつれて見えるのに、あの時間の中でどんどん傷を抉るように哀しさを深め、暗く沈んでいく和樹フランツさんを見ていて思う。低くて深い歌声とは対照的に、最後縋るように「愛してる」と伝える姿も、シシィが去った後ぽつん、と一人捨てられた仔犬のように立ち尽くす姿も、何とも小さくて脆いんですよね。

あの歌を聴いただけでそれだけの物語をこちらに感じさせてしまうお二人にすごいなぁ……と思いながら、すっかり聴き入ってしまいした。夜のボート。エリザベート全曲、コンサートで歌を聴いているというより、もうお芝居を観ている感覚で見入ってしまったのだけれど、特にこの曲は二人の作る世界に完全に引き込まれてしまった。

 

 

……と、いうわけで、二曲しか触れられませんでしたが、エリザベートメドレー、最高でした。全曲最高でした。何ならもっと見たかった。曲が切り替わるごとに本当に全く違う空気をスッと纏うお二人に毎回驚き、曲ごとに変わるそれぞれの魅力をたっぷり見せていただける贅沢な時間。エリザベート2022がより楽しみになりました。何かの魔法でチケット増えないかな〜〜

もっともっと何度でも見たいので、次もぜひやってください(次もある前提)。めちゃくちゃ喜びます。その際には残る和樹シシィも楽しみにしております。

 

 

■総括

さて、本来であればまだまだ書きたいことが山積みなんですが、これ以上書くとキリがなくなって永遠に下書きに眠ったままになりそうなので、この辺で一旦締めます。

(ちなみにこれはめちゃくちゃ余談なんですが、これを書くまでに恐らく保存をミスってか3000字ぐらい分ぐらいの下書きが飛んだのでこの総括を書くのは二回目です!なんてこった!心の虚無亡霊を成仏させるためにこの文を入れています。一回撮って編集もし終えた動画データが全部消えた時のYouTuberってこんな気持ちなのかな………なるほどこれはしばらく放心状態になりますね………まぁ、もう書いたことも忘れてしまったので気持ちを新たに最後に書きたいことを書いてきますね!go)

 

 

The Roots2022、行くまでももちろん楽しみにしていたし、きっと素敵な時間になるのだろうな〜と思いながら向かったのですが、結果、予想を遥かに上回る最高の時間を過ごせました………!!!2日間本当に楽しかった。「幸せだな〜〜楽しいな〜〜良いもの見てるな〜〜」をずっと感じながら過ごす時間、とっても健康に良い。多分2日間で何歳か若返った気がする。

今回あまり書けなかったけれど、お二人のゆる〜っとしたトークも楽しかったです。それぞれちょこちょこ出てくるわんぱく感が面白かった。片方がわんぱくしてる間は片方がツッコミに回る相互ボケツッコミ体制(大体配分が同じぐらいでバランス良くて面白いな〜と思った)してるのも、何となくやっぱり似たお二人だからこそなんだろうな、という感じがしました。あとは順番勝負ジャンケンタイム、「オラに力を分けてくれ…」言いながらも、あんまり会場から力を貰えない和樹さんも(一回客席方面にただ無言で手を伸ばして「大丈夫です、勝手に吸い取ってるんで」みたいなこと言ってて笑ってしまった。「問答無用で吸い取られたwwww」となった)、会場からの拍手でめちゃくちゃ力を貰うも何故かじゃんけんに三連続で負けてしまうじゃんけん弱々まぁ様も好きでした(毎回本気で悔しがってて可愛かったです)。あと、1984年に生まれました〜!の時に「おぎゃ〜〜」してるまぁ様も大変可愛くて好きでした。毎回「か、かわいい〜めでたい〜」の拍手しちゃう。あとはうっかり1079年の話をする平安時代の和樹さんも好きでした。ペットボトルと間違えてマイクを飲もうとして、一人でそれにずっとツボってしまうまぁ様も好きでした。すっかり慣れた「お父さん」呼びに、一応毎回「誰がお父さんじゃい!」しておく各回のお客さんに親切な和樹さんも好きでした。どっかの回で、1回目のお父さん呼びはスルーして「あっスルーするんだな……」って思ったら2回目になって「誰がお父さんじゃい!」してて面白かったです。確かまぁ様も言ってた)

…………あれ、最後にちょこっと書いてない部分盛り込もうとしたらめちゃくちゃ欲張ってしまった。とにかく歌の場面では最高に格好良く美しく決めてくるお二人が、トークの場面ではかわいらしくわちゃわちゃしていて大変楽しかったですという話をしたかった。お二人とも可愛いと格好良いの合わせ技の天才だ!と思いました。

 

あと今回、私は曲のドンピシャ世代ではないので、現場に向かう前は「うーん曲分かるかな〜〜」と思ってはいたのけれど、思っていたよりもずっと知っている曲も沢山あったし、仮に知らない曲であってもお二人とも置いていく空気がまるでないので、全然丸ごと楽しめました。

なんというか、観客全員おっきい船に乗せてくれて、誰一人置いていかず、安全運転の愉快な二人の船長が色んな景色を見せに連れてってくれるみたいなコンサートだなあ、と。ちゃんと常に乗せている客を見てくれているし、途中で海に投げ捨てていったりしないし(笑)、最初から最後まで幸せな気持ちでいさせてくれる。もちろんめちゃくちゃ楽しいし、次々見せてくれる景色は全て絶景なんだけれど、その根底に安心感があるからこそ、力抜いて楽しく乗ってられるんだろうな〜というようなことを思いました。

ちなみに今回初めて聴き馴染んだ曲は、私にとってはもうすっかりお二人の声で浸透してしまったので、お二人の歌になったわけですが、そうやってお二人の歌として出会えて良かったなと思える曲が沢山あったし、元々知っていた曲もまた違う印象で入ってきたりもして。何だか純粋に、やっぱり歌って面白いな〜というところに立ち返りました。その曲と、それを歌う人と、それを受け取る人と、そのタイミングとで、いくらでも違う音楽が生まれるのだな、と。大きな話で言えば時代によって印象がガラリと変わる歌もあるだろうし、小さな話で言えば聴く側の年齢や経験、何ならその日の気分レベルで、いくらでも出会い方が変わってくるわけで。そんな中、私はあの二日間で、和樹さんとまぁ様が歌う歌として出会えて良かったなぁと思える曲が沢山あったので、とても幸せだったなと思います。

あとこれは舞台を観ていてもいつも思うことだけれど、同じ空間の中で同じものを観ているけれど、一人一人は実質違うものを見ているようなもので、私があの2日間で貰ってきたものと同じものを受け取った人はいないんですよね。上で書いたように、一人一人がそれぞれの曲と、それぞれの出会い方をしている。ある人にとっては過去自分が聴いてきた曲との懐かしい再会であり、ある人にとっては心に残る曲との初めての出会いであったり。その瞬間そこにいる人たちだけで同じ空間を共有しているという感覚と、その同じ空間の中でそれぞれの経験をしているという感覚と、私はどちらも好きなのですが、あの時間の私にとっての記憶は、誰に訊いても分からない私だけのものなので、しっかり大事にしまっておきたいなぁ、と思います(そのためにこれを書いているというのもあるんですがね)。

 

…あれ?!またまた総括と言ったはずがどんどん長くなってきてしまったので、流石にそろそろ終わりにしたいと思います!

 

あらためましてThe Roots2022、J-POPパートもミュージカルパートも盛り盛りの盛り沢山で、本当にお客様満足度150%(主語がでかい)なコンサートでした!!最高に格好いい和樹さんも、暗く妖しい和樹さんも、心をぎゅぅぅと掴まれてしまう切ない和樹さんも、物語が後ろに見せてしまう和樹さんも、全部最高でしたし、あまりに最強に格好良くてひれ伏したくなるまぁ様も、時折少女のように可愛らしいまぁ様も、気品があるのにどこか可憐なまぁ様も、陰りを帯びた美しい大人まぁ様も、全部最高でした。お二人の色んな側面を次から次へと見せられ魅せられ心は大変大忙しでしたが、本当にたっぷり楽しめて心が満ちたし、充実した2日間になりました。行けて良かったです。1日中幸せ感情詰め詰めな贅沢な2日間を過ごせたので、だいぶ心の栄養補給になりました!

 

 

と、いうわけで最後にあらためてお礼を。

最高に幸せに満ちた時間をありがとうございました!ぜひまた次の機会をお待ちしております!!!!!!!!

夢の国の幻

Kopi Luwak Concert Vol.4 ~heartful~に行ってきました!

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浦井さんのFC限定コンサート@舞浜アンフィシアター

 

今回のコンサートはレポ禁(SNSへの内容に関する投稿はNG)ということで、まぁブログを書くこともないだろうと思っていたんですが、えぇ、たまたま私の今朝のツイートを見た方はご存知の通り、配信チケットを買い損ねるという痛恨のミスを致しまして、配信を観るように空けておいた今日一日、このままだと自分のアホすぎるミスに苛まれ虚無に呑まれそうなのでいっそのこと、「いかに内容に触れずにレポ(レポではない)を生成できるか?」という無謀な遊びを開催しようと思います。さて、何に触れて良いのか良くないのか分からないので、基本的には何にも触れません!というわけで

 

 

ルールは以下の3つ

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本編の内容には触れない

隠語であれど本編の内容が予想できそうなワードは使用しない(全員公開のブログで内輪ネタ話すのはあれですしね)

・上記2つを守りながら夢の国がいかに夢の国だったかを喋る祭りを開催する

******

 

 

つまり、何の話をしているかもわからないような抽象的なものについてただひたすらに何かに騒いでいる狂人の文章が以下に続く記事になると思いますので、気が狂った人間のよく分からない文章を読みたいという狂った方だけ以下にお進みください(注意書き)。

 

 

さて、配信チケットを買い損ねたというのがこれを書き始めた主な理由ではあるんですが、やはり自分向けに残した文章やメモ、自分にしかわからないような走り書きを残す形になることが多いので、後から読んだときに当時の感情が呼び起こされるような熱量の文章はなかなか残らず、何だかんだブログに書いた文章の方が読み返すことが多いんですよね。基本的には自分の自分による自分のためのブログとしてこのブログは使ってるんですが、やはり他者の目に触れるかもしれないという意識は文章に表れるので、ある程度は整ったものが残る。なので、ここでも残せることがあるなら残しておきたいな、という試みです。

と、いうことでコンサートの内容のメモ自体は自分のiPhoneのメモに殴り書きしてきたので、何の話をしているかわからない、夢の国帰りの人間が奇声を発する奇妙な祭りを開催していきたいと思います!そんなに長くはならないはず!なんせ内容がない(書けない)ので!

 

 

 

さて何から書こうか。

内容に何も触れられないということは、逆に言えば内容に何にも触れなくていいということでもあり、内容に触れさえしなければ私が今したい何の話でもしていいということなのでは………………?というとんでもない自由に気付いてしまった。………じゃあ好きな話しますね?

 

 

やはりファラオだった

その週の天気予報でも、4/23は曇りか曇り時々晴れ、気温は23℃前後ぐらい、というのが私が見ていた平均値だったんですが、まあ浦井さんの主催するコンサートでもやもやした曇天というのは想像がつかなすぎるので、くもりといっても日差しがあるくもりとかだろうな、というかまぁ晴らすんだろうな、と考えてましたが、いやもう本当にあっっっっつかったですね昨日……………。確か最高気温26℃とか?夏じゃん。隣の夢の国に向かう人たちも結構夏の装いだったよね。期間限定の近所の夢の国の玉座にド晴れ男が座っているので、夢の国の天気までアッツアツにしてしまっていた。流石すぎる。

 

こんな民の願いも虚しく、ファラオの太陽パワーはやはりスーパーウルトラファラオだった。容赦ない太陽光。いつも4月末までヒートテックを手放せない女ですら昨日は薄手のワンピースをnoヒートテック着用しました。いや本当に暑かった。ファラオは太陽なので、太陽がそこにいればその土地の天気はやはり晴れになってしまう。仕方がない。

 

とはいえ、外の気温は暑いけれど、室内の気温はまあまあ涼しかったので、春夏秋冬厚着人間は室内ではトレンチコートを着ていたんですね。昼間はそれでちょうどよかった。客席入った時も、「割と冷房効いてるな〜寒いから肩にかけとこ〜」ぐらいの体感温度だったんですね。

ところが、コンサート終わって会場を出た瞬間暑くて暑くて仕方がなかった。すっかり日が落ちた屋外は気温が下がっていて、いつもの私なら荷物増えるからトレンチ羽織ってる気温ではあったのに、昨日はまるで着る気にならなかったし、室内で冷房効いてても「全然一枚でちょうど良いんですが?」の気分だったし、何だろう、あの会場の中はサウナかなんかだったんだろうか

私は数時間大人しく座って歌を聴いていただけだったのに、暑くて暑くて仕方がない。まさか、屋内でずっと太陽を浴びていた………………………?ファラオは太陽……………つまり、浦井健治は太陽……………そうか、私は客席でもずっと太陽光を全身に浴びていたのか……………昼間はサンサンと夏の日差し(物理)を浴びせた後、夜は自らの光と熱を全身に浴びさせる男…………観客のビタミンDを作る男…………………あまりに強すぎる。健康にしてくれてありがとうございましたファラオ。ちなみに何故か今日も身体がいつもよりぽかぽかしています、ファラオの熱、持続性がすごいですね(平熱です)。

 

 

夢の国の王子ですか

すごい当たり前の話するんですけど、浦井さんって格好良いときめちゃくちゃ格好良いんですよ。ラジオとか親しい人とのトークでふわふわした浦井さん摂取して油断してると後頭部ガーーーーーーーーーーーン殴られてぶっ倒れるぐらいに、格好良い浦井さんははちゃめちゃに格好良いんですよ。「格好良い生き物がいる……」(私の常套句)ってなるんですね。案の定そりゃあ昨日も格好良くて、懲りずに格好良くてびっくりしちゃったんですが、まぁ格好良いにも色々種類があるじゃないですか。役が入ってる時のどっしりとした格好良さも好きなんです、その役が入ってる時の格好良さもまた役によりけりなんですけど(一言が長いな)、昨日の浦井さんは、きらっきらしたアイドルの格好良さも兼ね備えていた……………………ダンス隊のみなさんに囲まれる浦井さんの煌めき………………ダンサーさんとにこにこ絡む光景の眩しさ…………ていうかダンサーさん達の笑顔がきらっきらすぎて本当に夢の国かと思った…………こここそが夢の国……この世の天国……そのきらっきらのダンサーさんに囲まれて歌い踊る浦井さん…………夢の国の王子だった…………私は浦井さんに王子感を感じたことがあまりない(好きになった時期の問題ですかね)んですが、あれは夢の国の歌って踊れるきらきら王子様でしたわ…………………………王子………好きです…………………王子だしアイドルだった…………

 

2回目登場時の衣装がすきだった

多分この衣装お写真があがってないのであんまり喋りませんが!2回目に出てきた時のお洋服がめちゃくちゃ好きでした!!!!!!解散!  

 

多面性

開演前にオープニング・アクトをやる、という情報自体は公式Twitterさんが出してたと思うのでその名前ぐらいは出してもいいですかね!開始前のオープニングアクトトークから最後の最後の集合写真撮影(これも浦井さんがツイートしたので許可を得たと認識して書く)まで、色んな浦井さんが見られて面白かったなぁ、という話です。基本的には浦井さんを表の場(共演者とのトークやら舞台でのカテコ挨拶やら)で見た時にぱっと受ける印象って、明るい、にこやか、優しい、天然(たまに何言ってるか分からない)、誰にでもフレンドリー、オープン……みたいな(本当か?)印象が強いかな、と思っているんですけど、そこの部分以外の浦井さんも見られて楽しかったなぁ、と。さすがFCイベント、うらいさんの浦井健治色が濃いなぁと思いました。

やっぱり根がせっかちの人の気遣い方(思考回路)をするんだな〜☺️とか、もちろんめちゃくちゃ優しい人ではあるんだけどごくたまに垣間見える根のドS感〜☺️とか、ファンクラブ内だとゆるほわっとしてるところはいつもよりゆるほわっとするんだな〜☺️とか、ウン褒め方が独特〜〜かわいい〜なるほどこれは確かにお客さんをクリスマスツリーに例えて褒める人だ〜☺️とか、自分のことを好きで、そのために今日ここに会いにきた人間に向けられるどでかい愛……惜しみなく注がれる愛…………………🤦‍♀️とか、終始にこにこしてしまった。

そう、よく考えたらファンクラブのイベントはいつも配信で見ていたので、生で見るのは初めてだったんですよね。といっても、ものすごく変わります!とかいうわけではもちろんないのだけれど、やっぱり外で見る顔よりもホーム感を感じるな〜〜と終始にこにこしてして見ていました。

 

収穫してきたグッズたち

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グッズがかわいいですね。これは公式ツイでも情報出てるからいいでしょうということで記念にお写真も残しておこう。

ご覧の通り、私の推しアクスタは002と006です。002は単純に赤を纏う浦井さんがめちゃくちゃ好きなので……強強な人が強強な色を着るのめちゃくちゃ良くないですか?浦井さん、通常形態が基本黒な人だと思う(そして黒が似合う)んですけど、生まれた瞬間から赤い服着てましたって言われても納得できるぐらいに赤も似合う。フィット感がすごい。赤くて長いものを纏ってる浦井さんが最高に好きです。これからもお待ちしています。好きです。

006は単純に好きです。あれ単純に好きしか言ってないな……。2022カレンダーにもこのお洋服着た浦井さんあると思うんですけど、それもめちゃくちゃ好きです。私は浦井さんの獅子感がこの上なく好きなのでこのオラついてる浦井さんもとても好きです。チンピラ感と雄感とカレンダーverだと王感もほんのり香るのでそこも好きです。好きです。アクスタ、あまりにかわいいのでもっと欲しかったんですけど、買いすぎると細かいものをすぐなくす私は沢山なくす未来が見えているので、2つにとどめました。よろしくね、2体のアクスタちゃんたち。私の小物はよく知らないうちに足生えて出て行っちゃうんだけど、君たちは出ていかないでね!

アクスタの話しかしてないじゃん。そうそう、個人的にはピルケースすごい嬉しいな!と思いました、頭痛持ち民なので。しかも、出先で薬飲みたい……!ってなる時、まぁ症状軽くて早めに飲めた時なら良いんですけど、場合によっては「むり…死ぬ…頭割れる……」みたいな時もあるので、そういうギリギリ状態の時に推しグッズあるのは心の支えになりますね。これは王が王国に招待してくれた時にいただいた薬箱……これを飲めば………王が救ってくださる…………とか思う余裕はまあそんな時にはないと思うんですが、しんどい時の推しは本当に救いになることが多いので、ありがたく使わせていただきます。

あとフェイスタオルの柄も色もかわいいよね、淡いグリーン!ハンドタオルはサイズ見てなかったからよくある舞台グッズサイズかと思ったらもう一つ大きいやつでおおきい!ってなった。大きいの欲しい時に使います。パーカーは元々買ってなかったんですけど、現場で買い足しました。夏以外の時期ならいつでも着られる人間なので着ます。夏はTシャツを着ます。

 

 

役ではない状態の役の歌

本人と役の中間で歌われるような役の歌ってめちゃくちゃいいですよね!!の話。

曲によってその割合が変わってくるのも観察していて楽しい。役でこの歌歌う時は絶対しないよねっていう表情で、その役であればその世界に収まっていた歌が、100%客席に向かって飛んでくるのが新鮮で楽しい。特に……あぶない、今危うく作品名書きそうになりましたが、絶対役であればニコニコしない曲でニコニコしてると「あっ中の人だ〜〜〜かわいい☺️」とニコニコしてしまう。曲のアレンジによっては別の曲に生まれ変わるので、違う曲聴いてるみたいで二度美味しいですね。

そう、あと浦井さんの出演作曲(履修済)ペンライトの色、作品のイメージに合わせるか、その役のイメージに合わせるか、曲のイメージに合わせるかで結構迷ったりしました。この作品だったら赤だけど、この曲だと白だな…………?みたいな。客席の解釈一致してる曲も綺麗だったけれど、バラバラになってる光の海も個性出ててそれはそれで好きだなぁとか。あと履修済み作品の曲が出てくると、完全に役ではないにしろその役に少しだけ再会できた気がして嬉しくなるし、やっぱり未履修作品の役の曲はアァァァァァア作品の中で聴いてみたいいぃぃぃいぃいとなりますね。地団駄。

 

 

夢の国を凌駕する夢の国

大変、こんなこと書いたら本家に怒られて消されてしまうかもしれない……………

でもだって本当に夢の国だったんですもん…………舞浜に1日だけ現れし幻の夢の国(会員制)……………2018年にも現れたそうなので4年に一度現れる夢の国………(オリンピックなのか?)

ご近所の本家の夢の国って、きらきらした魔法がかかっていて、そこに入れば誰でもディズニーワールド(書いちゃった)に迎え入れてもらえて、老若男女誰でもゲートを越えた瞬間童心に帰って「わーいわーい!楽しい楽しい!happy!はしゃぐぞ〜〜〜〜!」って目を輝かせることを許してくれる、「その日1日は何もかも全て忘れて良いよ!君の今日1日の記憶を夢と魔法で満たしてあげる!ハハッ♪」っていう幸せな国だと思ってるんですが、私が昨日行ってきた夢の国は、

会員制の夢の国へようこそ!よくこのゲートまで辿り着いたね、そんな君にプレゼント!今日の君の一日と今日ここに来るまでの君の時間とその先のずっと先まで愛と愛と愛と愛と愛と愛と愛で満たしてあげる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

みたいな国でした。夢の国というか愛の国?

そこに来た全員の人間の全人生分の愛を与えてしまう王。王から届いた招待状に導かれてきてみれば、気付けば夢の国の奥地の夢の国に入っており、気付けば愛でひたひたにされ、どでかい愛をお土産に帰される。これは去年もものすごく思ったんですけど、浦井さんの愛の保有量って一体どうなっているんだろう。どれだけあげても尽きなさそうだしどんどん湧いてきそう。去年初めて浴びた時はそのどでかすぎる愛情量にめちゃくちゃ驚いたんですけど、昨日は客席入った瞬間、「あっ今日はこの半円の客席に入った人間全てを愛で満たすのか…………まぁこのサイズ分ぐらいならきっと余裕で愛で沈められるんだろうな…………」と物騒なことを考えてしまった。し、実際余裕そうだった。

客席をじぃーっと観てる時の嬉しそうな顔、幸せそうな顔、楽しそうな顔をオペラグラスで覗いてるだけで「うわぁなんか、すごく愛されている…………」と思ってしまうし、あんなに「大好きだよ〜!」「愛してるよ〜!」を真っ直ぐに飛ばしてくる日本人いますか………?これは昨日に限らずよく浦井さんは言うので話しちゃいますが、浦井さん、「大好き」とか「愛してる」とかド直球な愛情表現を何の捻れも抵抗もなくスッパーーーーーーーーンと飛ばしてくるので、毎度アッ……となってボーリングのピンのようにパタリパタリと倒れてしまう。ふざけるわけでも、照れるわけでもなく、犬がわふわふ!大好き大好き!!ってじゃれついてくるぐらいの純度の高い真っ直ぐな愛と、でもその可愛さだけには到底収まらない王からの民への広く優しい愛と深く濃いご寵愛とその他諸々あらゆる愛情を、歌に言葉に表情に自分の発する全ての中に詰め詰めにしてくるので、全然キャパオーバー。

 

そう、なんか愛のシャワーみたいだな……と去年は思ったんですけど、シャワーというか、どちらかというと浸けられてる感覚に近いかもしれないな…………?あれか、最初はシャワー降らしてるんだけど、量が多すぎて終わる頃にはすっかりお風呂になっちゃうみたいな……………そしたら知らぬ間に会場丸ごと浦井さんの愛情で沈んでるみたいな……………なるほど……会場を海底都市にしてしまうんですね……………………恐ろしい人ですね…………これからも色々な会場を沈めてください………

 

 

遅効性

これも上とほぼほぼ同じ話なんですけど、こう、現場でうらいさんを見ている間、歌を聴いている間は「わぁ、好きだなぁ……」と思うし、同時に「多分この人、私達のことめちゃくちゃ好きだ……………」とも思うので、双方向の愛を確認するわけですね。そして、帰り道、会場を出た瞬間は「楽しかったなぁ」「幸せだったなぁ」「あ〜〜〜〜〜うらいさんすき」とかるんるん気分で思うわけです。で、そのあったまった気持ちで夢の国の空気感で作られているイクスピアリを夢心地で通り抜けてくるわけです。たただなんか、帰り、舞浜駅から電車に乗ったあたりぐらいから、「なんか、あれ、ひょっとしてめちゃくちゃ愛されてきたな…………………………?」ということに気付く。自分の中の器がたっぷり満たされていることに後からじわじわ気付くんですよね……あれなんだか……すごく………満ちている………愛をたっぷり浴びせられ器からはみ出るぐらいに満ちている………………………

なので、昨日は「ハァァァ楽しかった〜〜〜しあわせしあわせ……!」という気持ちから徐々に、ほかほかのようなうっとりのようなほわほわのような多幸感に移行していくという感覚を味わいました。心の電池が250%ぐらい充電された。時間差でどでかい愛がじわじわ浸透してきて面白かったですという話でした。

 

 

花火が空気を読み過ぎていた

閉演後、会場の外に人だかりができていて、会場内にも窓の外を撮っている人がいたので「何だ………?」と思っていたら、さすが夢の国、外で花火が打ち上がっていた。この夢の時間が終わったタイミングで、しかもちょうど出たところでめちゃくちゃ良い感じに花火が見えるの、もしかしてこちらの夢の国に向けて打ってます…………?演出の一部ですか………?(違います)と思ってしまうぐらいに最高のラストでした。計算したかのようなベストタイミングで最高の贈り物をありがとうございました夢の国の本家さん…………

 

 

 

はい、終わりです!

書いていて薄々気付き出したんですけど、私もしかして、いつもレポ書く時ほとんど内容のこと書いていないのでは…………………………?なんかもちろん、具体的に何を言ったとか、何の曲を歌ったとか、この演出が良かったとか、この歌のここが好きでした、とか、言いたくなる部分は書いててめちゃくちゃあったんですけど、思いの外全然楽しく書けてしまった…………。もしかすると私が書きたいのは、内容に対する感想ではなく推しに対する激重クソ長感情とその日の日記なのかもしれない……………………という発見がありました。短く書くつもりだったんですけど意外と8千字を超えました。

何かたらたら書いてたらアーカイブ観られなかった虚無亡霊が半分ぐらい成仏したような気がします。何でも良いから何か自分の中にあるものを書き出すのは浄化行為なのかもしれない。昨日の幸せな記憶の最後が「私のアホ…………」という気持ちで終わるのはちょっと悲しかったので、これを書いて昨日の記憶を締められるのは我ながらよい締め方だな、と思います。

 

さて、もうとりあえず書けることで書きたいことは書いたので言うことはないんですが、やっぱり浦井健治さんは最高でした。好きです。好きですね…………

またFCのイベントを開催してくださるようならバンバン会いに行きたいし、それが配信という形になるにしてもド直球愛は画面突き破ってこちらに飛んでくると思うので、これからも積極的にひたひたになりにいきたいと思います。でもやっぱり、直接見られるというのは、同じ時間同じ空間に存在して、声を聞き姿を見られるというのは、めちゃくちゃに幸せですね……………。お芝居をしている浦井さんも役として歌う浦井さんも大好きで、毎度新たな役を見られるのを楽しみに観に向かうんですが、私が沼落ちした決定打は実は役ではなくご本人(ラジオ)なので(この話も下書きにずっと入れてる記事があるので書き終えたい)、浦井さんが本人としてずっと立っている場にいられるとめちゃくちゃ安心するし好きだなぁと思うし、好きが盛り盛りになります。浦井さんが浦井さんとしてそこに居る空間がとっても好きです。これからも沢山向かえますように。

 

 

と、いうわけで、一日限定の夢の国、Kopi Luwak Concert Vol.4 ~heartful~へのご招待ありがとうございました!!!!

幸せと愛情でたっぷり充電していただいたので心が満ち足りています。愛情溢れる夢の国の王様と、夢の国を作ってくださったすべて皆様、ありがとうございました!!!!!!!!!!

 

fun-filled day!

 

起きがけのぼんやりした頭に柔らかい幸福感だけが残っている。その心地良さにふわふわと浸りながら、昨日の淡い夢みたいに幸せな感覚を心で再生してはにやけてしまう。昨日の幸せが、目が覚めきる前の幸せな夢みたいな、現実と夢の間のぼやけた感覚で心に残っている朝。もう一度眠りに落ちればあの楽しさに戻れるような気がしてまた目を閉じてしまった。

基本低血圧な私にとって幸せな朝というのは珍しいもので、起きた瞬間から幸せでいっぱい、楽しい記憶に埋もれられる朝なんて貴重すぎていくらでも布団の中に潜っていたくなってしまう。永遠に昨日の幸せの心地良さに浸っていたい。身体のだるささえも心地良い気がしてしまうのだからすごい。

 

けれど、そう、私はこの心地良さをどうにかこうにか形にして残したい生き物、夢の記憶みたいに薄れて遠くにいってしまうのがいやなのだ。どうしても記憶をこの温度感のまんま少しでもとっておきたい。なのでぬくぬくのお布団から抜け出して今に至る。今日は昨日の記憶を残しておくために予定を空けておいた。というわけで再び、昨日の記憶に頭を戻してみたい。

映像が記録として残るのなら、私が残しておくべきは記録ではなく記憶。思い出したまんまに昨日のことを振り返ってみたいと思います。

 

 

 

と、いうことで

寝起きのこのモードだと振り返りが永遠に終わらなそうなのでここからは書き手のテンションが上がります。ご注意ください。テンションの高い自我を昨日から引っ張って来ます。

行くぜ!!!!!!!!!!!

 

 

2022年4月2日(土)

Kazuki Kato 15th Anniversary Special Live ~fun-filled day~

場所、日比谷、天気、晴れ、最高気温は確か12度ぐらい。

いつも通りJR有楽町駅から歩いてきたのだけど、日生劇場の前を歩いているときにはもう既に日比谷公園の方から楽しそうな音がしていることに気付き「えっえっここでもう聴こえるの……?!」と近づきながらテンションが爆上がりしてしまった。いつも歩く道なのに向かう場所はいつもと違う場所。見えるのは同じ景色なのに、その音が今日はいつもとは違う場所でいつもとは違う時間を過ごすんだな〜という実感をもりもりに湧かせてくれて、本当にテンションめちゃくちゃ上がった。どうしようめちゃくちゃ楽しみ。

これから最高に楽しい時間を過ごせるだろう場所に向かっているという事実だけで十分に幸せなのに、目的地から音楽まで聴こえてきて、遠くから迎え入れられている気分になってしまった。「待ってるよ!!はやくおいで!」と言われた気がしたので「待ってて!!今行くから!!!!」とるんるん気分で日比谷公園を歩いて行きました。それにしてもお天気の良い春の日比谷公園って最高。平和がそこにある。歩いている人達も和やかで心がゆるまった。

そんな緩やかで幸せな空気感が漂う日比谷公園を通り抜け、日比谷野外音楽堂前にたどり着いて見えたのはアトラクション並みの行列。そう、ガチャの行列である。Twitterで行列がすごいとは見かけたけれども、「ここはジェットコースターか何かなの…………?この先は遊園地……?夢の国…?人気アトラクション……?」というぐらいには先の見えない長蛇の列がそこにあって、とはいえ行列慣れしている日本人、先が気になるのでとりあえず列の先を確かめに歩いて行ってしまう。列の横を通り過ぎながら、圧倒的黒装束率の高さ(TeamKの黒パーカーを一番上に羽織ってる方が多い)に、「これがもしアトラクションの行列ならなんかあれだな、闇の魔術師的なキャラがいる感じの…なんか怖い感じのアトラクション……みんな黒装束…あっ闇の魔術師がかとうさんか……」とかよく分からないことを考えつつ、列の先にたどり着いて、まあ結局最後尾に並びました。お腹もとりあえず満たしたし、時間もあるし、とりあえず並んどくか〜という軽い気持ちでとんでもねぇ行列に並べる日本の民のメンタルはすごい。

さて、なぜこんなガチャ行列の部分から書いてるかというと、個人的には結構この時間が楽しかったからなんですよね。いやめちゃくちゃ長かったんですけどね。結構冷えもしたし。でも、並んでいる途中でたまに漏れてくる音を聞くのは楽しかったし、数ヶ月前まで知らなかったその曲を「知ってる曲」として脳が認識するのが面白くて嬉しくて、「あ〜〜予習してきてよかったな〜〜」と本当に思った。ちまちまでも聴き続けてくれてありがとう私。自分の日常に取り込んだ曲が生で聴こえてくるのってめちゃくちゃ良い。並び始めた最初は楽器の音だけが流れてきていて、それだけでも結構楽しかったのだけど、いざ加藤さんの声が聞こえてきたらもう、聴こえてきた瞬間「ウワァァァ……そこに……いる……!!!!!」と突然現実味が湧いてきてさらにテンションが爆上がりした。小躍りしたくなった。いるじゃん!え、いる!そりゃいるだろうけど!いるじゃん!!!え、いる〜〜!!!ってずっと脳内ではしゃいでた。役者さんとしての加藤和樹さんは何度か舞台上で観てきたけれども、歌手の加藤和樹さんを生で見るのも聞くのも初めましてなので、とりあえずその「聞く」が予告なしにやってきてヒェッ…本物じゃん…!!てアワアワしてた。アワアワしながらめちゃ楽しんでた。聞こえてくる声だけでももう楽しそうなのが伝わってきてにこにこしてしまったし、楽しみが高まりすぎてどうしようかと思った。しばらくして、列もだいぶ前に進んだところで「春よ、来い」が聞こえてきたときには、春の自然豊かな日比谷公園に響き渡る加藤和樹の春よ来い、最高すぎでは………?春、くるじゃん……………?と思いながら春の到来を感じました。春、来てた。

そう、とにかく意外とこのガチャ列が楽しかったんですね。ド新規には良い心の準備タイムになった。これから歌うだろう曲のちょこっと先取りお披露目会みたいな気分で漏れてくる音を聞きながらテンション高めたり、列の後ろの古株さんだろうファンの方達の会話をひっそり聞いていたり(一人でいる時の暇つぶし大体これやる人間)、音が流れてこない時はイヤフォンで曲聴いてあらためて予習してみたり。結局開場前に一旦ストップした時間も含めると1時間半ぐらい並んでたのか………?と考えるとやはりアトラクションなので、流石にあっという間!という感じではなかったけど、なんだかんだ楽しかったです(あと思ったより自分行列耐性あるんだな………ということがわかった)。

 

えぇっと、あの、

プロローグがあまりに長い。プロローグで2000字を超すんじゃないよ。いやでも並んでる間の話はちょっと楽しかったので書きたかったので……ちょっと書こうと思ったら…こんなことに…長いわ……その後は端折るか……と今考えたんだけど、やっぱりちょっと楽しかったし残しておきたいから、プロローグ残り、思ったこと箇条書きで書きますね。大体どうでも良い話です。

 

Cブロック思ったより近い!

野音初めましてなので座席表見ても距離感が分からず、もっと遠い遠いところに置かれるのかな〜と思っていたのだけど、思ったより近かった。場にいれたらよいかな!ぐらいの気持ちで向かったので、正直どこでも良かったぐらいなんだけど、思ってたより近くてちょっと嬉しかった。でもいきなりA,Bブロックで初めましてのアーティスト加藤和樹さんをそんな長時間も浴びたら過剰摂取キャパオーバーで死ぬのでやっぱりCでよかったなと思いました。命拾いした。

野音、意外とトイレが綺麗

これも結構びっくりした。野外会場とかってトイレ冷たくて汚くてできれば行きたくねぇ……みたいな感じかなのかな〜と思ってたら、全然!狭いけどきれいだった。外から見ると小学校のプールにありそうなトイレみたいな風貌(こら)してるけど入ってみたら中がきれいでした。人もトイレも見た目で判断しちゃいけないね(何の話?)。

もぐもぐコーナーあるのね

飲食スペースあるんだな〜!と思った。柵に囲まれた謎スペース、何かと思ったらもぐもぐコーナーだった。途中でお腹も空きそうだしありがたくセブンで買った蒸しパンを食べました。売店もあるんだね!

現場、金銭感覚が死す

2022年既に散財がすぎるので、最近は舞台のチケットをなるべく安く買おう、「おっ買うか〜」とか軽ノリで買わずなるべく観たいやつ、刺さりそうなやつに絞ろう、チケット以外は基本買わない……とか心掛けていたのに(本当?)……見事に金銭感覚が死んだ。ここはディズニーランド?

ガチャはまぁ当たり前のように5回引いたし(これは皆さん当たり前のように手に英世3枚持ってたからしょうがない。あれは5回でワンセットみたいなところある)、長時間並んだら冷えたのか冬の装いでも普通に寒くてブランケットも衝動買いしたし、トイレに向かったはずが帰りにはポスター2本バッグに刺して帰ってきたし、あれ………?とりあえず今回は初めてだし向かうだけ向かってみてグッズはあまり買わないつもり!みたいなこと脳内でおっしゃってませんでした………?あれ誰………?お財布だいぶ軽くなったね………

 

と、まぁ本当はまだまだあるんだけど、こう、振り返ってみると始まる前もやっぱり楽しかったですね。初めての場所に新たに増えた自我で(今回で言うと加藤和樹さんを好いている人間として)向かうのは、やっぱり新鮮で未知だらけで楽しい。よく知らない場所でよく知らない人達(知り合いか否かというわけではなく属性的な話)に囲まれて、なかばフィールドワークみたいな気分で場にいました。加藤さんを好いている方々はこんな方々なんだな〜〜とか加藤さんはこういう風に認識されているのだな〜〜愛されてるんだな〜〜とか時折近くで交わされる会話を聴きながら楽しんでいた。Twitterでは見ていたけれど「加藤和樹さんを好いている方達」の集団を生で見るのも初めてだったのでついつい観察してしまった。帰属意識のあまりない場所に一人で飛び込むの、思ったより好きなのかもしれないな〜と思いました。こういう新たな発見も楽しい。

 

 

 

さて、長かったプロローグもようやく終わりまして、ちょっとここからようやく本編に入るわけですが、その前に着席してからの私の心境を。

振り返ること約3ヶ月前、年末年始にfonsとトキに狂っていた私は1日の余った時間の大半をトキと北斗の拳とfonsに捧げていたわけですが、当時は口を開けばトキの話ばっかりしていたし、恐らく当時の私のフォロワさんの中で割合的にfonsを見た方なんてめちゃくちゃ少ないのに何の前触れもなくfonsの話を垂れ流しTLを荒らすfons妖怪だった。いまだにトキの女の自我は根強く私の中に存在しています。トキは永遠の推しです。

さらに少し時を進めて2ヶ月弱前の2月半ば、散々加藤さんの沼の淵にしがみついて(しがみつけていると信じて)叫んでは、相互さん達に「落ちてると思いますよ?」「時間の問題ですね」「落ちてないと思ってるの本人だけでは…?」「自覚した方が楽になりますよ」等数々の助言をいただいているにもかかわらず「まだ落ちてないです!!!」「まだギリギリ沼の淵です!!!!」と本気で言い張りながら気付いたら沼底で溺れていたというド茶番を繰り広げていたわけですが(遠い目)(各位 あの時は大変お世話になりました)、まさか自分がこんなところに座っているなんて、2ヶ月前の私は思ってもみなかっただろうなぁ、と他人事のように考えていました。

ここに座っている方の多くは、加藤和樹さんが歩んできた15年という長くて大切な時間に想いを馳せたり、その中で自分が加藤和樹さんと共有したこれまでの時間を思い出したり、加藤和樹さんを好きになってからの自分が過ごしてきた日常の時間や、積み重ねてきた想いを振り返ってみたり、きっと沢山の時間の層がそこにはあるのだけど、私にはまだそれは存在しないもので、おそらくこれからどんどん重ねて増やしていくもので。それはどんなものになるんだろうなぁ、どんな景色が見られるのだろうなぁ、と入学式と創立100周年祭に同時参加している新入生みたいな気持ちでそこに座ってた。それが外の空間というのがまた良くて、夕方らしくカラスの鳴き声が聞こえて、少しだけ暗くなってきた空が見えて、昼間より冷たくなってきた風が肌に当たる、そういう自然の緩やかさを感じる空間で、自分がこの場所にいることを少しだけ不思議に感じながらも、これから始まる宴に静かに心を躍らせているあの時間が、とても豊かだったなぁと思う。

 

そしてそこから、いよいよ、始まる………!という空気に満ちてからはもう、あの、めちゃくちゃ緊張したし同時にめちゃくちゃ高揚していた。「あぁぁぁぁあいよいよ……私の最初で最後の初現場…ヒェェ………そして加藤さんにとってきっとものすごく大きいな意味を持つ野音が…………!!!」

………となってもうそれ以降の記憶は正直割と飛んでる。気付いたら大きなピアノの音が響いてそれに包まれて気付いたら加藤さん出てきてた。そして気付いたら加藤さんの歌が空間にぶわっと広がって気付いたら始まってた。記憶があんまりない。でもここの記憶がないのはどう考えてもその直後のパンチが強すぎたせいだと思う。どう考えてもそう。

 

というわけで以降、本編、あまりに記憶が飛び飛びなので私の記憶にかろうじて残っている幻覚かもしれない何かを箇条書きしていきたいと思います。時系列はばらばらです。

 

 

 

 

(まず言わせてください)

トキ???!???!?????!???!

1曲目が終わって加藤さんのMCが入り、わぁ、いよいよ始まったんだな……!って高揚感とふわふわ感の間でぼんやり話を聞いていたら、なんだかそのうち「フィストオブノーススター」とか聞こえてきて、「ん…………?幻聴……?」と自分の耳を疑っていたら「願いを託して」とか聞こえてきて……願いを託して………???ね、願、願託………………???私が狂ったように毎日聴き続けた願託…………???家で聴きすぎて歌いすぎて母にまで鼻歌がうつったあの願託ですか……………?えっ……?そんなことある……?

 

と昨夜のツイートでも荒ぶっているように、もうこの時点で十分にキャパオーバーだった。まだ2曲目なのに。だってあんなにも生でもう一度聴きたいと願い続けたあの願託をもう一度聴けるなんて…聴けるなんて……トキの女はもう………幸せで幸せで…………………………あんまり記憶がない。突然引っ張り出されたトキの女の自我がきゃー!トキー!とかいう気持ちになれるわけもなく、割とマジで心がついていかなさすぎて幻を見るような気持ちで願託を歌う加藤さんを見つめていた。心から聴き入りたかったけど目の前の光景が信じられなさすぎて幻の中にいる気分だった。推しのダブルブッキングがそんなに早々に起こるとは聞いていなかった。加藤さんの沼に転落してから覚悟はしていたけどちょっと脳が混乱しすぎてトキの女は一旦墓に入った。昔fons応援上映した〜い!みたいな話してるときにトキにペンライト振りた〜い!なんて話はしてたけどまさかこんな形で実現するとは思ってなかった。あといざ振ってみるとトキにペンライト振るのよく分からなすぎて面白かった。そうそう、トキの女はひとつだけ遺言を遺していった。トキのメンカラって緑じゃないの……………………?白だったの………………?(あっちなみにこれは全然文句とか違くない?とかいう話ではなくて、なんで白だったんだろうなぁという素朴な疑問です……曲のイメージかトキのイメージか果たして………白トキのイメージかな………謎は深まるばかり……公式さんのサイリウムカラー解釈を聞きたい)

……さて、これは真面目なお礼として、「♪願いを託して」を入れてくださって本当に本当に本当に本当にありがとうございました。fonsが大好きな人間としてもこの曲をまた聴くことができてめちゃくちゃ幸せだったし、直接的なきっかけではないにしろ加藤さんを好きになる種を蒔かれたのはやはりトキだったと思うので、あの時の自分と今の自分が繋がったような気がして、個人的にはものすごく嬉しかった。ド新規にも優しい曲のチョイス、2曲目に入れてくださってありがとうございました。

 

 

虫のお客さんにも優しくて泣いた

これは私もTwitterにも書いたし、きっとレポに書かれている方も沢山いるでしょう、けれどもう一度書かせてください。

 

虫さんにかける声も言葉も優しすぎてびっくりしてしまった。こんなに優しい人この世に存在していいの?ファンタジーの世界の方……?多分あの虫も人生(虫生)で一番優しくされた記憶として残ると思う。あんなに美しい人に優しくされたら一生の思い出だよな、虫さん。私は遠くからその尊い光景を見つめていたので虫のお客さんのことは見えなかったけど、たぶん、虫のお客さん、泣いてましたよね…………(ファンタジー)。優しくされすぎて泣いちゃうでしょ………見えませんでしたけど……泣くじゃんあんなの……虫に感情移入しちゃうライブって何…………。遠くから見ていても尊すぎてかわいすぎてごろんごろんしたくなりました。ありがとう虫さん。

 

ピアノライブで震えていたらしいかとうさん

朝から半袖でわーーーい!ってガッツポーズしてたかわいらしい写真をあげていたので、もはやこのお方は寒さを感じないのか………?と思いかけたんだけどそんなことはなかったらしい。ピアノライブは今まで一番震えるぐらいには寒かったらしい。入口でみんなにカイロをプレゼントしてくれて、グッズでは優しさ(物理)を体感できるブランケットを用意してくれてるのに、本人が震えていただと…………?!大丈夫ですか?!私のカイロ献上しますよ……?!まだもったいなくて使ってないし何なら家から持ってきたから余ってるよ…………?!とか思いながら聞いていたけど、その後はアッツアツになっていたので心配なさそうだった。終始めちゃくちゃこちらの寒さばかり心配してくださってたけど、その度に優しさであったまってましたけど、ご本人もどうかお家であったまっていますように………どうか健康で…………をそのままお返しします…………

 

・JOKERめちゃくちゃ格好いいじゃん………

新入生、もちろんJOKERに関してはミリしらなので、事前のファンの方のツイートを見させていただいたり、少しググったり、あとは普通に曲自体は少し予習はして向かったのだけど、いや、あの、めちゃくちゃ格好良いじゃん…………………こりゃあ当時好きだった方はもうそりゃあ…そりゃあ…………となった。あんまりこう、そこまで知らないものについてベラベラ喋るのは恐れ多いんですけど、あの、めちゃくちゃ格好良かったです………………Cブロックだしオペラグラス家置いてきたし、形しか見えてないんですけどそれでもはちゃめちゃに格好良かった……私は…良いものを見た……

あとお二人ともそれぞれにすごい何というか、愛を感じたよ……………お互いすごく好きなんだろうな…………という愛を……新入生は感じ取りました…………良いものを見た……

 

ジャックそこで来る?!?

私は日生でJtRは観られてない(何で観にいかなかったんだろうね……)んですが、2022年年明け以降「♪こんな夜が俺は好き」を沼の滑り台の途中絶妙なタイミングで(ここで刺したら刺さるみたいな場所)聴いておりまして。

まず名古屋fonsが終わってしまってfonsをたずねて三千里してた時期、「かとうさんはトキの中の人〜トキの中のお顔がはちゃめちゃに良い人〜(余裕顔のつもり)」ぐらいの気持ちで見ていたJMFでアッッッ………?(刺)てなって、「お前はもう 俺の奴隷だ」「足掻いても無駄 逃げられない」「抵抗はやめな」の歌詞に「何この沼手前にいる人を本人が殺しにやって来たみたいな歌詞は………………?????」と恐れ慄きヒイィッと逃げ回ってたんですね、それが1回目。で、散々足掻いたのち沼落ちした数週間後、グリブラジャックで「お前はもう俺の奴隷だ」言われて、あっけなく秒で捕まって奴隷にされて殺されたのが2回目。そして3月初めにようやく本物のジャックでこれが本物か………うん…もうすっかり……奴隷ですね……となったのが3回目(JtRがWOWOWで放送された時)。

という3段階を経ての野音ジャックだったので、自分の短い短いあっけない沼落ちの歴史を聴きながら振り返ってたんですけど、本当に始まった瞬間は全然心の準備してなくてビクッとしてしまった。エッここでくるの?!?!ミュのターンてっきり終わったのかと思ってた。ジャックに徐々に仕留められた人間なので予想外の登場にびっくりしちゃう。でも、完全に日が落ちて「夜」になったタイミングでサイリウムの赤い光が広がってる景色があまりに最高で、これは、確かに「ここ」だ…………と思った。あれは完全な夜である必要があった。赤い光全員あれでしょ、目の前で歌ってるジャックに既に奴隷にされた人達でしょ、大正解じゃん…………。そうかこれが血の海………ジャックの見る世界……ジャックの大好きな地獄の夜を私たちが作っているのね……私も例に漏れず……すっかり………ね………ともう抵抗する気のない奴隷は赤い光をブンブンしてました。

 

サイリウム難易度鬼高い!けど楽しい

帰ってきてからサイリウムの裏面の説明書(?)みたいの読み返してびっくりしたんだけど、あのライト全部で14種類もあるのね……?!?ピンクやたらあるなぁ…ってカチカチしながらおもってたけど、ピンクだけで3種類あるのね?!(ちなみにグリーンも3種類ある)  スタッフさんが見本ライトを掲げるらしいことはわかってたのだけど、正直もうそのスタッフさんどこにいるのか見つからんからとりあえず周りの色に合わせてたのだけど、あの、あまりに色の種類が細やかで見て合わせるのも結構難しかったですね(特にピンク3種類と、レッドオレンジはカチカチして見比べないと分からなかった)。サイリウムぶんぶん振るのはめちゃくちゃ楽しかったんだけど、一方周りの色を察知してカチカチ変える……という同調作業に頭を働かせちゃうとその瞬間ステージから意識が離れてしまうのがもったいなくもあるなぁと思った。ただ、暗闇の中で光るサイリウムは、色統一されてても世界観表れてて最高に綺麗だったし、色バラバラでも個性豊かで見ていて楽しかったし、サイリウム自体はめちゃくちゃ最高でした。暗くなればなるほど光をぶんぶんするの楽しい!!!のお祭りではしゃぐ幼児みたいな気分で振ってた。

 

予習してきて良かった〜〜!

これは全体を通しての話なんだけれど、やっぱり事前にたくさん曲聴いてきておいてよかったな〜〜!と思った。「何が何だかぜんっぜん分からんけど野音、行ってみるか……!(オンリーチャレンジ精神)」と決めてみた後、とはいえめちゃくちゃCD出てるから私は一体どこから手をつければ………?と困惑してたのだけど、心優しい先人様達が作ってくださった「こんな曲があるよ!」「こんな曲がおすすめ!」「私はこれが好き!」のまとめツイートがめちゃくちゃありがたかったです。そちらを参考に、全部とはいかずとも少しずつ聴いて日常の中で馴染ませていったのだけど、当日、「あっこれ私が予習した(聴いた)やつ………!これも…!!!」と某進○ゼミ漫画の主人公みたいな気持ちに何度もなりました。やっぱり「あっこの曲!」ってなれる曲が沢山あるのは楽しかった。予習、めちゃくちゃ役立ちました!!先人の皆様ありがとうございました!!!

 

カイロで指先を冷やせるように精進したい

これ。

いや本当にかわいかった。すごく何度も寒さを気遣ってくれてその度にとっても心があったまったのだけど、カイロで指先を冷やすのは流石に魔法すぎて笑ってしまった。割とお客達わかりやすく困惑してたけど、全然気付いてなくて可愛かった。とは言え私もそういう言い間違いをめちゃくちゃふっつーの顔してやらかして相手を困惑させるタイプの人間なので全然他人事じゃない。でも可愛かった。めちゃくちゃほっこりした。次行くまでにカイロで指先を冷やせる魔法を身につけようと思った。

 

・夜空に舞う銀テが綺麗すぎた

見ている中で「あぁ、今この瞬間を目に焼き付けたい………!!」と思う瞬間が何度もあったのだけれど、その中でも夜空をキラキラした銀テが舞う景色はあまりにも綺麗で美しくて、永遠に記憶に残したくなった。中央のステージにきらきら輝く加藤さん、そしてその左右からパーン!と飛び出してきらきらと夜空を舞う銀テ、あの光景は本当に夢みたいに煌めいていて、きっと忘れられないような気がする。本当に綺麗だった。

位置的に私の手元には銀テは届かなかったけれど、少し前の列で後方ブロックに届けられた銀テを回されていく優しい光景を見ながら、なんとあたたかく優しくて綺麗な世界…………となった。銀テであんなに心がときめくとは思わなかった。

 

 

 

ふぅ。

ここまでとりあえず勢いで書いてきましたが、振り返ってみるとわかる。本当に記憶がない。夢の中の話してるみたい。でも分かる、初めてがぎゅうぎゅうの場所ってめちゃくちゃ記憶飛ぶ。初めまして歌手の加藤和樹さん、初めまして野音、初めまして加藤和樹さんのファンの方々、初めましてミュ曲以外をがっつり歌う生のお姿と声、初めまして加藤和樹さん単体を長時間たっぷり喰らう自分……………そりゃあこんなんね、記憶飛ぶんですよね。こんなに初めてが多かったらそりゃあ記憶もないですよ。でも初めてって本当に1回しかないので、できるだけその困惑と混乱と高揚と未知の楽しさを味わえる興奮をまるごとぎゅっと保存しておきたいじゃないですか。まぁまるごとは無理なので、こうやって断片的に記憶を残すわけですが。

さて、そんな薄々の記憶の中で、これだけは!と思うことを最後に書き残しておきたいと思います。

 

 

加藤和樹さん、最高では

総括です。

野音の加藤さん、まずこれはずっと思ってたんだけど、全部の時間を通して、「何だかこの人、本当に、めちゃくちゃに優しい人だ……………」を感じて心がぽかぽかになりました。たったの数ヶ月見ていただけでも、きっとものすんごく優しい方なんだろうな………というのは既に分かっていたのだけれど、生で同じ時間を共有して、その至るところに優しさが散りばめられていて、それをあの空間で自分自身がたっぷり受け取ってきたので、その優しさを体感したというか。今まで共演者の方だったり、ファンの方だったりに向けられる加藤さんの優しさをこう他人事として見ながらじーーん………と感動してたのだけれど、それを今度は自分が受け取ってしまって「こんなに優しくされていいんだろうか………」と優しすぎる飼い主に拾われた優しさに慣れてない捨て猫みたいな気分になってしまった。主、優しい。原材料名の一番最初に優しさがある人だった。優しさでできてた。

 

そして、あの、これはもうあの、どこがどうとかいう詳細な記憶は私には残ってないんだけど、あの、めちゃくちゃ格好良かった…………………常にCの位置から見た景色なので細かい表情や仕草の「ここが良い!」とかではないんですけど、あの綺麗なご尊顔も見えてないんですけど、何かもう、めちゃくちゃ格好良い…………………好きになってしまった………いや好きなんだけど………好きになってしまった…………あと煽られるの楽しい………2.3部のモードのかとうさんは映像では見たことあっても生で見たことはなかったので、あの………好き………好きですね………好きでした…………だめだ、語彙力を奪われて三点リーダー星人になっちゃう…………………好きでした…………………どうかまた見に、聴きに行かせてください……………

あと、色々たっぷりぎゅぎゅっと詰まった3部構成だし、全部が全部初めましてだし、割と長丁場だし、私は果たしてそんなに長い時間ついていけるんだろうか…………(あとトイレ行きたくならんかな………)とかまあ思ってたんですけど、割と本気でめちゃくちゃあっという間に終わってびっくりした。気付いたら1部終わってたし気付いたら2部過ぎ去ってたし気付いたら3部も駆け抜けててアンコールまで来てた。時どこ行った?何ならおかわりしたいぐらいにあっという間だった。特に1部は初っ端からトキを喰らわされたおかげで本当に記憶がないのでもう1回おかわりしたい。ピアノライブの記憶を取り戻したい。座りながら素敵な歌に聴き入っていたということはぼんやり覚えてるけど夢の中レベルに朧げな記憶しかない。頑張れ私の脳メモリ。

 

そして、そんなぼやぼやした記憶の中でも、私が一番はっきりと覚えているのが、最後の最後、「俺とみんな」だけを残した空間で歌ってくれた新曲「また明日」で。まだこの世界に共有されていない、この曲が初めて聴き手に手渡される瞬間のこの場所に、私なんぞがいていいのだろうか………「みんな」に含めていただいていいのだろうか………なんて気持ちで始まる前は加藤さんのお話を聞いていたのだけれど、聴きながら「あ、私、今この時間この場所にいられてめちゃくちゃ良かった………………」と思ってしまった。

 

誰もがみんな前に進めるわけではなく、毎日走れるわけでもなくて、日によっては歩けずに外に出られずに布団にくるまって体育座りしていたくなるような気分の日もあって、そういう時に、そういうままならない夜に、優しく手渡してくれるあったかいスープみたいな曲だなぁ、と思った。特別などこかの味ではなくて、日常の中にある、身近な味のカップスープ。あの時歌っている加藤さんは遠かったはずなのに、この曲を聴いている時は何となく、すぐ近くで歌ってくれているような心地よさがあった。

 

自分では晴れどころか曇りや雨しか頭に浮かべられない時、とても明日が晴れるだなんて思えないとき、誰かが自分の晴れを願ってくれることにどれほど救われるか。誰かが自分の幸せを願ってくれて、予報してくれる。明日は晴れるよ、と。たとえ根拠がなくたって、その言葉にどれだけほっとするか。

昔は雨男だった、けれど晴れ男だと言っていたら本当に晴れるようになった、なので今回野音も晴れます!と断言されていた加藤さんが、そして見事当日いいお天気の野音に連れてきてくれた加藤さんが歌うこの歌、すごく力を持っているなと思った。自らの言葉で雨を晴れに変えてきた人が歌う「明日の心予報は晴れ」、説得力がすごい。晴れだと断言する覚悟を持って、来てくれる人に晴れを贈る自分を信じて挑んだ加藤さんだからこそ、この歌が100%の力を持って届く。「晴れます!」と言い切って約束してくれる強さを持った人が、そして実際に晴れにしてしまった人が歌ってくれる晴れ予報なんて、信じるほかないじゃないか。

 

明日は晴れるといいな あなたが笑っていられるように」と願ってくれて、うまくいかない日にも寄り添ってくれる。そして最後には、「明日の心予報は晴れ」と教えてくれる。この最後の予報は、祈りであり、願いであり、約束でもあるのかな、と思いました。あなたの心が晴れますように、でもあり、あなたの心を晴らしましょう、でもあるような気がした。そのどちらの言葉も似合う人だなぁ、と思う。誰かの幸せを常に静かに願っている人であり、自分の届けられる幸せをなるべくたっぷり届けようとする人なんだろうな、と。遠くで願うこと、祈ること、そして実際に自分が幸せをあげられる人には惜しみなくあげること、それらを自然にしていそうな加藤さんが歌うこの歌は、まっすぐにすっと心に馴染むし、上にも書いたけれど、あったかいスープのように心を緩ませてくれるな、と思う。

そういえば、あそこまであっという間に進んでいった時間が、この曲を聴いていた時だけはものすごくゆっくりに感じたんですよね。「陽は昇り やがて沈んでゆく」「月は満ち 夜が更けてゆく」一日が始まり、終わっていくこの歌を聴きながら、あの時間に、あの場所に、この世界の誰かの一日がたくさん詰まっていたような、本当に陽が昇って沈んでいくのを見つめていたような、そうやって昼と夜が何度も繰り返されたような、不思議な感覚になった。たったの数分がとっても長いものに感じられて、こんなにもゆるやかで、優しくて、豊かな時間が世界に存在するんだなぁ、と思いながら聴いていた。あの時間だけは違う時間軸にあるみたいだった。不思議だったなぁ。

あの夜限定の、最後の「ありがとう」は、あの時間をあの場所で過ごした人達に向けた言葉でもあり、「ありがとう その一言で優しくなれるから」の「ありがとう」でもあったのかなぁと思ったり。その日の12時、日付を越えた後「また明日」を聴いた時、あぁ本当に素敵な時間をいただいたなぁ、と思った。最後の言葉の違いに気付いた瞬間、幸せな時間の最後の最後、特別に貰った「ありがとう」を思い出して家に帰ってからも幸せで満たされてしまった。

でも、優しい「おやすみ」もめちゃくちゃ好きです。あのたった四文字で安心して眠りにつける気がしてしまう。「ゆっくり休んでね」も「大丈夫だよ」も「よく頑張ったね」も「お疲れ様」も、全部が詰まった四文字に聞こえる。その日の全てをねぎらってくれる優しさと、明日の幸せを祈ってくれる優しさが詰まっているようで、聴いているだけで安心してしまう。なんて優しい声を出すんだろうか。

ひとりひとりの今日一日をゆったり包み、明日の心の晴れを願ってくれるこの曲は同時に、これまでの時間を想い、これからの幸せを祈ってくれる曲でもあるようで。一日の最後にもぴったりの曲だし、加藤さんやこれまで応援してきたファンの方にとってすごく特別な日であったあの野音の夜を締めくくるのに相応しい曲だったんだなぁ、と家で聴きながら思いました。

 

と、最後はなんだか新曲についてたっぷり書いてしまった。でも、あの空間であの歌を聴けたの、本当に良かったな、と思ったので書きたいだけ書いてみた。私が初めて行った加藤さんの現場で、最後に聴けたのがあの歌でよかったなぁ、と思う。沢山沢山楽しませてくれた後、最後の最後に、寒いから座って聴いてね、と座らせてくれて、ふわふわのブランケットを巻きながら、あの優しい曲を聴いていたら、なんだかやっぱり、お母さんみたいな人だなぁ、と思ってしまった。自分にはもったいないぐらいの優しさを貰っているような気がしてしまったけれど、それでも、心から「あぁ、この人は優しい人なのだな」と信じられる人の、純度の高い優しさは見ているだけでも安心してしまう。

 

そして、最後の最後の最後、手拍子に応えて出てきてくれた時には、帰ったらお風呂に入ってあったかいもの飲んであったかいご飯食べてね、風邪引くなよ〜!!健康でね!を念押ししてくれて、言い終わってシュッと去っていったのを見て、本当になんかもう「あぁ、私、良い母を持ったなあ…………」という気持ちになってしまった。こちらがこれ以上冷えないように、早く帰れるようにパッと出てきてくれてしゅぱっと去っていってくれたんだろうなというのが伝わってきてもう…母………それでもその短い時間で沢山心配してくれて、「はい!これ持って帰ってね!」みたいな愛のお土産まで持たせてくれたようでもう……マザー……とにかくお家帰ってあったまります………と心で頷いてしまった。これで風邪をひいてしまっては、あれだけ心配してくれた加藤さんに顔向けできないので、帰宅してから沢山あったまりました。まぁ案の定アドレナリン垂れ流してて全然眠くならなかったので、すぐには眠れず、グッズ開封の儀をしたりサイリウムで遊んだりその日を振り返ってTwitterに入り浸ったりと、そこそこに夜更かしはしたのだけれど。そうして最後、ようやく眠くなった頃、眠る前にもう一度「また明日」を聴いて、その日一日を思い返して、幸せでほかほかな気持ちで眠りにつきました。そして翌朝、ふわふわな幸福感の中で目を覚ました。そう、ここで冒頭に戻ります。

 

 

 

…というわけでようやく、長い長い本編も終了です!

本当は野音の翌日までに書き上げようかと思っていたのに数日経ってしまった。最近何か一回書き出すと全部盛り盛りの詰め詰めにしてしまう。でも仕方ない、書けば書くほど「あっ、あれも!」って書きたくなってしまうんだもん!特に今回なんてなるべく残しときたいし!よしとします!!!

 

さて、今日はもうあの日から3日経っているわけなんですが、振り返ってみると初めてだらけの4/2、やっぱりめちゃくちゃ楽しかったし、色んな加藤さんが見られてあらためて好きが積もったし、これからもっと知っていきたいなぁと思えたし、記憶はほぼ夢の中だけどとにかく幸せたっぷりだったことは覚えてるし、まさにfun-filled dayの文字通りの一日だったなぁと思います。ノリと勢いで決行した野音行き、決めてくれた自分大正解でした、ありがとう!

そして、加藤さんファンの方の「きっとめちゃくちゃ楽しいよ!」「とりあえずきてみたら沢山の加藤和樹さんが見られるよ!」「初めてでも多分なんとかなるよ!いらっしゃいませ!」「この曲達聴いておいたら楽しめるかも!」のウェルカムツイートは実際めちゃくちゃ後押しになったので、とっても感謝しています。正直加藤さん、めちゃくちゃ沼地図が複雑なので、よく分からんけど行ってみるか!の精神がないとなかなか行くのを決められなかったと思うので、「知らなくてもとりあえず来てみたらいいさ〜!」の寛容な雰囲気があるのがとってもありがたかった。果たしてこれを読まれる方がいるかは分かりませんがこの場でお礼を。幸せ楽しさたっぷりなfun-filled dayへのご案内ありがとうございました!めちゃくちゃ楽しかったです!!!!!!!!!

 

さて、入学式を終えた気分の加藤和樹さん新入生、まだまだ沼構造がまるで掴めずこれからも迷子になりながら「これはなに?」「あれは一体…?」「ここはどこ?」「かとうさん、今何人…?」と混乱しながら沼を彷徨い歩くことになりそうですが、のんびり開拓していこうと思います。どうかこれから素敵な加藤さんが沢山沢山見られますように!探検を楽しみたいと思います。

 

それでは最後にもう一度!

Kazuki Kato 15th Anniversary Special Live ~fun-filled day~、楽しさ幸せ盛りだくさんの素晴らしい一日をありがとうございました!!

 

 

 

冬のライオン

冬のライオン、感想まとめです。

 

プレイハウスは夏のフェイクスピアぶり。やっぱり良席率の高いプレイハウス、基本的にどこに座っても作品を楽しみやすいのが大好きです。2階から観ても1階後方ブロックから観ても前方ブロックから観ても違う楽しみがある。初回は2階席から観たのだけど2階席からの見え方もすごく好きだった。

毎度のことながら予習怠惰人間なのであんまり今回も予習はせずに向かいました。カタカナ苦手人間でもあるので、役の名前だけざっくり頭に入れて劇場へ。そう、でも7人だと割と何とかなる。土地の名前は何とかならないだろうなと思ったのでまあそこは諦めて着席しました。

 

 

初日2月26日。

初回はもう、全てが初めて浴びる言葉なので、完全にヘンリーとエレノアの言葉に騙されっぱなしで正直めちゃくちゃ楽しかった。私は分からないものに身を委ねてぶんぶん振り回される訳わからなさが大好きなので、「う〜〜わ〜〜この人達何考えてるのかぜんっっぜん分かんな〜〜〜い!」ってにこにこしながら観てました。次々に流れ込んでくる言葉を脳に流し込むだけで精一杯の初日、その上それが嘘だらけの言葉なので、終演後は脳の疲労がすごかった。あぁ、すごい、浴びてるな……と思いながらものすごく集中して次々に飛んでくる言葉を聴いていた。

皆の嘘を一旦素直に飲み込んで、始まりから終わりまで振り回される続ける初回、最高に楽しかったですね。ヘンリーとエレノアは終始嘘に嘘に嘘に嘘を重ねているし、息子達も親ほどではないけれどいくつか層があるので、特に初回は頭がジェットコースターのよう。息子達やアレーがそれに振り回されるように、いや慣れていない分それ以上に、あの夫婦に翻弄されっぱなしの2時間半。とは言え振り回しているあの二人も、お互いに振り回され、相手を騙すための自分自身の芝居にいつの間にか振り回されていたりもしそうで、何だかんだ全員見ていて滑稽なのが最高に楽しい。リチャードの「喉が渇いた時に水が欲しいと言えない」はまさにあの二人という感じで(その場は上手くかわすけどあれは図星でしょうエレノア)、似た者同士の天邪鬼のミルフィーユ夫婦と、それに生まれてこの方振り回され続けている、それぞれ何かに飢えている息子達、その家族のゴタゴタに全て巻き込まれるアレー、巻き込まれつつも外野から楽しんでいるフィリップ。7人どこを見ても面白くて、あ〜目が7つ欲しい〜〜増えて〜〜と毎回思いながら見ていた。

冬のライオン、全体的なストーリーを捉えるというよりは、それぞれの人、そして人と人を見る話なのかなと思ったので、話の流れとかはあまり考えず、ただただ7人それぞれと、その間にあるものを見つめていたのだけれど、個人的にはそれが最高に楽しかったです。ということで、以下、7人についての観察記録と考察と想像です。順番は思いついたままに。

 

 

ジョン!🐶

多分一幕観た人は一旦みんなジョン!って叫びたくなると思う。私は初日の幕間叫びたくて仕方なかった。ジョン!二回目以降はジェフリーと一緒にジョン!って言いたくなる。愛されキャラジョン。多分観客みんなジョンのこと好きだと思う。ジョン!

三兄弟の中で唯一ヘンリーの愛情を得られた末弟。しかし何もできない末弟。アレーからあんなんとは結婚したくないと陰で振られている末弟。何だかんだ全員から舐められ馬鹿にされ、でも何だかんだ良くも悪くも「しょうがないなこいつは」というポジションには置かれていそうなジョン。

母性が受容で父性が承認だとすれば、ジョンは全員からその存在を受容されながらも、誰からの承認も得られなかったんだろうなと思う。でも、そのジョンが愛されているのは一番才能や資質を重視しそうな位置にある王・ヘンリーから、というのが面白い。

唯一父親の愛情を当たり前に得て、それを当たり前に信じられているジョン。三兄弟の中で愛に飢えていないのはジョンだけだと思うけれど、一方でその上に何も築けていないのもジョンだけなんだろう。戦もできて容姿も良い王位継承者として申し分ない長男リチャード、何も与えられていない分自分がどう立ち回るべきか自分で全て考え図ることができる次男ジェフリー。それぞれその仮面の下で親の愛を渇望する哀れな兄二人も、ジョンからしたら才能の塊でしかない。二人の兄はジョンには手にすることのできない色んなものを持っている。ジョンは根底の愛は足りていても、何も持っていないし、何も自ら手にすることができない。何か持てるとすればそれは貰ったものだけ。だからこそ父にねだるしジェフリーに(偉そうに)縋る。

自ら何かを手にすることができない、与えられたものしか持てないジョン。そして、(自分で身につけられるものを)持つことをそもそも期待すらされていないジョン。ジェフリーが「ポチ!」のごとく「ジョン!」と呼ぶように、あの家族にとってジョンはペットみたいなものなんだろう。何もできなくてもいていい。何も持たなくてもいていい。何をしてもしなくても愛される(by父)。それは最大の受容であり、最大の存在肯定でもある。何を積み上げても父の愛を得られないリチャード、「そこにいる」ことすら認識されないジェフリーが、一番欲しているものをジョンは全て手にしている。けれどそれ以外は、何もない。何かをすること、何かをできることを誰からも認められないし、そもそも求められない。

愛で比較をするのであれば、親の愛を受けその愛を信じられ甘え駄々をこねられるジョンはまだ恵まれている、と捉えられるのかもしれない。けれど、愛の土台があればこそ、その上に何も乗せるものがない、という虚しさもまたその土台が欠けているのと同じぐらいの苦痛なのではないだろうか、とも思う。ジョンは確かに愛されている。ただ、パンフレットで犬山さんが書かれていたように、あの家族が皆「愛を欲し合って叫び合っている」のだとすれば、ジョンが欲しているのは、何もできなくても与えられる愛ではなく、何かできることを期待される愛だったのかもしれないな、と思う。

 

 

ヘンリー🦁

ジョンの話をしたらヘンリーの話がしたくなる。この家族の愛情はぐるぐる回っている。じゃんけんみたいなパワーバランス。その場にいる全ての人間を言葉で芝居で巧みに操り翻弄する、そして国で1番の権力を持つ王、まさに最強のポジション、全てを持つ男ヘンリー。その彼の最大の弱点が、何も持てない、あの家族の中では最弱の立場にあるジョンというのが面白くて好きだ。

昔何故じゃんけんで固くて重い、最も強そうな岩が、最も弱そうな紙に負けるのかと不思議に思っていたけれど、ジョンとヘンリーはまさにそれだ。戦の才能も土地も頭脳も何ひとつ持っていないジョンが、全てを持った頂点ヘンリーの弱みになる。ヘンリーはジョンに弱い。何故岩が紙に負けるのか?それは、勝負は決して力の強さのみで決まるものではないからなのかもしれない。

ヘンリーのことは、正直全然わからない。エレノアに対してもそれは同じで、私は何度観てもあの二人の心理なんて到底理解できないだろうと思う。出逢って愛し合ったのも束の間、間に女と男と子どもと領土とを挟んで何十年も相手の腹の内を探り騙し合いを続け、周りの全てを巻き込んで戦いを仕掛けあってきた二人。あの二人の中にあるものも、間にあるものも、今の私には想像もつかない。規模も年数も大きすぎて、積み重ねてきた層が分厚すぎて、正直見当すらつかない。なので、分からないまま彼を考えてみる。

ヘンリーはとにかく頭が良いし芝居が上手い。計画的に勝つための道を敷いていく策士としての賢さ、その場で優勢に立つための言葉を相手に次々と放り投げていく頭の回転の速さ。ヘンリー自身も言うように、彼の才はオールマイティである。戦の才があるリチャードや先を読めるジェフリー、瞬発的な頭の良さを持つフィリップ、恐ろしく粘り強く隙を狙い続けるエレノアなど、その一部に特化した才能を持つ人間達はいても、彼のように満遍なく全てを兼ね備えた人間はいない。

味方であるアレーを平気で欺けるぐらいには、嘘を本当に見せてしまう。彼の中でもその瞬間それが真実なのではないかと思うぐらいには。エレノアとは良い勝負なのだろうけれど、少なくとも息子達よりは何百枚も上手だ。そりゃそうだ、何十年もあのエレノアとやり合ってきているのだから、息子達の謀略など大体はお見通しなんだろう。どこまでがヘンリーの筋書き通りでどこからが即興なのか分からないけれど、基本的にはあの家族達も観ている観客も、あの空間にいる全ての人間はヘンリーの掌の上で転がされているような気がする(そして転がされるのが楽しい)。

ただ、一方でその芝居に一番騙されているのはヘンリー自身なんだろうな、とも思う。他人を騙すための嘘も重ね過ぎれば自分を騙すことになるし、多分自分を騙せるぐらいの嘘じゃなければあそこまで人も欺けない。嘘の嘘は真実だし、本音も嘘にしてしまえば嘘になるし、嘘も自分に刻み続ければ本当にひっくり返る。芝居上手なヘンリーとエレノア、あの二人の嘘は周りを振り回しているようで、一番それに振り回されごっちゃごちゃになっているのはあの二人なのではないだろうか、と思う。そもそも人間の気持ちなど内側にしか存在しないのだから、嘘と本当の境目なんてはっきりしたものじゃない。「分かっている大人」の顔をしたあの二人だって、実際のところ自分が何を考えて何を欲しているのかなんて分かっていないのではないだろうか。分からないままに、相手のことも自分のことも分かったような顔をして、あの二人は芝居をし続けている。

 

いつも何層もの嘘で素顔を覆うヘンリーが、分かりやすく動揺するのは、ジョンが自分を裏切ろうとしていたと知った時、エレノアが父と寝ていたと知った時、そしてアレーに子ども達を永遠に地下牢に幽閉しろと迫られた時、だろうか。

唯一息子として愛していた(愛せていた)ジョン、何故ヘンリーがあんなダメダメなジョンをあそこまで可愛がっていて、王の座に就けようとまで思うのか正直全然分からないけれど、まぁ親の愛なんてそんなものか、とも思う。ヘンリーはジョンが理由もなく可愛いのだ。いくらバカで出来損ないで何にも持っていなくても、唯一自分の作品(=息子)であるジョンがきっとかわいくて仕方ないのだ。自分の息子達が王座を奪い取ってでも狙わないのであればそれは腰抜けだ、狙ってこそ俺の息子だ、みたいなことを彼は言うけれど、それでもいざジョンが自分に刃を向けようとしていたのだと知れば傷付く。分かりやすく動揺する。なぜ俺のことを信じてくれなかったのだ、と詰め寄る。ヘンリーの可愛いところだなぁと思う。

エレノアを父に寝取られたと数年越しに知らされジタバタ悔しがる姿も見ていて面白い。あそこはエレノア同様にんまりしてしまう。果たしてそれが真実なのか嘘なのかはエレノアのみぞ知る、という感じだけれど、あなたに抱かれながらあなたの父を浮かべていた、というエレノアの一撃必殺のような言葉は、あらゆる才があり女にもモテる自負があるヘンリーだからこそあそこまで刺さるのだろうな、と思う。何もかも持っているからこそきっと彼のプライドはエベレスト並みに高い。何もかもの頂点にいると思い、我が物顔で抱いていた女が、実は父に抱かれていた女で、自分は父の代替品だったと数年越しに知らされる屈辱。エレノアは本当に手持ちの札を使うタイミングが最高に上手い。

そして、アレーに息子達を永久に閉じ込めろと迫られた時。あの可能性をアレーに言われるまで気付かなかったヘンリーは、どこか間抜けでかわいいような気もする。「自分を従順に愛してくれる(保証のある)アレーを新しい妻にしたい」「今度こそ"自分の子ども“が欲しい」あれだけ頭の回るヘンリーが、自らの素直な欲求に突っ走った結果、アレーでも容易に想像がつく未来の可能性にすらたどり着けないというのは面白い。いや、辿り着きたくなかったのかもしれないな、とも思う。俺に息子はいない、俺は息子を失った、と言ったばかりのあの三兄弟を、"永久に"閉じ込めておけ(このアレーの要求が意味するのが、リチャードの言うように文字通りより奥深くの地下牢に永久に閉じ込めておけ、という意味なのか、ジェフリーが言うように"永久に"出られない牢=棺桶に閉じ込めておけ、という意味も含めているのかどちらなんだろうと毎回考える)と言われた時、お前は自分の子どもにそんなことができるのか、と戸惑う。お前には子どもがいない、自分の子どもにお前はもう二度と太陽を見られないのだと言えるか、と訊く。そして「やれるの?あなたは」と返され、それしか道はない、と地下牢に向かうも結局はリチャードに向けた剣は空を切り、そのままそこに閉じ込めるどころか3人を外へ逃してしまう。

誰もあなたができるとは思っていなかったとエレノアが言うように、ヘンリーはきっと自分が思っているよりはずっと、愛も情も持ってしまう人間なんだろうな、と思う。アレーだけではなく、3人の息子達のことも、エレノアのことも恐らく手放せない。

ジョンに裏切られたと知った時、エレノアが自分の父の女でもあったと知った時、アレーに息子達を幽閉しろと迫られた時。ヘンリーが分かりやすく揺らぐのは、結局そこに愛があるからだ。愛する息子に愛されていなかったと知った時に揺らぐ。愛していた女が実は別の男を愛していたと知った時に揺らぐ。息子達を自分の手で永久に閉じ込めねばならないと悟った時、そしていざ剣を息子に向けた時、揺らぐ。「俺に息子はいない」「息子を失った」と言いながらも、ヘンリーは息子を殺せない。こんなことするつもりじゃなかった、俺達には子ども達しかないんだ、と弱々しく呟くヘンリーは、散々身勝手に振り回してきた息子達へ父親として許しを乞うているようにも見えるし、その言葉は不器用な愛の告白にも聞こえる。息子達に吐いた二度と帰ってくるな、の言葉は「生きていてくれ」なのだろうし、エレノアをいつまでも苛めたいのは「二人がいつまでも死ななければいいと思ってる」からだろう。彼は誰のことも手放せない。

結局ヘンリーは皆のことを愛している、なんて言ったらヘンリーにもエレノアにも何とも言えない顔で笑われそうだけれど、でも、案外若く真っ直ぐなアレーの解が一番シンプルで、一番正しかったりするんじゃないだろうかとも思う。一番ややこしくて複雑なヘンリーが、複雑なものより単純で美しいものを愛する、と言うのなら、やっぱり最後に行き着く先は単純なものでいいんじゃないだろうか。ヘンリーは、結局あの家族のことを愛さずにはいられないのだ。

 

 

アレー👸

ヘンリーの話をしたらアレーの話をしたくなる。書きながらリレーみたいだなと思う。

一番の持たざる人。ジョンと同じく、与えられたものしか持てない人。そのうえ、権力争いの参加券すら彼女は持っていない(ジョンは一応持ってはいる)。ヘンリーが冒頭で彼女に言うように、基本的にはヘンリー以外には大きな意味をもたらさない人物、それが愛妾アレー。子どもの頃から人質として異国に預けられ、ヘンリーに気に入られるしか恐らく生き抜く道がなかっただろうアレー。そして結果ヘンリーの愛を得た彼女にとって唯一自分を守れる盾はその愛だけである。心理的にも立場的にも、頼みの綱はヘンリーだけ。ただ、その唯一の拠り所であるヘンリーがあの全く腹の読めない曲者具合なので、彼女の心はきっと預けられてからずっといつも不安定だったのだろうな、と思う。恋愛関係ならまだしも、父親代わりも兼ねる男が愛を出したり隠したりして意図的に自分を振り回すのだから、人間不信になってもおかしくない。それなのに、ヘンリーを愛し続け、その一方で譲らない部分は譲らない、とある部分では意志を強く持つ人間に育っているのだから、アレーはすごいなと思う。

ヘンリーにとってはエレノアを苦しめるための便利な道具でもあり、唯一自分に絶対の愛情と服従を誓ってくれる従順で可愛い女。エレノアにとってはヘンリーを負かすための手段として使える女であり、リチャードにとっても自分が王位に就くために必要な駒でもある。基本的には、あの家族達はジョン同様アレーのことも舐めている。彼女が動くことで自分達に大きな影響を及ぼすことはないだろうと、恐らく全員高を括っている。

けれど、何をしでかすか分かりませんよー!!と下手にスタスタ去っていく(ここのアレーめちゃくちゃ可愛いくて好き)アレーは、自分の非力さを嘆いてヘンリーに可愛がられるだけの立場に甘んじたりはしない。従順にニコニコするよう育てられても何でもハイハイと受け入れる女ではない。そこがすごく好きだ。じゃんけんのようなパワーバランス、と上でも書いたけれど、ジョンと同じく力のないアレーも、ヘンリーに対しては恐らくあの中の誰より真っ直ぐにぶつかっていける力を持っている。そして、その心を動かすだけの度胸と覚悟を持っている。だからこそ、あなたがあの息子達を閉じ込めないと言うのなら、私はあなたの妻にはならないしあなたの子どもは産まない、とはっきりとヘンリーに突きつけられる。

ヘンリーがリチャードに剣を向けた時も、彼女は目を逸らさない。上手ではジョン、ジェフリーの順であの二人から目を背けるが、上に立つアレーはしっかりと見届けようとする(まああの二人はその後自分の番が待ってるからアレーとは立場が違うのだけれど)。それは、あの時点で自分がヘンリーにそう要求した責任を背負う覚悟があるからだろうな、と思う。息子達を"永久に"閉じ込めろと要求した以上、ヘンリーが息子達を殺すのであれば、その責任は自分にあるのだという自覚を彼女は持っている。その肝の強さは恐らく、育ての母であるエレノア譲りなんだろうなと思う。その後の場面で、お前に奪われたのは俺の方だ、とエレノアに責任を押し付けるヘンリー、私が何かを失ったとすればそれは全て私の責任、傷付いたのだとすればそれはあなたが弱いからだと言うエレノア。エレノアは自分の失ったものにも、自分についた傷にも自分で責任を持ち墓場まで持っていく強さがある。それが"女の強さ"だとか言うのは何かいやなので、アレーの強さは、エレノアに近いところがあるな、と思う。まぁ、自分の愛するややこしい男とずっとやり合ってきた女なのだから、アレーにとってエレノアは一番の参考例でもあるのだろう。立場的には弱いけれど、自分が強くありたい部分の強さを譲らないアレー。私は彼女の強さと潔さがとても好きだ。

 

 

フィリップ🤴

アレーの弟ということで、お次はフィリップについて。

フランス王フィリップ、17歳(若い)。フィリップは結構、観る回によって印象が変わる。毎回結局この人は何を考えてるんだろう、と思う。ずっと変わらない印象としては、読めない人だなあというもので、ただ、初回こそ何というかいわゆる「食えない男」みたいな人かと思っていたのだけれど、何回か見るうちに、ああこの人は「"読みにくい人"をしてる人」なのかな、という風に思えてきた。フィリップは意図的に「何を考えているか分からない男」を演じているのではないか、と。まだ若い王であるフィリップにとって、ヘンリーは全くもって気を抜けない曲者だろう。その男の元へ出向くのだから、決して悟られてはいけない、父のようにこの男に、この国に絡め取られてはならない。フィリップは実は内心ハラハラドキドキなのかもしれないし、恐らくその腹の内にはイングランドやヘンリーへの恨みも抱えながら城に来ている。ただそれを絶対に悟られてはならない。もう自分は舐めてかかっていい「小僧」ではない、父親とは違うのだ、とヘンリーに、三兄弟に見せつける必要がある。だからこそあのにこやかで胡散臭い「読みにくい人」の仮面を被ってきているのではないだろうか。

とはいえ、実際頭の回転はめちゃくちゃ速い人なんだろうなとは思う。人狼ゲームとかすごい得意そう。長い目で見て計画を練って罠を張り巡らせる…というよりは、素早くその場の状況を捉えて、自分の有利になる条件を考えながら話を乗りこなす瞬発力のある人。というのも、(ジョン)、ジェフリー、リチャード、ヘンリーが順に部屋に訪ねてくるあの場面、フィリップはそれぞれ相手の話の意図を読み取ってとりあえず話を合わせて、全部並べて検討しながらそれぞれの話をそれぞれとしているわけで、しかもそれを背後で別の人が聞いているのを分かりながら話をしているわけで。話していい話、聞かせていい話、聞かせておきたい話、を全部考えながら手札をジャグリングしているようなもので、そりゃあまあ、めちゃくちゃ器用な人である。(そう、あの場面といえば、ジョンは最初からひっそり部屋にいたのか、それとも実は先に先客としてジョンを招き入れて同じようにあそこに隠したのか、ジェフリーの訪問から見せられる観客には分からないなと思う。ジョンにそんな素早い行動力があるのかは謎だけれど。ただ、ジョンが出てきたときフィリップは驚かないので、いることは知っていたような気もする。)

ただ、頭は回るし器用ではあるけれど「小僧」と言われれば怒っちゃうし、ポーカーフェイスはたまに崩れるし、ヘンリーには三兄弟と同様に振り回されているので、やっぱり17歳なんだなぁとは思う。それでも、自分の持ってる武器を使えるだけ使いながらイングランド王家の人間達と戦おうとする。賢く若い王だ。

そんな小僧でありながらフランス王であるフィリップを、もう一人「小僧」呼ばわりする男がリチャードである。ヘンリーの3人の息子達の中で最も優秀な男、軍人リチャード。そんなリチャードも、フィリップからすれば、当時15歳だった自分に屈辱を与えた男でしかないのだろう。そりゃあそうだろうな、と思う。当時はリチャードは24歳だろうか。15歳の少年が9歳上の男、しかも屈強な軍人であるリチャードに抵抗することは難しかっただろう。その上リチャードは、父がすっかり手懐けられた国の王子でもある。ただ、「小僧」であったフィリップはもしかしたら9歳上の強くて格好良いお兄さんとしてリチャードに憧れて狩を楽しんでいたりしたのかもしれないし、そうだとすれば尚更その男に「気付けば抱かれていた」ことはひどい裏切りにも思えたのかもしれない。そんな男に愛しているかと問われ「はい」と答えたのであれば、それは耐えがたい恥辱の記憶として彼に刻まれたのだろう。

ただ、同時に彼はリチャードの弱味を、弱さを知っている人間でもある。彼が愛に飢えていたこと、当時「ソドムの罪」として禁じられていたのだろう同性愛者であったこと、何より自分の愛を欲していること。表では誉れ高き軍人であるリチャードの根底にあるのは愛の欠乏で、その男がそれを埋めるように自分を愛し自分の愛を求めている。自分に執着している。それは彼にどれほどの優越感をもたらしたのだろうか。かつて「小僧」であった自分を辱めた男が、自分の愛を求めていることを知りながらそれを利用する。それはどんな気分だったのだろう。ヘンリーとの会話を盗み聞きしていたリチャードが「お前は俺を愛しているはずだ!」と部屋に入って来たとき、彼は何を思ったのだろうか。フィリップはリチャードが外で聞いていることも分かっていてあの手札を使ったんだろう。その後三兄弟が揃って父親に噛み付いているあの場面、フィリップは壁に寄りかかってその様子をずっと眺めている。さぞかし楽しいのだろう。酒のつまみに家族喧嘩を見ながら、読めない表情でその場に居続ける。リチャードが父に愛を乞う姿を見て、愉しそうに笑う。その時彼は、何を考えていたんだろうか。哀れな男だ、と思ったのだろうし、ざまぁみろとも思っただろう。結局この男の本質は愛に飢えた哀れで愚かな獅子なのだ、と知っていながらもまたそれを嗤ったのかもしれない。ただ、そこに何の情も愛も本当に「全然」なかったのかというと、それは分からないな、と思う。フィリップは読めない。読めない男としてそこに居る。彼の本心は分からない。彼がリチャードをどう思っていたのか、本当のところは分からない。

 

 

リチャード👓

黒のタートルネックにグレーのジャケット、神経質そうな眼鏡。ビジュアルが公開された時に最初に出た言葉は何を隠そう「インテリヤクザだ……………」だった。あまりに美しいインテリヤクザビジュアルだったので仕方がないと思う。すみません。その見た目の印象から読み取れば、知的、冷淡、感情を表に出さない、とかそんなキャラクターが想像される。

観に行く前、リチャードという人物がこの印象通りの人なのか、それともそうではないのか……と考えていたけれど、観に行った後はそのどちらでもあるな、というところに落ち着いた。あのビジュアルは、リチャードが自分だと思っている姿なのだろうし、そう見せたい、そうありたい姿と望む姿でもあるのだろうと思う。だから、そう見せられている時もある(序盤の三兄弟階段お話場面、エレノアに呼ばれた時の前半など)し、それが崩れてしまう時(主にエレノア、ヘンリー、フィリップの前)もある。後者が素だといえばそうではあるのだけれど、リチャードが「三兄弟の長男であり、広大な土地を持つ強い軍人であり、次期王位に一番近い優秀な男」として作って積み上げてきたリチャードもまたリチャードだと思うので、どちらも正だな、という結論に至った。とはいえエレノアが「お前には自分が全然わかってないのねぇ」というように、素のリチャードは「冷たくて感情に溺れない」人間などではないし、とにかくベースが素直なので謀略も駆け引きも向いてはいない。エレノアにもヘンリーにもフィリップにも、最終的には何だかんだいつも本音をぶちまけてしまう。なので、あんな気難しい顔をしながらも、三兄弟の中で一番分かりやすいのはリチャードなような気がする。多分ジョンよりわかりやすい。

そう、リチャードはなんというか、めちゃくちゃかわいいのである。母の愛を信じきれずツンツンし、でも酒を注げと言われれば何度でも注いでしまうし、でもじゃあ出て行けと言われても出て行けない。母に「見捨てないで」と縋られれば足を止めてしまう。結果エレノアの策にあっさりはまって「お母さん」と子どものように抱きつき、その後騙されたことに気付き悔しがる。あぁ、なんと素直なことか。あんな美しく残酷なインテリヤクザみたいな見た目をしながらも、中身はツンデレの素直な少年なので観客としては心が母にならざるを得ない。父ヘンリーに対してもそれは同じで、「父さん子っていますか」なんて喧嘩を売りながらも、本当は父さん子になりたかったのだと全身から滲み出ているし、その後、結局自分が一番求めていたのはあなたの愛だ、どうして自分ではなかったのか、なぜ自分では駄目だったのかと必死に問う姿はやっぱり小さな男の子のようだ。「その答えはエレノアがその人の元からあなたを連れて行ったからだよ、あなたのせいではないのだよ……その人のあなたのこと裏でベタ褒めするよ後で……」と横から囁いてあげたくなるがそんなことは観客には許されない。でもそんなことをしてあげたくなるぐらいには、リチャードはかわいいし観客を母にする才能がある。

あまりに可愛い可愛い言いすぎたので、少し理性を取り戻して真面目な話に戻るとする。リチャード本人がどう認識しているかは置いておいたとしても、少なくともエレノアの愛の矢印はリチャードに向いている。親二人がそう話すように、ジョンは父ヘンリーの作品で、リチャードは母エレノアの作品なのだ。ただ、ヘンリーのジョンへの愛はほぼ無条件でその上わかりやすいが、エレノアのリチャードへの愛はあらゆる策略や陰謀とセット、その上分かりにくいので、リチャードがその愛を信じられないのもしょうがない気がする。そして、リチャードが最も欲しているのは父ヘンリーの愛である。それは母からは与えられない。リチャードが求めるのは父ヘンリーから与えられる息子への愛でもあり、王ヘンリーから与えられる次期王位継承者としての承認でもある。軍人として成果をあげ、王の器たる男として申し分ない功績を積み上げてきたのは、もちろん王座に就くためではあるだろうけれど、やはり根本にあるのは息子として、次の王になる者として父に認めてもらいたいという気持ちなのだろう。父の存在=王であるならば、その父に認めてもらうには王にふさわしい資質を身につけなければならない。だから愛情の穴を埋めるようにひたすら戦い武功をあげる。

ジョンの部分で受容と承認、受容の愛はあっても承認の愛を得られなかったのがジョンなのではないか、というような話をしたけれど、受容の愛をどちらの親からも上手く受け取れず、承認の愛をひたすら求めてきたのがリチャードなのではないか、と思う。承認欲求の先は親以外にも向けることができる。親以外からの承認を沢山得れば、その欲は一旦は満たされる。優秀な軍人であるリチャードは恐らく多くの人間に慕われてきたのだろうし、その功績によってついた自信もあるだろう。もし、戦場で戦うリチャードの物語があったならば、完全無欠の無敵の軍人として、それこそ「冷たく、感情に溺れない」人間として描かれたのかもしれない。父ヘンリーがそう認めるように「強く勇敢でハンサム」なリチャードは、きっと格好良い主人公として活躍するのだろう。けれど、それはあくまでも外向きの、外側の話である。この作品は家族の話で、内側の話で、取り繕えない、自分の中の子どもの部分の話なので、リチャードの冷静の仮面はあんなにも脆く、壊れやすい。

リチャードのハイネックもかっちりしたジャケットも眼鏡も、まるで自分を隠すための装備みたいだな、と思う。本当の自分を覗かれないために首元まで隠し、感情の表れる目元を覆う。リチャードは動揺すると眼鏡をクイッと上げたり、ジャッケットを羽織り直したりする。

とある人物が登場した瞬間、リチャードは動揺を隠すように眼鏡を押さえる。両親の他に彼の心を揺るがすもう一人の男、フィリップである。2回目以降は正直見てしまうと思う。フィリップが同じ空間にいるときのリチャードを観察してしまう。リチャードはフィリップを愛している。それが一目惚れなのか何なのかは語られないけれど、2年前、当時15歳だったフィリップをリチャードは抱いたとフィリップは話す。そして「お前は俺を愛するか」と問われ、「はい」と偽りの答えを返した、と。

素直なリチャードのことだから、フィリップのその「はい」を信じたのだろうな、と思う。もしくは、信じられなくて何度も尋ねたのかもしれない。親の愛を疑って疑って信じてこれなかった、受け取ることのできなかったリチャードが初めて受け取れたと思った愛だったのかもしれない。なのに、フィリップは結婚した。だから手紙は返事をくれないだろうと思って書かなかった、と。僕が求めるものをくれる代わりにあなたは何を求める?と問うフィリップは、リチャードが何を求めているのかなんて最初からわかっていたのだろう。分かりながらも「それから?」と間髪入れずにリチャードに問い続けるフィリップは、リチャードで遊んでいるようにも見える。

この二年間地獄にいた、と言うフィリップに「俺はそこで君を見かけなかった」と返すリチャード。リチャードは一体いつから地獄にいたんだろうか、と思う。ようやく自分を愛してくれる人を見つけた、と思っていたのに、その人を奪われたと知った時からなのか。それとも、もうずっと彼は地獄を生きてきたのかもしれない。母の愛を信じられず、父からは愛されず、恐らく恋愛としての愛も誰かから受け取れたことがなかったのだろうリチャードは、ずっと孤独だったのだろうな、と思う。それでようやく「見つけた」のがフィリップで、彼の愛だけは自分に向いていると信じていた。けれどフィリップは結婚してしまった。それでも、多分リチャードは、彼の愛を信じていたのだろう。少なくとも愛があった、と信じていた。けれど、自分の最も愛して欲しかった父親の前で、自分を愛してくれていたと信じていたフィリップが、その愛は偽りだった、それは屈辱だったがこの時のためにそうしたのだ、と言う。「お前は俺を愛しているはずだ!」と詰め寄るリチャードに、フィリップは「全っ然」と吐き捨て横を通り過ぎる。今まで信じていた愛の分、それは何重にもリチャードを傷付けたのだろうな、と思う。

………………正直もう、この辺り「あぁぁぁあリチャード………」となりすぎて母は見てられない。心の中のリチャードの母の情緒が暴れる。誰か一人ぐらいリチャードが信じられる愛を与えてくれたっていいじゃないか……一人ぐらい…………。……いけない、せっかく真面目に書いていたのに急に母の自我が混ざってしまった。だってあまりにも、リチャード、信じた愛を裏切られてすぎていてつらいじゃないか………。信じられなくて、それでも信じてみて、裏切られて、をきっと母に繰り返されてきた人なのだろうから、きっとフィリップの愛だって信じ切れてはいなかったのだろうなと思う。それでも信じてはいたし、信じたかったのだろうなと思う。けれどまた結局、それも偽りだった。

リチャードは恐らく、愛されてはいるのだ。母エレノアからも、恐らく出さないだけで父ヘンリーからも。リチャードを最高だと認めるヘンリーが彼に王位を継がせたくないのも、彼を表立って愛を向けないのも、恐らく彼がエレノアの作品であることが悔しいからだ。本当はどこかで彼を誇りに思ってもいるのだろうし、その才能を十分認めてもいる。でもその優秀なリチャードの作り手が宿敵エレノアであり、自分ではないことが悔しくてたまらない。きっとリチャードが父に認められようと才を磨けば磨くほど、戦に勝てば勝つほど、リチャードはその優秀さもすべてエレノア産である事実がリチャードをヘンリーの心から遠ざける。「あれはエレノアのものだ」と。だから、認められようと、愛されようと願う心も、そのために積み重ねる努力も、結局は報われないのだ。

分かりにくくはあるけれど、リチャードは母の愛も貰っているし、確実に明かしてはもらえないけれど、父の愛もそこにはある。もしかしたら、フィリップだって愛を持ってしまった瞬間があったかもしれない。リチャードは何だかんだで愛されている。けれど、仮にそこに愛があったとしても、それを信じられなければ、認識できなければ、結局ないのと同じなんだろう。彼は常に愛を欲しているし、きっとこの先もしそれを与えられたとしても、信じられずに飢え続けるのだろうし、それを埋めるように戦いに生きるのだろうな、と思う。

 

 

エレノア👑

エレノア。ヘンリー並かそれ以上の曲者である。ヘンリーの部分で書いたけれど、私はやはり彼女のことも分からない。ひょっとするとヘンリーよりもずっと分からないかもしれない。あの城の中で一番頭が良いのはヘンリーかもしれないが、あの城の中で一番手強く恐ろしいのはどう考えてもエレノアだと思う。本当にわからない。なのでまた、分からないまま彼女のことを考えてみる。

エレノアは、親としてはヘンリーよりもかなり毒が強い。あんな母親の元で育ったら基本間違いなく人間不信になる。アレー含め、彼女の愛情を信じられる子どもなどいないだろう。人の企みや目的を把握して上手く操ってその糸を自分の思い通りに動かしていくのがヘンリーだとすれば、エレノアが探り操るのはその人のもっと内側の部分だ。彼女は人がここを突けば揺らぐという部分を的確に読み取る。リチャードであれば親の愛を求めて得られず空いた空洞を、アレーであれば頼みの綱ヘンリーの狡さを、ヘンリーであれば唯一の作品である愛する息子のジョンを。実際勝負にそれを使うかどうか、そして結果その勝負に勝つかどうかは置いておいたとして、相手のどこを突けばその人が揺らいで崩れるのかを彼女はよく知っている。恐ろしいほどによく人を見ているのだろうなと思う。……なんというか、本当にタチが悪い。いや、こう書いてみるとエレノア、本当にタチが悪い。これが対ヘンリーだけの話ならまだしも、息子達にもアレーにも容赦なくこれを仕掛けるのだから、母親としては最低である。いや、エレノアという人のことは嫌いではないのだけれど、何なら結構好きなのだけれど、あらためてこう書いてみると、本当にあの城でダントツ一番厄介な人だな、と思う。

ただ、人の心理をそれだけ読み取れる、ということは、それだけ自分の中身もよく見ているということなんだろう。私は私という人間をよく分かっている、とリチャードに語るように、恐らくエレノアは自分から目を背けることをしない。常に自分という人間を他人と同じぐらい見据えている。鏡は嘘をついてくれないから見ないようにしている、と言いながらも、部屋で一人になった夜、あの暗闇の中で自分を正面から覗くだけの強さがあの人にはあるのだ。自分の欲も過去の傷も弱みも恨みも嫉妬も全て見つめてじっくり煮込んでその毒を相手に手渡すような人。策で負けて悔しがることはあっても、エレノアが痛いところ突かれて負けるような場面はそういえばないような気がする。「お前を自由にしてやる」と言われ泣き崩れた時にも、ちゃっかり結婚式をすぐ挙げろと返せるぐらいの余裕を用意している。ヘンリーは時々動揺する姿を見せるけれど、エレノアが芝居でなく誰かに弱点を突かれて揺らがされる姿は見ない。彼女は自分の弱点など、自分の真に欲しているものなど、他人に言われずともとうに知っているのかもしれない。

ただ、だからと言って彼女の感情が揺れないだとか、隙がないだとか強いだとか、そういうわけでもないのがまたエレノアの狡いところだなぁと思う。エレノアはまったくもってポーカーフェイスではない。自分の感情を隠そうとはしない(どちらかというとその感情さえ利用して勢いに乗せて戦っていたりもしそうである)し、元々感情豊かな人なのだろう。ただ、そのほとんどに自覚があるから、他人には揺らされないだけなのだろうな、と思う。彼女も傷付いているし、突けば痛い場所はあるし、弱いエレノアもちゃんといる。

エレノアは、嘘も全てが本当なような気がする。自分の本音さえも嘘に利用できるだけで、彼女が感情を散らしている瞬間のそれは、全部本物のように聞こえる。矛盾だらけの本当と本当と本当と本当が彼女の中に存在していて、彼女が外に出しているものは、全て彼女の真実であるような気がしてしまうのだ。アレーを抱きしめている瞬間もリチャードを抱きしめている瞬間も、そこに愛は本当にあるのだろう。ただ、そこに愛のあるエレノアと、策に巻き込むエレノアが当たり前に共存しているのだ。ヘンリーの嘘は嘘だとわかるものもあるけれど、エレノアから出る感情も言葉も、全て彼女の本当のように思えてしまう。彼女はその自分の本当を全て知っていて、けれどどれも本当すぎて、どれが本当なのかが分からなくなっているようにも見える。ただ、その全ての本当を自分の手札にして、瞬時に自分の中のちょうどいい本当を出したり引いたりしてくる。だからこそ恐ろしいのだ。

ただ、恐ろしい魔女みたいな人か、と言うとそういう印象はない。彼女はものすごく人間である。一度着火すると時にびっくりするぐらいの勢いで戦を仕掛けては相手を振り回すけれど、暗闇の中、一人部屋で話すエレノアは、年老いた一人の女性に見える。あれが素だ、とは思わないけれど、火の消えたエレノアもまた本当のエレノアで、ヘンリー同様、エレノアも戦う相手がいなければその火を保っていられないし、生きてもいけないのだろう。お酒を一口飲んだ後、「はぁ………」と揃ってため息をつく夫婦二人が私はすごく好きなのだけれど、ああやってクタクタになりながらも、お互いにお互いの火を点けながら死ぬまで生きていくのがあの二人の生き方なんだろうな、と思う。最後エレノアが「もう死にたい」と言った時、ヘンリーは珍しく本気で心配しているように見える。ヘンリーは、エレノアに弱ってもらっては困るのだ。悪口を言ったらちゃんと聞いてくれないと調子が狂う。ヘンリーの着火剤はエレノアで、エレノアの着火剤はヘンリーで、あの二人は互いに互いを燃やしながら生かし合っている。最後、お互いにもたれかかりながら暗闇に消えていくあの夫婦は、熟年のおしどり老夫婦のようにも見える。この先もきっと凝りもせずこの夫婦も家族も戦い続けるのだろうけれど、あぁ、それがこの人たちなんだなぁ、と思う。と考えるとやっぱり、この話は(少なくともこの二人にとっては)ハッピーエンドなのかもしれない。

 

 

ジェフリー

次男ジェフリー。今上に名前を書いていて思ったのだけど、ジョンは犬、リチャードは眼鏡、簡単に絵文字が思い付いたのに、ジェフリーに当てはまる絵文字が思いつかない。ジョンの犬はジョン!だしあの家族にとってのペットだな、という印象で選んだし、リチャードの眼鏡はもちろんビジュアルもあるし、あの眼鏡で素顔を隠すリチャードらしさも出るし…と割と二人ともポンとぴったりの絵文字が浮かんだ。それで、まずは見た目から、と思いジェフリーの衣装を思い浮かべたが、全身真っ黒のスーツに白のネクタイ。よく言えばスマートでそつがない印象、悪く言えば、そう、これといった特徴がなく、見た目としてはあまり印象に残らない。なんというか、ジェフリーには「印」みたいなものがないのだ。それは、あの家族にとってのジェフリーが真っ黒の、影で動く黒子のような存在だからなのかもしれないな、と思う。エレノアはリチャードが部屋に入ってきた時にはドアが開いたら気付くのに、ジェフリーが入ってきた時にはそちらを向くまでは気付かない。それまでジェフリーは暗闇の中無表情で立っている。声を上げなければ誰にも見てもらえない、気付いてもらえない。ジェフリーはずっと影のように生きてきたんだろう。名前を呼ばれない存在、父にも母にも「作品」として認識してもらえない存在。リチャードに対してもジョンに対しても「そう育てたのは自分(たち)」だという認識をあの親達は持っているのに、ジェフリーに対してはまるで他人事だ。彼を機械的で人工物のようだと好き勝手に語るあの二人は、自分たちがその原因を作った作者であるという自覚が恐ろしいほどにない。

ジェフリーは、三兄弟の中では間違いなく一番頭が回る。お互いに何を知り合っているかということをジェフリーは知っているし、その上で自分がどう動けば相手が何を思いどう動くのかを全て頭の中で組み立てて動いている。「〜なことを私は知っているし、私が知っていることをあなたは知っている、ということも私は知っている」のくだりなんてヘンリーそっくりだし、誰かの思惑を把握する力も、瞬時にどう動くべきか考えられる頭の回転の速さも、どう考えてもヘンリー譲りである。ヘンリーのみならず、あの両親の頭脳を一番継いでいるのは間違いなくジェフリーだろう。

けれど、それは何も彼にもたらさない。両親がそれを何とも思っていないからだ。彼らはジェフリーを見ない。何をしても、何ができても、そこに意味はない。幼い頃からずっとそうだったのだろう。長男という条件で父に愛されたヘンリー、優秀な軍人であり母にも愛されるリチャード、何もできないけれど父に溺愛されるジョン。そんな兄と弟に挟まれて育ってきたのであれば、何ができるから愛されるわけでもなく、何ができないから愛されないわけでもなく、ただただ自分の存在そのものが無条件に愛されないのだ、というところに行き着くしかない。乳母に自分の手が父に似ていると言われた記憶をずっと大事に持っているぐらいには、彼は自分が両親の子であるという証のようなものをずっと感じてこれなかったのだろうし、そう感じられるような愛情も関心も1ミリも与えられてこなかったのだろう。彼の存在は、両親に見えていないからだ。

ジェフリーはあまりにも空っぽだ。ジョンやリチャードなど比べ物にならないぐらいに何もない。穴が空いている、何かが欠けているというより、ジェフリーにはそもそも彼の中を埋めるものがないような気がする。穴が空いている、欠けている、というのは何かがあることが前提で、その一部が欠落しているという状態を指すけれど、そもそもジェフリーにその「何か」などあるだろうか。

3歳の誕生日の記憶をずっと覚えている、と母に話すジェフリー。誰が誰に何をしたかそれがどんな感じだったのか。全てを覚えていると語るジェフリーは、物心ついた時から両親から「何かをされた」という記憶がないのだろう、と思う。彼の頭には無数の「何かをされなかった」記憶ばかりが詰まっている、記憶ある限り最も古い自分の誕生日の記憶でさえもきっと。祝ってくれない。優しくしてくれない。見てくれない。笑いかけてくれない。褒めてくれない。怒ってくれない。期待してくれない。話しかけてくれない。名前を呼んでもらえない。子どもの頃からの「何もされなかった」記憶だけがジェフリーの心に蓄積されている。

母に愛され、母を愛した記憶を必死で消そうとするリチャードと、愛されなかった記憶を鮮明に覚えているジェフリー。同じように母の部屋を訪ねる場面で、なんと残酷な対比をさせるのだろうかと思った。「覚えているでしょう?」と母に手を掴まれ、母に愛し愛された記憶をいやでも思い出してしまうリチャードと、一人愛されなかった記憶をつらつらと語り、その冷ややかな無関心の理由を真剣に訊いても母にかわされるジェフリー。「息子達の誰のことも愛していなかった」だなんて、ジェフリーが一番返されたくないだろう見えすいた嘘で逃げられる。両親が彼のことを見なかったのは、その視線の先にいつでもジェフリー以外の子どもがいたからだ。常にその視線の横に置かれたジェフリー、その先を誰よりも見ていたはずのジェフリーに、エレノアは何とまぁ適当な答えを返すのだろうか。あなたの欲しがっている単純な答えを私は持っていない、とさらりと突き放すエレノアは恐ろしいほどに残酷だ。

フィリップを順番に訪ねた三兄弟が、最終的にそれぞれ父親に叫んでいくあの夜の場面、リチャードは父に「何故愛してくれなかったのか、何故俺では駄目だったのか」と問い、ジョンは「全てジョンのためだったって言うの?じゃあいつくれるの?いつまで待てばいい?」と問う。リチャードは愛を乞い、ジョンは愛の証拠を求めている。じゃあジェフリーは何を求めていたんだろう、と考えると、彼が言っていたのはただ「私がいますよ」ということだけだったんじゃないだろうか、と思う。ただ、存在を認識してくれることだけを求めていた。「僕を愛して」と「僕を見て」は同じようで、ものすごく距離のある要求のような気がする。愛の反対は無関心、なんて言葉があるけれど、まさにその無関心の究極の場所に置かれたのがジェフリーなんだろう。愛情どころか自分がそこにいるという認識さえも持ってもらえず、ないものとして、取るに足らない存在として、背景のように扱われてきた。

ジェフリーは感情のない、というよりは全感情を黒いマーカーで塗り潰したみたいな喋り方をするな、と思う。何度も愛を求め、関心を求め、その要求を、その存在ごと当たり前のように無視され続けてきたジェフリーは、リチャードのように感情のままに喚いたり(ジェフリーの「喚くのが好きなんじゃないかな」は喚くことで何か変えられてきた立場にいるリチャードへのものすごい皮肉だなと思う)、ジョンのようにいじけたり飛び跳ねたりもしない。しない、というよりできないのだろう。どんな感情を表しても状況は変わらないし、見てすらもらえないのだと彼は知ってしまっている。けれど、それでも彼の感情はなくなったわけではなく、なくせるわけもない。彼はロボットでも機械でもなく人間としてしか生きられないのだから。どれだけの無関心を浴びても、どれだけ親に幻滅し現実に絶望しても、それでも両親を完全に諦めることもできないのが哀しい。ジェフリーは何度もその存在を主張する。「私が残りましたよ」「私はここにいますよ」ジェフリーは父にも母にもただ自分が「そこにいる」ことだけを伝える。条件付きで愛されて(ヘンリー、リチャード)、無条件でも愛された(ジョン)兄弟達の中で、無条件に愛されなかったジェフリーは、他の兄弟達が裏切った、その場からいなくなった時にしかその存在を主張できない。自分が何かをすることや何かをしないことで愛されることはないのだから、愛の矢印の先にいた兄弟達が消えた時に叫ぶしかない。

……………何というか、もう、ここまで書いてみて、どうしてこうもジェフリーにだけ1ミクロンも救いがないのだろうか、と辛くなってくる。書いても書いても救いがない。書き終われないじゃないか。全登場人物達の愛のループに、愛のじゃんけんに、ジェフリーだけが入れてもらえない。初回こそ賢いジェフリーが全身で叫んでる姿は可笑しくも思えたが、見れば見るほど笑えなくなってしまう。my楽なんて周りの笑い声に「何笑ってんだ笑い事じゃねぇんだ……」とか内心一人怒り出す情緒不安定な観客になってしまったじゃないか。何なんだ、作者。あまりに救いがないじゃないか。何なんだ。唯一ジェフリーを求めているしなんだかんだ好いているのはジョンだと思うので、もうエピローグとしてあの二人が仲良くわちゃわちゃしてる様子とか付け足してくれないと困る。そこにちょっと嫉妬するリチャードとかがいてもいい。実は気の合うフィリップとジェフリーの友情外伝とかでもいい。史実とかもうどうでもいいので頼む、ジェフリーに幸せをあげてくれ。別に王様にならなくてもいいんだ、彼を見てくれる人をどうかエピローグに登場させてください。もしくは来世でたっぷり溺愛されてください。私は愛してるよジェフリー。ともうふざけた感想で締めさせてください。やってられるか。愛してるよジェフリー!!私がここにいるよ!!!!!!!!!!!!

 

 

以上、7人分の人間観察と想像と個人的な彼らへの解釈を詰め込みたいだけ詰め込んでみた。

詰め込んでみたら………とんでもないボリュームになった。最初に書き始めたジョンぐらいのボリュームで7人書こうと思っていたのに、何故かどんどん書き足したいことが増え、その欲求のままに文字を連ねていたらものすごい量になってしまった。一人一人について考えていたらぐねんぐねん思考が止まらなくなってしまって気づいたらこんなことに。いや、書いているとものすごく長く感じるけど読んでみるとそうでもなかったりするのだろうか。いや長いよな。どうせ長いのでもう少しだけ付け足してみる。

 

いつもこうやって観劇後に何かしらの文章を書いている時、書いている時間は孤独で、いや孤独とか言うとなんか響きが良すぎるので違う言葉が欲しいのだけれど、果たしてこの感想は書き終わるのだろうかとか、そもそも彼らは本当にこんなこと言ったりやったりしてたんだろうか、私の見た幻覚なんじゃないだろうかとか、そもそもなんで私はこれを書いているんだっけとか、こんな長いものを読む人がいるんだろうかとか、いやまあ読んでもらうために書いているわけでもないか…いやでもここまで書いたのに一人も受け取ってくれる人がいないのはすこし悲しい気もするな……とか、いやでも書きたいから書いてるんでしょう私は……とか色んなことを書きながら思ったりする。Twitterに感想をぽんぽん投げるのとは大分感覚が違って(それもすごく好きだけれど)、深海に潜り込んで一人で奥まで進んでいくような、そこで作品の中の世界にまた頭を突っ込んでいるような、そんな気分になる。私はそれがすごく好きだし、複数回観た作品であれば、そうやって一旦持ち帰ってまたその世界に、登場人物達に出会い直すことでまた違う宝物を発見できたりもする。その後にまた観る機会がある場合であれば、これまでと全然違う視点で観れたりもする。その積み重ねの作業が私はすごく好きだ。

最初にも書いたけれど、冬のライオンは人の話であり、人と人の話だと私は受け取ったので、潜った時に見えるのは7人それぞれから見える世界でもあるし、私が彼らを考えた時に私から見えた世界でもある。すごく人間らしいあの7人が、何を考えて何を感じて生きてきたのか、そしてそれぞれに対して何を思っているのか、想像することで、楽しみ方が永遠に増えていくのがものすごく楽しかった。実は最初は1回しか観る予定はなかったのだけれど、気付いたら追っていた。複数回観ることで7人のことをどんどん知れるような、と思ったらどんどん分からなくなっていくような感覚が面白かった。あの7人に会いにいくつもりで劇場に向かっていた。この文章は書き上げた今の時点で一旦固まってしまうけれど、きっとまたもう一回観たのであれば彼らの印象もコロコロ変わって「ここは違う気がする」とか永遠に書き換えたくなってしまうだろうな、と思う。

ここまで私が7人に夢中になって、ぐねんぐねん考えて考えて考察して想像して彼らにあてはまる色んな言葉を引っ張り出してきては、いや何か違うと打ち消したりまた組み替えたりしながら、その結果こんなボリュームになるまで書いてしまったのは、7人が7人ともめちゃくちゃ面白かったからである。いくらでも考えたくなってしまう7人だった。それはもちろん、7人の役者さん達が素晴らしいお芝居を見せてくださったからなのだけれど、私は基本役を見ている時は役者さんの素晴らしさを考えられない人間なので、素敵なお芝居だった〜とかここのこの人が上手かった〜とかを本当に考えられない(しあまり考えたくない)ので、とにかく素敵な7人をありがとうございました、の気持ちでいっぱいです。役のことだけをぐねんぐねん考えさせてくれてありがとうございます。皆様が役120%でそこにいてくださったおかげで、めちゃくちゃグツグツ煮込みながら考えられました。大満足です。

 

さて、でもやっぱり最後は役に向けて!

ヘンリー、アレー、リチャード、フィリップ、ジェフリー、ジョン、エレノア、ありがとうございました!!!!!

お次は千秋楽!みんな最後まで思う存分愛を求めてぶつけて愛で殴って叫んできてね!!!!!愛してるよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

恋せぬふたり小休憩 (脳内整理)

恋せぬふたり、を見たあとのまとまらない思考の記録をだらだらと残しておく その1です。ちょうど2週間の小休憩タイムが発生したので、今までの4話を見ていて頭の中をぐるぐるしていたものを書き出しておく。

(※ドラマ感想ではありません。脳内にあるものをつらつら書き出して整理しているものなので読みやすさは皆無です)

 

 

 

 

人を分けるためのカテゴリは表では表せないよな、とよく思う。

表のひとつのマスに人を入れ込もうとした瞬間、カテゴリは人を押さえつけ窮屈にする道具になってしまう。あとフローチャートでもないなともよく思う。二者択一の質問でひとつの答えに辿り着くものではない。不変のものでもない。もちろんそのカテゴリが何かによって、人によって、不変の場合もあるけれど。

 

なぜこんなにカテゴリカテゴリぐるぐるしているかといえば、恋せぬふたり、「アロマンティック」「アセクシャル」のセクシャリティを持つ二人が描かれたドラマで、セクシャリティというのは人の性的指向性自認を分けて整理したカテゴリなので(片仮名苦手なので並べすぎると目が疲れてくる)

ドラマの中で二人の共通点や異なる部分を見ながら考えてしまう。例えば何をもって分けられて、何をもって同じセクシャリティとするのか。もちろん定義はあるだろうけれど、実際には一人一人の中で違ったりするのだろうなと思う。その中で当事者や非当事者の間で生じる誤解にはどんなものがありうるんだろうかとか。「アロマンティック」「アセクシャル」という言葉を初めて聞いた人はそれにどんな属性を無意識に付け加えるんだろうか、とか、ぐるぐるぐるぐる。

 

今更ながら一旦「カテゴリ とは」で調べてみたら、「カテゴリは、事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のことである。カテゴリ - Wikipedia

と出てきたので、本来の意味としては物事の特徴をはっきりさせて、特徴ごとに区分けしたもの、だと思うんですよね。でも、その対象が人間の場合、どう考えてもそんな簡単に区分けできるものではない。事柄である人間の性質がはっきり区分できるような分かりやすいものではないから。けれど、簡単に区分けしてしまいがちな人がいる。というよりしてしまう方が楽だし分かりやすいし簡単だから、社会の側も、特にそこに引っかからない人も、つい無意識に簡単に分けられると思ってしまう。私もきっと、知らず知らずのうちにやっている。

 

 

でも、例えば星座占いで考えると、数億人いる人類が12種類に分類できるわけはなくて、6×6の12種類のマスに人類を入れ込もうとしたら皆反発すると思うんですよね。「あなたは山羊座なので、こうでこうでこうでこうです(確定事項)」って言われたら、たったの12区分でおれを語るんじゃねぇ!ってなる、みたいな。まぁ、現代社会は星座占いが生きる上で死活問題になるほどの影響力を持った社会ではないので、実際にはそんなキレ散らかす人はいないんですが、例えばそれがものすごく就職や結婚や人間関係に影響します(それを判断材料にします)とか言われたら、多分反発する人がものすごく出てくる。そして、実際にある無遠慮なカテゴライズの暴力を受けている人というのは普段からそういう思いをしている。

 

あの、なんて言うんだろう、小さい子が遊ぶ、ゲームセンターにあるカラフルなボールが沢山しきつめられてる遊び場があると思うんですけど(名前がわからない)、対・人間のカテゴリイメージってあのカラフルなボールみたいなものだと私は思っていて。あの遊び場のボールは色が数色に限られているけれど、カテゴリの場合はそれがもっともっと沢山ある。で、それを各々サンタさんみたいにでっかい袋を持っていて、それぞれ色んなボールを色んな組み合わせで自分の袋にたっぷり入れている。私は勝手にいつも、そういうイメージで「カテゴリ」というものを捉えている。

 

星座の話に戻ると、例えば天秤座の人だったら「バランス感覚が優れている」「センスがいい」「八方美人」「対人関係能力が高い」「ドライ」「広く浅く」「見栄っ張り」(割とよく書かれている特徴)のカラーボールがあるとして、同じ星座だったとしてもその内のどのボールを自分の袋に入れているかは人によって違うんですよね。同じカテゴリ(同じ星座)内にいたとしてもその組み合わせによってその人の特徴は異なっている。

それを、誰かが「天秤座ってことはあなた、八方美人でしょう!」みたいな決めつけでものを言ったときに、実はその人は天秤座の「センスが良い」色のボールしか入ってなかった場合、言われた側は「何の話?」ってなる…みたいなことって割と起こると思うんですよね(星座の話に限ったことじゃなくて)。

くわえて、その人が袋に入れているボールは「天秤座関連のボール」以外にも沢山あるので、当たり前だけれど、ひとつのカテゴリが一致しているからといって、"同じ種類の人間"とはならないんですよね。続けて星座の例えを出すなら、月星座魚座の太陽星座天秤座と、月星座獅子座の太陽星座天秤座じゃその中身は実質全然違う、みたいな話(すごい占星術みたいな話ばっかりしてるけど、人を分類する枠組みの例として一番ライトに出しやすいんだろうな)。

獅子座は皆熱血の体育会系です!天秤座は皆社交的なのでパーティー開きます!山羊座は皆堅実的なので貯金2000万あります!みたいなことがあるはずないように、同じカテゴリ内でも持っている特徴は人それぞれ(まあ星座のようにそのカテゴリの特徴が絶対的なものでないものを例に考えるのは適切ではないのだろうけども)。本当に当たり前なんだけど、よく考えれば当たり前のはずなんだけど、でも意外と認識されずらいところがあるよな、と思う。

 

 

さて、今回のドラマに話を戻すと、

羽と咲子で言うなら、「アロマンティック(人に恋愛感情を抱かない)」「アセクシャル(人に性的感情を抱かない)」という色のボールを共通で二人は持っている。ただ、実際個々の袋の中にはもっともっと沢山のボールが入っていて、例えば羽の袋には「同性異性問わず身体接触を好まない」色とか「恋愛感情を向けられることに嫌悪感を覚える」色のボールも入っているけれど、咲子はそれを持っていない。

仮に2つ同じボールを持っていたとしても、それは各々持っているボールの2/100だったりするわけで、当たり前だけれど他の部分はまるで違うんですよね。だからもちろんアロマアセクの人でも、羽や咲子とは違って同居を好まない人もいるだろうし、異性と暮らすのが嫌な人もいるだろうし、それとは別の理由で「家族」を求めない人もいるだろうし、あの二人にたまたま共通しているだけの性質が「アロマンティック」「アセクシャル」の人の性質というわけではない。アロマンティックアセクシャルセクシャリティを持つ人に共通しているのは、あくまでも「他者に恋愛感情を抱かない」「他者に性的感情を抱かない」の部分。

 

それが、網目のカテゴリのイメージで浮かべてしまうと、同じマスに入ってるのだからそこに属する人は(全体的に)似た性質なのでは?となってしまうのが網目やチャートイメージのカテゴリの厄介なところだなぁと思う。実際は「同じ特徴を一つ持っている」だけなのに、同じマスに入れるイメージによって、「あなたは〜だけど××じゃないなら〇〇のカテゴリには当てはまらないわ!」みたいなカテゴリ内部の人同士での疎外みたいなことも起きかねないし、当事者の側も自ら自分を疎外しかねない。

例えば羽さんが「僕はアロマンティックアセクシャルです。僕こそがアロマンティックアセクシャルの模範例なので、人から恋愛感情を向けられて嫌悪感がないのであればあなたはアロマンティックアセクシャルではありません」とか自分と違う他者をカテゴリからばっしーーんと弾き出す人間だったとしたら(ドラマを見ていて分かるように羽さんは決してそんな人ではないけれど)、咲子は簡単に疎外されてしまう。そうでなくても、羽さんが分かりやすくその辺りの説明をしてくれる人でなかったとしたら、咲子は「人からの好意や、誰かから愛情を向けられて一緒に楽しく時間を過ごすこと自体は別に嫌じゃないし、幸せを感じられることもある私はアロマンティックアセクシャルではないのか……?」と、身近な例である羽を見てそう判断してしまった可能性もある。

 

本来カテゴリは人の数だけあるぐらいのもので、ただ、無数にあるひとつひとつの要素を掛け算してそのひとつひとつに名前をつけていたら、本当に無限大にカテゴリが生まれてしまって表が足りなくなる(収まらなくなる)し、それだと最初の理解の足場となるカテゴリとして機能しなくなってしまう。大枠としてのカテゴリは必要で、でも本来人はそこに収まることはできない。

 

だからいつも私はなんとなく、あの遊び場のカラーボールをいつも想像するようにしている。特徴をどんどん区分けして分解して、無数のカラーボールが生み出されて置いてあるカラフルなボールの海。この世界には色々な要素があって、そして各々その色んな色のボールを、それぞれの組み合わせで持っている。そのボールの組み合わせに名前がついていることもあれば、ついていないこともある。

目の前にとある特徴を持っている、と分かる人がいたら、その中の一つを持っているのだな、とだけ認識する。この人は〇〇というボールを持っているんだな、と。こちらの憶測で、他のボールの要素と勝手に繋げてしまわないように、限られた枠の中にその人を押し込めてしまわないように。カテゴリが分解していくべきはあくまでも特徴そのものであって、人を分けて分断してしまっては誰も幸せにならない。各要素の組み合わせでカテゴリを作ることに限界があるのであれば、その要素を理解して、その都度組み立ていくことは、やっぱりこちらの仕事で、それは個々でやり続けていかなくちゃならない。

 

 

 

カテゴリは刃にも鎧にも薬にもなる

「カテゴリ」や「カテゴライズ」という言葉自体に嫌悪感を持つ人は結構いて、それは多分、「あなたって〇〇なんでしょ」とかいう暴力的な決めつけカテゴライズや、さっきの上で書いた架空の弾き出し羽さんみたいに、事細かに特徴を並べてそれ以外は違います!みたいなことをする人に出会った、もしくはそういう例を見てきた人なのかな、と思ったりする。他にも理由は様々だと思うけれど、何かしらそれで嫌な思いをした人なんだろうなと。一部分を知って全てを名付けられると思ってしまう人というのはまぁまぁいるので。

 

 

私自身は、カテゴリは他者理解にも自己理解にも便利な道具だと思っているので、先人たちが編み出してくれたそれらの枠組みをありがたく思っている。

あなたはあなたなんだから色々あるんだろうけどそんなあなたでいい」は全受容の言葉であると同時に理解や思考の放棄でもあって、それで何かしらの生きづらさを抱えてる人が救われるかというと、もちろん全然救われることもあると思うのだけど、「まぁ、そうだよね」という諦めの気持ちもそこには含まれていたりすることもあると思う。(でも、どうやったって理解できないことや受け入れられないことというのが人によってはあるし、たとえ身内であっても理解をしなくちゃいけないわけでもないよな、と何食べ映画でシロさんのお母さんを見て思ったりもした。難しい。)

私は私のままでいい」も同様で、自分の解像度が低いままでの自己全受容は人によっては、多分すごく脆い。それがもう超最強な無根拠の自信になっている!みたいな人もいるだろうけれど(それはそれでめちゃくちゃうらやましい)。

だから、自分や他者の分からなさを知りたいと思ったときに、まずは理解の一歩目としてその枠組みを上手く使うのは、ひとつの良い手段なんじゃないかなといつも思う。

 

言葉から自由になるには言葉を知る必要があって、言葉を持たない人が自由かというとそうではない、むしろ不自由である、自由になるには言葉を知る必要がある、みたいな話があると思うのだけど、カテゴリもそれに近いものだと思っている。

自分や他人を知ろうと思ったときに、既製の言葉や概念を通してでしか得られないものというのはどうしてもあって、その既に出来上がってる枠組みを利用することで辿り着ける視点というのは、何も持っていなかった時のそれとは全く違うもので。

その視点が、それ以前の視点より優れているとか上だとかいうことではなくて、もちろん自分の地上の視点も大切だし、そここそが原点なのだけど、せっかく先人たちが徒歩5分の位置にスカイツリーを建ててるんなら絶対登ったほうが見晴らしがいいでしょう、みたいな感覚だと思う。自分で近所をぐるぐるして、自前で作った一軒家の中で得られるものもあるけど、先人たちの積み重ねてきたタワーを登ればその地点からまた違う場所に橋をかけたりすることもできる。高い視点でしか分からない自分の街の良さとか、見下ろした景色全体の中での普段の自分の位置付けとか、見えなかったものが見えてきたりもする。あと、普通に自分の手持ちの何かだけで物事を考えると自家中毒を起こしかねないので、適切に何らかの専門知の力を借りることは割と大事だなぁとか。算数の問い1で自力でうんうん唸るより、頭の良い人が作った公式使ってその先の問いを考えられたら違う道も広がるかもじゃん?みたいな話かもしれない。あるもんは使っとくに限る。話が広がりすぎましたが。

 

私にとってはカテゴリはそういうものなので、それを持って人を傷付けたり、誰かを弾き出したり、優越感に浸ったりするのは論外として、自分や他者を理解する一歩目には適したアイテムだなと思っている。それ自体良いものでも悪いものでもなく、使い手によって用途が定められてしまう(悪用しようと思えばできてしまう)ので、良くも悪くも便利なアイテム。

ただ、少し知った段階だと無意識にカテゴリにあてはめて決めつけてしまいかねないので、あくまでも抽象的なアイテムなんだなというのは常に意識しておかなくてはならないなと思う。膨大な個々の人間達を、抽象的な枠組みの中に収めてすべて説明できるわけではない。出逢った目の前の人には目の前の人だけの、唯一無二のカラーボールの組み合わせがあるので、カテゴリの中にその人を入れ込むのではなくて、それを横に置いて考えてみる、ぐらいの使い方。何にしても、気をつけながら使う必要のあるものではある。そう、なので、今回のドラマは特に、受け取る側はその面を気をつけなくちゃならないよなぁ、と思う。咲子も羽も千鶴も個々の人間で、一例で、彼らの持つ特徴=名前のついた抽象的なカテゴリ(今回で言うとセクシャリティ)そのものではないし、そしてカテゴリの要素は、彼らの中のほんの一部でしかない。

けれど、咲子のように「ずっと分からなかったもやもや」に名前がつくことで生きづらさの中身が見えて少し楽になったり、羽のように知識や概念の枠組みが自分を守ってくれたり(羽さんは知識や理論を盾に社会や無遠慮な人と静かに戦ってきたんだろう人の空気を持っている)、カテゴリによって人が救われる部分はかなりあるだろうな、と思う。

 

 

「アロマンティック」と「アセクシャル

ドラマでは「アロマンティックアセクシャル」がワンセットになってしまっているところがあるので、アロマンティック単体(アロマンティックセクシャル=性的感情は抱くが恋愛感情は抱かない)、アセクシャル単体(ロマンティックアセクシャル=恋愛感情は抱くが性的感情は抱かない)の人の存在が見えにくくなってしまっているのではないかなとも思ったりもして。

ただ、この辺は割と人によって、説明しているサイトによっても言葉の指している対象が違ったりするのでいつもややこしいなぁと思う。他者に対して性的欲求も恋愛感情も抱かないセクシュアリティを「アセクシャル」、他者に対して性的欲求を抱かないセクシュアリティを「ノンセクシャル」(日本独自の表現らしい)と説明する場合もある。そこは当事者の方でも使い方が違ったりするようなので、「これが正解です!」というのはないらしい。ややこしいけれど、次々と自分達を説明するための、理解するための言葉を各々が生み出していった結果なんだろうな、と思う。時代(時期)によっても国によっても、認識される概念が違うので、使われる言葉が変わってきたりする。個人的にはアロマンティック、ロマンティック、アセクシャル、セクシャルを掛け合わせた4つの表現が入りやすいなと思ってそれで理解しています。

アセクシュアル(エイセクシュアル)とは?【恋愛はしない?】 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」

用語一覧 - 特定非営利活動法人にじいろ学校

 

で、話を戻して、恋せぬ2人に出てくる咲子と羽は「アロマンティック」と「アセクシャル」(狭義の方)のセクシャリティを持つ2人の話で、2人ともがその両方のセクシャリティにあてはまるため、片方だけのセクシャリティの存在が見えづらくなる部分がありそうだな、という懸念があるな、という話です。とはいえ、このテーマに切り込んでいく最初のドラマとしてはそこはしょうがないような気もする。

あと、「恋せぬふたり」というドラマタイトルの通り、このドラマで描きたいメインテーマは「恋愛をしない、求めない人もこの世界にはいる」という部分なのかな思っているので、まずはそこから、なのも分かるし、そのためにそこに焦点を絞っているのだろうなとも思う。そうすることで、このドラマが恋愛感情を持たない人(アロマンティック)だけでなく、恋愛を重要視していない人、恋愛することを選ばない人、恋愛よりも大事にしたいことがある人、などあらゆる理由で恋愛を人生の主軸に置かない人のドラマにもなっているように思う。

 

ただ、個人的にはアロマンティック・アセクシャルの概念を初めて知った時の、「そうか恋愛感情と性的感情は分離できるものか……というか分離しているものをくっついて当たり前にしているだけか……それを自然と受け入れている人が多いというだけか……」の目から鱗感というか、この世界の無理矢理くっつけているものの多さの一部に気づいた時の衝撃というか、そういうガツンと感がこのセクシャリティの存在を知った時にものすごく大きかったので、そこの部分も描かれていたらなぁと思ってしまう部分もあって。この概念を知ることで当たり前にくっついている「恋愛感情」と「性的感情」を剥がすことになるので、そこもまた違う作品で何かやってくれたらなと思ったりはします。

そこの部分以外でも剥がせる(分離できる)ものーー例えば「結婚」と「恋愛」(ここの部分を前半部分でがっつりやってたのが逃げ恥)、「家族」と「結婚」(これは今後の進み方次第で恋せぬでも扱われるのかな)、「恋愛」と「パートナー」(恋です!の獅子王とイズミちゃんはここを剥がしていた)、ーーの可能性を扱ったドラマがこれきっかけに少しずつ増えていったらいいなと。恋愛→性→結婚(家族)→性(生殖)の一直線ワンセットが当たり前にくっついている今の社会に、他でもあり得た、あり得る関係性の可能性をドラマでガンガン投げてみてほしい。まあこの辺、どこを分離させてどこをくっつけるかによって綺麗事だけだとどうにもならない話ではあるので、そのあたりの可能性も含めて考えるきっかけになる作品がもっと生まれたら良いなとか思うけど……うーーん難しいんだろうなぁ。小説や映画なら多分結構あるのだろうけど、開かれた場のエンタメであるドラマでやるのは、難しいんだろうな……。でも見てみたいなぁと無責任に思う。

 

と、考えてみてやっぱり、今回アロマンティック、アセクシャルの存在を中心に持ってきたドラマを最初に作った恋せぬふたり、ものすごく大変だったのだろうし、でもそれだけの意味のあるドラマなんじゃないだろうか、と思う。「何年か後には「当然のことを何を仰々しく言ってるんだ」「古い」なんて言われるくらい世界が変わっていることを心より願っています。よるドラ『恋せぬふたり』キ―ビジュアル完成&脚本・吉田恵里香のコメントが到着! | お知らせ | NHKドラマと脚本の吉田さんがおっしゃっていて、私はこれを読んですごく安心したんですよね。あぁこの人は多分、このドラマを叩き台にしてくれても良いからと、険しい山に最初の細い道を作ろうとしている人なんだなぁと。

そして、あくまでもこれは誰かのスタート地点のために書かれたお話なんだなとも思った。非当事者の側で今まで何も知らなかった人にとっても、当事者の側で「自分の話を描かれてこなかった」人にとっても、最初の道となる作品というか。このドラマは、アロマンティック、アセクシャルというセクシャリティの存在や、"恋愛をしない人もいる"、"この社会は恋愛にものすごく価値を置いている"、"ということを知る最初のきっかけになる作品で、入門書みたいな立ち位置なのかなと。だからこそ、数年経って、吉田さんの言うように、「当然のことを何を仰々しく言ってるんだ」「古い」なんて言われる日が来るのかもしれないし、そういう日がくるための道を作っている作品なんだろうな、と思う。引き合いに出すのもあれだけど、次のクールでもまた恋愛を不要とする女性を「こじらせ女子」と称する恋愛ドラマが始まりそう(その単語まだ使う?いい加減飽きない???)なので、まあなかなか道は長そうだなと少しげんなりはするのだけど、それでも民放でも恋です!(私が去年ゴリ押ししていた大好きなドラマです)のような超最高なラブコメが放送されたりもするので、気長にこれからも観察し続けたいなと思います。恋せぬふたりを見た若者が「この時代だとまだこんな描き方からやってたんだ〜」と驚く時代がさっさと来ますように。でもなんだかんだラブコメは好きなので、恋です!のような多種多様な人たちの関係性や愛を描いたラブコメがこれからも生まれますように。

 

そんなところで、とくにまとまりもしていないけど小休憩中に考えた色々編を閉じます。また何か書くかもしれません。

愛するとき 死するとき 2部の大人たち

 

もし1部の「僕」が映画監督になり自らの人生を映画化したら……。

 

プログラムの8ページ、小山さんのコメントでは2部について上のように書かれている。ただ、戯曲をざっくり読んだ感じは、1部、2部間の繋がりははっきりとは分からなかったので、小山さん演出の日本版「愛するとき 死するとき」オリジナル解釈なんだろうか。ポストトークに参加された方のレポを追っていたときにちらりとそんな話を見かけたような気がする。

あの映画の中の役名は、「父」「母」「ブロイアーおじさん」なので、あの映画の視点はあの家の兄弟のどちらかのもの。と言っても明らかにペーター軸で話が進んでいくので、あの「映画」の主人公らしいのはペーターだ。ということは、「僕」はペーターなんだろうか。一部の「僕」が過去を振り返り、ある程度抽象化して物語化したあの映画で、「僕」が過去の自分を投影した存在がペーターなんだろうか。「僕」は、ペーターであり、あの映画監督であり、もしかするとあの映画の中のすべての人達なのかもしれない。

 

2部は唯一、大人と子どもの世界が両方描かれる。ペーター、ラルフ、ディルク、アドリアーナ、イナ、ハーゲンら若者達。ブロイアーおじさん、母、父、ヨランタ、ミランら大人達。

「アドリアーナはディルクと付き合っていた」「アドリアーナがペーターに夢中なのは皆知ってる」「イナはハーゲンの側にいたい」「ラルフと付き合っている間アドリアーナはずっとペーターのことを考えていた」

若者達の想いは素直で正直で、見ているこちらに常に筒抜けだ。誰が誰を好きで、誰が何を考えているのか。彼らは皆どこかしらで言葉にする。一方の大人達の関係性は、ほとんど言葉では示されない。彼らが何を考えていて、どんな関係にあって、それぞれをどう思っているのか、明確には分からない。でも、それぞれの登場人物の間に、何か色々な事情が複雑に絡まっているのだろうということだけは分かる。それについて、観劇中も観劇後も気付けば考えてしまうことが多かった。

 

 

ブロイアーおじさん

2部のキーパーソン、ブロイアーおじさん。

ブロイアーおじさんは、一人だけ与えられる情報量がかなり多い。まず、ペーターとラルフの叔父であること。(そして恐らく、父親が西に逃げる冒頭、車の家の外でクラクションを鳴らして待っているという描写から、父を西へ逃す手伝いをしたのはブロイアーおじさんなんだろう)。かつての妻(もしくは恋人?)であるハイジという女性に捨てられたこと。刑務所に12年間いて「クリーニング」されてきた、かつての反体制派の英雄であること。ミランとヨランタと面識があること。刑務所から出た今は、息を潜めるように体制に従順に暮らしていること。

けれど、こんなにも色々な情報があるのに、ブロイアーおじさんがどういう人なのかは、最後まであまり分からない。靄に包まれているみたいに、何を考えているのか、どんな人なのか、分からない。それは多分、ブロイアーおじさんが元々持っていた殆ど全てを、彼の奥の奥に封じ込めてしまったからなのだろうな、と思う。彼の持っていた思想、意思、熱意、感情、彼が「こう生きたかった」と思っていたもの全てを、殺さなければ生きていくことができなかった人。

「俺は人生について別の考え方があるって言いたかっただけなんだ」「でもそれは何も生み出さなかった」

刑務所を出て、ひとつの家庭の中で普通に暮らし、息子となった子ども達を育てるためには、彼は彼が元々持っていた、彼を形作っていたほとんど全てを消さなければならなかった。こうなりたい、こう生きたい、こうありたい、そう望む心、その人を動かす原動力、それが火だったとしたら、その火を消されてしまった、というよりは自ら消させられた人、という感じがする。自らその火を消し続けることを強いられた人、12年間という長い時間の中で、自ら自分のことを監視し、抑制することを馴染ませられてしまった人。そういう息苦しさや閉塞感に、慣れざるをえなかった人に見える。

 

 

父と母とブロイアーおじさん

ペーター、ディルク、アドリアーナのドライブ場面。ペーターに対しこのエゴイスト!と怒るアドリアーナに、「俺と付き合ってラルフ(兄)のことを考えていればいい」というようなことを返すペーター。それを見たディルクは「お前ら、お前らの親みたいなんだな」と言う。

この言葉が、一人の女性を兄弟どちらもが妻(彼女)にしたことがある、という状況を指しているのか、それとも…?とずっと考えていたのだけれど、もしこのディルクの台詞がペーターの台詞に対してのものであるなら、エヴァ(母)は「マンフレード(ブロイアーおじさん)のことを考えながら父と結婚した」もしくは、「父のことを考えながらマンフレードと再婚した」とも受け取れる。どちらとも取れるけど、もし前者だとすれば面白いな、と思う。エヴァは本当はマンフレードのことを想っていて、けれど「父」と結婚した。

ブロイアーおじさんが訪ねてきた場面で、エヴァの名を呼ぶ前に「(まるで何年も練習してきたかのような視線でエヴァの方を見る)」と戯曲には書かれている。もしマンフレードの方も、叶うことはないと思いながらも本当はずっと、エヴァと結ばれることを願っていたとしたら。もしかすると、あの二人は、かつて密かに互いを想いながら、別の人と一緒になったのかもしれない。そして、皮肉なことにあの状況が、二人の間に流れた年数が、たまたま二人を結びつけた。本当であれば一緒にいるはずじゃなかった二人。それが時代の、社会の流れによってたまた捻れ、交わったのだとしたら。二人の息子たちの父親になる、という名目の裏に、そんな事情が隠されていたら面白いな、と思う。

個人の手には負えない社会の流れによって、個人の運命が簡単に変わってしまうのはいつの時代も同じだろう。もちろんその被害を個人が受けることも多くあり、それを軽視するべきではないけれど、時によってはそれによって生まれたものや繋がったものが、結果当人にとってかけがえのないものになったりもする。悪いことばかりじゃない、とまとめてしまうのは安直だけれど、それによってしか起こりえなかったこと、というのもやはりあるのだろうな、と思う。それがもし、あの二人にも起きていたのだとすれば、とつい想像してしまう。

最後、あの家には父が帰ってくる。帰ってきた父を、あの二人はどう迎えたのだろう。父は何を思ったのだろう。パンよりビールの歌を歌いながら、あの三人は何を考えたんだろう。これからどうなっていくんだろう。分からないまま、あの三人の映画はそこで終わる。

 

 

ミランとヨランタとブロイアーおじさん

ミランとヨランタには謎が多い。ので、正直最初は全然この二人のことがわからなかったし、今も分かっているのかはよく分からない。分からないけど、分かるということもないのかもしれないけど、何となくずっと考えている。

ミランとヨランタはブロイアーおじさんと面識があること。ミランはかつて刑務所にいたこと、そしてそこで精神的もしくは肉体的苦痛を与えられていたこと。ヨランタは、彼のことを「(どういう人間か)知ってる」と言うぐらいにはブロイアーおじさんと親密な関係にあったこと。明確なのはこれぐらいだけれど、この3人の間には想像できる余白が沢山あるので、それをもう少し考えてみたい。

 

ミランが刑務所に入れられたということは、恐らく彼も元々は反体制側の人間である。そして今は、刑務所内での「虐待」のせいか、その後の生活のせいかは定かではないが、精神を病んでいる。ミランは「やつらが俺たちを虐待したんだ」と言う。この"やつら"とは、おそらくミランを捕らえた側の人間のことだろう。では、"俺たち"とは? 

ミランはその会話の前にヨランタの話をしている。彼女のことをどう思うか、彼女が昔どうだったか知らないだろう、とディルクに聞く。そうすると、会話の文脈的に、"やつら"か"俺たち"の中にヨランタが入るのだろう、と思う。最初、「ヨランタがミランを部屋に閉じ込めているということは、ヨランタはミランを矯正させようとする体制側の人間なのか…?」とも思ったけれど、かつてのブロイアーおじさんと親しかった、ということはやはり、ヨランタも反体制側の人間だったのだろうと思う。ミランの言う"俺たち"を「反体制側の人間」とざっくり捉えることもできるけれど、何となくミランの指す"俺たち"は「俺たち(夫婦)=ミランとヨランタ」なんじゃないだろうか、と思った。ミラン同様にヨランタも、"やつら"に「虐待」されたことで今のヨランタになってしまったのではないだろうか。

 

ミランの言う「元々のヨランタ」はどんな人だったのだろう。

エヴァに「あなたのこと立派な人だって言ってた」と言われ、ヨランタは「立派な人だった、って言ったのよ」と返す。ミランとマンフレードと共に反体制派の組織の中にいた、マンフレードから見たら「立派」な人だったヨランタ。かつて、「反体制派の英雄」だったマンフレードが「立派」だというのだから、組織の中では有能で勇敢な人だったのだろう。そして、彼のことはよく知っている、とその妻にわざわざ言うぐらいだから、もしかするとマンフレードに好意を寄せていた時期があったのかもしれない。それが恋愛感情かはさておき、英雄とされていたかつてのマンフレードを、ミランはきっと尊敬していたのだろうし、良き同志として信頼していたのだろう。だからこそ、マンフレードが去った時にはひどく裏切られた気分になったのかもしれない。「腰抜け」と罵るぐらいには。

現在のヨランタは過度な程に自分を矯正しているように見える。模範学校の教師として働き夫を養い、監視するヨランタ。まるで元々体制側の人間だったかのように、ミランを厳しく管理し、生徒を正しく指導しようとする。「正常じゃない」ミランと、その時代において極めて「正常」であろうとするヨランタ。

 

彼女が部屋に閉じ込めているのは、誰なんだろうか。

ミランを閉じ込めているようで、彼女は過去の自分をあの部屋に押し込めているのではないか、と思ったりする。彼女は夫に、過去の自分自身を見ているのではないだろうか。

現状の社会に対する、怒り、憤り、反抗心、かつて自分の中にあったものを、そしてそれを抱いて反体制組織で戦っていた自分を、あの部屋に押し込めているのではないだろうか、と思う。精神を壊し、ここから出してくれと叫ぶミランは、ヨランタの心の中の過去のヨランタなんじゃないだろうか、なんてことを、自分の中の何かを必死で抑えるように薬を流し込むヨランタの姿を見て考えてしまう。

 

「立派な人だった、って言ったのよ」

かつての同志が褒めていたのは今の自分なんかじゃない、過去の自分だ、とヨランタは自嘲気味に言う。刑務所の中で彼女に何があったのかは分からない。けれど恐らく彼女も、ブロイアーおじさんと同じく、そこでの時間の中で、反体制派としての自分を捨てざるをえなかったのかもしれない。

ヨランタは、今の自分が正しいのだ、と信じたい。だからこそ、生徒には高圧的に指導することで、東ドイツにとっての「正しい」人間になるよう導こうとするし、精神を病んだ夫のミランにきつくあたり、部屋に閉じ込めるのではないだろうか。正しくあろうとする自分と同じ方向に、他人も導こうとする。

それでも、マンフレードが今の自分ではなく過去の自分を褒めたのだと声を荒げるのは、彼女が本当は、過去の自分こそ"自分にとって"正しい自分なのだ、とどこかで思っているからではないだろうか。「今の自分が正しい」「今の自分が必要だ」そう言い聞かせながら、その時代の社会にとっての「正しさ」と、そこを生き抜くために「必要」な自分を、ヨランタは常に身につけている。模範学校の、極めて「模範」的な人間として。社会に馴染ませるために、自分を捻じ曲げて型にはめる。けれど、そうあるのが正しいのだ、と思いながらも、本当は過去の自分を欲しているのではないだろうか。本当は過去の自分を殺した自分を誰より蔑んでいる。「馬鹿な女」だと。だからこそ、かつての同志であるマンフレートが「立派だ」と評したのは過去の自分だと分かってしまう。誰よりも自分がそう思っているから。

けれど、きっとその蓋はヨランタにとって開けてはいけない蓋なのだ。閉じ込めるように、封じ込むように、ヨランタは薬を流し込む。

 

 

病んでいる大人たち

2部の大人たちは、基本的にどこか病んでいるように見える。分かりやすいのはミランだけれど、情緒不安定なヨランタ、かつては自分も精神を病んでいたと語る母、常にふらふらと歩くブロイアーおじさん。全員、触れてはいけない、触れたらその人を壊してしまいかねない何かをしまい込んでいるような気がする。それに触れさせないように、皆そのすれすれのところを守りながら過ごしている風に見える。

ヨランタを訪ねた際に母が言った「最近、ペーターが昔のマンフレードみたいにおかしくなっている」という言葉を聞きながら、あの時代において「おかしくなる」とはどういうことなんだろうか、と考えた。逆に「おかしくない」状態とはどんなものなんだろうか。国や社会に従順であることが「正常」で、無謀にも逆らうことが「異常」なのか。国に疑問を持ち声を上げることが「正常」で、何もせず大人しく黙っていることが「異常」なのか。「異常」も「正常」もその時代によって、国によって、簡単にひっくり返る。それも、きれいに表と裏、誰かにとって1が正常で2が異常、誰かにとっては2が異常で1が正常、だなんて決まっているわけもなくて、異常も正常も、人の数だけ、社会の数だけ、無数に存在する。社会が定めた「正常」に当てはまらない人は、常に「異常」とみなされる。あの時代の東ドイツとは定義される「正常」の種類が違うだけで、それは今の日本も同じことだろう。現に今、色んなところで色んな人が、「あの人はおかしい」と誰かを簡単に反対側の位置に置いているのを見かける。そしてきっと知らず知らずのうちに、私もそれをやっているのだろうな、と思う。

正しさは確実に自分の側にあると信じて疑わない人の言葉は、仮に例えそこに社会としての正しさや、科学的な正しさがあったとしても、どこか恐ろしい。母がヨランタに言った「あなたが反対側の人間だってこと忘れてた」というのは、「反体制側の人間」という意味もあるかもしれないけれど、その言葉の核は、もっと根深いところにあるのかもしれないな、と思う。自分にとっての「異常」の位置にある相手、自分にとっての「異常」に「正常」を置く相手、分かり得ない、理解し得ない、「おかしい」人。

一番分かりやすく「おかしい」ように見えるのは、ミランである。突然叫びだし、会話も時折成り立たず、よく分からないことを言う。ミランは確かに、精神を病んでいるのだろう。けれど、彼は「おかしい」のだろうか。刑務所で「虐待」され、自分の思想や意志を暴力的に奪われた人間が、精神を病むのはおかしいことだろうか。異常な世界の中で異常な状態に陥ってしまうのは、「異常」なんだろうか。その中で病まずに正常でいられることは「正常」なんだろうか。社会と、個人のあらゆる正しさとおかしさがぐちゃぐちゃに入り混じったあの時代、健やかに生きることはどれだけ難しかったのだろう、と想像する。ブロイアーおじさんの「また落っこちたくはないんだ」という言葉。彼はどれだけのものを封じ込めて、毎日を「正しく」過ごそうとしていたんだろうか。

 

 

正しさの代わりの愛

ここまで書いていて、私は2部の大人たちを「正しさ」を軸に捉えていたのだな、と思う。正しさ、言い換えればその人の美学、こう生きるべきだ、こうあるべきだ、その人が生きるための、軸となる何か。それを奪われ、維持できなかった大人達が、2部には出てくる。ただ、彼らがそれのためだけに生き、それを奪われ、彼らにとっての大切なものが何もかもなくってしまったのか、と言うとそれは違うような気がする。

ブロイアーおじさんは、出所後、エヴァとペーターとラルフと4人、家族として暮らす。きれいな仕事ではない仕事をして、いつもよろりと歩く姿を見れば、彼にとって楽な生活だったわけではないことが分かるけれど、大切な二人の息子と妻と暮らしたブロイアーおじさんは、不幸せな訳ではなかったんじゃないか、とも思う。かつての英雄としての自分を失くしたとしても、何もなくなるわけではなくて、そこにまた「ブロイアーおじさん」として生きる暮らしが新しく生まれた。エヴァの夫として、ラルフとペーターの父親として、別の人生を知り、過ごすことができたブロイアーおじさんは、もちろん元の活力溢れるマンフレード・ブロイアーに戻ることはできないけれど、それでもそこには別の幸せもちゃんと存在していたのではないだろうか。

7年後、ヨランタには赤ちゃんが生まれる。スーツを着たミランは、花束を持って妻と子どもの元に向かう。その7年の間にふたりの間に何があったのか、ふたりがそれぞれどんな時間を過ごして、どう変わったのかは分からない。けれど、ふたりで過ごすことでしか辿り着けない場所に、ミランとヨランタは7年間歩いて行ったのだろうな、と思う。ヨランタにそっくりな赤ちゃんを「子豚ちゃん」と呼ぶミラン。その前にはけっして見せなかったあどけない笑顔で子どもとミランに笑いかけるヨランタ。常にピンと張っていたふたりの間の空気が、とても柔らかくなっていた。 

 

「正しさ」は、一人のものだな、と思う。

それは私たちが生きるうえでなくてはならないもので、持たずにはいられないものでもある。誰かと共有することもあるけれど、全てにおいて共有できる人などいない。けれど、誰かに対する気持ちは、相手がいて初めて生まれるもので、一人で作れるものではない。

ブロイアーおじさんにとっての、エヴァと子ども達。ヨランタにとってのミランミランにとってのヨランタ。そして二人にとっての子ども。彼らは正しさを失ったけれど、失った場所にそれを戻すことはできなくなってしまったけれど、そこに誰かへの愛を置いたんじゃないだろうか。それで苦しさがなくなるわけでも、その場所が埋まる訳でもないけれど、それでも、それが彼らを生かし続けることはあるんだろう。正しさが混沌としていた時代だからこそ、自分の中に軸を築けないからこそ、誰かへの気持ちを拠り所として、大事に持つ。それが幸せへと繋がるのかはわからない(ペーターはそのために残ったことで最後傷付く)けれど、それでも愛を選ぶ人がいて、そして選ばない人もいて。色んな選択をした人がいたんだろう。あの時代のあの状況だからこそ、「愛する」ことが人々にとって、今よりずっと、命に直結するぐらいに大きなことだったのもしれないな、と思う。愛が全てを解決するなんてことはあり得ない。3部の彼のように、愛によって失われるものもある。けれど、失くしてしまった自分の正しさや、取り返せない過去、それらでついてしまったどうしようもない傷を、ひび割れて戻らない自分の隙間を、愛が埋め合わせて救ってくれることもまたあるのだろう。

と、ここまで考えてようやく、ずっとどこか腑に落ちていなかったこの作品のタイトルが、自分の観てきたあの世界に馴染んだような気がする。私にはまだ到底辿り着けなさそうな愛と、生きることと、死ぬことの、話。観終わった今も分からないことだらけだけど、分からないことは分かった(気になった)ことよりもずっと自分の中に残るから、きっと、これからも時々思い出すのだろうな、と思う。